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殺してくれ、と言われましても

作者: 夏野海
掲載日:2026/02/11


「……貴方は、お金さえ払えばどんな望みでも叶えてくれると聞きました。どうか……どうか、(わたくし)を殺してはくれませんか?」


 軋んだ扉の音と一緒に、そんな突飛な願いが()に転がり込んできた。娘の声は殆ど囁きだったが、外套の隙間から覗く紺碧の瞳だけは、逃げ場を塞ぐように俺を射抜いていた。その瞳の奥には、陽の光を拒絶した深い海のような絶望が沈んでいる。


「――断る。うちでは命の取引なんて取り扱っていない。……それだけは、絶対にだ」

 

 娘は、煤で汚れた机に革袋を音も立てずに置いた。中身は確認するまでもない。十中八九、金だろう。しかも、かなりの金額と見える。


「どうしても、ですか」

「どうしても、だ」


 些か頼りない椅子の背もたれに体重を預けたまま、俺は顔も上げずに答えた。冷たく、突き放すように。

 

 目の前の()()()()が、小さく肩を跳ねさせる気配がした。普通なら、ここで泣きつくか、怒鳴り散らすかして帰っていくはずだ。だが、彼女は違った。僅かな沈黙の後、俺をきっ、と睨みつけるような強い視線を額のあたりに感じた。そこには、退くつもりなど毛頭ないという、岩のような頑なさが居座っていた。


 湿った木とカビの匂いが充満するこの店に、彼女のような存在は到底似合わない。それだけが、逆に痛々しい。

 

「分かりました。では、また明日に参ります」

 

 ごとり、と重い音を一度響かせると、彼女は顔を上げることのない俺に背を向けたようだった。数回響いた踵の音の後、表の扉が痛々しい悲鳴を上げて閉まる。その余韻が消えるのを待って、俺はようやく机の上に目を向けた。

 

 中央に置かれた革袋は、主を失ってもなお、そこに根を張ったかのように微動だにしない。俺はしばらくの間、その袋をただ見つめていた。触れもしない。中身を確かめることもしない。ただ、そこに()()という事実だけを、不快な胸騒ぎと共に受け止めていた。

 

「……面倒な客が来たな」

 

 独り言が、埃っぽい空気に溶ける。革袋の影に、ひっそりと息を潜めるように置かれていたものがあった。まるで、これで自分を終わらせてくれ、と言わんばかりの――一振りの短剣。

 

 俺は黙ったまま、それを手に取った。鞘に施された緻密な彫金、この国――ヴェルディエル王国ではまずお目にかかれない独特の意匠。


「はは……」


 ひとつ、心臓が嫌な跳ね方をした。震える指先で鞘を払い、刃を露わにする。鈍く光る刀身。だが、その切先は無残に潰れ、もう長いこと手入れをされた形跡がない。


 これでは、骨どころか肉にさえ突き刺さるかどうか。殺してくれと願いながら、その手元にあるのは、もはや何も殺せないほどに磨り減った鉄屑。――これは、命を終わらせるためなんかの刃じゃあない。命を守るための刃だ。


「いやはや、こんな所で()()を払う日が来るとは……これが、運命か宿命ってやつか?」


 俺は堪らず立ちあがる。この鈍らを砥石にかけてやろうか、窓から放り投げてやろうかと逡巡しているうちに隙間だらけの窓から滑り込んできたのは、潮の匂いと、腐った魚のような質の悪い噂話だ。


「おい、見たか。今の、『元王太子妃(悪女)』じゃあないか?」

「まさか、こんな所にいるはずないさ」

「いいや、外套を頭からすっぽり被ってたが、あの黒く長い髪は……間違いないさ」

「アイツに教えておくか? 今度こそ手柄を立てるってやけに息巻いてただろう」


 窓の向こう、遠ざかっていく足音と共に、下卑た笑い声が夜の帳に溶けていく。


「そういや、そんな話もあったな」


 ヴェルディエル王国の王太子――第一王子が、お忍び先で見つけた平民の娘を()()()()だと宣ったのは半年前のこと。由緒正しき公爵家の令嬢である婚約者を、その運命の相手を階段から突き落としただの、茶会で罵っただのという罪状で一方的に断罪し、婚約を破棄した。

