第1話 世界の継ぎ目
午前二時。
神谷悠真が消えた交差点に、私は再び立っていた。
三日前に起きた事故の痕跡は、ほとんど片づけられている。割れたガラスも撤去され、焦げた路面も補修され、昼間ならここで一人の高校生が消えたことなど誰も想像しないだろう。
けれど、私の目にはまだ別のものが視えていた。
空間に薄く残る、金色の残滓。
神谷悠真をこの世界から引き抜いた力の痕跡だ。
「まだ残ってる?」
頭上から声がした。
見上げると、街路樹の枝に小さな少女が腰かけていた。手のひらに乗るほどの大きさで、髪の間から狐に似た耳が覗いている。
サトリだ。
名前の通り、人の心を読む妖怪。
ただし、狐の妖怪ではない。
私が狐面を使うようになってから、いつの間にかこの姿を取るようになった。理由を聞いても、「主人に合わせているだけ」としか答えない。
「残っているわ」
私は交差点の中央近くへ六壬式盤を置いた。
盤面の針が小さく震え、金色の残滓が残る方向へ傾く。
「三日経ってこれだけ残ってるなら、かなり大きな力が使われたみたいね」
「女神って強いんだね」
「まだ女神本人がやったと決まったわけじゃないわ」
「もう怒ってる?」
「会ってもいない相手に怒らない」
サトリが私の顔をじっと見た。
狐耳がわずかに伏せられる。
「何?」
「何でもない」
「何を読んだの?」
「京花ちゃん、怖いから言わない」
「勝手に読んでおいて失礼ね」
「読めるものは読めるんだから仕方ないよ」
サトリは枝から飛び降り、私の右肩へ着地した。
昔から、そこが定位置だ。
私は四枚の霊符を取り出し、交差点の四方へ放った。札が街灯の影へ吸い込まれるように消える。
人払い。
今夜、この場所へ来ようと考えた人間は、何となく別の道を選びたくなる。車も同じだ。
無理やり意識を曲げるほど強い術ではない。事故を防ぎながら、しばらく交差点を空ける程度で十分だった。
「周囲は?」
「こっちを見てる人はいないよ」
「これから来ようとしている人は?」
「今のところいない」
「偶然飛び出してくる人は?」
「それは分からないってば」
サトリが頬を膨らませた。
相手が何かを考え、その考えに従って行動しようとしているなら、サトリはかなり早い段階で察知できる。
右へ動こうと思えば右へ。
剣を振ろうと思えば、その軌道まで。
けれど、本人自身が考えていない行動は読めない。
足を滑らせる。
反射的に手を伸ばす。
突然誰かに押される。
そういう予定外の動きは、サトリも見てから反応するしかない。
便利ではある。
万能ではない。
本人は、そのことを一番よく分かっている。
「先輩は?」
「向こう」
サトリが顎で示した先に、黒い術衣を着た男が立っていた。
陰陽寮の先輩陰陽師だ。
私が異世界へ渡る間、現世側の結界と術式を維持してもらうことになっている。
「準備は終わったか」
「こちらは」
「人払いも確認した」
先輩は私の足元にある六壬式盤を見る。
「痕跡は追えそうか」
「十分です」
「帰還標は?」
私は懐から一枚の霊符を取り出した。
表には、通常の札よりはるかに細かい術式が刻まれている。
現世側の座標を固定する帰還標。
異世界側から帰還術を組む際、こちらへ戻るための目印になる。
先輩が札を見て、小さくうなずいた。
「なくすなよ」
「なくしません」
「壊すな」
「子どもじゃないんですから」
「お前の場合、なくすより無茶をして壊す方がありそうだから言ってる」
言い返そうとして、やめた。
隣でサトリが何度もうなずいていたからだ。
「サトリ」
「何も言ってないよ」
「顔に出てる」
先輩が小さく笑い、それから表情を戻した。
「向こうへ渡るだけで、神通力はかなり持っていかれる」
「分かっています」
「すぐに往復できるとは思うな」
「承知しています」
「それと、神谷悠真を見つけても、その場ですぐ帰還術を使うな」
私は帰還標を懐へ戻した。
「召喚による接続が分からないからですね」
「ああ」
召喚者との契約。
異世界の魔力との接続。
勇者という役割を固定する術式。
何があるかはまだ分からない。
何もない可能性だってある。
だからこそ、先に調べる。
