第9話 言いかけて、閉じた。その口の理由は
「今日、カミーラ様にお会いします」
玄関ホールで、フィリーネはそれだけ言った。
セドリックが止まった。朝の外套を手にしたまま、止まっていた。
「……私が」と言いかけた。
ヘルマンが一歩前に出た。主人の前に出たのではなく、主人のすぐ隣に出た。それだけで、「閣下、フィリーネ様が一人でいけます」という意味が届いた。
セドリックが何も言わなかった。長い沈黙だった。耳が——少しだけ赤くなっていた。
「……わかった」とだけ言った。「帰ったら話す」ではなく「わかった」とだけ。
フィリーネは頷いた。なぜ耳が赤いのかは、考えないことにした。考え始めると止まれなくなる、という予感があった。
馬車の用意ができた、とヘルマンが伝えに来た。フィリーネが向かおうとした際、ヘルマンに小さく問うた。
「ヘルマンさんは、来ないのですか」
「記録は続けております」とヘルマンが微笑んだ。
フィリーネは「……何の記録ですか」と問わなかった。聞いても答えない、という予感があったから。
◇
中立のサロンは静かだった。
カミーラ・レオンハルトは先に来ていた。テーブルの中央に座り、手を膝の上に揃えていた。装いが正確だった。社交界に立つために生まれてきたような、正確な美しさだった。
フィリーネが入ると、カミーラが立った。
「わざわざお越しいただきまして。フィリーネ様は行動的な方ですね」
褒め言葉だった。褒め言葉の形をした、枠の提示だった。「行動的な管理者」という文脈への誘導。
「お手紙をいただきましたので」とフィリーネは答えた。業務報告口調だった。感情が乗っていない声。22年間、この声で正確に情報を届けてきた。
席についた。
カミーラがフィリーネを見た。測るように。昨日の社交パーティーと同じ目だった。でも今日は距離がなかった。
「ヴェルティーン公爵は、4年前から私のものでしたの」
カミーラが言った。余裕があった。攻撃しているのではなく、事実を共有しているという口調だった。
「あなたはご存知でしたか」
フィリーネの手が膝の上で——一度だけ、押さえた。
0.3秒。
フィリーネは答えた。
「……存じませんでした」
「そうでしょうね」とカミーラが言った。「故ヴェルティーン公爵とわが父の間で交わされた先約でございます。4年前から、社交界では公知のことでしたの」
公知。
フィリーネは「公知のことだった」という事実を静かに受け取った。整理した。感情が動く前に整理するのが、22年間の習慣だった。
カミーラがテーブルの花をフィリーネの方に向けて差し出した。「よろしければ」
手が相手の方を向いている。選んでほしい、ではなく、見てほしい、という差し出し方だった。
フィリーネは花を受け取った。
カミーラが続けた。「フィリーネ様の管理能力には、感服いたしますわ」
語尾が柔らかかった。笑顔が完璧だった。
「どんな屋敷でも、ご活躍されましょうね」
「管理者として来た」という枠の確認だった。退くなら今だという声の形だった。
フィリーネは花を持ったまま、一拍置いた。
「……私は」とフィリーネは言った。業務報告口調だった。声の温度を変えなかった。「管理者として選ばれたとは、聞いておりません」
カミーラが、止まった。
表情は動かなかった。でも「止まった」ということが、空気でわかった。
「……そうですか」
1拍が入った。余裕は保っていた。でも、計算が入った1拍だった。
「では、先約のことは——セドリック様にお聞きになってください」とカミーラは言った。「4年前のことは、彼がよくご存知のはずですから」
フィリーネは頷いた。「……承知いたしました」と言った。
カミーラが立った。立ち方が完璧だった。テーブルの花を一度だけ自分の方に向けてから、そっと置いた。最後の一動作だった。
「またお話できれば」とカミーラは言った。「わたくしも、4年間の日々を——無駄にしたくはございませんので」
その言葉が、フィリーネの中に落ちた。
攻撃ではなかった。それが余計に、重かった。
◇
馬車の中は静かだった。
フィリーネは窓の外を見ていた。道沿いの花屋の前を通過した。カモミールが一本だけ、バケツに立っていた。
「管理者として選ばれたとは、聞いておりません」という自分の言葉が反響した。
言い切ったとき、何かが固まった感覚があった。何が、かはわからなかった。でも「返した」という事実だけが残っていた。
(でも——聞いていないだけで、そうかもしれない)という逆の方向も来た。
フィリーネは目を閉じた。整理しようとした。22年間できたことが、今は整理できなかった。感情が動く前に処理するはずが、今回は処理が感情より遅かった。
屋敷の屋根が見えてきた。玄関に、セドリックが立っていた。
◇
「お帰りなさいませ」とヘルマンが出てきた。「閣下は、5分ごとに玄関の扉を確認しておられました」
「……それは報告不要だ」とセドリックが言った。
「記録は正確に、と閣下が仰いましたので」
セドリックが何も言わなかった。
フィリーネの唇の端が、少しだけ動いた。動いたが、音にはならなかった。
「……どうだった」とセドリックが聞いた。初めて先に問いかけた声だった。
「お話できました」とフィリーネは答えた。「カミーラ様から、先約のことはセドリック様にお聞きするよう言われました」
セドリックが止まった。
「……4年前——」と言いかけた。
廊下の奥から、リナルドの声が来た。「閣下、緊急の書状でございます」
セドリックが受け取った。書状を広げた。表情が変わった。公務の顔になった。
長い沈黙だった。
「……明日。必ず話す」とセドリックは言った。「今夜は——すまない」
フィリーネは一拍置いた。
「……わかりました」と言った。
セドリックが書斎へ向かった。後ろ姿を、フィリーネは見送った。
背中が廊下の角に消える手前で、ヘルマンだけが気づいた。
後ろ姿の耳が、赤かった。
書斎の扉が閉まる直前、ヘルマンのいる位置にだけ、小さな声が届いた。
「……順番を、間違えた」
ヘルマンは何も言わなかった。ただ手帳を開いて、何かを書いた。
◇
廊下に、フィリーネ一人が残った。
「明日」という言葉を、頭の中で数えた。
1度目は「帰ったら話す」だった。2度目は「必ず話す」だった。3度目は「明日、必ず」に変わった。
言葉は短くなっていた。期限は近くなっていた。
それが前進なのかどうか、フィリーネにはまだわからなかった。ただ「4年前——」という言葉が、廊下に止まったまま宙に浮いていた。
燭台の炎が、窓からの風で少し揺れた。揺れて、また戻った。