 

 社交界の連中にとっては、最高に下卑たドルチェ代わりのスキャンダルだったはずだ。結果、家の名誉を汚した悪女が追い出されたってところか。


「あの世界じゃあ、よくある話だよな」

 

 俺は手元にある見慣れた鈍らを、窓から差し込む月光にかざした。


「殺してくれ、か……」


 その言葉を口にした途端、喉の奥に苦いものが絡みついた。頼まれ慣れているはずの「叶えてくれ」という願いの中でも、ひときわ重く、そして厄介な部類だ。


 俺は短剣を机に戻し、革袋の口を指先で弾いた。じゃらり、と中で金属が擦れる音がする。やはり金だ。それも、下町の小商いが一生かかっても稼げない額だろう。これだけの金を、命と引き換えに差し出す覚悟。


「戯れでも、衝動でもない、と。……また明日、ねぇ」


 娘――いや、元王太子妃。噂が本当なら、彼女はもう令嬢と呼ばれるような立場ではない。だが、あの背中はどう見ても、世界から追い出されたばかりの、行き場を失った若い女のものだった。


 俺は店の奥にある水差しから、濁った酒を少しだけ注いだ。舌を焼く安酒だが、今夜はそれで十分だ。飲み下すと、腹の底がじんわりと温まり、代わりに記憶の澱が浮かび上がってくる。


 ――命の取引はしない。


 そう決めたのは、いつだったか。いいや、(はな)から決めていた。己が主人は己であるべきだ。例えそれが「死」であろうと、「生」であろうと、関係などない。


「よりにもよって、旧き盟約の娘か」


 外では、潮風が強まっているのか、古い看板がぎい、と嫌な音を立てて揺れた。あの噂話をしていた連中が、どこまで嗅ぎ回るかは分からない。だが、悪女が生きていると知れ渡れば、放ってはおかれないだろう。彼女を断罪した側にとって、生き証人は邪魔でしかない。


「明日、彼女は来るだろうな」


 もちろん、殺しなどしない。生きろ、と言うつもりもない。ただ――かつて捨てたはずの家の誇りが、「彼女の選択を見届けろ」と言う。


「……仕方ねえな」

 

 ――ゴリゴリ、と。


 砥石と刃の擦れる、心地の良い音がする。夜は一層深まり、下世話な噂話も、悪意に満ちた耳打ち声も聞こえてこない。


 指先に伝わる鉄の震えが、嫌なほどに昔の記憶を揺さぶる。この短剣の鞘に刻まれた、隣国の古い紋様。かつて隣国のとある家門がこの国の盟友に送った――守護の誓いの片割れ。二振りで一対、一方が折れればもう一方がその盾となれと、かつての英雄たちが結んだ約束の証だ。


「役割に縛られていたのは、俺か」


 自嘲は火花と共に夜の闇へ消えた。かつて嫡男として、国を背負う盾としての役割を捨てた時、俺は自由になったつもりでいた。だが、こうして無心に石を滑らせている今の俺は、結局のところ、かつての家が守り抜いてきた技術に縋りついている。


 重かった石の抵抗が、研磨が進むにつれて次第に軽やかなシャリ、シャリという規則正しい呼吸に変わっていく。

 

「殺してくれ、か」

 

 何度目か分からないため息と共に、独り言が冷えた空気に溶ける。彼女がこの刃に触れた時、それが己を終わらせる牙に見えるのか、それとも過去を断ち切る意志に見えるのか。


 砥泥にまみれた刀身を水で流すと、現れたのは日の昇りきらない朝の光を先取りしたような、吸い込まれる紺碧の輝きが息を吹き返した。不変の硬度を宿す、不吉なほどに美しい光。