「無理にこちらへ引けば?」
私が尋ねると、先輩は少しだけ間を置いた。
「最悪の場合、魂魄に傷が入る」
サトリの狐耳がぴくりと動いた。
「魂が裂けるの?」
「可能性の話だ」
先輩は答える。
「まだ向こうの術式を一つも見ていない」
「人との縁も切らなきゃいけないの?」
今度はサトリが尋ねた。
「それは別だ」
先輩は首を振る。
「本人が自分で築いた関係まで消せば、それこそ本人の意思を奪うことになる」
「じゃあ、何を切るの?」
「帰る自由を奪っているものがあるなら、それだけだ」
私はその言葉を聞きながら、懐の帰還標へ触れた。
帰る自由。
残る自由。
どちらを選ぶにしても、選択肢そのものが奪われていたら意味がない。
「顔が怖いぞ」
先輩が言った。
「平常です」
「相手は一応、女神かもしれないんだろ」
「現地でそう呼ばれている存在です」
「その言い方を本人の前でするなよ」
「努力します」
「努力する気がない顔だな」
サトリがまた何度もうなずいた。
私はその額を指先で軽く弾いた。
「痛い」
「余計な同意はいらない」
「今、女神を正座させて事情聴取しようって――」
「封滅するわよ」
サトリは両手で口を塞いだ。
先輩が額へ手を当てる。
「本当に頼むから、最初から喧嘩は売るな」
「売りません」
「買うな」
「向こう次第です」
「それを売るって言うんだ」
それ以上は答えなかった。
先輩はため息を吐き、それから私を見る。
「もう一つ」
「何ですか」
「知らない世界で、一人で全部片づけようとするな」
「一人じゃありません」
私は右肩を示した。
サトリが胸を張る。
「いるよ」
「こいつを一人に数えていいのか、俺にはまだ判断がつかん」
「失礼だなあ」
「現地で信用できる人間を見つけろという意味だ」
「必要なら」
「必要だと思う頃には手遅れになってるのが、お前の悪いところだ」
今度は言い返せなかった。
心当たりがないとは言えない。
私は六壬式盤の前へ座った。
「行ってきます」
「ああ」
先輩はそれ以上止めなかった。
私は盤面へ指を這わせる。
方位。
時間。
星の巡り。
土地の気。
そして、三日前に開かれた召喚の痕跡。
それらを一つずつ重ね、二つの世界が接した一点を探していく。
通常の異界なら、境界を緩めるだけでも道は開く。
だが今回の行き先は、現世のすぐ隣に存在する小さな異界ではない。
空も。
大地も。
独自の理を持つ、別の世界。
そこまで道を通すには、普通の術で使う霊力だけでは足りない。
私は身体の奥へ意識を向けた。
そこに蓄えた神通力を、ゆっくりと引き出す。
熱とも冷気とも違う力が身体の内側を巡り、指先へ集まっていく。
六壬式盤の針が回り始めた。
私は最初の印を結ぶ。
「臨」
盤面が青白く輝いた。
「兵」
交差点の中央で、空間がわずかに揺れる。
「闘」
風のない夜に、四方へ置いた霊符が一斉に浮かび上がる。
「者」
路面に残っていた金色の残滓が、細い糸となって空中へ集まった。
「皆」
サトリが私の肩へしがみつく。
「陣」
何もなかった空間に、一本の亀裂が走った。
「列」
裂け目の向こうから、知らない風が吹き込んでくる。
「在」
亀裂がゆっくりと上下へ広がった。
「前」
世界が開いた。
亀裂の向こうにあったのは暗闇ではない。
青白く照らされた草原。
そして空に浮かぶ、二つの月。
星の位置も、夜空の色も違っている。
先輩が息を呑んだ。
サトリの狐耳がぴんと立つ。
「本当にあった」
「今さら?」
「だって、見るのは初めてだもん」
私も同じだ。
ただ、今それを口にする必要はない。
神谷悠真を引き抜いた道を、こちらから開き直した。
目的地が間違っていなければ、この先に彼がいる。
私は六壬式盤を回収し、懐へしまった。
最後に、白い狐面を取り出す。
白地に赤い紋様が入った古い術具。
異界で真名を不用意に晒せば、呪いや契約の足掛かりにされることがある。
相手がどんな術を使うのか分からない以上、本名で歩き回る気はなかった。
私は狐面を顔へ当てる。
術がなじみ、視界が一瞬だけ揺れた。
朝霧京花という人間の認識を薄く覆い、その代わりとなる名を前へ出す。
