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レム

作者: 阿波野治

 凪は頭が真っ白になった。

 T市民病院の敷地から出てきた少女が、彼のすぐ目の前で、いきなり血を吐いて倒れたからだ。

 自分が吐いた血が作る池の真ん中で、少女はうつ伏せに横たわっている。白地に青い花が散ったパジャマを着ていて、衣服越しにもわかるくらいに体が細い。横を向いた顔に、肩甲骨ほどの長さの黒髪が垂れていて、表情は隠れている。肌は青白く、唇は紫色に近い。

 ――助けないと!

 凪は駆け出した。血だまりを迂回して少女のもとまで行き、その場にしゃがむ。

「大丈夫ですか」と声をかけようとしたとき、突然強い風が吹き、顔にかかっていた黒髪を払いのけた。

 凪は息を呑んだ。

 死んでいる人間の顔に見えたからだ。

 この女の子、まさか、もう死んでる?

 血を吐いて、死んでしまった?

 体に触れば、生きているかどうかをたしかめられる――かもしれない。凪はおそるおそる、少女の顔へと右手を伸ばす。

 しかし、もう死んでいるのかもしれないと思うと、怖くなった。手が震え、指が少女の左手の甲をかすった。熱いような寒いような感覚が背筋を駆け上った。弾かれたように手を引っこめ、自らの左胸に強く押し当てる。心臓が早鐘を打っている。

 冷たい手だった。

 しかし、死んだ人間の冷たさではなかった。

 息を呑む凪の視線の先で、少女の左手の指先がかすかに動いた。

 気のせいかと思い、目を凝らした。さっきよりもはっきりと指が動き、静止した。

 少女は生きている。

 こんなにもたくさんの血を吐いても、まだ死んでいない。

「――誰か!」

 凪は立ち上がり、声の限り叫んだ。

「倒れている人がいます! たくさん血を吐いています! 誰か助けてあげてください! 誰か!」

 靴音が聞こえた。振り向いた凪は、夕陽のように真っ赤な髪の毛の、白い服を着た女性が走り寄ってくるのを見た。病院から看護師が駆けつけてくれたのだ。

 赤髪の看護師はなにかを確認するように少女の体に触れて、携帯電話で電話をかけた。しばらくすると、別の看護師二人が現場に駆けつけ、少女は病院の中に運びこまれた。あっという間の出来事だった。

「ありがとうございました」

 赤髪の女性看護師は、凪に向かってうやうやしく頭を下げた。逆光がじゃまをして表情はわからない。太陽の光を浴びた髪の毛は赤みを増し、さながら炎だ。

「迅速に対応くださり、感謝しています。お伝えすることが出てくるかもしれないので、連絡先を教えていただきたいのですが、よろしいですか?」

 女性看護師から渡されたメモ帳に、同じく渡されたペンで、自分の携帯電話の番号を書く。返却すると、彼女はもう一度頭を下げ、病院の中へと消えた。

 少女が吐いた血は現場に残されたままだ。あまり長居はしたくない。凪は歩き出した。


 血の赤さ。

 顔の青白さと、唇の血色の悪さ。

 髪の毛の黒さと、艶やかさ。

 印象的な映像はいくつもあるが、もっとも強く脳裏に焼きついているのは、少女の指先が動いたことだ。

 激しい動きではなかったし、長時間動いたわけでもない。それなのに、鮮明に覚えている。忘れようとしても忘れられそうにない。

『生きたい!』

 あの指の動きは、たしかにそう訴えていた。


 まだ午後五時前だというのに、根鈴家の中は暗い。

 両親はまだ帰ってきていない。玄関、廊下、階段と、凪は自分の手で明かりを点けながら移動し、自室に入る。

 制服から私服に着替える。ベランダに干してある洗濯物を取りこみ、洗濯機を回す。買い置きのカップラーメンをすする。風呂掃除を済ませる。洗い終わった洗濯物を干す。干し終わったころには、外はすっかり真っ暗だ。

 凪の両親は仲が悪い。社会科の授業で東西冷戦について習ったが、彼の両親はまさにそれと同じ状態だ。ただ、史実とは違うところが一つあって、二人はときどき、天地もひっくり返るような大げんかをくり広げる。

 両親がこうなってしまったのは、浮気が原因だ。どちらが被害者でどちらが加害者、ではなくて、二人ともが加害者であり被害者。だからこそ、二人の争いはみにくくて、激しくて、終わりが見えない。

 憎み合い、争うことに忙しい両親は、一人息子の凪に構おうとしないし、家事をおろそかにする。だから凪は、自分にとって必要なことはすべて自分でする。そのおかげで、同年代の男女と比べると、一人でできることは少し多いかもしれない。彼はその事実を、誇らしく思うのではなく、さびしいと感じている。

 部屋に戻り、宿題を片づけてしまうと、やることは特にない。凪は無趣味だから、毎日時間をつぶすのにとても苦労する。考えても仕方がないことをだらだらと考えてしまい、気が滅入ることだって珍しくない。

 しかし、今日はいつもとは違う。ベッドに仰向けになって、薄汚れたクリーム色の天井をぼんやりと見つめながら、下校途中に遭遇した出来事を思い返している。

 中でも、少女の指が動いた映像は、何度も何度も脳内に甦らせた。

 あんなにも大量の血を吐いたのに、あんなにも顔は青ざめていたのに、あんなにも体は冷たかったのに――それでも少女の指は動いた。

 少なくとも、あの時点であの子は生きていた。

 では、今は?

 おもむろに、枕元の携帯電話を手にとる。

 凪は赤髪の女性看護師に電話番号を教えたが、彼女は凪に連絡先を教えてくれなかった。病院に電話をかけるという手があるが、個人情報保護という高く分厚い壁が立ちはだかっているから、望んでいる情報が得られる保証はない。

 凪に今できるのは、少女の無事を祈ることだけだ。

 ため息をつき、携帯電話をもとの場所に置く。することがなくて退屈だが、気持ちは前を向いている。

 凪は明日の放課後、T市民病院に行くつもりだ。


 凪にとって中学校生活は、退屈で、気だるくて、つまらないものだ。

 勉強はそれなりにできるが、好きではない。友だちは一人もいない。いたことがない。いじめられた経験はないが、大人しい性格につけこんで、不愉快な軽口を言ってくるクラスメイトは毎年のようにいる。今年だってそうだ。

 これという楽しみはないが、義務教育だから行かなくてはならない。だからこそ、退屈で、気だるくて、つまらない。

 今日はそこに、少女の命を心配する気持ちが加わったせいで、気分が憂うつだ。昼休み時間に入るまでがすさまじく長かった。

 凪が通う中学校には給食がない。天気がいい今日は外で食べる生徒が多く、教室の中はがらんとしている。

 凪がコンビニのレジ袋を机の上に出したとき、制服の胸ポケットで携帯電話が震えた。見覚えのない番号からの電話だ。怪訝に思いながらも出ると、

「お久しぶりです。昨日お世話になった、岩永です」

 聞き覚えのある女性の声に、燃えるような赤い髪の毛が脳裏に甦った。

「私が何者か、わかります?」

「昨日の夕方、僕が病院の前で助けを呼んだときに真っ先に駆けつけてくれた、女性看護師のかたですよね」

「そうです。今は話をしても大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

 教室にいる十人ほどの生徒は、みな仲間と話をするのに夢中だ。教室の隅の席で小声で通話している凪には、誰も見向きもしていない。

「用件だけ手短に話すね。木花さん――昨日、あなたが助けた女の子の名前だけど、彼女があなたに会いたいって言っているの」

「ということは、命は助かったんですね」

「ええ。びっくりしたでしょう? あそこまでの量の血を吐く子は、普通に生活していたら出会わないものね」

「僕が病院まで行く、ということですよね」

「ええ、そうなります。木花さんは、昨日あんなことになってしまったので、当分のあいだ外出禁止になったから」

「うかがってもよろしいんですか? そんな状態なのに……」

「短時間話をするだけなら問題はありませんよ。来ていただけるということで、いいのかな?」

「はい。学校が終わったあと、午後四時以降なら。……あ、名乗るのが遅れました。僕は根鈴凪といいます」

「根鈴くんね。私の名前は岩永月夜。ぜひ、木花さんに会ってあげてね」

 岩永は木花の病室が605号室だと伝え、通話を切った。


 凪にとって病院は縁遠い施設だ。彼は今まで大病を患ったことはなく、誰かの見舞いに訪れた経験もない。唯一世話になったのは自分が生まれたときだが、当たり前だが当時の記憶はないから、縁遠いことに変わりはない。

 病院前の道路の血は跡形もなく消えていた。岩永看護師がブラシでせっせとこすり落とす姿を想像しようとしたが、上手くいかなかった。

 病院の自動ドアを潜る。中は明るく、清潔感がある。受付の女性職員に目的を申告すると、あっさりと許可が下りた。

 エレベーターを使って六階に上がる。目的の階に着くまでのあいだ、乗っていたのは凪一人だった。

 部屋番号は601、602、603――というふうに続いている。数字が増えるにつれて緊張感が高まっていく。

 凪は人と話すのが得意ではない。年齢が近い女の子が相手ならなおさらだ。

 木花さんはたぶん、命の恩人である僕に感謝しているはずだから、僕が嫌な思いをするようなことは言ってこないだろう。問題は、会話が続くかどうかだ。岩永看護師は「木花さんは長時間話せない」と言っていたから、少しだけ会話するだけなのかもしれないけど――不安は不安だ。

 とうとう605号室に到着した。

 他の病室と同じく、入口のドアは開け放たれている。凪は壁に体を隠し、首を突き出して中をのぞきこむ。

 広々とした病室だ。置こうと思えば六台くらいベッドを置けそうだが、実際に置かれているのはたった一台。

 そのベッドの上に、少女がいた。上体を起こし、下半身を純白のブランケットで覆っている。着ているのはパジャマで、白地にピンクの花柄。横顔に見覚えがある。

「木花さん」

 呼びかけると、ゆっくりと首を回した。一目見た瞬間に凪だとわかったらしく、顔を綻ばせて手招きをした。ベッドへと歩み寄る。

 木花は瞳がつぶらで、あどけない顔立ちをしている。特徴的なのは腰ほどの長さがある黒髪で、純白のシーツとのコントラストが美しい。ほほ笑む一歩手前の柔らかな表情を顔に浮かべて、凪がしゃべるのを待ち受けている。

「昨日はあんなことになって、びっくりした。君が僕に会いたいと言っているって、岩永さんから告げられたときは、それに負けないくらいびっくりした。今日は体調は大丈夫なの?」

「平気だよ。岩永さんからのお墨つきももらっているしね」

 木花の声はどこか幼く感じられる。ボリュームは大きくないが、はきはきと発音するので苦もなく聞きとれる。

「とりあえず、座って。どうぞ」

 ベッド脇に置いてある丸椅子をすすめられたので、腰を下ろす。木花は座ったまま体を動かし、凪に向き直った。彼女の体からは石鹸の香りがかすかに漂っている。

「外、暑かった? 歩いてきたんだよね」

「うん、徒歩で。まだ五月だし、暑いというほどではなかったかな」

「そっか。わたしが出歩いても平気な感じ?」

「……えっと」

 木花は昨日、血を吐いて倒れた。病名はわからないが、きっと重い病気なのだろう。悪意のない言葉が彼女を傷つけてしまいそうで、怖い。どう答えようか迷っていると、

「ちょっと、フリーズしないで。そんなに真剣に考えなくてもいいのに」

 木花が朗らかな声で言った。ほほ笑む一歩手前だった表情は、今やはっきりとしたほほ笑みに変わっていて、幼い印象はぐっと増した。見ているほうまでついつい表情を緩めてしまうような、愛らしくて魅力的な笑顔だ。

「突然のお願いだったのにちゃんと来てくれたし、君って真面目な人なんだね」

「真面目かどうかはわからないけど……。昨日あんなことがあったから、やっぱり心配で」

「迷惑、だったよね。あんな事態に巻きこまれたら、放っておくわけにはいかないから」

「そんなことないよ。困っている人を見かけたら助けるのは、当たり前だから」

「そうかもしれないけど、それをさらっと言えるって、すごいね」

「そうかな? 助けたと言っても、叫んで人を呼んだだけだから」

「充分すごいよ。うれしかったし、心から感謝してる。遅くなっちゃったけど、お礼を言わせて。昨日は助けてくれて、ほんとうにありがとうございました」

 木花は深々とお辞儀をした。黒髪が滝のように垂れ落ち、顔が隠れた。礼儀正しい振る舞いに釣られて、凪も頭を下げる。

 木花は首の角度を元に戻し、髪の毛を両手で左右に分けて顔を出した。凪からの視線に気がつき、ほほ笑みを再点灯させる。

「今、こうしてお礼を言ったり、笑顔になったりできるのも、すべて君のおかげ。岩永さんの話によると、君が助けてくれていなかったら危なかったそうだから、正真正銘命の恩人だね」