「……試すような真似を。は、我ながらお節介野郎だな」


 俺は油の馴染んだ刀身を鞘に収めた。カチリ、という重い金属音が、この掃き溜めのような店内に不釣り合いなほど高潔に響いた。


 ごちり、と重さのある短剣を机に置き、さて寝ようかと杯に残った酒を煽ったその瞬間、扉の隙間から、まだ青白い朝の湿気が滑り込んできた。


 約束の「明日」を待てなかったのか、それとも一睡もできなかったのは俺だけじゃなかったのか。昨夜と同じ、使い古された外套。フードの奥から覗く瞳は、相変わらず研ぎ澄まされた鋼と同じ、冷たく、静かな熱を帯びた決意の色をしている。

 

「……早いな。夜明けにはまだ間があるぞ」

「ええ。すぐにでも、殺して頂こうかと」


「お嬢さん、いや……レヴォーヌ卿フィーリ・フォン・バ(元王太子妃)ハドルチェ嬢」


 名前を呼ばれた瞬間、彼女の肩が微かに、しかし確かに震えた。泥にまみれ、悪女の烙印を押され、世界から放り出された彼女が、この掃き溜めのような場所でかつての尊厳を象徴する名で呼ばれるとは思っていなかったのだろう。


 一瞬のたじろぎの後、彼女は深くまで被っていたフードを取り、その美しい姿を見せた。たっぷりとした黒髪と、サファイアのような双眸。ただただ、美しかった。


「……私には、もうその名を名乗ることは許されていません。どうか、ただのフィーリ、と」

「そうか。なら、フィーリ嬢。少し、昔話をしないか?」


 夜が更けるまで、まだ時間はある。昔話などをする性質(タチ)ではないが、久しぶりにしたくなった。フィーリ嬢が、過去の自分と重なったせいだろうか。


「そこの椅子を使ってくれ。俺は茶でも持ってくる」

「……ありがとう、ございます」


 俺は顎先で、埃の積もった隅の方を指し示した。かつてこの国の栄華を一身に背負うはずだった彼女は、戸惑うように長い睫毛を揺らしたが、やがて音もなく、言われた通りに腰を下ろした。その所作の一つ一つに、染みついた教育と、それを裏切らざるを得なかった絶望が同居している。


「ほとんど出涸らしだが、大目に見てくれ」

「構いません、それより昔話、と言うのは――」


 埃に耐えられず、俺はくしゃみをひとつして何度淹れたか分からない茶に口をつける。これから始めるのは、俺の――俺たちの昔話だ。

 

「ヴェルディエル王国とその隣国、アルザール。遥か昔、この境界線は地図の上には存在しなかった。ただ、血と、泥と、数えきれない骸が積み重なった境界があるだけだった。知っているな?」

 

 俺の声は、安酒で焼けた喉の奥から這い出すように、低く響いた。彼女は小さく頷く。公爵家の令嬢として、歴史の授業で幾度となく聞かされた話だろう。だが、教科書の金の装飾が施されたページには、決して書かれない続きがある。

 

「ヴェルディエルには、バハドルチェが。アルザールには、アマルガルドが――それぞれの盾として存在していた」

「ええ……けれど、アマルガルドは19年前の火災で――もしかして、貴方は」


 俯いていた彼女が、大きな目を見開いた。俺が言わんとすることに、気付いたようだった。


「……死んだはず、だろうな。記録の上でも、人々の記憶の中でも。火はすべてを焼き尽くし、跡形もなく消えた。それが公式な()()だ」

 

 冷めた茶を喉に流し込む。渋みが舌に残る。俺は、机の上に置いた短剣に視線を落とした。夜明け前の薄明かりが、研ぎ澄まされた紺碧の刃をなぞり、そこに俺たちの歪な宿命を映し出している。


「ヴェルディエルとアルザール。二つの国を繋ぎ止める楔として、俺たちの先祖は二振りの短剣を打った。片方が折れれば、もう一方がその盾となれ――。美しい物語だと思わないか? 少なくとも、利権と色恋に狂った今の王宮(あそこ)の連中よりは、ずっとマシな誇りを持っていた」


 けれど、その誓いはきっと、バハドルチェでは忘れ去られていたのだろう。俺は椅子を軋ませながら、懐を弄った。そこから取り出したのは、彼女が持つものと寸分違わぬ意匠の、しかし手入れの行き届いたもう一振りの()だ。


