第7話 美しい人が、こちらを見ていた。名前を知らなかった
裏庭に枯れた茎の跡があった。
根だけが地面に残っていた。1列、ちょうど6本分。周りの土が固くなっていたから、放置されて1年以上は経っているだろう。
「植え直す方法がわからず、そのままにしてある」という言葉を、フィリーネは思い出した。
手が動きかけた。移植ごてがあれば——いや。フィリーネは手を引いた。
これは、自分が直すものではないかもしれない。
そう思った理由は、うまく説明できなかった。ただ、「一緒にやれますか」という言葉が喉の手前で止まった。「一緒に」という単語の使い方を、22年間、学ぶ機会がなかった。
庭を引き返しながら、フィリーネはカモミールが1本、生きていることに気づいた。
◇
プジョルティン侯爵夫人のガーデンパーティーは、昨日より広い会場だった。
フィリーネは場の端から全体の配置を確認した——する気はなかったが、22年分の習慣が先に動いた。(テーブルの配置。出入口の位置。死角の場所。主催者の立ち位置。)止める前に全部把握していた。
「癖ですみません」と言える相手はここにはいない。
会場の中央あたりで、フィリーネは視線を感じた。
振り向いた。
赤褐色の髪の女性が——正確に、静かに——フィリーネを見ていた。
距離は10メートルほどあった。社交界で人を見るとき、普通はもっと遠回しに視線を向ける。でもその女性は、遠回しにしていなかった。確認するように、観察するように、判断するように——真正面から見ていた。
品定めの目ではなかった。「測っている」目だった。
(この人は私を知っている)とフィリーネは直感した。
知っている、というのは「情報として把握している」という意味だ。顔と名前が一致した上で見ている目だった。こちらは一致していないのに。
その女性が白い花を——隣に立つ侯爵夫人に向けて差し出した。自然な動作だった。「どうぞ」というように。花が相手に向いている。自分の方には向いていない。
見せている、とフィリーネは思った。咲かせているのではなく、見せている。相手の視線の中に置くために、花を持っている。それが正しいのかどうかは、わからなかった。ただ、自分がそれをしたことがない、ということだけはわかった。
セドリックがその女性を見た。
一瞬だけ、セドリックの表情が固まった。
「行こう」とフィリーネの腕に触れながら言った。
フィリーネは行かなかった。正確には、動こうとして——止まった。
「あの方はどなたですか」という言葉が、口の手前で止まっていた。
言葉は出なかった。
聞けなかったのではない。聞くべき言葉が、形を整える前に消えた。セドリックが静かにフィリーネの腕を引いた。フィリーネは足を動かした。「行くべき」という判断だけが身体に届いていた。
背後で、視線がまだ続いているのを感じた。振り返らなかった。
パーティーを出るまでの20分、フィリーネは場の会話に応じ、頭を下げ、適切な相槌を打ち続けた。22年間の習熟だった。身体が正確に動く間、頭の一部だけが別のことをしていた。
(赤褐色の髪。白い花が、相手の方を向いていた。)
(セドリックの表情が固まった、あの0.5秒。)
整理しようとした。材料が足りなかった。
◇
邸の台所を通りかかったのは、帰宅してすぐのことだった。
気づいたときには、棚の茶器の並びを直し始めていた。揃っていないものを揃える。22年間の指の習慣が、頭より先に動いていた。
「フィリーネ様。それはお任せいただけますでしょうか」
リナルドの声だった。台所の入り口に立っていた。いつからそこにいたのか、わからなかった。
フィリーネは手を止めた。「……癖です、すみません」
リナルドが無言で棚の前に来た。フィリーネが直した並びを——そのままにした。元に戻さなかった。
廊下の向こうで、ヘルマンが手帳を開いていた。「……リナルドさんが、今」と小声が来た。
「何ですか」とフィリーネが聞いた。
「笑いました、気がした、と申しました」
フィリーネはリナルドを見た。リナルドはこちらを見ていなかった。棚の前に立ったまま、何かを確認していた。
◇
馬車の中は静かだった。
セドリックは前を向いていた。フィリーネは窓の外を見ていた。王都の夜が、馬車の速度で後ろへ流れた。
言葉が出なかった。出そうとしていないのではなく、何をどの順番で聞くかを整理しているうちに、夜が流れ続けた。聞きたいことはある。ただ「聞いていい」と確認する相手が、今はいなかった。
「……あの方は」
セドリックが先に口を開いた。
フィリーネは窓から視線を戻した。
「カミーラ・レオンハルト」
名前だけ言った。それだけだった。
名前と顔が、一致した。
フィリーネの指が膝の上で一度だけ押さえた。押さえていたことは、押さえてから気づいた。
「……そうですか」
業務口調だった。感情が乗っているときほど出る声だった。自分では気づいていなかった。
「あの方については——帰ってから、話す」
セドリックが前を向いたまま言った。言い終えた後、一拍だけ間があった。その間に何があったのか、フィリーネには見えなかった。
馬車の速度がさらに落ちた。邸の門が窓に入ってきた。
「わかりました」とフィリーネは答えた。
窓の外で夜が止まった。邸に着いていた。
◇
書斎の扉を開けようとした瞬間、向こう側からリナルドが出てきた。
「閣下、緊急の書状でございます」
封蝋が赤かった。燭台の光の中でよく映えた。
セドリックが書状を受け取った。展開した。一度フィリーネを見た。書状に視線が戻った。
「……明日、必ず話す」
フィリーネは頷いた。「わかりました」と言った。
言ってから気づいた。昨日も同じ言葉を言った。昨日は「明日、必ず」で、今日は「明日、必ず」だった。言葉は同じだった。積み上がっていた。
セドリックが廊下の奥へ消えた。リナルドが一礼して続いた。
フィリーネは廊下に一人残った。
燭台が揺れていた。風はなかった。窓も開いていなかった。揺れているのは炎だけだった。しばらく見ていた。止まらなかった。
(表情が固まったあの0.5秒。)
(「カミーラ・レオンハルト」という名前だけ。)
(白い花が、相手の方を向いていた。)
3つが並んだ。形が見えかけていた。まだ全部は揃っていなかった。揃える前に、また「明日」になった。
廊下の端を見た。
リナルドの書斎の窓に、光が漏れていた。あの引き出しの前に、今夜も座っているのだろうか——と思ってから、考えるのをやめた。今夜分かることは、もう充分だった。