「血、すごかったもんね」

「掃除に時間がかかったって、岩永さんが愚痴ってたよ。看護師さんって普通、病人にかける言葉には気をつけるものだけど、岩永さんは厳しいこともずばずば言う人だから」

「そうなんだ。電話で話をした限りでは、そんな印象はなかったけど」

「長く付き合っていたら、見えなかったものも見えてくるんだろうね。……あ、そうだ。岩永さんで思い出したけど」

「どうしたの?」

「岩永さんから君の名前は聞いてるよ。根鈴凪くん、だよね。凪くん、って呼んでもいいかな」

「もちろんだよ。そういえば、木花さんの下の名前は?」

「七海だよ。七つの海と書いて、七海。下の名前を呼び捨てにしてほしいんだけど、だめかな?」

「ううん、そんなことない。七海って呼ばせてもらうね」

 同年代の異性を下の名前で呼んだのは、これが初めてかもしれない。こみ上げてきた気恥ずかしさに、凪は頬を指でかく。

「ていうか、僕は呼び捨てなのに、七海はくんづけなんだ」

「うん。そうしたほうが個人的にはしっくりくるから。それとも、やっぱりお互いに呼び捨てにする?」

「ううん、それでいい。七海が呼びたいように呼んでくれれば」

「ありがとう。じゃあ、わたしは『凪くん』で、凪くんは『七海』。決定ね」

 会話が途絶えた。

 凪は次なる話題を見つけられない。それは七海も同じらしく、病室は沈黙で満たされた。ただし、気まずさはあまり感じない。

 七海は体の向きを九十度回し、凪に横顔を見せた。そして、壁を見つめたり、天井を見上げたり、大きな窓越しに見える青空を眺めたりする。これまでに凪と交わした会話を頭の中で振り返りながら、次なる話題をのんびりと探している。そんな様子に見える。

 凪も七海の真似をして、病室の中を見回した。そして、あるものが目に留まった。

「あれは……」

 七海が「どうしたの?」という顔を凪に向けた。彼はベッドのすぐそばに置かれた、木製のキャビネットを指差す。天板の上にデジタル式の置き時計が置かれていて、それを色とりどりの折り鶴が囲んでいる。二十羽ほどあるだろうか。

「折り鶴、たくさんあるね。誰かからプレゼントされたの?」

「ううん。全部自分で折ったものだよ」

 白い歯がこぼれる。家事を手伝ったのを親から褒められた幼い子どものようなリアクションだ。

「病気が一番ひどかったころは、指が震えて力が入らなくて、自力で食事をとるのも難しくて。それを克服するトレーニングのために、ひまつぶしも兼ねて、売店で折り紙を買ってきて折るようになったんだ。始めたころは意識しなかったけど、神頼みをしたい気持ちもあったんだろうね。当たり前だけど、死にたくないし」

 七海の口ぶりは淡々としている。凪は重苦しい気持ちになったが、彼女の表情は決して暗くない。だからといって、無理をして明るく振る舞っているわけでもなさそうだ。

 大量の血を吐いて倒れて、体は細くて、顔は青白くて……。

 凪はこれまで、七海は弱い人間なのだと思ってきた。

 しかし、実際は正反対なのかもしれない、と考えが変わった。

「折り鶴、手にとってもいい?」

 凪の言葉に、七海は快くうなずく。椅子から腰を浮かして手を伸ばし、水色の一羽をやわらかく掴みとる。

 掌にのせ、じっくりと観察する。素人目には、とてもきれいに折られているように見える。

「すごいね、完璧な折り鶴だ。手先、器用なんだね」

「器用っていうか、たくさん折っているうちに自然と上達したって感じかな。でも、褒めてくれてありがとう」

「七海は謙遜したけど、上手だと思うよ。折りかたをちょっと間違えて変なところに折り目がついているとか、全然ないし。僕は不器用だから、がんばってもこんなにきれいには折れないよ」

「凪くんも折ってみる? ていうか、いっしょに折ろうよ」

「今ここで?」

「うん。遊びとしてはそんなに面白くないかもしれないけど、難しくないし、時間はかからないしね。なにより、わたしは凪くんと――あっ、いけない」

「どうしたの?」

「折り紙、今日は切らしているんだった。用意しておくから、今度来たときはいっしょに折ってよ、折り鶴」

「僕は手先が器用じゃないから、七海が折るのを見学したほうが面白いかも」

「だとしても、わたしは凪くんといっしょに折りたいよ。上手とか下手とか、そんなことはどうだっていいから、二人で同じことをしたいな」

「……七海」

「わたし、同い年くらいの子と共同作業したこと、入院してからはあまりないんだよね。この病院の入院患者、お年寄りばかりだから」

 七海の表情は少しくもったらしい。

「それに、病気がいきなり悪化して、明日には折り紙を折れなくなるかもしれない。前はなんとかなったけど、今度はどうなるかわからないから」

 掛け布団の下から右手を出し、握ったり開いたりする。速度はゆっくりとしているが、動き自体はスムーズに見える。動かせなくなった過去を持つ指だとはとても思えない。

 しかし、嘘をついているわけではなさそうだ。

 今は健康そうに見えても、いつだめになってしまうかわからない。だめになってしまったら、元に戻る保証はない。厳然たる事実として、彼女はそんな肉体の持ち主なのだ。

「折りかたがわからないなら、わたしがレクチャーしてあげる。鶴は簡単だから、すぐに上手に折れるようになるよ。折ったこと、一回くらいはあるよね?」

「もちろん。保育園とか幼稚園のころに折ったはずだけど、でも、もう十年くらい前の話だからね。きれいに折るコツ、教えてもらいながら折りたいかな」

「それって、オッケーってこと? また病室まで来てくれるってことでいいんだよね?」

「そのつもりだよ」

「やった!」

 七海は表情を大きく綻ばせた。凪は照れくさくなった。同年代の異性とまた会う約束をするなんて、十五年間生きてきて初めての経験だ。

「日時はどうする? 僕は午後四時以降ならいつでも大丈夫だけど、七海はいつだと都合がいいのかな。体調のこともあるし、当日になってみないとわからない気もするけど」

「今日は一日安静にしていたから、たぶん明日は大丈夫。明日、今日と同じくらいの時間に来てよ」

「ほんとうにそれで平気?」

「平気、平気。自分の体調のことは自分が一番よくわかっているから。……なんてことを岩永さんの前で言うと、そういう根拠のない自信が一番危ないんだって、絶対に怒られちゃうんだけどね」

 七海は小さく笑った。凪も表情を緩めた。彼女はほんの少し声を強める。

「じゃあ、明日、今日くらいの時間ね。絶対に来てよ。約束してくれる?」

「もちろん。絶対にまた会いにくるから、いっしょに折ろうね、折り鶴」


 七海と過ごした時間は短かったが、濃密で、意義深く、充実したひとときだった。

 その反動から、病院から帰ったあとも、一夜が明けても、学校で授業を受けているあいだも、凪はずっとぼんやりしていた。目の前のことに集中できず、常に頭の片隅で彼女のことを考えていた。教師から注意されないのが不思議なくらいだ。

 七海の笑顔がたびたび脳裏に浮かんだ。思わず頬を緩めてしまうような、明るくて愛くるしい、あどけない笑顔が。

 笑顔だけではない。人懐っこいところ、ささいなしぐさ――すべてがかわいかった。思い返せば思い返すほど、七海と過ごしたひとときは楽しかったと、しみじみと思う。

 早く、早く、七海にまた会いたい。


 放課後を迎えるまでは、長かった気もするし、あっという間だった気もする。

 午後四時過ぎの空には、雲一つない青が広がっている。その下を、私服姿の凪は軽やかな足どりで歩く。期待と不安、両方あるが、前者のほうが圧倒的に強い。

 赤信号に引っかかって足を止めるたびに、空を仰いだ。そして、七海も同じ空を見ているだろうか、と考えた。病室の窓は大きいから、ベッドから外を眺める機会は少なくないはずだ。

 七海もきっと僕が来るのを楽しみにしてくれている。そう信じたかった。

 605号室まで来た。戸口から中をのぞいて、凪は目を見開いた。

「あっ、凪くん!」

 凪に気がつくと、七海は満面の笑みで手を振ってきた。

 彼女はベッドの上ではなく、そのすぐ脇の床に立っていた。ベッドのフレームに掴まったり、壁にもたれたりすることなく、自分の両足だけで。

「なにぼーっとしてるの? こっちに来て」

 七海は手招きをした。凪は我に返り、彼女のもとへ向かう。

「凪くん、驚いてるね」

 七海は上機嫌そうに表情を緩めている。彼女は凪よりも十センチほど背が低く、彼を見上げる形だ。彼女はいつものパジャマではなく、クリーム色のTシャツにブルージーンズ、という服装をしている。

「ていうか、驚きすぎ。もしかして、わたしが寝たきりに近い生活を送っているとでも思ってた?」

「うん。基本的にはずっと、ベッドの上で過ごしているのかなって。出会ったときは外に出ていたけど、あれはいろんな意味で無理をした結果なんじゃないかって思ってた。だから、すごく驚いたよ」

「寝たきりどころか、毎日普通に歩き回っているよ。トイレは自分の足で行っているし、たまに中庭まで散歩に行くし。体調が悪いときはずっと横になっていなきゃいけないし、逆に体調がいいときは、活動的になりすぎてあとで反動が来ることがあるから、基本的にはベッドの上で大人しく、とは言われているんだけどね」

 体調が悪い日以外は普通に歩き回れるが、大量の血を吐くこともある――七海がわずらっている病気とは、いったいなんなのだろう?

 気になったが、とてもではないが問い質す勇気はない。病名がなににせよ、重い病気なのは間違いないのだから。

 それに、今日の七海はとても機嫌がよさそうだ。水を差すようなことを言って、楽しい雰囲気を台無しにしたくない。

「今日はちょっと怖いくらい体調がよくて、この機会を逃したくないから、凪くんに一つ提案があるの。昨日の約束では、折り鶴を折ることになっていたよね」

「そうだね。僕もそのつもりで来たし」

「でも、ごめん。予定を変更して、二人でお出かけしない?」

「お出かけ?」

「そう。凪くんといっしょに行きたい場所があるんだ。病院の外なんだけど」

 まったく思いがけない提案だ。ただ、この発言で、服装がパジャマではない理由が判明した。

「七海、外出しても平気なの? 体調面でもそうだけど、病院の人からの許可は?」

「主治医の先生からも、岩永さんからも、ちゃんと許可はもらっているよ。ずっと病院の中でいると気が滅入るから、体調がいい日は積極的に外に出たほうがいいって言われてて」

「そういうことなら、いいけど」

「あれ? もしかして疑ってる? わたし、嘘なんてついてないよ」

「疑っているわけじゃないんだ。ただ、予想外のことが次々と起こるから、ちょっと混乱しているというか、展開に頭がついていかなくて」

「まあ、そうだよね。折り鶴を折るつもりで病室に来たのに、いきなり外に遊びに行こうだなんて言われたら、戸惑うのは当たり前だよね。振り回してしまって、ごめんなさい」

 七海は頭を下げる。悪意のない失敗から、親しい人間に小さな損害を与えてしまって謝るときのような、浅いお辞儀。しかし、表情はいたって真剣だ。

「朝の時点で、今日は外出しようって決めていたし、ちゃんと許可ももらっていたんだけど、凪くんには報せなかったんだよね。岩永さんが凪くんの携帯番号を知っているから、事前に連絡しようと思えばできたのに。なんでしなかったかっていうと、凪くんを驚かせたかったから。……サプライズで『今日は二人でお出かけしよう』って提案しても、凪くんが喜んでくれるとは限らないのにね。自分勝手な真似だったと思う。ごめんなさい」

 ふたたび、今度は先ほどよりも深く、頭を下げた。

「でも、こんなに体調がいい日、ほんとうにもう二度と来ないかもしれない。だから迷惑かもしれないけど、わたしに付き合ってほしいな。わたしの体力では、どうせ長くは歩き回れない。だから、少しのあいだだけでも」

「迷惑なんかじゃないよ。全然迷惑なんかじゃない。気を悪くしてもいないし」

 凪はきっぱりと言った。七海が謝る姿を見るのが心苦しかったから、本心を偽ったわけではない。それが彼のありのままの気持ちだった。

 七海の顔が持ち上がった。その顔に向かって、温かみのある穏やかな声で凪は言う。

「僕の返事はさっきと同じだよ。出かけよう。二人でいっしょに遊びにいこう。七海はどこに行きたいの?」

 七海の顔は綻んだ。ただそれだけで、凪が大好きな明るい雰囲気が戻ってきた。

「ありがとう、凪くん。わたしが行きたいのは――」


「病院のすぐ近くに大きな公園があってね」

 長い廊下を、エレベーターがある方角に向かって、凪と七海は肩を並べて歩いている。許された時間はたっぷりとあるので、のんびりとした歩調だ。

「まだ病気がそんなに深刻じゃなかったころに、岩永さんに付き添ってもらって、何回か足を運んだことがあるの。お土産屋さんとか、大きな池とか、いろいろあって。長時間滞在したことはなくて、知らない場所はたくさんあるから、今日は楽しみにしてる」

「病院の前の道は通学路だから毎日通っているけど、大きな公園があるなんて知らなかったよ。脇道には全然入らないから」

「行ったことがないんだ。じゃあ、あれこれ話さないほうがいいね。ネタバレしちゃったら興ざめだから」

「いい場所なんでしょ? 行き先に選んだということは」

「うん、いい場所。近いからっていうのももちろんあるけど、仮にもう少し歩かなくちゃいけないのだとしても、行くことにしていたと思う。病院からは徒歩だと十分ちょいくらいかな」