「19年前、俺の家が焼かれたのは事故なんかじゃない。平和という名の均衡が邪魔になった連中が、楔を一本抜いただけの話だ」


 懐から取り出した短剣を、彼女に見えるように机に置いた。傷だらけの机に、二振りの「対」が並ぶ。埃っぽい店内に、場違いなほどの高潔な殺気が満ちていた。


「俺はアマルガルドを捨てて、ベリルという泥にまみれた名を選んだ。お前と同じだ、フィーリ嬢。いや――今の俺は、お前以上に()()()()だ」


 俺は、彼女が先ほど口にした『ただのフィーリ』という言葉を反芻するように言った。彼女の紺碧の瞳が、驚愕と、そして自分と同じ同類を見つけたような熱を帯びて揺れている。


「だがな、フィーリ嬢。役割を捨てたつもりでいても、研ぎ石に鋼を当てれば指先が覚えている。この刃が何を守るために打たれたのかを。お前がその鈍らを持ってここに来たとき、俺の懐のこれが、忌々しいほどに鳴いたんだよ」


 俺は、夜通し磨き上げた彼女の短剣を、ゆっくりと彼女の方へ押し出した。


「殺してくれ、と言ったな、フィーリ嬢。……俺には無理だ。アマルガルドの生き残りが、バハドルチェの娘を殺す? 笑わせるな。そんなことをしたら、俺は死んだ親父に――死んだアマルガルドの連中に一生呪われる」


 窓の外、白み始めた空から、白刃のような鋭い陽光が差し込んできた。それが机の上の二振りを照らし、サファイアのような紺碧の火花を散らす。彼女が何かを言おうと口を開いたが、俺はそれを阻止するように言葉を被せた。


「お前と言う存在の主人は、お前であるべきだ。死にたいのならば、その刃を使え――もっとも、お前が終わらせたいのが、お前自身の人生であるならば、だが」


 俺の問いかけに、彼女が震える手で短剣の柄を握りしめた、その時だった。

 

 ――ガツン、と。


 店の古い扉が、暴力的な衝撃で悲鳴を上げた。

 

「おい、便利屋! 開けろ! 王国騎士団の者だ。そこに『悪女』を匿っているというタレコミがあったぞ!」


 湿った木と埃の匂いに混じって、鉄と革、そして「正義」を気取った連中特有の鼻につく臭いが流れ込んでくる。扉一枚隔てただけで、世界が二つに割れたかのようだった。

 

 フィーリ嬢の肩が、びくりと跳ねる。だが――逃げようとはしなかった。ただ、彼女のために研いだ短剣の柄を固く、握っていた。


「ベリル様。どうか、あの人たちは……私にお任せいただけないでしょうか?」


 思わず笑いそうになった。笑えない。あまりにも、彼女の言葉が痛いほど真っ直ぐで。フィーリ嬢は短剣の柄を握ったまま、こちらを見ていた。怯えていないわけじゃない。喉の奥が鳴るほど、きっと怖いだろう。それでも逃げない。逃げずに、こちらへ「許可」を求めている。

 

 ――自分の命の舵を、自分で取るために。

 

 扉が、もう一度、乱暴に叩かれた。

 

「開けろと言っている! 聞こえないのか、便利屋ァ!」


「……いいな、乗ったその話」


 俺は椅子を深く軋ませ、もう一度頼りない背もたれに体重を預けた。『殺してくれ』と縋り付いてきた、か弱い令嬢の姿はもうどこにもない。今、俺の目の前に立っているのは、泥にまみれ、絶望の底を這いずりながらも、自分の足で地を踏みしめようとする一人の女だ。


「お前の選択を、見せてくれ。()()()()


 フィーリ嬢は一度だけ、大きく頷いた。彼女に、これ以上の言葉は不要だ。俺はただ、この芝居の幕引きを特等席で見守るだけ――だが、万一に備えて机上の「もう一振りの盾」の柄にそっと指をかけた。手出しはしないが、もしもの時は俺がその盾になる。それが、アマルガルドの生き残りとしての、最後の、そして唯一の意地だ。

 