向こうで名乗る名前は決めてある。
ミツネ。
サトリが嬉しそうに自分の狐耳を動かした。
「やっぱりお揃いだね」
「あなたが勝手に合わせたんでしょう」
「主人に合わせるのは普通だよ」
「本来の姿を知っている妖怪に見られたら笑われるわよ」
「向こうの人は知らないから大丈夫」
「騙す気満々ね」
サトリが少し考えてから笑う。
「じゃあ、ここからはミツネちゃんだね」
「そうして」
「ミツネちゃん」
「何?」
「言ってみただけ」
「置いていくわよ」
「待って」
私は開いた世界の継ぎ目へ向き直った。
ここから先は異世界だ。
神谷悠真が無事なのかも分からない。
勇者として何をさせられているのかも。
帰りたいと思っているのかさえ、まだ知らない。
だから、まず会う。
それから本人の話を聞く。
「行くわよ、サトリ」
「うん」
私は世界の継ぎ目へ足を踏み入れた。
身体を前後左右から引っ張られるような感覚が襲ってきた。
視界が白く染まる。
音が消える。
上下の感覚さえ曖昧になる。
それでも、召喚の金色の痕跡だけは意識から離さない。
世界と世界の間に道などない。
あるのは、二つの異なる理が一瞬だけ接する場所だけだ。
そこへ無理やり身体を通している。
楽なはずがなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
突然、足の裏へ感触が戻った。
柔らかな草。
冷たい夜風。
湿った土の匂い。
次の瞬間、私は数歩進んだところで膝をついた。
「ミツネちゃん?」
サトリが肩から飛び降りる。
「問題ないわ」
「問題ある人が言うやつだよ」
「少し神通力を使いすぎただけ」
「少し?」
「……かなり」
「ほとんど残ってないよ」
「それ、読まなくても分かるでしょう」
呼吸を整えながら振り返る。
世界の継ぎ目は、すでに細い光の線へ縮み始めていた。
やがて完全に閉じる。
私は帰還標を取り出し、掌に乗せた。
札へ意識を通す。
刻まれた術式が、弱い白色の光を返した。
現世との座標は失われていない。
力を回復させ、条件を整えれば、私は帰れる。
問題は神谷悠真だ。
「戻れる?」
サトリが聞く。
「私はね」
「悠真は?」
「本人を見ないと分からない」
「絶対連れて帰るって言わないんだ」
私は帰還標を懐へ戻した。
「残りたいと言う可能性もあるでしょう」
「ミツネちゃんは、それでいいの?」
「本人が、本当に自分で選んだ答えならね」
サトリの耳が少しだけ動く。
何か読んだらしい。
けれど、黙っている。
「何?」
「封滅されたくないから言わない」
「学習したわね」
私は立ち上がり、ようやく周囲を見渡した。
どこまでも続く草原。
見たことのない植物。
遠くには黒い森が広がり、その向こうに山の影が連なっている。
そして、空には二つの月。
「ああ……異世界ね」
実際に来てみると、感想はそれくらいしか出なかった。
サトリが目を丸くする。
「もっと驚かないの?」
「異界なら何度も行ってるもの」
「月が二つあるよ」
「見れば分かる」
「空も違うよ」
「それも見れば分かる」
「ミツネちゃん、面白くない」
「観光に来たわけじゃないもの」
私は足元へしゃがみ込み、草と土へ残った気配を探した。
金色の痕跡はこちら側にも残っている。
しかし、現世側ほど明瞭ではない。
土地そのものを満たしている魔力へ混ざり、もう輪郭が崩れ始めていた。
これだけでは神谷悠真まで追えない。
「何か分かる?」
「人の心は近くにないよ」
「匂いは?」
「私は犬じゃないんだけど」
「さっきから鼻を動かしてるでしょう」
「知らない世界の匂いだから気になるだけ」
サトリは人間の子どもほどの大きさへ姿を変え、草原へ降りた。
狐に似せた耳を動かしながら、辺りを歩き始める。
時々しゃがみ込み、土へ顔を近づける。
「やっぱり嗅いでるじゃない」
「気配を調べてるの」
「便利な言い方ね」
「ミツネちゃんにだけは言われたくない」
しばらく探ったが、神谷本人へ直接つながる痕跡は見つからなかった。
森の向こうには複数の生き物の気配がある。
ひとまず人里を探すべきだろう。
この世界の地理。
情勢。
