第4話 この屋敷に、来客として戻れる場所が残っているのか
3日が経った。
公爵邸の朝の匂いが、少しだけわかるようになっていた。廊下に蜜蝋の香りが混じる時間帯。厨房の薪が煙に変わるタイミング。ヘルマンが記録帳を閉じる、乾いた音。
今日も92度だった。
お茶を飲みながら、昨日Fだけ書いたラベルのことを考えた。書いて止まった。止まって――それから自分のお茶を2杯飲んだ。2杯飲んだことを、ヘルマンが記録した。ヘルマンが記録したことを、セドリックが知っている。知っているだろう、という感触がある。ヘルマンは全部記録する。
帳簿室に入ろうとしたのは、午前中のことだった。
整理しようとしたのではない。財務帳簿が3ヶ月分、棚に積み上がっているのを2日前から見ていた。放置されているということではなく――管理する人間が今、手が回っていないのだと、数字の積み方でわかった。整理しましょうか、と言いに行こうとして――扉の前で止まった。
来客の帳簿ではない。この屋敷の財務記録だ。
私は、来客ではない。来客扱いをやめる、とあの人は言った。
では、私はここで何者なのか。
婚約者。――その言葉がまだ、自分の身体に馴染んでいなかった。22年間、誰かのために整えることで「ここに居ていい」理由を作ってきた。その理由を持たずに、ここに居る方法を、私はまだ知らなかった。
扉を開けた。
最初に目に入ったのは、積み上がった帳簿の束だった。聞きに行こうとした相手はいなかった。リナルドの姿は見えない。――始めていた。気づいたら、手が動いていた。22年の習慣は、止める前に動く。
5分後、ページが引っかかった。数字が1行、場違いな位置に記載されている。支出と計上先が合わない。転記の誤りなのか、そうでないのか。この帳簿だけでは判断がつかなかった。
見なかったことにした。
でも――見た、という事実は、もう知っている。
帳簿を元の位置に戻して、廊下に出た。
庭に出たのは、午後だった。理由はなかった。歩いていたら、足が中庭に向かっていた。
バラの新しい枝が、壁に沿って伸びている。去年植え直されたもののようだった。根元が浅い。でも芽が出ている。――枯れたバラの跡は、まだ隣にある。
歩きながら、手が花殻を摘んでいた。枯れた花弁を2つ、3つ。指で折り取って、掌に集める。無意識だった。
「いつもそうするのか」
横から声がした。
セドリックが、壁の影に立っていた。いつから居たのか、わからなかった。
掌の花殻を見た。3つ。22年の癖が、まだここでも動いている。
「……癖です」
「この庭は、誰も摘まなかった」
視線を上げた。セドリックがバラの新しい枝を見ている。耳は赤くない。声が、少しだけ低かった。
「摘んでいい」
短い。許可なのか、依頼なのか。――どちらでもなかった。「ここに居る人間がやること」を、そのまま言っただけのように聞こえた。
返事をする前に、セドリックが踵を返した。廊下に消えた。
残された掌に、花殻が3つ。捨てる場所を探す前に、その感触だけが手に残っていた。
厨房に戻ったのは、庭の帰りだった。
壺の棚を通り過ぎるとき、47番の壺が目に入った。その隣に、昨日Fだけ書いたラベルの壺がある。中に茶葉を入れた。私の銘柄。――私の壺。
その壺に手を伸ばしたとき、気配がした。
リナルドが棚の反対側に立っていた。壺のラベルを確認しているのか、ただ立っているだけなのか。判断がつかなかった。視線がFのラベルの上で一瞬止まったように見えた。
「……前任の奥様も、その壺を使われていました」
声は低く、いつもと変わらなかった。でも音の置き方が違う。試験のときの声と、違った。
私の手が壺の持ち手から離れた。
「前任の奥様とは」
「セドリック閣下のご母堂です」
それだけ言って、リナルドが表情を戻した。戻した、というより閉じた。一瞬だけ開いたものが、もう見えなかった。
私は、代わりなのか。
その問いが頭を過ぎた。でも不思議と、痛みの前に別の感触があった。この壺を選んだのは、私だ。誰かの代わりに選んだのではない。
棚から目を離したとき、リナルドはもう廊下の角を曲がっていた。その先に――帳簿室の扉が半分開いているのが見えた。机の上の引き出しに、小さな鍵がかかっている。真鍮。古い。
視線をすぐ外した。
聞いてもいい話と、今は聞かない方がいい話の区別を、22年間で覚えた。これは後者だ。
夕食は、いつもの食堂だった。
お茶が出てきた。1口で温度がわかった。
「90度です」
「……善処する」
「厳守と申しました」
「明日は」
「昨日もおっしゃいました。おとといも」
セドリックが黙った。椅子の刺繍に、指先が触れた。不揃いの糸。直したら5分で終わる。
直さなかった。
ヘルマンが食堂に入ってきたのは、夕食の片づけが始まった直後だった。手に封書を持っている。
「フィリーネ様にお手紙でございます」
差出人を読んだ。
レオンハルト伯爵令嬢、カミーラ。
知らない名前だった。聞いたことはある。2日前、使用人が廊下で1度だけ口にした名前。声を落として、すぐに止めた名前。
封書を手に取った。開ける前に、立ち上がりかけた。セドリックに見せるべきだ、と思った。セドリックに関係がある手紙なら、先に知らせた方がいい。22年間、そうしてきた。誰かに関わる手紙は、先に本人に渡す。
でも。
「フィリーネ様に来た手紙です」とヘルマンが言った。声が静かだった。「閣下がご覧になる必要はございません」
座り直した。
封書を手に持ったまま、自室に戻った。窓辺のカモミールが傾いている。直さなかった。
封書を机の上に置いた。
開けられなかった。開けたくない、のではない。開けたら、何かが始まる。始まるものの正体がまだわからない。
夜になって、もう1通届いた。
差出人――ウェーゼル伯爵。
父の字だった。
机の上に2通の封書が並んだ。カミーラの手紙と、父の封筒。
どちらも、夜になっても開かれなかった。
「あとでいい」とは思っていなかった。でも今夜は、開けられない。――この2つは違う。「あとでいい」と「今夜は開けられない」は、違う。22年間、1度も分けて考えたことがなかった。
今夜、初めてわかった。
窓辺のカモミールに、月の光が落ちていた。傾いたまま。直さなかった。
――明日は婚約の正式発表まで、2日だった。




