第10話 「フィリーネ様でしたね」
庭のカモミールに、水をやった。
まだ生きていた。
フィリーネは桶を持ったまま、しばらくその小さな花を見ていた。「水を替える暇がないうちに枯れた」という言葉は、あの家にいた頃の自分の言葉だった。窓辺のグラスに差したカモミールが、枯れたまま捨て忘れていた。
ここは違う。水をやれる時間がある。桶がある。
「……まだ生きていた、ということだ」と独り言のように言った。確認として、声に出した。誰に向けた言葉でもなかった。
廊下からリナルドが庭を見ていた気がした。振り返ると、もういなかった。
◇
侯爵夫人のガーデンパーティーが昼過ぎから始まった。
「今夜は話す」とセドリックが言った。会場へ向かう道の途中、前を向いたまま言った。
「わかりました」とフィリーネは答えた。
「必ず」という言葉が今日はなかった。「今夜は」に変わっていた。前より短い言葉だった。期限が近くなっている。そういう意味の言葉だった。
これが前進なのかどうか、フィリーネにはまだわからなかった。
会場に入った。22年分の習慣が先に動いた。出口の位置。死角。主催者の立ち位置。把握し終えてから、フィリーネは「客の側に立つ」ということを考えた。習慣を止めることはできない。でも習慣のあとで、別のことをするのは、少しずつできるようになっていた。
社交界というのは品定めの場所だと思っていた。22年間、整える側でいた。でも今日は整えられる側だ。そのことが、まだ少し奇妙だった。
挨拶が来た。フィリーネは返した。笑顔の作り方は22年で身についていた。ただ「自分のために出している笑顔」というのが、今も少しだけ違う形をしている気がした。どう違うのかは、まだわからなかった。
セドリックが隣に立つたびに、話しかけようとする人が一歩手前で止まる。その一歩の手前に、フィリーネは立っていた。「公爵の婚約者」という肩書きが、自分の輪郭を代わりに作っていた。それが快適なのか不快なのか、まだ判断できていなかった。
そのとき、老伯爵夫人が斜面の段差に足をとられた。
フィリーネの身体が先に動いた。
手が相手の腕に届いていた。カップが傾く前に受け取っていた。花壇の縁まで3歩、誘導した。全部で3秒以内だった。考えて動いたのではなかった——22年間、誰かを支え続けてきた手の、自動応答だった。
老伯爵夫人が息を整えた。それからフィリーネを見た。
「まあ……フィリーネ様でしたね」
フィリーネの手が——老伯爵夫人の手を、そっと握り返していた。
意識して動かした手ではなかった。「支えた」のではなかった。「一緒に立った」のだと、少しだけ後からわかった。22年間、「支えた」という言葉しか持っていなかった。でも今のは違った。なんと呼ぶか、まだ言葉がなかった。
老伯爵夫人がもう一度言った。「……お名前を聞いておりましたよ。よく来てくださいました」
返す言葉が来なかった。言葉より先に、胸の奥の——普段は動かない部分が——動いていた。
「……ありがとうございます」と言ったのは、5秒後だった。
老伯爵夫人が笑った。「またお会いしましょう」と言って、侍女と共に庭の方へ向かった。
フィリーネはその場に立ったまま、少しだけ止まっていた。
会場の向こうで、白い扇を閉じたまま持った人影が、静かにこちらを見ていた。フィリーネが目を向けると、もうそこに人はいなかった。
◇
屋敷に戻ったのは夕刻だった。
ヘルマンが廊下で待っていた。フィリーネが通りかかると「本日はいかがでございましたか」と聞いた。
「老伯爵夫人に名前を呼ばれました」とフィリーネは言った。
ヘルマンが手帳を取り出し、何かを書き込んだ。
「……今、何を書いていらっしゃいますか」
「記録でございます」
「何の記録ですか」
「必要なことを」とヘルマンは言った。手帳から目を離さなかった。
フィリーネはしばらく待った。続きは来なかった。手帳をパタンと閉じ、今日の日付を声に出した。それだけだった。
「……嬉しかった、と」と言ったのは、その後だった。声に出す気はなかった。でも出た。
ヘルマンが一瞬止まった。振り返らなかった。「それが記録に値することでございます」とだけ言って、廊下を曲がった。
フィリーネは廊下に一人残った。
「嬉しかった」という言葉が、まだそこにあった。消そうとした。カミーラの「4年前から私のものでしたの」という声が来た。「社交界では公知のことでしたの」という声が来た。それでも「嬉しかった」は、消えなかった。
なぜ消えないのか、わからなかった。
理由を探すと、老伯爵夫人の手の感触が来た。「よく来てくださいました」という言葉が来た。それは管理者への言葉ではなかった。フィリーネ、という名前への言葉だった。
22年間、自分の名前をそういう声で呼ばれたことが——あったかどうか、すぐに答えが出なかった。なかった、とは思わなかった。ただ、出なかった。それだけだった。
「嬉しかった」という感情の処理方法を、自分は持っていない。消し方は22年で覚えた。でも受け取り方は——まだわからなかった。
◇
セドリックが帰ったのは夜だった。
「フィリーネ」と名前で呼んだ。廊下の声だった。
フィリーネは本を閉じて出た。
「……4年間のことを」とセドリックが言いかけた。止まった。「4年間——」ともう一度言いかけた。また止まった。今度は長かった。セドリックの視線が、少しだけ落ちた。
フィリーネは、言葉が来るのを待った。話そうとしている人が話せないでいるのを、妨げたくなかった。「今夜は話す」と言った人が、今夜、本当に話そうとしている。その気配は本物だった。
そのとき、リナルドが廊下の端から近づいてきた。トレーの上に封書が1通あった。
「フィリーネ様宛のお手紙が届きました。レオンハルト令嬢からでございます。書類の写しが同封されております」
セドリックが——止まった。
フィリーネは封書を受け取った。手は動いた。止める理由がなかった。
セドリックが何か言いかけた。言葉が来なかった。
リナルドが廊下の端へ戻りながら、独り言のように言った。
「……前任の奥様も、お名前をお呼びいただいたことが、ございました」
その言葉が廊下に残った。誰に向けた言葉でもなかった。
セドリックは何も言わなかった。フィリーネも何も言わなかった。封書を持ったまま、部屋に戻った。
扉を閉めた。窓の外が暗くなっていた。
書類の写し、という言葉が、手の中にあった。何の書類なのかは、見ればわかる。でも今夜は——フィリーネは目を閉じた。今夜は、カモミールがまだ生きていたことを先に覚えていたかった。
封書は、明日開くことにした。