 直後、悲鳴を上げ続けていた扉が、ついにその役目を終えた。凄まじい破壊音と共に、扉が内側へと弾け飛んだ。流れ込んできたのは、朝の冷気と、それ以上に冷え切った「正義」を盾にする男たちの怒声だ。

 

「いたぞ! 『悪女』フィーリ・フォン・バハドルチェだ!」

「無駄な抵抗はやめろ! 王太子殿下ならびに()()()()殿下への不敬罪、および――」

 

 先頭の騎士が、勝ち誇ったように宣告を口にしようとして、言葉を失った。彼らが想像していたのは、掃き溜めで震える惨めな敗残者の姿だったはずだ。だが、そこにいたのは、埃の舞う店内で朝日を受け、静かに、しかし研ぎ澄まされた威厳を持って立ち塞がる()()()()()だった。


「……まだ、日も昇って間もありません。どうか、お静かに」


 フィーリ嬢の声は、驚くほど静かに響いた。彼女は、俺が研ぎ上げた短剣をゆっくりと抜き放つ。サファイアのような紺碧の刀身が、差し込んだ朝日の光を真っ向から受け止め、店内の壁に鋭い光の線を走らせた。


「貴様、その刃を我ら騎士に向けるか?!」


 先頭の騎士が剣を引き抜き、切っ先を彼女に突きつけた。だが、フィーリ嬢は微動だにしない。それどころか、彼女は短剣を騎士に向けることすらなかった。


 彼女は、その研ぎ澄まされた紺碧の刃を、自分自身の喉元へと引き寄せた。俺も思わず固唾を飲む。


「気でも狂ったか、悪女よ!我らはその首さえあれば良いのだ!!」


 先頭に立つ騎士が、勝ち誇ったように叫んだ。その下卑た眼差しは、獲物を追い詰めた獣のそれだった。彼らにとって、目の前の女性はひとりの人間ではなく、出世と報奨金のための「首」に過ぎないのだ。


 ――彼女が狙ったのは、自分の喉笛ではなかった。

 

「……私は、もう誰の言いなりにもならない」


 音も立てず、夜色の髪がハラハラと舞い落ちた。窓から差し込む強烈な陽光が、彼女の左手で掴み上げられた長く美しい黒髪を捉える。


 公爵令嬢としての誇り、王太子妃という名の鎖、そしてバハドルチェの家門が背負わせてきた「役割」。それらの象徴であった夜色の髪が、紺碧の刃によって一瞬で断ち切られた。朝日に照らされたその一筋一筋が、金色の塵と共にキラキラと輝き、まるで脱皮した抜け殻のように埃まみれの木板を覆っていく。


 俺も、騎士も、状況を理解できないまま、ただ呆然と彼女を見つめる。彼女が――フィーリが、英雄譚の挿絵のように見えた。息を呑むしか、なかった。


「貴方がたがフィーリ・フォン・バハドルチェを悪女というのならば……どうぞ、そう呼べば良い」

 

 彼女は高らかに、歌い上げるように宣言した。


「けれど……その名前も、肩書きも、もう私のものではありません」


 彼女は短剣を強く握りしめる。


「私はもう、誰かの妃でも、誰かの罪を背負う存在でもない」


「――私は、ただのフィーリです」


「だから私は、生きます。自由に生きると、決めたのです」


 彼女は、床に落ちた自分の髪を平然と踏みつけ、清々しい笑顔を浮かべながら、騎士たちに向かって短剣を正門に構えた。その構えは、便利屋の俺が教えるまでもなく、かつての「盾の家門」に連なる者が持つべき、揺るぎない守護の型だった。


「――はは、最高の芝居だな」


 俺の独り言は、騎士たちの罵声にかき消された。

 だが、俺の瞳に映る彼女は、もはや罵声ごときに揺らぐような「令嬢」ではない。床に散らばった黒髪は、彼女を縛り付けていた過去の亡骸だ。朝日の光を浴びて短く不揃いになったその髪が、今の彼女にはどんな宝飾品よりも似合っていた。

 

