第8話 4年前の約束を、わたしは知らない
朝、手紙が来た。
リナルドが封を切らずに持ってきた。トレーの上に置いて、一言だけ言った。「レオンハルト令嬢からのお手紙でございます」。
フィリーネは朝食の途中だった。カップを置いて受け取った。
封を開ける。中には、短い文章だった。
「先日は御無沙汰いたしております。4年間のことをご説明申し上げたく、お会いの機会を賜りたく存じます。御都合のよい日時と場所を御指定ください。——カミーラ・レオンハルト」
4年間。
その言葉が、紙の上で止まっていた。
「……4年間」とフィリーネは声に出した。声に出したのは習慣だった。情報を声にすると整理できる。22年間の職業上の癖だった。
でも今回は、整理できなかった。
昨日のガーデンパーティーで、遠くから見た赤褐色の髪。花を侯爵夫人に向けて差し出していた手。あの目が、真正面からこちらを見ていた。品定めではなかった。「確認している」目だった。それが「4年間」という言葉に結びついた。結びついてしまった。
いつの間にか、朝食の茶が冷えていた。湯気がなかった。気づかなかった。
手紙を持ったままの指先が、少しだけ白くなっていた。気づいてから、力を抜いた。
リナルドが、トレーを持ったまま、まだそこにいた。出ていかなかった。
「……会うかどうかは」
「はい」
「フィリーネ様がお決めになることかと存じます」
それだけ言って、出ていった。扉が閉まる直前、リナルドが一瞬だけ止まった。部屋の棚——引き出しのある棚の前を通るときだった。立ち止まったのはほんの一呼吸。フィリーネには聞こえなかった。
◇
玄関ホールで、セドリックに会った。
今朝も公務に出るところだった。外套を手にして、ヘルマンと書状を確認していた。フィリーネが来たのに気づいて、ヘルマンが一歩引いた。
「カミーラ様から、お手紙をいただきました」
セドリックが止まった。
「……お会いしてよいでしょうか」
沈黙だった。3秒、4秒。
「帰ってから、話す」
フィリーネは一拍置いた。
「それは昨日も、おっしゃいました」
攻撃ではなかった。確認だった。22年間で培った、事実の報告口調だった。言い終えてから、言いすぎたかもしれないとだけ思った。
セドリックが一瞬だけ目を細めた。それから「……今日は必ず」と言い直した。差は1語だった。「必ず」が増えた。前日は「帰ったら」で、今日は「今日は必ず」になっていた。毎朝、少しだけ短くなっていた。期限が迫ってくるような言葉に変わっていた。
セドリックが外へ出ていった。扉が閉まった。
ヘルマンが後ろで、少しだけ間を置いた。
「……フィリーネ様」
「はい」
「決めていいと、私は思っております。フィリーネ様が、どうなさりたいかを——」
そこで止まった。自分が言いすぎたことに気づいた顔だった。「……失礼いたしました」と頭を深く下げた。
フィリーネは少しの間、ヘルマンを見た。
「ありがとうございます」
ヘルマンが手帳を取り出した。何かを書いた。何を書いたかは聞かなかった。ページが閉じられる音だけが、廊下に残った。
◇
部屋に戻って、帳面を開いた。
ペンを持った。白いページをしばらく見ていた。
書くことは、もう決まっていた。でも書き始めるまでに時間がかかった。22年間で初めてだったかもしれない。「書けない」のではなかった。「書いてしまっていいのか」という問いが、ペンの先にあった。
「会う。理由は——自分が知りたいから」
書いてから、気づいた。「職務」ではない理由で動こうとしている。「管理者として」でも「公爵邸のために」でもない。「フィリーネ・エアリッヒが知りたいから」という一文だった。
22年間、帳面に書いてきた言葉は全部「誰かのために」だった。今日初めて、書いた主語が自分だった。
この屋敷に来てから、こういう書き方をしたのは初めてかもしれなかった。
「……そうか」と呟いた。
返事を書き始めた。「御連絡、承りました。明日の午後、中立の場にてお会いできますでしょうか」と書いた。場所として、王都の貸しサロンの名を記した。レオンハルト邸でも公爵邸でもない。書いてから気づいた。どちらの庭でもない場所を、自分で選んでいた。中立、という言葉を選んだのが誰のためだったのか、フィリーネにはまだわからなかった。
封をした。
封を閉じる手が、一度だけ止まった。そのまま閉じた。
帳面の最後のページに、もう一行だけ書いた。
「4年前の約束を、わたしは知らない」
◇
夜、灯りを消した後も眠れなかった。
今日届いた返事には、明日の午後、と書いた。それだけは確かだった。「知らない」は「聞いていない」と同じではないかもしれない。知ろうとしなかった22年があって、知ろうとして初めて動こうとしている今があった。
廊下に足音が聞こえたのは、深夜の鐘が鳴った後だった。
ゆっくりとした足音だった。それが扉の前で止まった。フィリーネは身体を動かさなかった。息も、止めた。
気配が近づいた。
扉が——鳴らなかった。
近づいた気配が、また遠ざかった。
足音が廊下の奥へ消えた。
フィリーネはしばらく、天井を見ていた。燭台の火はもう消えている。暗い天井だった。
「……話せなかったのだ」
怒りではなかった。静かな確認だった。怒りの出し方を、22年間、誰かに習った覚えがなかった。
廊下の向こうに、リナルドの書斎の灯りがまだ漏れていた。引き出しのすぐそばで、何かを考えているのだろうか。あの引き出しには何が入っているのか。フィリーネは確かめようとしなかった。聞けることと、聞けないことがある。それだけだった。
帳面を手元に引き寄せた。最後の行を、もう一度目で追った。
「4年前の約束を、わたしは知らない」
知らない。
でも——明日、聞きに行く。
その言葉は声に出なかった。帳面にも書かなかった。暗がりの中にそっと置いて、目を閉じた。
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翌朝、セドリックが食堂に来た。向かいの椅子に座った。しばらく、沈黙だった。
セドリックが口を開いた。
フィリーネも、口を開いた。
「今日、カミーラ様にお会いします」
セドリックが止まった。外套を、まだ手に持っていた。