勇者召喚。
女神。
知らなければならないことが多すぎる。
幸い、言葉については陰陽寮で施された通詞の術が働いている。
文字まですべて読める保証はないが、日常会話なら問題ないはずだ。
「道を探すわよ」
「東の方」
サトリが指を差す。
「人が何度も通った気配がある」
「気配?」
「匂いも」
「やっぱり嗅いでたんじゃない」
「細かいことを気にすると嫌われるよ」
「誰に?」
「私に」
「それは困らないわね」
「ひどい」
頬を膨らませるサトリを連れ、私たちは森の縁に沿って東へ進んだ。
異世界の夜は思ったより静かだった。
虫の声に似た音は聞こえる。
ただ、現世で知っている虫とは少し違う。
草むらから、耳の長い小動物がこちらを覗き、サトリと目が合うと慌てて逃げていった。
「かわいい」
「追いかけないで」
「まだ何もしてないよ」
「考えたでしょう」
「心を読むのは私の方なのに」
そんなやり取りをしながら、一時間ほど歩いた頃だった。
サトリが突然足を止めた。
狐耳がぴんと立つ。
さっきまで笑っていた顔から表情が消えた。
「ミツネちゃん」
「何?」
「この先で誰か襲われてる」
私も足を止める。
「何人?」
「襲われてる方が六人」
「相手は?」
「十二……十三」
サトリが目を細める。
「小さい鬼みたいなの」
「何を考えてる?」
「殺す」
短く答える。
「奪う」
さらに一拍。
「食べる」
私は森の奥を見る。
「会話は?」
「今は無理だと思う」
この世界の生き物を、現世の基準だけで判断するつもりはない。
鬼に似ているから敵。
妖怪に似ているから危険。
そんな分類に意味がないことくらい、私が一番よく知っている。
けれど、今まさに誰かを殺そうとしているなら話は別だ。
「行くわよ」
「不用意に介入しないんじゃなかったの?」
「死なれたら情報を聞けないでしょう」
サトリが私を見る。
「そういうことにしておくね」
「余計なところを読まない」
私は走り出した。
サトリもすぐ後を追う。
森を抜けると、石畳の街道が見えた。
横倒しになった馬車。
その前で、四人の騎士が武器を構えている。
全員がすでに傷を負っていた。
その後ろには、銀髪の少女と侍女らしき女性。
街道を囲むように、小柄な人型の生き物が十数体いる。
緑がかった肌。
粗末な革鎧。
短剣や棍棒。
現世の物語でいうなら、ゴブリンに近い。
「殿下、森へお逃げください!」
金髪の騎士が叫んだ。
けれど、銀髪の少女は動かなかった。
倒れた侍女のそばへ膝をつき、両手を傷口へ当てている。
淡い青色の光が、その掌から広がっていた。
治癒術。
こちらでは魔法と呼ぶのだろうか。
少女自身も怖がっている。
逃げたいとも思っている。
それでも、侍女を置いていくつもりはない。
サトリが私を見て、小さくうなずいた。
「まず分けるわ」
私は四枚の霊符を指に挟んだ。
「右側の三体を見て」
「分かった」
「考えてない動きには気をつけて」
「それ、私に言う?」
「あなたにしか言わない」
霊符を放つ。
四枚の札が石畳へ突き刺さった。
騎士と小鬼たちの間を結ぶように、淡い光が走る。
「界」
光が立ち上がった。
透明な壁が街道を分断する。
前へ飛び込もうとしていた一体が結界へ激突し、仰向けに転がった。
騎士たちが驚いてこちらを見る。
「敵ではありません」
私は狐面の奥から告げた。
「動ける人は負傷者を馬車の陰へ」
「貴様、何者だ!」
金髪の騎士が叫ぶ。
「説明はあと」
「左、二体回り込むよ!」
サトリの声。
私は追加の札を投げた。
霊符から伸びた白い糸が二体の足へ絡みつき、そのまま石畳へ引き倒す。
金髪の騎士が一瞬だけ迷った。
すぐに仲間へ振り返る。
「殿下と負傷者を馬車の陰へ!」
判断は早い。
正体不明の私を信用したわけではない。
ただ、今は利用できるものを利用するべきだと判断したらしい。
嫌いではない。
「残りは俺たちが押さえる!」
騎士たちが動く。
結界に阻まれた小鬼たちは壁を叩き、別の進路を探し始めた。
「右端、上から越えようとしてる」
「見えてる」
「奥の二体は逃げるふりして回り込むつもり」
「そっちお願い」
「分かった」