「狂ったか、悪女! 名も家も捨てて生きるだと? そんな道理、このヴェルディエルでは通用せん!」


 先頭の騎士が嘲笑混じりに叫ぶ。だが、その声は微かに震えていた。目の前の女から、先ほどまでの絶望の香りが消え失せていたからだ。代わりに立ち昇ってきたのは、戦場に漂う鉄と火薬の匂い――あるいは、研ぎ澄まされた刃だけが放つ冷徹な殺気。

 

 不揃いに切り払われた髪の隙間から覗く紺碧の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く彼を射抜く。

 

「美しさなど、あなた方に差し上げましょう。私は今日、これを選んだのです」


 彼女の声は、朝の冷気を切り裂くほどに澄んでいた。

 

「それに……道理を決めるのは、もはや殿下でも、ましてやあなた方でもありません。私の人生の道理は、私自身が決めます」

 

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、先頭の騎士が苛立ちを露わに踏み込んできた。

 

「抜かせ! その首、力ずくでも持ち帰ってやる!」

 

 振り下ろされる鉄の剣。だが、フィーリは避けない。彼女はただ、俺が研ぎ上げた紺碧の短剣を、祈るように、そして誓うように両手で掲げた。

 

「……っ!」

 

 鋭い金属音が店内に響き渡る。

 

 非力なはずの彼女の腕。だが、その短剣が騎士の剣筋を捉えた瞬間、まるで目に見えない巨大な盾がそこに出現したかのように、鉄の剣は弾き飛ばされた。

 

「な、んだと……!?」


 俺は鼻で笑う。

 

「忘れたのか? ()()()がどこか?」


 騎士が吠え、踏み込む。長剣が振り下ろされる。派手な音のあと、火花が散った。


 フィーリは、短剣の腹で長剣の力を逃がし、最小限の動きでその攻撃を逸らした。俺が重心を調整したあの短剣は、彼女の細い腕でも、相手の重さを横へ流せるように打ってある。

 

「な……っ!?」

 

 彼は気づいたはずだ。目の前の女は、守られるべき令嬢でも、虐げられるべき罪人でもない。己の意志で地獄から這い上がり、自分の人生を守るために武器を取った、誇り高き一人の「個」であることを。


「どうぞ……お引き取りを」

 

 彼女の静かな通告は、どんな怒声よりも重く響いた。騎士たちは、もはや剣を握り直すことすらできなかった。彼らが信じていた「正義」や「序列」が、彼女の圧倒的な覚悟の前に、音を立てて崩れ去ったからだ。


「撤退だ!()()()()()に報告しろ!」


 崩れ落ちるように店を飛び出していく連中の背中に、もはや「騎士」の威厳などひとかけらも残っていなかった。

 

「……はは、ひでえ格好だな。でも、格好良かったぜ」

 

 俺はようやく椅子を鳴らして立ち上がった。彼女の膝はガクガクと震えていた。短剣を握る指先も、真っ白になるほど力が入っている。そりゃそうだ。ただの令嬢が、本物の騎士を相手に一人で立ち向かったんだ。

 

「ベリル……様……」

「客に様付けされるような商売じゃねえよ。……見事だったぜ、フィーリ嬢」

 

 俺は、彼女の手からこぼれ落ちそうになった短剣を取り上げ、鞘に収めてやった。朝日の下で見る彼女の短い髪は、不揃いで、滑稽で――そして、どんな宝石を飾った王冠よりも、自由で美しかった。

 

 ――ああ。どうやら、退屈な便利屋の日常は、ここで終わったらしい。


「ま、その髪は切り揃えた方が良いな。幸か不幸か、時間はまだまだあるんだ」


 フィーリの不揃いな黒髪が、朝日を含んで金糸のように煌めいている。氷の容貌の王太子妃なんかより、今、弾けんばかりの笑顔を見せている彼女の方がよっぽど綺麗だ、と柄にもなく思った。


「もう殺してくれ、なんて言わないでくれよ」


 俺はただ手を差し出した。たったそれだけのはずなのに、指先が妙に熱い――笑えてくるほどに。彼女の視線が、俺の掌と、俺の顔のあいだを一度だけ往復する。

 決めるのはフィーリだ。それなのに俺は今、どうか――どうか、指先だけでも、と。


 信じてもいない神に祈っている。

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