 病院の廊下は今日も人の姿がなく、静けさに満たされている。凪はあまり緊張を感じていない。同年代の異性と二人きりで遊びに行く。異性に縁がない彼には、字面を見ただけでも赤面しそうなシチュエーションなのに。

「七海ちゃん!」

 ナースステーションの前を通り過ぎようとしたとき、声が飛んできた。カウンターの向こう側から、眼鏡をかけた若い女性がこちらを見ている。

「榛葉さん。こんにちは」

 七海はにこやかに挨拶をした。顔見知りらしい。榛葉のほうへと歩いていくので、凪もついていく。

「どうしたんですか、そんなに大声出して」

「ああ、ごめん。平然と出歩いていたからびっくりしたんだけど、そうだ、そうだ。今日は外出できる日だったね」

「はい。橋がある公園まで行こうかと」

「ああ、あそこに。天気もいいし、うん、いいんじゃないかな。隣にいる男の子は誰?」

「おとといわたしを助けてくれた人です。第一発見者で、大声で叫んで助けを呼んでくれて」

「その話は聞いてる。そっか、この子がそうだったんだね。えっと、お名前は?」

「根鈴です」

「根鈴くん、ありがとうね。うちの大事な入院患者の命を救ってくださって」

 凪はどう返事をしていいかわからなかったので、お辞儀をした。それを見た榛葉は浅くうなずき、視線を七海へと戻す。

「歳が近い男の子といっしょなら、私たちがお供するよりも楽しいし、なにかあったときも安心ね」

「はい。なんといっても、わたしを助けてくれた人ですから」

「うん、そうね。とにかく今日は――あっ、そうだ。ちょっと待って」

 榛葉は席を立ち、小走りで奥へと遠ざかる。すぐに戻ってきたかと思うと、ナースステーションから出てきた。純白の傘を手にしている。

「はい、これ。日傘」

 七海へと手渡す。

「それじゃあ、いってらっしゃい。どんな楽しいことがあったのかは、また次の機会に聞かせて。さあ、仕事仕事っと」

 榛葉がナースステーションに戻ったのを見届けて、七海は「行こう」と促す。凪はうなずき、二人は歩き出す。

「榛葉さん、優しくていい人だね」

「うん。ここの人はみんな、優しくていい人たちばかりだよ」

 エレベーターを待つ二人は、そんなやりとりを交わした。

 それでは、七海は岩永看護師のことをどう思っているのだろう? 以前外出したときに付き添ってもらったと言っていたし、凪が助けを呼んださいには真っ先に飛んできた。彼としてはぜひ質問してみたかったのだが、

「ねえ、凪くんのことをもっと教えてよ。さっき通学路の話をしたけど、学校ではどんなふうに過ごしているの?」

 七海が話題を替えたので、機会を逃がしてしまった。


 榛葉の手から七海の手へと日傘が渡ったときから、そうなる予感はしていた。

「はい、これ。日傘」

 病院の玄関を出たところで、七海は傘を凪に手渡した。

「わたしじゃなくて、凪くんが差して。相合傘しよう」

「動きづらくない? 僕、この程度の日射しなら平気だよ」

「こっちは病人なんだから、気をつかってよ。腕が疲れたらわたしが代わりに持つから」

 七海は表情を和らげて日傘を一瞥し、凪に顔を戻す。

「迷惑かけてごめんだけど、人助けと思ってお願い。ね?」

 小首を傾げての要求に、凪はうなずいて傘を開く。

 七海の頭上に差しかけようとすると、彼女のほうから体を寄せてきた。石鹸がさわやかに香った。病室から玄関まで歩いていたときと比べても、ずっと距離が近い。吐息の風圧や、息づかいの音さえもはっきりと感じられる。七海といっしょに過ごす時間に早くも慣れつつある凪も、さすがに鼓動が速まった。

「それじゃあ、出発しよう」

 視線を交わし合い、青空の下を歩き出した。

 しばらくは、引きつづき学校のことについて話した。

 凪の中学校生活は、お世辞にも充実しているとはいえない。馬鹿正直にありのままを語って、七海を暗い気持ちにさせたくない。教室の雰囲気や授業内容、定期テストの結果や今後予定されている行事など、当たり障りのない話題を選んで話した。

「やっぱり中学校って、小学校とはずいぶん雰囲気が違うんだね。同じ義務教育なのに、不思議だよね」

 七海は瞳を輝かせている。表情で、声で、ときには仕草で、逐一といってもいい頻度で感心を表明している。彼女は現在学校には通っておらず、最後に登校したのは小学五年生のときらしい。

「そういえば訊いていなかったけど、七海って何歳なの?」

「気になる? それでは、クイズです。わたしは今何歳でしょうか?」

「えっと、十三歳くらい?」

「残念! 正解は、凪くんと同じ十五歳、中三でした」

「そうだったんだ。意外だね。絶対に年下だと思っていたから」

「やっぱり? わたし、みんなからは実年齢よりも低く見られることが多いんだ。体が小さいし、童顔だし、性格だって子どもっぽいしね。小学生に間違われるとか、普通にあるよ。一週間くらい前の話なんだけど、お見舞いに来た人だったのかな、待合室の前を通りかかったときに声をかけられたんだけど――」

 話が学校のことから逸れたので、凪は胸を撫で下ろした。


「あっ、あれだね」

 七海が前方を指差した。公園の出入り口が見えた。水が浅くたたえられた深い濠が敷地を囲んでいて、短い橋を渡って中に入るようになっている。欄干は鮮やかな金色に塗られていて、凪は思わず感嘆の声を上げた。

「こんなに派手で目立つ橋があったんだね。知らなかったよ」

「きれいでしょ? この橋を渡るとき、いつもわくわくするんだ。遊園地の入園ゲートを潜る、みたいなものなのかな? 別世界に来たみたいな、そんな感じがするんだよね」

 二人は肩を並べて橋を渡る。中ほどに差しかかったとき、吹き抜けた風の凛とした冷たさは、なにかがはじまる予感を凪に抱かせた。

 園内の地面には一面砂利が敷かれていて、コンクリートで舗装された遊歩道が張り巡らされている。来園者の動きは全体的にのんびりしていて、リラックスしたムードが漂っている。

「七海は、寄りたい場所とか施設とかはある?」

「絶対にここに行きたい、とかはないかな。凪くんとお話をしながら、のんびりお散歩したい気分かも」

「じゃあ、順路を道なりに歩いてみようか」

「いいね。でも、途中で寄りたい場所が見つかったら、そのときはわがままに付き合ってね」

「わがままじゃないよ。付き添いのために同行したんだから、喜んで付き合うよ」

「ありがとう」

 コンクリートの道を歩きながら、二人は景色を観賞し、談笑した。

 五分ほど進むと分かれ道に差しかかった。右の道は周囲に植木が多く静かな雰囲気で、左の道は人口密度が高い。相談の結果、二人は右に進むことにした。

「あっ!」

 十メートルほど進んだところで、七海がいきなり傘の下から飛び出し、道を道なりに走りはじめた。

 突然のことに、凪は呆気にとられた。

 激しい運動に慣れていないせいか、七海の走りかたは不格好だ。スピードもまったく出ていない。それでも、彼女にとっては全力疾走なのだろう。両足が交互に大地を踏みしめるのに合わせて、長い黒髪が躍るように跳ねている。

「ちょっと、七海!」

 凪も走り出した。七海が急に走り出した意味はわからないが、追いかけなければいけない気がしたからだ。

 走りにくかったので、日傘は投げ捨てた。榛葉から借りたものだが、そんなことを気にしている場合ではない。七海の体。健康。命。それを守るのが最優先だ。

 七海が走るのをやめたのと、凪が追いついたのは、奇しくも同時だった。

 彼女は肩を大きく上下させている。顔を大きく持ち上げ、前方の高い位置にある一点を見つめている。眼差しは真っ直ぐだ。

 見つめているのは、一本の巨大な樹。三階建ての建物ほどの高さがあり、幹もかなり太い。幹のあちこちから、人間の腕くらいの太さの枝が何本も突き出していて、青葉を茂らせている。風が吹くたびに葉がいっせいにざわめき、幹の乾いた匂いや、葉の瑞々しい匂いを運んでくる。

「急にどうしたの? びっくりした」

 七海の呼吸が落ち着いたのを見計らって、声をかけた。返事はない。視線の方向は大樹のままだ。

「もしかして、この樹に思い入れがあるの?」

「ううん、ないよ。樹の存在を知ったの、今日が初めてだから」

 七海は凪を振り向いた。その顔にははにかみ笑いが浮かんでいる。

「大きな樹が生えているのを見つけた瞬間、体が勝手に動き出していたの。言葉で説明するのは難しいけど、惹かれるものを感じて。わたしはちっぽけで弱いから、大きな存在が魅力的に見えたのかもね」

 凪はどう答えればいいかわからない。ふたたび、七海と同じ対象に視線を注ぐ。

 おもむろに、七海の足が動いた。樹皮のでこぼこを食い入るように見つめながら、ゆっくりと歩く。幹を右回りに回る軌道だ。凪は少し迷ったが、あとに続く。

 七海が肩越しに凪を振り返った。顔が大きく綻び、純白の歯がこぼれた。それを号砲に、彼女は駆け出した。

「あっ、ちょっと! そんなに走ったら――」

「やめさせたいんだったら、わたしを捕まえて!」

 巨樹を中心に据えての追いかけっこが勃発した。

 凪が気づいたのは、この勝負を有利に運ぶために重要なのは、足の速さではなく、いかにスムーズに円を描く軌道で走れるかだ、ということだった。七海はそれが上手く、凪はややもたつくせいで、まったく距離が縮まらない。このまま走る時間がいたずらに長引けば、彼女の貴重な体力がすり減ってしまう。

 八周目を完走したところで、凪は急ブレーキをかけて立ち止まり、体ごと進路とは逆方向を向いた。行く手を遮られた七海は、彼にぶつかる寸前で足を止めた。

「あっ、ずるした! ルールを守るから勝負は面白いのに」

 彼女は頬を膨らませたが、すぐに笑い顔が取って代わる。乱れた前髪をていねいに整える指の動きを、凪はなかば無意識に目で追いながら、

「ルールなんて、もともと決めていなかったじゃないか」

「細かいね、凪くんは。たとえ事前に言っていなかったとしても、どういう勝負をするかによって、ルールはおのずと決まってくるものでしょ」

「それはそうだけど……。でも、七海の体調が心配だったから」

 ひと呼吸を置き、七海の褐色の瞳をより深く見つめる。

 さきほどまでの騒々しい雰囲気とは打って変わって、静寂が場を満たしている。

「七海、さっきからちょっと変じゃない? いきなり走り出したりして、落ち着きがないっていうか」

「普通だよ。これがわたしにとっての普通。よく年下に見られるって言ったこと、もう忘れた? ようするに、これがわたし。木花七海は、今年で十五歳になるにもかかわらず、小さな子どものような女の子なの。だからこそ、大きな樹を見つけて走り出したし、その樹の周りをぐるぐると回ったというわけ」

 七海の頬は少し赤らんでいる。走ったせいなのか、それ以外の要因からなのか。

「大きな病気をわずらっていると、周りの人は優しく接してくれるでしょ? 特に病院で働いている人は、よほど他人に迷惑をかけない限り怒らないよね。だから、あまり自覚はないんだけど、わがままなところがきっとあるんだと思う。小さいころから病院暮らしだら、身勝手さが抜けないまま成長してしまったのかもしれない。自覚が薄いぶん、より厄介で手に負えないっていうか」

 七海は声に感情をこめずに淡々としゃべる。凪はかたく唇を閉ざして話を聞く。

「そんなわたしに付き合ってくれてありがとうっていう気持ち、今さっき、凪くんに『心配だから』っていう言葉をかけられた瞬間、胸の底からこみ上げてきたよ。おととい、倒れたわたしに凪くんがなにをしてくれたのかを知った時点で、優しい人なのはわかっていたけど、改めて実感できた」

 凪を見つめる眼差しは真剣だ。気安い世間話をしているときのように表情はやわらかい。それにもかかわらず、真剣さがひしひしと伝わってくる。

 そんなところが好きだ、と凪は思う。

「いいところ、あるのかな。こんなわたしにも」

「あるよ」

 凪は即答した。

「七海は『子どもっぽい』って否定的な言いかたをしたけど、僕の見かたはちょっと違うかな。七海って、なにをするときでもすごく楽しそうだよね。そこがいいところだなって思う。僕は持っていない長所だから」

「凪くんが持っていない長所?」

「公園に来るまでのあいだに、学校の話をしたよね。僕が通っている中学校のこと」

「うん、したね」

「あのとき、いかにも充実した学校生活を送っています、みたいな話しかたをしたと思うけど、実際は違うんだ。友だちなんて一人もいないし、教室では空気みたいな存在だし。それどころか、ちょっとした弾みでいじめの対象に降格して、地獄みたいな日々が始まってもおかしくない、そんなポジションにいるんだ。だから――」

 凪は意識的に口角を持ち上げる。

「七海と知り合えて、僕の人生にとって確実にプラスになった。七海と知り合えてほんとうによかった。今日で終わりじゃなくて、これからも、もっともっと長く付き合っていけたらいいなって、僕は思っているよ」

 凪が話しおわると、七海は結んでいた唇を綻ばせた。

「凪くんにそう思ってもらえて、わたしもうれしい。……でも、『あなたと過ごす時間は楽しいですよ』っていう意味のセリフ、できれば凪くんから言ってほしかったかも。わたしが凪くんに感謝の気持ちを伝えたから、お返しとして同じ意味のことを言うんじゃなくて」