サトリが地面を蹴った。
子どもの姿のまま軽々と跳び、回り込もうとした一体の前へ着地する。
棍棒を持った小鬼が右腕を振り上げた。
サトリは動き出すより先に、その意思を読んで左へ避ける。
棍棒が空を切った。
その直後だった。
後ろにいた別の一体が仲間に押され、本人も予想していないまま前へ転がってきた。
「それは知らない!」
サトリが慌てて跳び退く。
小鬼の頭が、さっきまでサトリのいた場所を通り過ぎた。
「本人も考えてなかったのね」
「分かってるなら助けてよ!」
私は札を一枚飛ばし、転がった小鬼の背中へ貼りつけた。
「縛」
白い縄が札から伸び、身体を石畳へ押さえつける。
サトリが胸を撫で下ろした。
「人間じゃなくても、考えてないことするんだね」
「いい勉強になったでしょう」
「命懸けだったんだけど」
結界の端から、硬いものが砕ける音がした。
一体の小鬼が、魔力をまとわせた短剣を光の壁へ何度も突き立てている。
亀裂が走る。
「破られる」
私が言った直後、銀髪の少女が声を上げた。
「来ます!」
結界の一部が割れた。
三体が一斉に飛び込んでくる。
金髪の騎士が一体を剣で受け止める。
残る二体は、負傷した侍女へ向かった。
銀髪の少女は逃げなかった。
両手を前へ突き出す。
「水よ、壁となれ!」
空中に水が集まり、半透明の盾となった。
棍棒が水の盾へ食い込み、勢いを失う。
けれど、もう一体が横から少女へ回り込む。
私は二人の間へ踏み込んだ。
「急急如律令」
札が光る。
小鬼の短剣にまとわりついていた黒い濁りだけを弾き飛ばす。
刃を支えていた魔力が崩れ、短剣が石畳へ落ちた。
その隙に金髪の騎士が踏み込み、剣の柄で小鬼の側頭部を打ち抜く。
残った一体が逃げ出した。
私は追わなかった。
背中から殺意が消えている。
だが、金髪の騎士が低く叫んだ。
「逃がすな!」
別の騎士が弓を引いた。
放たれた矢が、小鬼の背中へ突き刺さる。
小さな身体が街道へ倒れた。
私は何も言わなかった。
この世界には、この世界の事情がある。
魔物を逃がせば何が起きるのか。
彼らがなぜ襲ってきたのか。
私はまだ何も知らない。
自分の常識だけで、その判断を否定するつもりもなかった。
戦いが終わると、騎士たちはすぐに周囲を確認し始めた。
倒れた小鬼から武器を遠ざけ、負傷者を一か所へ集める。
金髪の騎士だけは、まだ剣を鞘へ戻していなかった。
刃先を私へ向けてはいない。
けれど、警戒も解いていない。
「助力には感謝する」
「どういたしまして」
「だが、素性の分からない術者を殿下へ近づけるわけにはいかない」
「そう」
私は一歩下がった。
「では、近づかないわ」
騎士の方が戸惑った。
「……何?」
「いや」
「助けた見返りに取り入ろうとしていると思った?」
答えない。
考えてはいたらしい。
サトリが口元を押さえて笑っている。
「そんな面倒なことはしないわ」
「面倒……」
銀髪の少女が呟いた。
彼女は侍女を別の騎士へ任せると、ゆっくり立ち上がった。
壊れかけた髪飾り。
泥と血で汚れた上質な衣服。
周囲の騎士たちの動きを見れば、高い身分なのは疑いようがない。
それでも彼女は騎士の後ろへ隠れず、私の前まで歩いてきた。
そして丁寧に頭を下げる。
「危ないところを救っていただき、ありがとうございます」
「全員を救えたわけではないみたいだけれど」
街道の端には、一人の騎士が倒れている。
もう息はなかった。
少女の表情が曇った。
「それでも、あなたが来なければ、もっと多くの者を失っていました」
サトリが私へ視線を送り、小さくうなずく。
嘘ではない。
少なくとも今は、本心からそう思っている。
「私はエリシア・ヴァルステラ」
少女が名乗った。
「エストリア皇国の第一皇女です」
「皇女殿下」
「エリシアとお呼びください」
「初対面の怪しい術者に、ずいぶん不用心ね」
金髪の騎士の眉が動く。
「殿下に対して――」
「ルーク」
エリシアが静かに名前を呼ぶ。
騎士は不満そうにしながらも口を閉じた。
ルーク。
警戒心は強いが、皇女への忠誠も本物らしい。
エリシアが改めて私を見る。
