表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第3章 4年前の約束が、婚約に影を落とした

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/14

第9話 言いかけて、閉じた。その口の理由は

「今日、カミーラ様にお会いします」


 玄関ホールで、フィリーネはそれだけ言った。


 セドリックが止まった。朝の外套を手にしたまま、止まっていた。


 「……私が」と言いかけた。


 ヘルマンが一歩前に出た。主人の前に出たのではなく、主人のすぐ隣に出た。それだけで、「閣下、フィリーネ様が一人でいけます」という意味が届いた。


 セドリックが何も言わなかった。長い沈黙だった。耳が——少しだけ赤くなっていた。


 「……わかった」とだけ言った。「帰ったら話す」ではなく「わかった」とだけ。


 フィリーネは頷いた。なぜ耳が赤いのかは、考えないことにした。考え始めると止まれなくなる、という予感があった。


 馬車の用意ができた、とヘルマンが伝えに来た。フィリーネが向かおうとした際、ヘルマンに小さく問うた。


「ヘルマンさんは、来ないのですか」


 「記録は続けております」とヘルマンが微笑んだ。


 フィリーネは「……何の記録ですか」と問わなかった。聞いても答えない、という予感があったから。


 ◇


 中立のサロンは静かだった。


 カミーラ・レオンハルトは先に来ていた。テーブルの中央に座り、手を膝の上に揃えていた。装いが正確だった。社交界に立つために生まれてきたような、正確な美しさだった。


 フィリーネが入ると、カミーラが立った。


「わざわざお越しいただきまして。フィリーネ様は行動的な方ですね」


 褒め言葉だった。褒め言葉の形をした、枠の提示だった。「行動的な管理者」という文脈への誘導。


 「お手紙をいただきましたので」とフィリーネは答えた。業務報告口調だった。感情が乗っていない声。22年間、この声で正確に情報を届けてきた。


 席についた。


 カミーラがフィリーネを見た。測るように。昨日の社交パーティーと同じ目だった。でも今日は距離がなかった。


「ヴェルティーン公爵は、4年前から私のものでしたの」


 カミーラが言った。余裕があった。攻撃しているのではなく、事実を共有しているという口調だった。


「あなたはご存知でしたか」


 フィリーネの手が膝の上で——一度だけ、押さえた。


 0.3秒。


 フィリーネは答えた。


 「……存じませんでした」


 「そうでしょうね」とカミーラが言った。「故ヴェルティーン公爵とわが父の間で交わされた先約でございます。4年前から、社交界では公知のことでしたの」


 公知。


 フィリーネは「公知のことだった」という事実を静かに受け取った。整理した。感情が動く前に整理するのが、22年間の習慣だった。


 カミーラがテーブルの花をフィリーネの方に向けて差し出した。「よろしければ」


 手が相手の方を向いている。選んでほしい、ではなく、見てほしい、という差し出し方だった。


 フィリーネは花を受け取った。


 カミーラが続けた。「フィリーネ様の管理能力には、感服いたしますわ」


 語尾が柔らかかった。笑顔が完璧だった。


「どんな屋敷でも、ご活躍されましょうね」


 「管理者として来た」という枠の確認だった。退くなら今だという声の形だった。


 フィリーネは花を持ったまま、一拍置いた。


 「……私は」とフィリーネは言った。業務報告口調だった。声の温度を変えなかった。「管理者として選ばれたとは、聞いておりません」


 カミーラが、止まった。


 表情は動かなかった。でも「止まった」ということが、空気でわかった。


「……そうですか」


 1拍が入った。余裕は保っていた。でも、計算が入った1拍だった。


 「では、先約のことは——セドリック様にお聞きになってください」とカミーラは言った。「4年前のことは、彼がよくご存知のはずですから」


 フィリーネは頷いた。「……承知いたしました」と言った。


 カミーラが立った。立ち方が完璧だった。テーブルの花を一度だけ自分の方に向けてから、そっと置いた。最後の一動作だった。


 「またお話できれば」とカミーラは言った。「わたくしも、4年間の日々を——無駄にしたくはございませんので」


 その言葉が、フィリーネの中に落ちた。


 攻撃ではなかった。それが余計に、重かった。


 ◇


 馬車の中は静かだった。


 フィリーネは窓の外を見ていた。道沿いの花屋の前を通過した。カモミールが一本だけ、バケツに立っていた。


 「管理者として選ばれたとは、聞いておりません」という自分の言葉が反響した。


 言い切ったとき、何かが固まった感覚があった。何が、かはわからなかった。でも「返した」という事実だけが残っていた。


 (でも——聞いていないだけで、そうかもしれない)という逆の方向も来た。


 フィリーネは目を閉じた。整理しようとした。22年間できたことが、今は整理できなかった。感情が動く前に処理するはずが、今回は処理が感情より遅かった。


 屋敷の屋根が見えてきた。玄関に、セドリックが立っていた。


 ◇


 「お帰りなさいませ」とヘルマンが出てきた。「閣下は、5分ごとに玄関の扉を確認しておられました」


 「……それは報告不要だ」とセドリックが言った。


 「記録は正確に、と閣下が仰いましたので」


 セドリックが何も言わなかった。


 フィリーネの唇の端が、少しだけ動いた。動いたが、音にはならなかった。


 「……どうだった」とセドリックが聞いた。初めて先に問いかけた声だった。


 「お話できました」とフィリーネは答えた。「カミーラ様から、先約のことはセドリック様にお聞きするよう言われました」


 セドリックが止まった。


 「……4年前——」と言いかけた。


 廊下の奥から、リナルドの声が来た。「閣下、緊急の書状でございます」


 セドリックが受け取った。書状を広げた。表情が変わった。公務の顔になった。


 長い沈黙だった。


 「……明日。必ず話す」とセドリックは言った。「今夜は——すまない」


 フィリーネは一拍置いた。


 「……わかりました」と言った。


 セドリックが書斎へ向かった。後ろ姿を、フィリーネは見送った。


 背中が廊下の角に消える手前で、ヘルマンだけが気づいた。


 後ろ姿の耳が、赤かった。


 書斎の扉が閉まる直前、ヘルマンのいる位置にだけ、小さな声が届いた。


「……順番を、間違えた」


 ヘルマンは何も言わなかった。ただ手帳を開いて、何かを書いた。


 ◇


 廊下に、フィリーネ一人が残った。


 「明日」という言葉を、頭の中で数えた。


 1度目は「帰ったら話す」だった。2度目は「必ず話す」だった。3度目は「明日、必ず」に変わった。


 言葉は短くなっていた。期限は近くなっていた。


 それが前進なのかどうか、フィリーネにはまだわからなかった。ただ「4年前——」という言葉が、廊下に止まったまま宙に浮いていた。


 燭台の炎が、窓からの風で少し揺れた。揺れて、また戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