第6話 わたしに向けられた視線が、品定めの色をしていた
リナルドがドアをノックしたのは、朝の7時を少し過ぎた頃だった。
「フィリーネ様。伯爵家からのお手紙でございます」
封は切られていなかった。トレーの上に乗せて、両手で差し出した。
フィリーネは受け取った。文字を見た瞬間に止まった。父の字だった。大きく、行間が広かった。書くことがなかった人間の書き方だと、すぐにわかった。
「娘よ、元気でいるか。庭のバラが咲いた。——父より」
以上だった。
フィリーネはしばらく紙の上を見ていた。何かを読み取ろうとした。しかし読み取るものがなかった。余白だけがあった。
「……わかりました」と呟いた。
声に出したのは習慣だった。何かを受け取ったとき、声にすると整理できる。22年間の癖だった。
今回も出した。整理できたかどうかは、わからなかった。
「今日のパーティーのご準備を、お手伝いいたします」とリナルドが言った。
珍しかった。フィリーネは顔を上げた。リナルドの顔に理由は書いていなかった。「なぜですか」と問おうとして、やめた。問う言葉が出てこなかった。
「……ありがとうございます」と言った。
こう言うときの言葉の出し方を、ここに来てから少しずつ覚えていた。
◇
社交サロンに足を踏み入れた瞬間、視線が来た。
フィリーネは歩みを止めなかった。止めると余計に目立つ。22年間、人の多い場所で動き続けてきた経験が、そう言っていた。
身体が先に動いた。(出口の位置。テーブルの配置。主催者の立ち位置。死角の場所。)止める前に把握が終わっていた。
気づいた頃には、全部把握していた。
手が伸びかけた。テーブルに飾られた白い花の茎が少し傾いていた。直しかけて、引っ込めた。
ここは整える場所ではない。
わかっていた。22年分の手が、まだわかっていなかった。
囁きが聞こえた。「……伯爵次女がご婚約者とは」「格が、ねえ」「いえ、有能な方だとか、管理が得意な」という断片が、会話の中に滲んでいた。視線がこちらに向いていた。品定めの色をしていた。
管理が得意な、という言葉が耳に残った。
正確な言葉だった。反論するつもりもなかった。ただ「管理が得意な、だから婚約者になった」という文脈でその言葉が使われていることが、小さく刺さった。刺さった理由は整理できなかった。整理する前に次の視線が来た。
フィリーネは顔の向きを変えなかった。視線の数を数えることもしなかった。数えても仕方がないことは、22年前に学んでいた。
「フィリーネ嬢」
声がした。振り向くと、白髪の婦人が微笑んでいた。白い扇を閉じたまま手に持っている。上品で、礼儀正しく、刃の音がしない声だった。
「プジョルティン侯爵夫人でいらっしゃいますね」とフィリーネは言った。
「まあ、ご存知でしたの」侯爵夫人が少し目を細めた。「さすがですわ」
◇
「ヴェルティーン邸の管理を、整えてらっしゃるとか」
侯爵夫人の声は穏やかだった。親切に教えているという声だった。
「大変な重責でしょう。——有能な方を確保されましたわね、閣下」
フィリーネは侯爵夫人の顔を見た。笑顔だった。善意の形をしていた。
「管理者」という言葉が、一拍だけ遅れて着地した。
それは間違いではなかった。管理能力を評価されて婚約の話が来た、と父から聞いていた。公爵邸の財務帳簿を見直し、仕入れの無駄を洗い出した。「よくやってくれている」とセドリックに言われた日のことは覚えている。全部本当のことだった。
それなのに。
侯爵夫人がその言葉を使った瞬間に、何かが少しだけ、しかし確かに動いた気がした。
「妻と呼んでいただく」
セドリックが言った。
間がなかった。問答の流れを遮る速さで、それだけが出てきた。怒りの形もしていなかった。ただそれだけが0.5秒で出てきた、というだけだった。
侯爵夫人が微笑んだまま「そうでしたわね」と言った。扇の持ち手に、一瞬だけ力が入った。
フィリーネはそれを見た。見て、視線を外した。
会話はそのまま続いた。今年の庭の花は例年より遅いとか、天候のせいだとか、そういう話になった。セドリックが言葉を引き受けた。侯爵夫人が穏やかに笑った。
フィリーネはその間、ほとんど聞いていなかった。
「妻と呼んでいただく」という言葉が、まだそこにあった。
消そうとした。消し方を知っていた。22年間、感情が出るたびにそうしてきた。
消えなかった。
嬉しい、という感情が残っていた。処理の仕方がわからなかった。受け取り方を、22年間で習得していなかった。「嬉しい」を感じた後にどうするかを、一度も学んでいなかった。
消し方だけは知っていた。深く息を吸う。次の課題に意識を向ける。「これは業務報告の言葉ではない」と内心で仕分ける。それだけを22年間で覚えた。しかし今日は、消せなかった。
「妻と呼んでいただく」という言葉が、まだそこにある。それを言った速さが、まだそこにある。
侯爵夫人が何か言った。フィリーネは「そうでございますね」と答えた。内容は聞いていなかったが、正しい返答だった気がした。
遠くで、ヘルマンが手帳を開いていた。フィリーネには見えていたが、何かを書いていることに気づいた頃にはもう閉じていた。
◇
公爵邸に戻ったのは夕方だった。
玄関でヘルマンが待っていた。外套を受け取りながら言った。
「今朝の茶は85度でございました」
唐突だった。フィリーネが手を止めた。「……はい」
「閣下がお淹れになりました」
廊下の奥からセドリックの声が来た。「……5度」とだけ言った。
「はい、5度でございます」とヘルマンが答えた。
沈黙が来た。炎が一本、廊下の燭台で揺れた。
「善処する」とセドリックが言った。
「善処ではなく」フィリーネは口を挟んだ。「厳守と申しました、閣下」
出た後で気づいた。口調が直接すぎた。しかしセドリックは怒らなかった。「……わかった」と言った。廊下の奥に引き上げていった。
その背中に、耳が少し赤かった気がした。気がしただけかもしれなかった。確認する前に暗くなった。
「今日はいかがでしたか」とヘルマンが問うた。
「……問題なく終わりました」
「嬉しかったですか」
問いが追加された。フィリーネは燭台の炎を見た。
「……理由が、わかりません」
それだけ言った。「嬉しかった」とは言わなかった。しかしヘルマンには伝わった気がした。
「そうでございますか」とヘルマンは言った。何も付け足さなかった。手帳を開いた。何かを書いた。フィリーネが見ようとすると、閉じた。
「おやすみなさいませ、フィリーネ様」
廊下が静かになった。
部屋に戻ると、机の上に翌日の招待状が置いてあった。ヘルマンが開封して置いておいたものだった。プジョルティン侯爵夫人主催のガーデンパーティー。添付の名簿が折り畳んで入っていた。
フィリーネは名簿を開いた。出席者の名前が並んでいた。
途中で、止まった。
カミーラ・レオンハルト——という名前が、そこにあった。
「管理者」という言葉が、今夜もまだ着地したままだった。