「あなたのお名前を、お聞きしてもよろしいですか?」
私は狐面の端へ触れた。
異界で真名を晒すつもりはない。
「ミツネ」
「ミツネ様」
「様はいらない」
「では、ミツネさん」
「それでいいわ」
エリシアが少しだけ笑った。
張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩む。
「先ほどお使いになったものは、魔法ではないのですか?」
「似てはいるけれど、使っている理屈が違うわ」
「何というものなのです?」
「陰陽術」
「オンミョウ……」
エリシアが聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。
「陰陽術」
「陰陽術」
「そう」
サトリが面白そうにその様子を眺めている。
異世界人の考えを読むという初めての経験が、もう楽しくなっているらしい。
「そちらの魔法についても聞きたいけれど」
私は負傷者を見る。
「先に怪我人を」
「はい」
エリシアはすぐに振り返った。
自分の好奇心より負傷者を優先した。
少なくとも、その判断には好感が持てる。
「近くに街は?」
「ここから東へ進めば、交易都市ヴァルミナがあります」
「どのくらい?」
「馬車なら半日ほどです」
私は横倒しになった馬車を見る。
片方の車輪が外れかけている。
このままでは半日どころではない。
「護衛を一人失い、負傷者もおります」
エリシアが唇を結んだ。
「厚かましいお願いだとは承知しております」
「街まで同行してほしい?」
「はい」
ルークは反対したそうな顔をした。
けれど、口には出さない。
今の人数と負傷者を考えれば、私たちの手を借りた方がいい。
感情と状況を切り分ける頭はあるらしい。
「報酬は?」
私が尋ねると、エリシアが少し驚いた。
「必要な物資と食事、ヴァルミナでの宿はこちらで用意いたします」
「それと、この世界の地理と情勢について教えて」
「もちろんです」
「なら悪くないわ」
人里まで案内してもらえる。
現地の情報も手に入る。
神谷悠真を探す上でも都合がいい。
その時だった。
「ミツネちゃん」
サトリが私の袖を引いた。
さっきまでとは声が違う。
「何?」
サトリはエリシアの胸元を見ていた。
そこには、金色の鎖につながれた小さな護符がある。
羽を広げた女性を思わせる紋章が刻まれていた。
「これ」
サトリの狐耳が立っている。
「交差点に残ってたのと同じ感じがする」
私は護符へ意識を向けた。
ごく薄い。
けれど、間違いない。
神谷悠真が消えた交差点。
あそこに残っていた金色の力と、同じ系統の気配が宿っている。
「神谷本人?」
「違う」
サトリが首を振る。
「あの子を連れていった側」
エリシアが私たちの視線に気づき、胸元の護符へ手を添えた。
その指先が、わずかに強ばった。
警戒した。
サトリも気づいている。
「罠にかけるつもりは?」
私が小声で聞く。
「ないよ」
「私たちを利用するつもりは?」
「今は、本気で助けてほしいと思ってる」
「今は?」
サトリが少し考える。
「何か隠してることはあるみたい」
「何を?」
「そこまでは今、考えてない」
それ以上は読めない。
サトリは心を読む。
けれど、本人が考えていない秘密まで勝手に取り出せるわけではない。
便利な能力だが、答えを全部教えてくれるものでもない。
私はエリシアへ向き直った。
「同行するわ」
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
エリシアの表情が引き締まる。
私は彼女の胸元を指した。
「その紋章について教えて」
エリシアは一瞬だけ迷った。
それから護符を掌へ乗せる。
「これは、女神エルシアナ様の聖印です」
女神。
陰陽寮で聞いた情報とつながった。
私は狐面の奥で目を細める。
「もう一つ」
「はい」
「この世界の勇者召喚について、知っていることを話して」
エリシアの表情が止まった。
ルークの手が、再び剣の柄へ伸びる。
サトリの狐耳も立った。
その反応だけで十分だった。
神谷悠真へつながる最初の糸を、異世界へ渡ったその日のうちに見つけた。