「あ……そうだね。たしかに、そのほうがよかったかもしれない」

「というわけで、やり直そうか」

「えっ?」

「また走るから、またわたしを捕まえて。はい、スタート!」

 七海はふたたび走り出した。さっきと同じ、樹の周囲を回るコースだ。

 これ以上、彼女に激しい運動はさせたくない。追いかけっこに付き合うのは二周半だけにして、体を反転させて立ちふさがる。凪の体を避けて走ろうとしたので、腕を掴んで引き留める。弱く握りしめた手首は、今にも壊れてしまいそうなくらいに細い。

 凪は七海の顔を見つめた。目が合った瞬間、戯れを続行する意思がないのがわかった。そっと手を離し、息を吐く。

「今日は七海といっしょに過ごせて、すごく楽しいよ。砂を噛むような毎日を送る僕にうるおいをくれて、心から感謝してる。ありがとう」

「どういたしまして」

「急きょ予定を変更したから、折り鶴を折る約束を果たせていないよね。だから、明日も病室まで遊びに行ってもいいかな? 折り鶴をきれいに折る方法、ぜひ教えてよ」

「もちろん。二人でいっしょにたくさん折ろうね」

「そうだね。きれいなだけじゃなくて、たくさん」

「約束だよ」

 二人はどちらからともなく右手を差し出し、やわらかく握手を交わした。二輪の照れ笑いが咲いて、名残惜しむかのようにゆっくりと手が離れた。


 凪と七海は分かれ道まで引き返し、左の道へ進んだ。すると、開けた場所に出た。いくつもの飲食店や土産物屋などがあり、人で賑わっている。

 二人は木陰にひっそりと建つ小さな店に入った。店頭に設置された看板によると、洋風のスイーツとドリンクをメインで提供しているらしい。

 案内されたのは、窓際の座敷席。さっそくテーブルにメニューを広げ、商品を見ていく。

「このパフェ、おっきいね。カラフルだし、なんていうかもう、眺めているだけで楽しいよ。あっ、このチョコアイス、チョコが七種類も使われているんだって。イチゴ味とか、フルーツ系のチョコがいろいろ使われているのかな」

 七海は掲載されている写真を次から次へと指差しながら、感想を口にする。選択肢の多さに一つを選びかねているというよりも、個々の商品への意見を述べるのが目的でしゃべっている。凪はほほ笑ましい気持ちで盛んに相槌を打った。

 二人はけっきょく、ドリンクの中から異なる味のジュースを注文した。凪はメロン。七海はピーチ。

 選んだ理由をたずねると、答えは二人とも「なんとなく」。二人は幼い子どものように笑みをこぼした。

「お待たせしました。ピーチ味のジュースと、メロン味のジュースになります」

 店員がテーブルまで運んできたものを見て、凪は驚いた。ジュースはグラスに入っていたのだが、どちらも泥水のような茶褐色だったのだ。メロンなら黄緑、ピーチならピンクと、あざやかな色をしているのが普通なのに。

 困惑する凪の目の前で、七海はなんのためらいもなく、自分のグラスのストローに唇をつけた。とたんに顔が綻んだ。

「うん、甘くておいしい! 凪くんも飲みなよ」

 おそるおそる飲んでみる。たしかに、メロンの味がした。甘いし、おいしかったが、彼は首を傾げた。

「どうしたの? 口に合わなかった?」

「いや、おいしいよ。すごくおいしい。でも、なんでこんな変な色なんだろうね」

「違和感を覚えているわけだね。だったら、ストローで混ぜてみて」

「混ぜる? どうして?」

 七海は「いいからやってみて」と手振りで促す。半信半疑でストローを回してみると、すぐに変化が現れた。茶褐色の中に黄緑色がにじんだかと思うと、その色が見る見る拡大していき、液体はあっという間に黄緑一色に変わったのだ。

「……びっくりした。このジュースにこんな仕掛けがあるなんて、知らなかったよ」

 凪は唖然とした顔を七海に向けながら言う。

「七海。色が変わる秘密を知っていたということは、君はこの店に来たことがあるんだね」

「ううん、初めて来る店。あのね、凪くん。わたしが近くにいるからこそ、ジュースは変色したんだよ。簡単に言うと、わたし、不思議な現象を引き起こす体質なんだ」

「不思議な現象? ……どういうこと?」

「そのままの意味だよ。わたしと出会ったときのこと、思い出してみて。わたし、ありえないくらい大量の血を吐いたよね。普通なら死んでもおかしくないのに、今もこうして生きていて、普通に外出して、普通にお店で飲み物を飲んでいる。それって不思議なことでしょ?」

 平然とそう答えて、自分のグラスの中身をストローで混ぜる。軽く数回回しただけで、茶褐色はあざやかな桃色に変わった。

「凪くんは、明日もわたしに会いに来てくれるって言ったよね。じゃあ、明後日はどうするつもり? 明々後日は? それ以降は?」

「……いたいよ。七海といっしょにいたい」

「でも、わたしのそばにいると、奇妙な出来事がたくさん起こるよ。ジュースの色が変わるとかなら、まだかわいいものだけど、そのうちに取り返しがつかないことが起きるかもしれない。わたしにわかるのは『不思議な出来事が起きる』ことだけで、内容までは予想できないから、凪くんがこの先ずっと平和でいられる保証はないの」

 ジュースを一口飲み、凪の目を深く見つめながら問う。

「なにが起きても耐え抜く覚悟、凪くんにはある?」

 凪はジュースの緑色に視線を落とし、考える。

 七海といっしょにいると、不思議な出来事が起きるという。そして、なにが起きるのかまではわからない。

 つまり、七海が血を吐いて倒れたような、衝撃的な出来事がまた起きる可能性もあるということだ。

 あれと同じような出来事を今後何度も見せられるのだと思うと、気が滅入る。とてもではないが心が持ちこたえられそうにない。

 では、七海と会えない日々が続いたらどうだろうと、想像してみる。

 つまり、砂を噛むような日常に逆戻り……。

 耐えられない、と思った。

 戻りたくない、と強く思った。

 たとえ何百回、目の前で大量の血を吐かれるのだとしても、七海と会えないよりも会えるほうがずっといい。

 凪は顔を上げて彼女を正視した。顔を一目見て、彼の心の中がわかったらしく、七海は白い歯をこぼした。

「友だちでいてくれるんだね? 明日も、明後日も」

「もちろんだよ。七海といっしょにいたい。明日も、明後日も、ずっとずっと」

 凪は恥ずかしがらずにそのセリフを言うことができた。そんな自分がうれしかったし、七海がくもりのない笑顔で受け止めてくれたのもうれしい。

 これからなにが起きても、七海といっしょにいよう。

 好きな人と過ごす最高の時間を、なにがあっても手放したくない。手放してたまるものか。

 心の中で決意したあとは、難しいことは少しも考えずに、二人で過ごす時間を楽しむことができた。

 七海が血を吐くことはもうない。僕たちを待っているのは、きっと今日みたいに心から笑い合えるひとときだ。

 そう信じたかった。


 凪は一人で薄暗い山道を歩いている。

 不規則なアップダウンがくり返されている。登っているのか、下っているのか、歩いている凪自身もわからなくなってくる。

 わからないのは目的地もそうだ。自分がどこを目指しているのかを、凪は把握していなかい。

 それにもかかわらず、歩きつづけている。わからないながらも歩いているうちに、目的地がどこかを思い出せるはずだ。そんな根拠のない期待を胸に抱いて。

 突然、甘い香りが鼻先をくすぐった。人工的な花の香りだ。

 近くに人がいるのかもしれない。鼓動が少し早くなる。

 いきなり、植物の葉が揺れる音が聞こえた。現在地からはそう遠くはない場所だ。凪は足を止め、音源に注目した。

 前方左手に、枝と枝とを絡ませ合っている二株の低木がある。その枝と枝のあいだを強引に押し開いて、何者かが道に現れた。

 若い女性だ。ツギハギだらけの薄手の着物を着て、黒髪を昔風に結っている。

 その顔に、凪は見覚えがあった。

「君は、七海……?」

 女性は小首をかしげた。そのしぐさを見て、凪は自分が勘違いをしているのだと気がついた。

 当たり前だ。大病をわずらい、入院生活を余儀なくされている七海が、こんな山の中に一人でいるはずがない。

「ごめんなさい、人違いでした。知り合いの女の子に顔が似ていたから、つい見間違って――」

「ああ、よかった!」

 女性の口から大声が飛び出したので、凪は目を丸くした。女性は太陽のような笑みを満面にたたえて、一心に彼を見つめる。

「あなたにとっては人違いかもしれませんけど、私にとっては人違いではありません。あなたは救世主さまですよね?」

「はい? 誰ですか、その救世主さまというのは」

「とぼけないでください。あなたならきっと、いや絶対、化け物を倒せます」

「えっと……。言っていることの意味が、僕にはさっぱり……」

「救世主さまは山道を歩き慣れていないでしょうから、歩きやすい道を通りましょう。さあさあ、こちらです」

 女性は凪の手を握りしめ、歩き出した。彼は戸惑いながらもついていく。

 どれくらい山道を歩いたかわからない。

 突然、視界が開けたかと思うと、目の前に一軒の木造家屋が建っていた。日本昔話に出てくるような家だ、と凪は思った。

 女性に続いて中に入る。上がってすぐの場所は板張りの広々とした空間で、中央に囲炉裏がある。二人は囲炉裏を挟んで床に腰を下ろした。

「あなたは、僕に化け物退治をしてほしい、という意味のことを言っていましたよね」

 女性がずっと黙っているので、凪のほうから口火を切った。

「あれはどういう意味ですか。事情を説明してくれませんか」

「はい。実は――」

 女性は眉根を寄せて話しはじめた。

「この集落には、いつごろからでしょうか、人を食らう大蛇が現れるようになりました。その名のとおり、巨大なヘビの化け物です。

 強い力と高い知能を併せ持つその怪物は、私たちが知恵を絞り、力を合わせて立ち向かっても、とうてい敵う相手ではありません。なんとか命だけは助けてもらえないかと、私たちの代表者が涙ながらに懇願したところ、一か月に一回、生贄を一人差し出せば皆殺しにはしない、と大蛇は答えました。受け入れがたい要求でしたが、背に腹は代えられません。

 私たちは最初、病気の者や老人の中から生贄を選びましたが、大蛇いわく、『若者のほうが肉が柔らかくておいしい』とのことなので、十代二十代の男女の中から生贄を選ぶことになりました。集落の人間は毎月一人ずつ減っていき、とうとう今月――」

「あなたの番が回ってきたんですね」

 凪の指摘に、女性は首を縦に振った。

「このままだと大蛇に食べられてしまうので、僕に助けてほしいんですね?」

 先ほどよりも深くうなずく。今にも泣き出しそうなその顔は、ますます七海にそっくりで、胸が締めつけられた。

「藁にもすがりたい気持ちは理解できるのですが……。力も、知恵も、技術も、勇気もない、平凡な中学生の僕に、そんな難しい仕事を成功させられるとは思えません。集落の人たちが協力し合っても倒せなかったんですよね? それなのに、僕一人で解決しろだなんて、どう考えても無理です」

「ごもっともです。救世主さまが言うことはいちいちごもっともなのですが、私にはもう、あなたしか頼れる人がいないのです」

「集落の人たちは、誰も助けてくれないんですか」

「はい。あの人たちは、基本的には優しくて親切なんですけど、やはり自分の命が一番ですから」

 悔しそうに、もどかしそうに下唇を噛む。凪はなんと言葉をかけていいかわからない。女性を救いたい気持ちと、この状況から逃げ出したい気持ち、正反対な二つの思いが胸の中でせめぎ合っている。重苦しい沈黙が二人を包む。

「作戦を考えましょう」

 おもむろに凪は言った。

「強大な敵が相手だとしても、勝機はあるはずです。そのためには、まずは敵をよく知ることです。姿、特徴、性質。大蛇にまつわるすべての情報を、できるだけ詳しく僕に教えてください」

 女性は感極まったらしく、瞳をうるませている。それでも、涙があふれ出すのをなんとかこらえると、吹っ切れたような明るいほほ笑みを灯した。そして、先ほどまでよりも落ち着いた口調で話しはじめた。

 矢尻も刃も通さない硬いうろこ。立ち向かった人々を絶望に陥れた、驚異的な肉体再生力。力強さと素早さを兼ね備えた身体能力。ほとんど人面といってもいい醜い顔。人語を解し、自らも操り、敵対者の策略を瞬時に見抜く、驚くべき知能。雑食性で、美食家であると同時に大食漢でもあるため、生贄の他にも、大量の馳走を用意しないと満足しないこと。

「なるほど、よくわかりました。大蛇はあなたの家までやって来て、その場で食事をするんですね?」

「はい、そのとおりです。物陰からのぞき見たことが何回かあるのですが、すさまじい食欲でした」

「食料は、見たところこの家にはあまりないようですが、集落の人たちが運んでくるんですか?」

「はい。定刻の一時間くらい前から、段階的に」

「なるほど。では、こちらから要望を出すことはできますか? こんな食料を持ってきてほしいとか」

「できますよ。生贄に選ばれた人間の要望は、非現実的なものでなければ聞いてもらえると思います」

「それでは、お酒の用意をお願いしてもらえますか。量は多ければ多いほどいいです。頼めますか?」

「はい、大丈夫だと思います」

 戸惑ったような様子を見せながらも、女性はうなずいた。不安はあるが、凪に頼るしか生き残る道はないのだから、凪を信じて行動しよう。そんな胸の内が見え透いた。

 不安は凪にだってある。恐怖だって、生贄として大蛇に提供されるのは自分であるかのように強く感じていて、今にも体が震え出しそうだ。思いついた案にすがるしかないのは、発案者自身も同じだった。

