1話 赤紙
昼下がりの庭は、ひどくのどかだった。
太陽はまぶしく、やわらかな風が畑を渡り、真っ赤に熟れたトマトの葉を揺らしていた。
勇者候補と呼ばれているとはいえ、こうはただの若者だった。剣を振るい、街の巡回に加わり、人々を助けることを日課にしてはいるが、その実、彼が最も幸せを感じるのは戦いの場ではなかった。
――太陽の下で日向ぼっこをし、熟れたトマトを齧ること。
手の中で潰れそうなほど甘い実に、こうはかぶりついた。
口の中に広がる酸味と甘味。滴る汁を親指でぬぐいながら、小さく笑う。
「……生きててよかった、って感じだな」
誰に向けたわけでもない、独り言。
そうして目を細めて、うとうととまどろみ始めた瞬間だった。
――ドン、ドン。
重い音が玄関を叩いた。心臓を直に揺さぶるような、不吉な響き。
次の瞬間、母の叫び声が家の中から響いた。
「こう! ……こう、赤紙だよ……!」
血の気が引いた。
庭先まで駆け寄る母の手には、一枚の紙が握られていた。
それは赤。血のように鮮烈で、眼を焼く色。
角には王国の印章が押され、封が切られていた。
――赤紙。
その瞬間、すべてを理解した。
赤紙は、ドラゴン退治に選ばれた者にだけ届く。
戻ってきた者はほとんどいない。王都は「名誉」「栄光」と言葉を並べるが、実際には「死の宣告」だった。
母は震えながら息子を見上げた。
「行かなくても……いいんだよね? ねえ、そうだって言って……!」
こうは言葉を失った。
母の手から紙を受け取り、その赤を見つめる。
不思議と恐怖よりも、重みを感じた。国の命令。自分が背負うべきもの。
沈黙を破ったのは、庭に駆け込んできた少女の声だった。
「こう!」
リリアだった。幼なじみであり、支援魔法を得意とする魔法使い。
彼女は紙を見るなり、目を大きく見開いた。
「どうして……どうして、あんたなの……?」
声が震えているのは、恐怖だけではなかった。
彼女の瞳には嫉妬が、そして憎悪に近いものがちらついていた。
恐怖――大切な幼なじみを失うかもしれない現実。
嫉妬――もしこうが死んだら、誰のものにもならないという歪んだ独占欲。
リリアは胸を押さえ、笑みとも嗤いともつかない表情を浮かべた。
「赤紙なんて……ただの紙切れだよ。燃やしてしまえばいい。そしたら、行かなくてもすむ。そうすれば――」
「リリア」
こうは遮るように低く呼んだ。
「俺が行くしかないんだ」
真っ直ぐな声だった。恐怖を押し殺した、勇者としての覚悟。
けれどその正義感は、彼女の心をひどく苛立たせる。
「……そうやって、あんたはいつも正しいことばかり言う」
リリアの唇はかすかに歪んだ。
「正しさで人を置いていって、私に何を残すつもり? 私がどれだけ……」
言葉は途中で途切れ、嗚咽に変わった。
地面に落ちたトマトが潰れ、赤い汁がにじみ広がる。
それは果実の色か、それとも未来を暗示する血の色か。
母は泣き崩れ、リリアは背を向ける。
庭の光景はいつも通りに明るいのに、すべてがひどく歪んで見えた。
「俺は……行く」
こうは赤紙を握りしめ、力強く宣言した。
だがその言葉を聞いたリリアの心に芽生えたのは、絶望と――密やかな願望だった。
(だったら……帰ってこなければいい。そうすれば、誰のものにもならない。ずっと、私だけの中で生き続ける)
少女の胸に渦巻くその黒い感情を、こうはまだ知らない。
――太陽の下の幸福は、もう戻らないのだ。