表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

1話 赤紙

 昼下がりの庭は、ひどくのどかだった。

 太陽はまぶしく、やわらかな風が畑を渡り、真っ赤に熟れたトマトの葉を揺らしていた。


 勇者候補と呼ばれているとはいえ、こうはただの若者だった。剣を振るい、街の巡回に加わり、人々を助けることを日課にしてはいるが、その実、彼が最も幸せを感じるのは戦いの場ではなかった。


 ――太陽の下で日向ぼっこをし、熟れたトマトを齧ること。


 手の中で潰れそうなほど甘い実に、こうはかぶりついた。

 口の中に広がる酸味と甘味。滴る汁を親指でぬぐいながら、小さく笑う。

「……生きててよかった、って感じだな」


 誰に向けたわけでもない、独り言。

 そうして目を細めて、うとうととまどろみ始めた瞬間だった。


 ――ドン、ドン。


 重い音が玄関を叩いた。心臓を直に揺さぶるような、不吉な響き。


 次の瞬間、母の叫び声が家の中から響いた。

「こう! ……こう、赤紙だよ……!」


 血の気が引いた。

 庭先まで駆け寄る母の手には、一枚の紙が握られていた。


 それは赤。血のように鮮烈で、眼を焼く色。

 角には王国の印章が押され、封が切られていた。


 ――赤紙。


 その瞬間、すべてを理解した。


 赤紙は、ドラゴン退治に選ばれた者にだけ届く。

 戻ってきた者はほとんどいない。王都は「名誉」「栄光」と言葉を並べるが、実際には「死の宣告」だった。


 母は震えながら息子を見上げた。

「行かなくても……いいんだよね? ねえ、そうだって言って……!」


 こうは言葉を失った。

 母の手から紙を受け取り、その赤を見つめる。

 不思議と恐怖よりも、重みを感じた。国の命令。自分が背負うべきもの。


 沈黙を破ったのは、庭に駆け込んできた少女の声だった。

「こう!」


 リリアだった。幼なじみであり、支援魔法を得意とする魔法使い。

 彼女は紙を見るなり、目を大きく見開いた。

「どうして……どうして、あんたなの……?」


 声が震えているのは、恐怖だけではなかった。

 彼女の瞳には嫉妬が、そして憎悪に近いものがちらついていた。


 恐怖――大切な幼なじみを失うかもしれない現実。

 嫉妬――もしこうが死んだら、誰のものにもならないという歪んだ独占欲。


 リリアは胸を押さえ、笑みとも嗤いともつかない表情を浮かべた。

「赤紙なんて……ただの紙切れだよ。燃やしてしまえばいい。そしたら、行かなくてもすむ。そうすれば――」


「リリア」

 こうは遮るように低く呼んだ。

「俺が行くしかないんだ」


 真っ直ぐな声だった。恐怖を押し殺した、勇者としての覚悟。

 けれどその正義感は、彼女の心をひどく苛立たせる。


「……そうやって、あんたはいつも正しいことばかり言う」

 リリアの唇はかすかに歪んだ。

「正しさで人を置いていって、私に何を残すつもり? 私がどれだけ……」


 言葉は途中で途切れ、嗚咽に変わった。

 地面に落ちたトマトが潰れ、赤い汁がにじみ広がる。

 それは果実の色か、それとも未来を暗示する血の色か。


 母は泣き崩れ、リリアは背を向ける。

 庭の光景はいつも通りに明るいのに、すべてがひどく歪んで見えた。


「俺は……行く」

 こうは赤紙を握りしめ、力強く宣言した。


 だがその言葉を聞いたリリアの心に芽生えたのは、絶望と――密やかな願望だった。

(だったら……帰ってこなければいい。そうすれば、誰のものにもならない。ずっと、私だけの中で生き続ける)


 少女の胸に渦巻くその黒い感情を、こうはまだ知らない。


 ――太陽の下の幸福は、もう戻らないのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