 やがて、集落の人間が続々と女性宅にやってきた。女性のていねいな説明のおかげで、凪は彼らから不審がられずに済んだ。

 大量の酒の注文は、二つ返事で聞き入れられた。酒が入った樽が、そして大量のご馳走が、広いとはいえない庭を埋めつくす。いよいよはじまるのだな、と凪は思う。

 女性は清潔感のある白い着物に着替え、陳列された食料の前に正座した。はるか彼方にそびえる山を真正面に見る位置だ。凪は家の中に隠れ、わずかに開いた戸の隙間から女性を見守る。

 そして、それはやって来た。

 凪が最初に感じたのは、大地の振動とその音。まだ遠いにもかかわらず、体を芯から揺さぶるような力強い響きだ。だんだん女性がいるほうへと近づいてくる。

 やがて凪の双眸は、木々を薙ぎ倒しながらこちらへと向かってくる巨大な塊を捉えた。

 音を立てているのは、八つの頭を持つヘビの怪物。

 その顔は、ヘビではなく人間のそれにそっくりだ。目は鋭く、眉は吊り上がっていて、威圧感がある。すべての顔の口から、真っ赤な舌が炎のようにちらついている。

 怪物は女性の目の前で動きを止めた。

 女性は体の震えを押さえこもうとするように、胸の前で両手を握りしめている。大蛇は二つの顔で女性を、それ以外の顔で食料を、値踏みするようにまじまじと見つめる。

「ふむ。少し痩せているようだが、なかなかうまそうな女だな」 

 大蛇の声は腹に響く重々しさがある。どの顔の口も動いているようには見えないのに、声が聞こえてくるのが不気味だ。

「初めて用意された食い物があるようだな。独特の匂いだが、なんという食い物だ?」

「酒という飲み物です。たまには趣向を変えて、あなたさまが口にしたことがないものを用意しました」

 女性は表情にこそ怯えをにじませているが、口調は比較的落ち着いている。

「とてもおいしい飲み物ですよ。まずはお酒から召し上がることをおすすめします」

「そこまで言うのなら、味わってやろうじゃないか。入っているのはその樽か? さっさと開けろ」

 女性は手際よく樽のフタを開けていく。すべての中身が露わになると、大蛇は樽の一つに顔を近づけ、入っている液体に舌を這わせた。凪は固唾を呑んでその様子を見守る。大蛇は女性に向かって言った。

「うまいではないか」

 大蛇は他の口も使って酒を飲みはじめた。八つの喉は絶え間なくうごめく。豪快な飲みっぷりだ。ときどき樽から顔を上げ、満足そうにげっぷを吐く。

「うまい、うまい。うまいぞ、この飲み物は。俺に飲ませずに隠しておいたのは、人間にとってもうまい飲み物だからか? 来月からは生贄だけではなく、酒も用意させないといけないな。ああ、それにしてもうまい」

 大蛇は夢中になって飲んだ。飲んで、飲んで、飲みつづけた。すべての樽が空になったときには、地面に横たわって大いびきをかいていた。

 女性が凪に目で合図を送った。凪は音を立てないように戸を開け、忍び足で女性のもとへ。彼は二本の包丁を握りしめている。

 過去の大蛇との戦いで、集落側は数十人の死者を出したそうが、犠牲は決して無駄ではなかった。怪物は驚異的な再生能力を持つが、首をすべて切り落としてしまえば、生命活動を永久に停止させられる。戦いの中で大蛇自身がそう口走ったらしい。

 まともに戦えば勝ち目がない。しかし、酔わせて、眠らせて、眠っているところを攻撃すれば、きっと打ち負かせるはず。

 凪は包丁の一本を女性に手渡した。二人はうなずき合い、大蛇に向き直る。凪は包丁を高々と振りかざした。

「残念だったな」

 突然の声に、振り下ろしかけた刃が空中で急停止する。大蛇の声だ。

 凪からもっとも近い場所にある大蛇の口から、いきなり、目にも留まらぬ速さで舌が飛び出した。舌は凪の右手を直撃。包丁は手から離れて空中を飛び、近くの草むらに埋もれた。

 大蛇は首の一本を持ち上げ、濁ったビー玉のような瞳で凪を凝視する。視線が重なった瞬間、彼はヘビに睨まれたカエルになった。大蛇はせせら笑う。

「酒ではなくて、お前が木花七海といっしょに飲んだあの飲み物だったなら、俺は酔っぱらっていたのだがな」


 自分は夢を見ているのだと、凪は途中から気がついていた。

 己の生死がかかった、緊迫した局面。恐怖は感じていたが、ほんとうに死ぬとは思わなかった。恐ろしい大蛇を前にしても体は震えなかったし、逃げ出そうとしなかった。あまりにも冷静すぎた。「僕は夢を見ているのだ」と理解していたからこそ、冷静でいられたのだ。

 大蛇は、凪と七海が公園で飲んだ飲み物に言及した。

 大蛇の生贄になった女性の顔は、七海のそれに似ていた。

 この二つを考えれば、凪が七海のことを意識していたからこそ見た夢なのは間違いない。

 七海似の女性は殺される運命だった。その場面が来る前に夢は終わってしまったが、酔わせて殺す作戦は失敗したのだから、彼女はきっと大蛇に食べられていた。つまり、凪が見たのは悪夢。

 僕はなぜ悪夢を見たのだろう。七海は重い病気を抱えているから、暗い夢を見てしまったのだろうか? 今後夢に七海が登場するときは、必ず悪夢なのだろうか?

「まさか――」

 そんなはずはない、と思いたい。

 七海は「わたしのそばにいると、不思議な出来事が起きる」と言っていたが、今日見た夢がそうなのだろうか? たしかに、こんなにも鮮明でリアルな夢、今までに一度も見たことがない。

 夢のことを七海に話してみようか?

 そんな考えが頭を過ぎったが、内容が内容だけに気乗りはしない。ため息をつき、ベッドから抜け出す。

 凪は学校が終わったら、今日も七海に会いに行くつもりだ。

 不愉快な夢のことはもう考えたくなかった。


 放課後に605号室に足を運ぶと、白い服を着た女性がベッドの脇にたたずんでいた。入り口の方向に背を向けて、七海と言葉を交わしている。

 凪は驚いたし、戸惑った。七海が病室で凪以外の誰かといる、という状況が初めてだったからだ。

 しかし、冷静に考えてみれば、病院内で患者と看護師が会話をするのは当たり前。場所は病室の中ではないが、昨日は榛葉看護師と楽しそうに話をしていた。別に驚くような光景ではない。

 話が終わるまで待つべきか。それとも、気にせずに声をかけるべきか。戸口に立ち尽くして迷っていると、女性看護師が振り向いた。

「あら、根鈴くん」

 岩永月夜だった。特徴的な赤い髪の毛は、病室の大きな窓から射しこむ光を受けとめ、黄金色に輝いている。そのせいで、後ろ姿だけでは岩永看護師だとはわからなかったのだ。

 岩永の顔を見た瞬間、凪は呼吸が止まりそうになった。

 夢に出てきた大蛇の顔にそっくりなのだ。細く吊り上がった眉、切れ長の目、さらには人を威圧するおぞましいオーラまで。

「根鈴くん、どうしたの? 気分が悪いの?」

 投げかけられた岩永の声に、我に返る。ベッドの上から七海が、そのそばで岩永看護師が、それぞれ凪を見つめている。彼は岩永に向かって頭を振り、二人のもとまで行く。

「凪くん、大丈夫? まさか昨日はしゃぎすぎた疲れが――って、わたしじゃないんだから、そのくらい平気だよね」

 七海は口ぶりこそ冗談めかしているが、眼差しは真剣だ。

「でも、ほんとうにちょっと顔色がよくないね。来る途中でなにかあったとか?」

「そうじゃないよ。そう見えるのかもしれないけど、しんどいとか、そういうわけでは全然ないから」

 まずは七海に、それから岩永に向かって、発言が嘘ではないことをアピールするために気丈にほほ笑んでみせる。七海は発言を信じてくれたらしく、小さくうなずいた。

「それはよかった。根鈴くんは健康には問題ない人みたいだけど、人間、疲れるときは疲れるからね。認識と実際の顔色に差があるということは、自覚がないだけでほんとうは疲れているのかもしれない」

 一方の岩永は、さばさばとした口調でそう言葉を返した。ほほ笑みに近い、やわらかな表情だったが、凪は薄気味悪さを感じた。

「木花さんはね、帰ったあとでお昼寝をしたの。やっぱり疲れていたみたいで、珍しく夕食の時間が来ても起きなくて」

「岩永さんが起こしてくれればよかったのに。そのせいで、せっかくの夕ごはんが冷めちゃった」

「冷めてもおいしいように作られているはずだけどね、病院食は」

「温かいほうがおいしいに決まっているじゃないですか。岩永さんは食べたことがないから、そんないい加減なことが言えるんですよ」

 七海と岩永はにこやかに言葉を交わしている。客観的に見れば、患者と看護師のほほ笑ましい会話なのだろう。しかし、夢の大蛇と岩永の顔が似ていることに気づいてしまった凪には、歪んだ光景にしか見えない。

 悪い企みを秘めたヘビと、病気の少女の交流――。

 少女に待ち受けている運命は、目を覆いたくなるような不幸なのでは? そんなふうに思えてならない。

「というわけで、根鈴くん」

 他愛もない会話が一段落すると、岩永が話を振ってきた。

「今日は木花さんと、病室で話をするだけなら構わないけど、外出は控えて。遊びに行きたい気持ちもあるだろうけど、木花さんの健康が最優先だから。お願いできるかな?」

「わかりました」

「ありがとう。それじゃあ、ごゆっくり」

 岩永は病室を出て行った。

「凪くん、とりあえず座って。椅子、どうぞ」

 すすめられるままに丸椅子に腰を下ろす。心はさっきまでよりも楽になっている。岩永が病室から去ったから、だろうか。

「岩永さんは、いい人なんだけど」

 七海は上体を少し倒し、凪を上目づかいに見ながら話しかけてきた。かすかに眉をひそめている。

「文句なしにいい人なんだけど、いっしょにいるだけで疲れるんだよね。わたしにとてもよくしてくれるし、悪い企みを内に秘めているわけではないのはわかる。それなのに、疲れちゃうの。わたしの体が弱いからでも、気のせいでもなくて。だって、岩永さんと知り合ってから、ずっとその症状が続いているから」

「それって……。昨日言っていた『不思議な出来事』が起きているということ?」

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。すっきりしない言いかたになるけど、そうとしか言いようがないよ」

「つまり、どういうこと? もう少し詳しく説明してほしいんだけど」

「わたしの力じゃなくて、岩永さんの力じゃないかっていう気がするんだよね。岩永さんが原因なのだとしても、悪意があってわたしを苦しめようとしているわけじゃなくて、自分の意思とは無関係に力が働いているだけだと思うんだけど……」

「七海だけじゃなくて、岩永さんも不思議な出来事を起こす力を持っているということ?」

 七海はうつむいてうなずく。

 凪はどう答えていいかわからない。

 同い年の女の子が超現実的な力を使える。それだけでも驚きなのに、同じような力を使える人間がもう一人いるなんて。

「――ごめんね、説明がわかりにくくて。ようするに、なにがわたしを苦しめているのか、現時点でははっきりしないってことね。これ以上この問題について話してもしょうがないから、おしまいにしよう。ごめんね、変な話をしちゃって」

 七海は再び凪のほうを向くと、無理矢理気味に笑顔に切り替えた。

「岩永さんの言いつけを守って、今日は大人しく楽しく病室で過ごそう。キャビネットの引き出し、開けてくれる? 最上段」

「あ……うん」

 もやもやした気持ちを抱えながらも、凪は言われたとおりにする。中に入っていたものを見て、思い出した。

「折り紙! そっか、今日はいっしょに折り鶴を折る約束だったね」

「もしかして、忘れてた? 実はわたしも忘れてて、お昼ごはんを食べたあとで急いで売店に買いに行ったんだ。じゃあ、折り紙広げちゃって」

「広げるって、どこへ?」

「わたしの膝の上とか、ベッドの上とかにだよ」

 これも言いつけに従う。七海はその中からレモン色の一枚を選んで凪に手渡し、自分はあざやかな赤色の一枚を手にとる。

「じゃあ、わたしが言うとおりにやってみて。まずは――」

 七海のレクチャーが始まった。口述と実践、両方による指導だ。

 凪も折り鶴を折った経験が何度かある。説明を聞き、お手本を観察し、自分の指を懸命に動かしているうちに、遠い記憶が甦り、指が勝手に動き出した。鶴の折りかたはそう難しくない。二分後には二羽の折り鶴が完成していた。

