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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第2章 全部間違っていて、全部わたしのためだった

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第5話 「後で」という声だけが、廊下に残っていた

 「後で、必ず話す」とセドリックが言ったとき、廊下に朝の光が入っていた。


 その「後で」が「あとで」ではない、と思った。理由を言葉にできなかった。声の低さが少し違う。「後で」を言い訳に使う人間の声と、そうでない人間の声の区別を——22年間で、身体が覚えてしまっていた。


 しかしその朝、急報が入った。政務室の扉が閉まった。セドリックが消えた。話は延びた。


 また「後で」になった。


 ——でも来る。廊下を歩きながら、そう思った。来ない「後で」とは、声の厚みが違う。



 厨房に降りた。棚の端に、昨日「F」だけ書いたラベルの壺がある。中に茶葉が入っている。カモミール。昨日の午後、迷いながら入れた。書いて止まったラベルと、入れて止まった茶葉と——どちらも今は、棚の端にある。


 壺を手に取って、お茶を淹れた。


 湯気が上がりはじめたとき、昨夜から持ち続けていた封書を開いた。カミーラ・レオンハルトという差出人の手紙。昨夜は開けられなかった。今朝は開けると決めていた。


 一行だった。


 ——ヴェルティーン公爵閣下との先約について、ご婚約発表の前にお耳に入れしたく存じます。いつでもお会いします。カミーラ・レオンハルト。


 先約。


 その言葉のところで、目が止まった。一行しかないのに、また読み直した。


 4年前から、という噂を、昨日廊下で偶然聞いた。使用人の声だった。壁の向こうで、すぐ止まった。「非公式の了解」という言葉だけが残った。了解の相手が誰かは——聞く前に廊下を曲がった。今は、と思った。聞くときではない、と。


 「先約」という一行が、その「今は」を動かしていた。


 カモミールの湯気が上がっている。Fの壺から出した茶葉で淹れた。温度は計らなかった。自分のカップで、自分のお茶を——今日で4日目だった。飲みながら、手の中の手紙を折り直した。折り目が正確になった。いつ折り直したか、気づかなかった。



 政務室の前を、午前中に2度通った。


 扉は閉まっていた。中から複数の声がした。急報は本物だった。


 廊下の角で、ヘルマンが記録帳を胸に抱えて立っていた。


「午後には出てこられます、フィリーネ様。過去の同種の案件から推測いたしますと」


「……3時間以内ですか」


「おそらくは」


 手の中の折り畳んだ封書を見た。今朝から持っていた。


「閣下に伝えることがあります。急ぎではありませんが——今日中には」


「承りました」


 ヘルマンが記録帳に何かを書いた。日付を小声で確認した。



 昼過ぎ、ヘルマンが厨房に顔を出した。


「報告させていただいてよろしいですか、フィリーネ様」


「何をですか」


「先ほど閣下に、フィリーネ様がFの壺をお使いになった件をご報告いたしました」


 手が、止まった。


「……なぜ報告するのですか」


「記録にございましたので」


「閣下は何と」


 ヘルマンが少しだけ間を置いた。楽しんでいる間の置き方だった。


「『それを私に報告する必要があるか』とおっしゃいました」


「そうですか」


「『ございます、閣下』と申し上げますと、『——なぜだ』と」


「それで」


「『フィリーネ様がご自身でお茶をお選びになった最初の日でございますので、記録すべきかと』と申し上げました。閣下はしばらく黙っておられました。——それから、「選んだ」と、小さく繰り返されました」


 返事が出なかった。


 ヘルマンが記録帳を閉じた。閉じるとき、日付を確認した。いつもの声の出し方だった。この日付が、どういう意味を持つことになるか——私はまだ知らない。


「閣下のお顔は、変わりましたか」


「フィリーネ様がご覧になる方が正確かと存じます」


 笑いが出た。手が止まらないまま笑えた。声になった。昨日より速く出てきた気がした。手が止まった後に出てくるのではなく——出てくるのと手が止まらないのが、同じ瞬間だった。


 ヘルマンが記録帳に、また何かを書いた。


「……今度は何ですか」


「フィリーネ様が本日、手を止めずにお笑いになった件でございます」



 セドリックが廊下に出てきたのは、午後2時を過ぎた頃だった。


 向き合ったとき、肩の線に疲れが出ていた。長い会議の後の姿勢だと、4日で見慣れた。左手の古傷が、袖口の影にある。今日も見えた。今日も、何も言わなかった。


「——お話ができますか」


「私もある」


 廊下の奥から足音がした。使用人頭が紙を持って早足で来た。


「閣下、第2報でございます」


 セドリックが手を一度だけ上げた。使用人頭が止まった。廊下に、短い沈黙が落ちた。


「今夜、話す」


 フィリーネに向かって言った。声が低かった。


「夕食の後で——来る」


 耳が少しだけ赤い。使用人頭が再び紙を差し出した。セドリックが踵を返した。足音が廊下の角で消えた。


 「今夜、話す」。また「後で」だった。


 でも来ない「後で」の声と、この声は——違う。手の中の手紙を、少し強く持った。



 夕方、扉をノックする音がした。


 使用人が封書を持っていた。


「フィリーネ様にお手紙でございます」


 差出人を読んだ。


 ウェーゼル伯爵。父の字だった。


 机に置いた。カミーラの手紙の隣に。2通が並んだ。



 夜が深くなった。


 扉を叩く音がした。入ってくる前にセドリックだとわかった。


 机の上の2通の封書を、入ってきた目が一瞬見た。フィリーネは立たなかった。


「……開けていません。父からの手紙は」


「カミーラの方は」


「今朝、開けました。一行でした。——先約があると、書いてありました」


 セドリックが黙った。3秒か、4秒か。目が封書の上で止まっていた。何かを言いかけた。喉が動いた。——言葉が、出なかった。


「……開けたくなったら——言え。どちらも」


 それだけ言って、扉を閉めた。足音が廊下を遠ざかった。


 扉の前に、静かが残った。


 話すつもりだった。「先約がある」という一行を伝えるつもりだった。でも——伝えることより先に、セドリックが去った。今夜の「話す」も、来なかった。


 でも来なかった今夜と、来ない「あとで」は——違う。22年間で初めて、その違いが聞こえた。来ないのではなく、まだ来ていない。その2つの間には、声の厚みの差がある。


 父の手紙は、今夜は開けられない。「あとでいい」とは思っていなかった。でも今夜は——まだ開けるときではない。「あとでいい」と「今夜は開けられない」が、22年間ずっと同じ言葉だと思っていた。今夜、初めて別のものに聞こえた。


 窓辺のカモミールが、今日も傾いていた。


 直さなかった。Fの壺が、その隣に置いてある。ラベルは途中のまま。でも茶葉が入っている。水も、足した。


 明日は——婚約の正式発表の日だった。



 執務室に、リナルドが一人でいた。


 燭台の灯りが机に落ちている。古い鍵がかかった引き出しの前に、しばらく立っていた。4年間、開けなかった引き出しだった。


 鍵を取り出した。差し込んだ。引き出しを開けた。


 封印された封筒が1通。蝋印は割れていない。誰も開けていない。


 日付は——4年前だった。

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