「わー、すごい。上手、上手」

 七海は真っ赤な一羽を自分の膝に置き、両手をぱちぱちと鳴らした。

「凪は自分のことを不器用だって言っていたけど、とってもきれいに折れてるよ。わざわざ教えたのが失礼なくらい」

「細かい部分ではかなり差があるけどね。余計な折り目がつくとか、端と端がぴったりじゃないとか、七海の折り鶴にはそういうところが全然ない」

「ちゃんと折れたんだから、差なんてないも同然だよ。じゃあ、今度は自分だけで作ってみて。それか、時間内にどっちが多く折れるかの競争、やってみる?」

「七海に勝つのは難しそうだね。僕としてはのんびり折りたいかな」

「じゃあ、そうしよう」

 黙々と手を動かしたのは最初の二・三羽だけで、あとは会話をしながらの作業となる。何色の折り紙が好きか。昨日公園で遊んだときの思い出。互いの日常生活について。どの話題も他愛ないが、手を動かしながら話すにはちょうどいい。岩永月夜が七海に影響を与えている疑惑のことが胸を過ぎることもあったが、しゃべりながら作業しているうちに自己主張しなくなった。

 凪はときどき自分の手元から目を離し、巧みに動く七海の指に見とれた。紙が立てる音が快かった。意識が作業から逸れたせいで、ちょっとしたミスに気づかないまま工程を進めた結果、いびつな折り鶴が完成し、その出来栄えを二人で笑い合う。そんな一幕もあった。

「んー、疲れた」

 七海はおもむろにあくびをした。それに続いて、平らな胸を強調するように大きく伸びをする。凪は折っている最中の白い一羽を手早く完成させ、彼女の隣に置いた。

「折り鶴、けっこう折れたよね。わたしが六割で、凪くんが四割ってところかな?」

「そんなところだと思う」

「今日はこれくらいにしておく?」

「そうだね。もう充分折ったし」

「凪くん、今日はありがとう。とても楽しかった」

「きれいに折る方法を教えてくれたんだから、お礼を言うのは僕のほうだよ。ところで、完成した折り鶴はどうするの? 飾っておくにも限度があるよね」

「何羽か持って帰る? 何割かは凪くんが作ったんだから、その権利はあるよ」

「でも、病気の快復を祈願する意味で折っているんだよね。置いておいたほうがよくないかな」

「一羽くらい持って帰ってもいいよ。別に千羽折るのを目標にしているわけじゃないから」

「じゃあ、記念に一羽だけ。これだけ多いと、迷うな」

 そう言いながらも凪は、自分ではなく七海が作ったものを選ぼうと、提案された瞬間に決めていた。形だけ迷うふりをして、あざやかな赤色――七海が最初に完成させた一羽を指差す。

「じゃあ、この鶴にするよ」

「大事にしてね」

「もちろん」

 七海は大病をわずらっている。少し外出しただけで、帰宅後に仮眠をとらざるを得ないし、翌日は終日病室で過ごさなければならない。そんな重い病気を。

 もしかすると、治らない病気なのかもしれない。

 考えたくはないが、死んでしまう病気なのかもしれない。

 七海は今まで、自分の病気について一度も話してくれていないから、真相は不明だ。

 話したくない? なにか事情があって話すのを禁じられている? たずねられていないから答えないだけ?

 凪は現時点で、七海に病気についてたずねる勇気を持てていない。

 しかし当分は、謎は謎のままで構わないと思っている。

 病室だろうが、公園だろうが、どこであろうが。

 折り鶴を折るのであろうが、屋外を散策するのであろうが、なんであろうが。

 七海といっしょに、穏やかに流れる時間の中で、したいと思うことをしながら過ごせるのであれば、それで構わないではないか。

『現実から逃げているだけなのでは?』

 そんなもう一人の自分の声を、今日のところは聞かなかったことにして、凪はそう結論づけた。

「じゃあ、折り鶴を片づけようか。キャビネットの上に――」

 凪の言葉は途切れる。昨日はその場所に折り鶴が飾られていたはずだが、今日は一羽も置かれていない。古びたデジタル時計が時を刻んでいるだけだ。七海が説明する。

「折り鶴、岩永さんが毎日片づけるんだけど、この前のぶんは撤去ずみだよ。配置とかは気にせずに適当に置いといて」

「そうだったんだ。別室に保管してあるの?」

「……えっと、それがね」

 声が陰った。七海は少し眉根を寄せて、こう答えた。

「折り鶴を置いてある場所、わたしはまだ一度も見たことがないの。だから、岩永さんはたぶん、こっそり捨てているんだと思う」


「根鈴くん」

 エレベーターで一階に下りた直後に声をかけられて、凪の肩は大きく跳ねた。

 十メートル足らず先、建物の出入り口とは逆方向に伸びる廊下に、岩永看護師が一人で立っていた。

 たたずまいにも、表情にも、特に不自然なところはない。顔見知りの見舞い客が帰ろうとしているのをたまたま見かけたから、あいさつをするために声をかけた。そんな様子に見える。

 ただ凪は、夢に見た大蛇の顔が岩永の顔と似ているのを知っているし、折り鶴を捨てているかもしれないと七海から聞かされたばかりだ。――とても嫌な予感がする。

 岩永が歩み寄ってきた。静かな、落ち着き払った足どりだ。凪は病院の出口を振り返ったが、逃げなかった。

「今から帰るところ?」

「はい。さっき話が終わったので」

「あら、折り鶴。折りながらあの子と話をしていたんだ」

 凪の手元を見ての発言だ。凪は折り鶴を後ろ手に隠したが、そうするのも不自然だと思い直し、腰の横に戻した。そして、首を縦に振った。

「あの子、折り鶴を折るのが好きだからね。他のものも折ればいいのに、鶴ばかり。その一羽はプレゼントされたの? 自分で折ったの?」

「せっかくだから一羽持って帰ってと言われたので、僕の意思で選びました。たぶん、七海が折ったものだと思います。七海の折り鶴は折り目がきれいだから」

「なるほど」

 凪の顔と折り鶴を行ったり来たりしていた視線が、顔へと定められる。

「根鈴くん、少しお話できるかしら? そうね、十分か十五分くらいだけでも」

 突然の提案に、凪は驚き、困惑した。思わず見返した岩永の顔は、やはり夢の大蛇そっくりで、今は無表情だ。

「どうかな? 早く家に帰らなければいけないのではないなら、ぜひ」

「もしかして、七海に関する話ですか」

「そうだとも言えるし、そうではないとも言えるわね。この近くに休憩室があるから、そこで話しましょう」

 はっきりとは言わなかったが、きっと七海の話に違いない。そうでなければ、わざわざ凪に話しかける理由がないではないか。

「わかりました。特に用事はないので、付き合います」

「ありがとう。それじゃあ、移動しましょう」

 靴底が床を叩く音が響きはじめた。凪は従順な召使いのように岩永のあとに続く。二人は一言もしゃべらない。

 岩永の足が止まったのは、廊下の突き当りにある間口の広い一室。七海の病室よりも一回りか二回りほど広い。十あまりの椅子とテーブルのセットが、ゆとりのある間隔を保って配置されている。他にあるのは、自動販売機、観葉植物、雑誌類がまばらに陳列されたマガジンラック。カーテンに覆われていない広い窓越しに、灰色の空が見える。

 中央にある一席に、凪と岩永は向かい合って座る。他に利用者はおらず、静けさに包まれている。話をするには絶好の環境だ。

「折り鶴、テーブルに置いておけば。やましいものじゃないんだから、隠すように持たなくても」

 別に、隠しているわけではないんだけど。

 そう心の中で反論しつつも、言われたとおりにする。

 しかし、いざ言われたものを言われた場所に置いたとたん、無性に落ち着かない気持ちになった。

「飲み物を買うね。コーヒーでいい?」

 岩永は胸ポケットから財布を取り出しながらたずねた。凪は首を縦に振った。岩永は自動販売機で二人ぶんの飲料を速やかに購入し、戻ってきた。

「どうぞ」

 紙コップ入りのホットコーヒーが二つ、テーブルに置かれる。混沌とした褐色は、アイスとホットの違いこそあるが、公園で飲んだ飲料を思い起こさせた。

 岩永はさっそく紙コップに口をつける。熱そうだが、飲めないわけではないようだ。義務感に促されて、凪も一口だけ飲む。コップをテーブルに戻したのが、彼女が口火を切る合図となった。

「根鈴くんは、死についてどう思ってる?」

 凪は褐色の水面に落としていた目を上げた。岩永は相変わらず、感情や心の中が見通せない顔をしている。その顔で凪を見つめながら、返答を待っている。

「あの……。それは七海に関係がある話なんですか」

「愚問ね。だって私たち人間は、というよりも生きとし生ける存在は、誰もがいつか必ず死ぬのだから。わからない? 私の話であり、木花さんの話であり、根鈴くんの話でもある。そういう意味よ」

 岩永は前髪を軽く指でいじる。ほのかに笑ったが、一瞬で真顔に戻った。

「戸惑う気持ちはわかるわ。でも、難しく考えるような問題じゃない。なにを言っても間違いではないし、なにを言っても私は感情を害さないから、自由に言ってみて」

「この質問に答えることに、なんの意味があるんですか」

「意味なんてないわ。思惑も、意義も、賞罰も、なにもない」

 岩永はきっぱりと言い切った。しかも即答だ。

「強いて言えば好奇心だけど、やっぱり意味なんてないと思う。だから、ほんとうに気軽に話してくれれば」

「わかりました。……そうですね」

「難しく考えるような問題じゃない」と岩永は言ったが、答えがすぐに浮かんでくるほど生易しい問題でもない。「気軽に話して」という、先ほどかけられたばかりの言葉も忘れて、凪は真剣に考えた。一分近くも黙考した末、こう切り出した。

「僕にとって死は、遠いものかもしれません。さっき岩永さんが言った『人間は誰もがいつか必ず死ぬ』という言葉。もちろん真実だとわかってはいるんですが、それでも聞いた瞬間に驚いてしまったのは、死について誰かと話す機会がまったくないからなんだと思います」

 岩永の無表情に変化はない。相槌も打たない。

「僕は身近な人の死を経験したことがありません。人間以外なら、昔飼っていたネコですね。僕が幼かったころから放し飼いをしていたネコなんですけど、急に痩せてきたと思ったら、いつの間にか姿を見なくなって。

 死体を直接見たわけではないのですが、痩せていく姿は見ていたので、家出をしたわけじゃないのはわかりました。死にざまを見られたくない本能が働いたんだと思います。

 そのころには、僕はもう死の概念は理解していたので、二度と生きて動いている姿を見られないんだと思うと、たまらなく悲しい気持ちになりましたね。さびしさの成分が強い悲しみ、とでも表現すればいいでしょうか」

 岩永は一度だけ小さくうなずいた。凪の話に満足したのかどうかは、判断がつかない。

 もう少し話を続けるべきだという気もしたが、あいにく話題は思い浮かばない。会話の冒頭に言ったように、死からは縁遠い人生を送ってきたから。

「もう種切れかしら。まあ、そんなものかしらね。人生経験が浅い若い人だと」

 凪と視線を合わせ、ひとり言のようにそうつぶやいた。少し間を置いてから、語りはじめる。

「私が思う死は、絶対的なものね。さっきも言ったように、生きとし生ける存在は誰しもいつか必ず死ぬ。死んでしまったが最後、心も体も動かせなくなって、蓄積された経験や知識は無に帰してしまう。飼いネコが死んだという事実に直面したとき、根鈴くんは愛猫と二度と会えないことよりも、自分もその運命から逃れられないことにショックを受けた。そうなんでしょう?」

「……そうかもしれません」

「どうせいつか必ずゼロになるんだから、悔いを残さないように生きよう。どうせいつか必ずゼロになるんだから、がんばって生きても無駄だ。根鈴くんはどちらの考えかたを支持するタイプかしら」

 そんなこと、今まで一度も考えたことがない。しかし、いざ問われてみると、深く考えてみるまでもなく答えを出せた。後者だ。

 正直に答えてもよかったが、七海のことが引っかかる。本人が不在とはいえ、命を軽視していると見なされかねない発言をするのは、気が進まない。

「そんなに答えにくい二択かな? まあ、どちらかを選べと迫られたら、一つに絞るのは案外難しいかもしれない。

 でも、私の心ははっきりしている。後者よ」

 理由を知りたい? 岩永の眼差しが問い質す。凪は嫌な予感がしたが、うなずいた。誰がなんと言おうと、自分の考えを打ち明ける。そんな強い意思が瞳に宿っていたからだ。

「死について話す約束なのに、生のことを語って申し訳ないけど、二つは表裏一体。切っても切れない関係にあるから、ほんの少しだけ語らせて。

 私が考えるに、いっさいの生は無意味よ。死んでしまえば、死ぬ以前について振り返れなくなるでしょう。だから、生は無意味なもの。

 生に意味があると思っているすべての人間を、私は軽蔑します。意味はないと思いながらも前向きに生きている人間も、同じく軽蔑します。前向きに生きている時点で、生に意味を見出しているのと同じだから。

 面白くもなんともないたとえだけど、生というのはまさに夢。夢を見ている人間が目を覚ましてしまえば、問答無用に、有無を言わさずに消える。そして、二度と復元できない」

 凪は語りに耳を傾ける中で、岩永は看護師という、人間の生死に関わる職業に就いているにかかわらず、「生は無意味だ」と言い切ったことに違和感を覚えた。

 絶対に訪れる死によって、今まで蓄積してきた記憶を失うからこそ、生きることに意味はない。岩永はそう主張しているが……。

「死について考えれば考えるほど、生きることに意味はないんだなって思う。死は絶対的で、動かしようがないから、生きることは無意味というのも絶対。そういうことなんでしょうね」

 岩永はおもむろに手を伸ばし、折り鶴を掴んだ。自分の顔よりも少し高い位置に掲げ、しげしげと眺める。その顔には、相変わらず表情がない。

「――だから、不要物は捨ててしまわないと」

 冷気が立ち昇るような声に、全身に鳥肌が立った。

 岩永の手から折り鶴がこぼれる。凪の口から「あ」という声がこぼれた。赤色の一羽は彼女の紙コップの縁をかすめ、液体の中に落下した。

 コーヒーを体に沁みこませながら、折り鶴はゆっくりと沈んでいく。あざやかな赤色が褐色に染まっていく。

 やがて、折り鶴は完全に水没した。

「根鈴くん、もう帰ってもいいよ。ごめんね、忙しいのに時間をとらせて」

 そっけなく岩永が言う。その目はもはや、折り鶴が沈んだカップを見てはいない。

「コーヒー、飲めば。もちろん、捨ててしまっても全然構わないけど」

 凪はすっかりぬるくなった液体を飲み干し、逃げるように病院をあとにした。


 自室に入ってしばらく経って、心が落ち着くと、岩永月夜に対する怒りがむらむらと湧いた。

 なぜなら岩永は、七海が作った折り鶴を台無しにした。

 ああいうことを平気でする人間だから、「力」を使って七海を疲れさせていたとしてもおかしくない。

「――守らないと」

 岩永さんが使う「力」から、七海を守ってあげないと。

 いつしか、そんな決意が凪の胸に生まれていた。

 具体的な方法はまったくわからない。超能力じみた「力」を使う相手に、平凡な男子中学生が勝てるとは思えない。

 それでも、岩永には負けたくないと思う。

 七海を守りたい。

 岩永の前から逃げ出したような無様な真似は、もうしたくない。

 凪は自分が強い存在だとは思わない。でも、七海のためなら、どんな強敵にも立ち向かえる気がする。

「だって――」

 七海は、凪の人生に光をもたらした人なのだから。


 七海のもとへ通うのが日課になって以来、初めてとなる感情が凪の胸に生まれていた。

 病院に行くのが怖いのだ。

 原因は、岩永月夜看護師。

 病院で顔を合わせたら、また二人きりで話をすることになり、嫌な気持ちになるようなことを言われるかもしれない。七海からもらった折り鶴を台無しにされたように、自分の大切なものを傷つけられるかもしれない。そう想像するだけで、心も体も重苦しくなる。

 岩永は「力」が使える。なにをしてくるのかわからない。だから、怖い。

 それでも凪は自宅を発った。七海と会う約束をしているし、それに、岩永を恐れる気持ちよりも七海に会いたい気持ちのほうが強かった。

 そしてもちろん、昨日の出来事があったあとで、心の中で立てた誓いを忘れたわけではない。

 岩永が使う「力」から七海を守る――凪はそう誓ったのだ。


 異変は605号室まで来たときに起きた。

 というよりも、そこにあった。

「根鈴くん」

 岩永看護師が病室の戸の前にいたのだ。凪を待っていたらしい雰囲気だ。

 凪は一瞬全身がフリーズするほどの緊張感に襲われた。それでも、勇気を振り絞って岩永のもとまで歩を進めて話しかけた。

「岩永さん、どうされたんですか?」

「木花さんは別の病室に移ることになったの。根鈴くんが慌てるだろうから、教えようと思ってずっと待っていたんだけど」

「えっ……。移る……」

 凪の関心は、岩永から七海へと瞬時に切り替わった。

 彼は真っ先に、七海の病状が悪化したからこその処置ではないか、と疑った。それに続いて、それほど重要な変更があったのだから、事前に連絡してくれてもいいのに、という不満を抱いた。

「詳しい事情はまだ言えない。とりあえず、605号室の中で待っていてもらえるかな」

「会えるんですか?」

「申し訳ないけど、お願いね」

 岩永は足早に去っていく。凪は遠ざかる背中を呆然と見送った。

 病室の戸は閉ざされている。凪が知る限り、605号室の入口の戸が閉まっていたのはこれが初めてだ。

 ためらいを感じながらも戸を開く。

 七海の姿、昨日二人で折った折り鶴、ともに定位置にはいない。無人の病室は不気味なくらいに広く感じられる。少し迷ったが、病室の中に全身を入れた。

 直後、戸が動く音がした。

 息を呑んで振り向いた。開け放っていたはずの戸が、閉まっている。

「……おかしい」

 病室の戸はひとりでに閉まるような作りにはなっていないし、周りには誰もいなかった。それなのに、閉まっているなんて。

 部屋の中へと顔を戻して、凪は悲鳴を上げた。

 体長三十から四十センチほどもある灰色のヘビの大群が、病室の床を這い回っているのだ。その数はおびただしく、足の踏み場はわずかしかない。中には、ベッドやキャビネットの上でも身をくねらせている個体もいる。

 ――逃げないと。

 少し目を離した隙に、空間を埋めつくすほどのヘビがうごめいている謎など、どうでもいい。一番大事なのは、自分の命。とにかく、逃げなければ。

 凪は戸に向き直った。しかし、そこにあったのは戸ではなく、灰色の壁だった。目を離していた一分足らずのあいだに、手品のように戸が消えてしまったのだ。

 凪はパニックを起こしそうになった。しかし、窓の存在を思い出し、冷静さを取り戻す。

 窓があった位置に窓はなかった。ただし、その代わりに灰色の戸があった。病室の出入口に使われているのと同じ、左右にスライドさせて開け閉めするタイプの、ごくありふれた戸だ。

 ヘビのせいで面積は限られているが、足を下ろす余地がまったくないわけではない。踏みつけて怒らせないように気をつけながら、それでいてできるだけ素早く、脇目も振らずに戸へ向かう。

 一匹も踏まずにたどり着いた。戸は問題なく開いた。

 その先にあったのは、同じく病室。無人だ。ヘビに侵入されないように、最小限開いた隙間に体を素早く滑りこませ、戸を閉める。

 ほっとしたのも束の間、耳が異音を捉えた。なにかが小さくうなっている。それとは別に、なにかが床を動き回る音も聞こえてくる。ヘビが床を這いずり回るのとはまた違った摩擦音。

 今度は、床を大量のムカデが埋め尽くしている。さらには、空中を何百匹ものハチが飛び交っている。

 振り向くと、入ってきた戸は、そっけない灰色の壁に変わっている。

 今回は冷静でいられた。先ほどと同じように、どこかに脱出口があるはずだと考えたからだ。顔の高さで飛び回り、足元でうごめく虫たちに気を散らされながらも、部屋を見回す。

 ベッドのすぐそばの壁に、灰色の戸があった。

 虫たちを刺激しないように慎重に、それでいてなるべく素早く、戸へ向かう。避けきれずに何匹か踏みつぶしてしまったが、噛まれることも、刺されることもなく、目的地にたどり着いた。慎重に戸を開き、素早く潜り抜ける。

 そこは病室ではなかった。建物の中ですらない。

 草原だ。高い樹があちこちに生え、青々と伸びた雑草がそよ風に吹かれている。空は雲一つない快晴。戸の向こうに広がっていたのは、そのような世界だった。

 振り返ると、案の定、潜り抜けたばかりの戸は跡形もなく消えている。

 凪は途方に暮れた。

 毒を持つ生物の脅威から解放されたのは、もちろんうれしい。でも、ここはどこなんだ? 景色にまったく見覚えがない。病院の近くに、こんな広々とした草原はなかったはずだけど……。

 不意に、目の端に紅色のものを捉えて、凪は我に返った。

 紅色は、髪の毛を逆立てたような形をしている。ゆっくりとした速度で、凪がいるほうへ近づいてくる。あまりにもゆっくりすぎて、見つめているだけではなかなか正体が掴めない。

 近づいてみようか。やめておこうか。

 迷っていると、なにかが弾ける音がした。とたんに、凪は命の危険を感じた。音を立てたのは、少しずつ近づいてくる紅色。ようやく正体がわかった。

 炎だ。

 理解した瞬間、頬にかすかな熱を感じた。移動するスピードが少し上がった。炎は体のあちこちから、ヘビの舌のように小さな炎を噴き上げながら、草原に唯一存在する人間へと一直線に近づいてくる。

 凪は炎に背を向けて走り出した。

 背丈に迫るほど高い雑草をかきわけながら、疾走する。

 走っても、走っても、熱さは遠ざからない。

 何度肩越しに確認しても、紅色の塊は前回見たときよりも近くにある。何度か走る方向を変えてみたが、結果は同じだ。

 炎はどうやら意思のようなものを持っていて、凪を焼きつくそうとしているらしい。

 このままでは、餌食になるのは時間の問題だ。

 あと一歩でパニックになりそうな心を必死になだめながら、逃げ道を探した。一つめと二つめの病室のように、この草原にも必ず出口があるはずだ。そう信じた。

 炎に焼かれて死ぬのは、絶対に痛い。絶対に苦しい。絶対に嫌だ。なんとしてでも、生きたい。

 息が苦しくなってきたころ、進行方向の地面に巨大な穴を見つけた。人をすっぽりと呑みこむくらい大きな穴だ。

 出口だ、と凪は直感した。

 穴はどのくらい深いのかも、どこに繋がっているのかもわからない。飛びこむのは、はっきり言って怖い。しかし、もう走れないくらい足が疲れているし、炎は凪のすぐ後ろまで迫っている。

 とうとう穴が目の前まで来た。勇気を振り絞って、足を下にして穴に飛びこんだ。

 凪の体を浮遊感が包んでいる。炎が弾ける音が遠のいていく。穴にまでは入ってこられないらしい。穴の中の空気は春の早朝のように冷たく、少し肌寒い。さっきまで熱を放つものから追われていた彼は、ほっと息をついた。

 ――それにしても。

「穴はどこに通じているんだ……?」

 心の底から疑問に思った、次の瞬間、浮遊感がふっと消えた。同時に、両足に固いものが触れた。穴の終点に降り立ったのだ。

 立方体の薄暗い空間だ。一瞬病室かとも思ったが、こちらはうんと狭く、面積は四畳くらいしかない。空間の中央には、一基の黒塗りの棺が置かれている。ふたは取り外されていて、床に寝かせてある。

 中をのぞきこんでみると、空っぽだった。死体はもちろん、花びらのひとひらも、髪の毛の一本すらも入っていない。

 この棺は、七海の遺体を納めるためのものなのでは?

 そう疑った瞬間、凪は激しいめまいに襲われて気を失った。


 気がつくと、凪は自室のベッドの上にいた。

 有害な生き物がひしめく病室から脱出し、追いかけてくる炎から逃げ、暗い部屋で空っぽの棺を見たのは、すべて夢だったのだ。

 あんなにも荒唐無稽で非現実的な現実を、僕はどうして現実だと思いこんでいたのだろう? ただの間抜けなやつじゃないか。

 思わず苦笑してしまったが、すぐに真顔になる。棺は七海が入るものかもしれない、と疑ったことを思い出したからだ。

 あの棺に、七海に直接結びつく要素はなかった。棺がかもし出す死の雰囲気が、大病をわずらい、死を抱えた七海と結びついたのだろうか?

 気がかりなのは、広い意味で同系統の夢――すなわち、七海の死を予感させる悪夢を二回連続で見たことだろう。

 悪夢を見せたのが岩永の仕業だとすれば、彼女はいったいなにを企んでいるのか。

 岩永は無関係なのだとしても、悪夢が二回続いたのだから、不吉であることには変わらない。凪は予知夢も夢占いも信じないが、とても嫌な予感がする。

 たとえば、七海の死期が近いとか……。

 凪は七海のことをまだなにも知らない。雑談をする中で、プライベートについては断片的な情報を得ているが、病気に関する情報は皆無に近い。重い病気なのだろうと察しはつくが、現時点で詳しいことはまったくの不明だ。

 僕はたぶん、なにはともあれ、病気について七海にたずねてみるべきなのだろう。

 でも、それはとても勇気がいることだ。

 もし不治の病だったら? 死に至る病だったら? そう考えただけで、体が震える。とても、とても、恐ろしい。

 勇気を振り絞ってたずねてみるべきか。それとも、本人の口から説明があるまで待つべきか。

 結論を出せないまま、凪は自宅を発った。


「凪くん、こんにちは」

 七海はベッドの上から凪を出迎えた。表情は柔らかく、体調も機嫌も悪くないように見える。

 今日は病室に岩永月夜の姿はない。

「ところで凪くん、そのレジ袋はなに?」

 七海は凪が右手に提げているものを指差した。彼はそれを胸の高さまで持ち上げ、

「ゼリーだよ。桃のゼリー。コンビニで二人ぶん買ってきたんだけど、食べる?」

「うん、食べる! 凪くん、座りなよ」

 凪は丸椅子に腰を下ろし、袋からゼリーの容器とプラスチックのスプーンを取り出して手渡す。七海はさっそく容器を開け、ひと匙すくって食べた。

「冷たい! おいしい! わたし、ピーチ味が好きかもしれない。ありがとう、凪くん」

「どういたしまして」

 凪も自分のぶんを取り出し、容器のフタを剥がす。

「正直、病気で入院している人だからゼリーっていうチョイスが、なんとなく安直な気もしたんだよね。病院食でも普通に出るだろうから、ありがたみがそんなにないかな、と思ったんだけど」

「ううん、そんなことない。ゼリー、わたしはすごく好き。そもそも、凪くんがわざわざ買ってきてくれた時点で、それがなんであっても文句はないよ。ていうか凪くん、食べるの遅くない?」

「七海が早すぎるんだよ」

 小さなスプーンをせわしなく動かし、夢中で食べる姿はほほ笑ましく、凪は幸せな気分になった。ただ、七海に注目する時間が長いせいで、自分の食事がおろそかになる。そのせいで、あっという間に自分のぶんを平らげた彼女に、物欲しそうな目で見つめられながら食べる羽目になった。

「そんなに見ても、あげないよ。自分のぶんは自分で食べたいし」

「やめてよ、そんなこと言うの。食い意地が張ったかわいそうなやつみたいじゃない。たしかに、甘いものには飢えてるけど」

「やっぱり食べたいんだね。次に来るときもなにか買ってくるよ。ゼリーとはまた別の甘いものを」

「ほんとに? やった! 凪くん、ありがとう」

 やがて、凪のゼリーの容器も空になった。

「凪くん、手を洗いにいこうよ。べたべたするでしょ」

 空き容器をレジ袋に片づけたところで、七海はそう言ってベッドから下りた。病室にある洗面所はスルーし、病室を出る。おや、と凪は思ったが、黙ってあとについていく。

「ゼリーを選んだ理由は聞いたけど、そもそも凪くんは、どうしてお土産を買おうと思ったの?」

 半歩前を歩く七海が問うた。凪は少し考えて、こう答えた。

「変化が欲しかったんだ。七海は遠出ができないから、毎日同じような生活が続いているんじゃないかって思ったんだよ。だから、いつもとは違う体験をしてほしい。でも、冒険をして迷惑をかけたら元も子もないから、無難に食べ物を買っていこうかなって」

 変化。それを求める気持ちは、「七海のことをもっと知りたい」という思いと繋がっているのだと、発言したあとで気がつく。

 家を出る前に凪は、七海の病気についてなにも知らない自分に気がついた。知りたい気持ち、知るのが怖い気持ち、両方あることをたしかめた。どちらも同じくらいの強さだと思っていたが、病院に来て七海としゃべっているうちに、どうやら後者のほうが強いらしいとわかった。

 ……でも。

 凪は自分で自分に問いかける。

 お前はそれでいいのか? なにが七海を苦しめているのかがわからないままで、ほんとうにいいのか? 怖いと思う気持ちのほうが強くても、変化を求める気持ちがあるのはたしかなんだろう。それなのに、行動を起こさないままで、お前は満足なのか? 後悔しないと胸を張って言えるのか?


「凪くん、ちょっと中庭まで行ってみない?」

 手洗いを済ませて廊下で合流してすぐ、七海が提案した。

「いきなりだね。どうして?」

「わたし、体調がいいときはよく中庭まで行くんだ。わたしが普段どんな景色を見ているのか、凪くんにも知ってもらいたいなと思って」

「ということは、今日は体調ばっちりなんだね」

「そういうこと。折り鶴を折るのは帰ってからにしようよ」

「そうだね。じゃあ、案内してもらおうかな」

「やった! それじゃあ、行こっか」


 七海はエレベーターを素通りし、階段を下りはじめた。

 いわく、運動不足を少しでも解消するために、上り下りは基本的には階段を使っている。体調はよくないがどうしても外の空気を吸いたいときは、看護師に付き添ってもらってエレベーターで移動するそうだ。

「そこまでして行くこともあるんだ。いい場所なんだね、中庭は」

「凪くん、それと同じようなこと、公園に出かけたときにも言ったよね。わざわざ行き先に選ぶくらいだから、いい場所なんだろうね、みたいなセリフ」

「そうだったっけ」

「そうだよ。実際はそんなに広くない、ありふれた中庭なんだけどね。気軽に遠くには行けないぶん、ちょっとでも体調がいい日は外に出ておきたくて」

 七海としては、ありのままの思いを口にしただけなのだろうが、凪の心は陰った。もしかすると彼女は、そう遠くない将来、中庭に気軽に足を運べなくなるくらい、病気が悪化してしまうかもしれない。そんな悲観的な考えが胸を過ぎったからだ。


「はい、到着です」

 二人の足が止まり、淡い花の香りが凪の鼻孔をくすぐった。

 話をしたり、考えごとをしたりしながらの移動だったので、気がつくと屋外にいたという感じだった。目の前に広がっているのは、四方を建物に囲まれた、広々とした空間。芝生に覆われた地面の上に、レンガ造りの花壇と木製のベンチが配置されている。

「きれいに整備されていて、雰囲気が明るくて、いい感じだね」

「でしょ? 今は誰もいないから、二人占めしちゃおう。お気に入りのベンチがあるから、そこに行こうよ」

 花壇のあいだを縫って移動する。導かれた先にあったのは、木陰に置かれた二人がけの木製のベンチ。

 着席したが、二人ともしゃべり出さない。七海を横目にうかがうと、毛先を指でもてあそんだり、景色を眺め回したり、上半身だけで軽いストレッチのような動作をしたりと、どこか落ち着きがない。

 普段一人でこの場所で過ごすときは、いつもこんな感じなのだろうか? しゃべらないのは、一人のときは黙って過ごすことが多いから? それとも、実は体調が悪くてしゃべる元気もない?

 今日は考えごとばかりしているな、と思う。

 せっかく七海と二人きりなのだから、もっと楽しみたい。それが本音であり、理想だ。

 しかし、胸に抱えている謎を解消しない限り、それも難しいかもしれない。彼女の体をむしばんでいる病気とはなにか、という謎を。

 七海だって、ほんとうは僕に病気のことを打ち明けたいけど、勇気がなくて言い出せないだけなのかもしれない。

 だったら、なおさら、僕のほうから病気のことをたずねるべきだ。

「凪くん」

 話しかけようとすると、逆に話しかけられた。七海は、ほんの少し首をかしげて凪を見つめる。

 その顔は、彼がなにを考えているのかを見抜いていた。そして、求めていた。

『凪くんが隠しごとをしているのはわかっているよ。わたしはもう気づいているから、これ以上隠す意味はない。だから、言って。言いづらいかもしれないけど、思い切って打ち明けて』

 眼差しが、そう訴えている。

 目頭が熱い。凪は洟をすする。なにもかもを見透かされているのなら、隠す意味はない。見透かされているのに隠しつづければ、七海を傷つけてしまう。

 いい加減、前に進もう。

 凪は七海の目を見返して、深くうなずく。そして、話しはじめた。

 悪夢のこと。病気のこと。後者に触れるほうが心理的な抵抗感が強かったので、まずは前者から切り出してみる。

「実は、七海が出てくる夢を見たんだ。荒唐無稽なんだけど、噛みしめれば噛みしめるほど怖くなってきて、単なる夢だと笑い飛ばせない、そんな夢で」

 凪は語った。棺の夢はもちろん、大蛇の夢も、細部までしっかりと記憶に残っている。だから、最初から最後まですらすらと語れた。

「生贄にされる女性……。空っぽの棺……」

 七海はひとり言のようにつぶやき、うつむいていた顔を持ち上げる。

「生贄にされたのも、棺に入るのも、両方わたしだよね。つまり、わたしは死ぬ運命にある……」

 表情を見れば、ショックを受けているのは明らかだ。

 当たり前だ。自分が死ぬ夢を見たと言われて、気分がよくなる人間はいない。重い病を抱えている身だからこそ、受けたショックはより大きかったはずだ。

『僕がそんな内容の夢を見たのは、君が重い病気をわずらっているからだよ。七海のことをもっと知るためにも、病気について詳しく知っておきたい。七海もつらいと思うけど、正直に打ち明けてほしい。どんな現実も受け止める覚悟はできているから』

 凪がそう話を繋げようとすると、

「わたしは――」

 七海がおもむろに薄桃色の唇を動かした。発せられた言葉は、凪がまったく予想していなかったものだった。

「わたしは凪くんが創作した架空の人物であって、実在する人物じゃない。夢の中でわたしがそんな目に遭ったのは、人間は悲劇を好む習性を持つ生き物だから。創られた存在であるわたしには、自分が生きる物語を選択する権利は与えられていない。わたしが願うのは、ただ一つ。レム睡眠からノンレム睡眠へと速やかに移行すること」

「……七海? 君はなにを言って――」

「わたしがなんの病気で入院しているのか、凪くんは知らなかったよね」

 混乱が冷めやらないうちに、話題が変わった。心臓を鷲掴みされたかと思った。

「とても珍しい病気だから、病名を言っても凪くんはわからないと思う。たしかなのは、脳の病気だということ。そして、あと一か月の命だということ」

 ――嘘だ。

 つぶやいたはずの言葉は、声にはならなかった。

 嘘であれば、どんなによかっただろう。しかし、七海の眉根をかすかに寄せた顔は、「信じたくない気持ちは理解できるけど、嘘を言っているわけではないとわかって」と、静かに、それでいて切に訴えていた。

 七海は脳の病気をわずらっている。

 そのせいで、あと一か月しか生きられない。

 たった一か月の、命。

「ごめん。今日はもう、凪くんの顔は見たくないし、話をしたくもない」

 七海はそっぽを向いて告げる。

「今日のところはもう、帰って」


 砂を噛むような日常が凪のもとに戻ってきた。

 彼の心を暗く淀ませるのは、木花七海だ。七海は脳の病気をわずらっていて、あと一か月しか生きられない。その事実に、彼はひどく苦しめられている。

 間接的にとはいえ、事前に知ることができた情報は決して少なくなかった。死に至る病かもしれない、不治の病しれない、という予想はしていた。酷薄な現実を受け止める覚悟はできていたつもりだ。

 しかし、まさか、こんなにもショックを受けるなんて。

 いっしょに会話し、遊び、笑い合った大切な人が、あと一か月で死んでしまう――。

 向き合いたくない、しかし向き合わざるを得ない現実と、どう向き合えばいいのか。

 凪にはそれがまったくわからなかった。岩永にも話したように、身近な人間がもうすぐ死ぬという状況に直面したのは、これが初めてだ。その意味からも、混乱し、戸惑い、苦しんでいる。

 眠るのが怖かった。七海の死を連想させる夢を見たのが原因で、七海の余命が一か月になってしまったわけではないのは、もちろん理解している。それでも怖かった。恐怖は理屈では治療不可能な感情なのだと、身をもって知った。

 一睡もできなかったわけではない。ただ、本格的な眠りからは遠かった。眠っていた、あるは眠りそうになっていたと気がつくたびに、眠ることへの恐怖が高まり、眠りはますます遠のく。


 やがて世界は朝を迎えた。

 平日だから今日も学校がある。しかし、行きたいとは思わない。可能なら、このままずっとベッドの上で過ごしたい。

 学校に行きたくない。凪は毎日そう思っている。しかし今日は、ただそう思うだけではなく、考えを実行に移した。彼が体調不良以外の理由から学校に行かなかったのは、これが初めてだ。

 登校時間になっても部屋から出てこない息子に、両親は一言も声をかけずに出勤した。凪はほっとしたような、さびしいような気持ちになった。

 朝食も、昼食もとらないまま、刻一刻と時は過ぎていく。

 やがて、いつもT市民病院に行く時間が近づいてきた。

「明日も病室まで行く」と、言葉で約束したわけではない。しかし、「今日は帰って」という七海の最後のセリフをひっくり返せば、「明日も来ていい」になる。つまり七海は、凪が来たいなら来ても構わないと思っている。

 しかし彼は、病室に足を運ぶ気にはなれない。理由は、眠れないことと同じく、「恐怖」の一言で説明できた。

 どんな顔をして会いに行けばいいのだろう?

 なにを話せばいいのだろう?

 七海はあと一か月も経てば死んでしまう。そうと知りながら、昨日までと同じように振る舞うなんて、無理だ。

 悶々としているうちに、自宅を発つ時刻になった。しかし、体は動かない。鉛のように重たくて、動かそうとしても動かせない。

 やがて凪は、今日は病院に行くのはやめよう、と心に決める。

 一日くらい、会いに行かなくても構うものか。この機会を逃すと一生会えなくなるわけではないのだから。

 方針を決定したとたん、眠気が襲ってきた。

 凪はもう、眠るのが怖いとは思わなかった。まぶたを閉ざし、心地よい脱力感に身を任せた。


 眠りに落ちる寸前、凪はノックの音に我に返った。

 最初、聞き間違いではないかと疑った。しかし、それを否定するように、ふたたびノックの音。凪の自室のドアだ。

 おかしい、と首をかしげる。両親が帰宅する時間はまだ先だし、凪の家まで遊びにくる友人は一人もいないのに。

 じゃあ、誰が僕に会いにきたんだ?

「凪くん、いるの?」

 にわかには信じられなかった。夢を見ているのではないかと疑った。しかしこの声は、間違いない。

「返事がなくても、いるのはわかっているよ。ねえ、中に入ってもいい?」

 凪が返事をするよりも早く、ドアノブが回る。ドアがゆっくりと、大きく開かれる。訪問者の全身が露わになる。

「……七海」

 木花七海、その人だった。

 凪は呆然としてしまった。七海のほうから凪に会いにくる可能性は、まったく頭になかった。

 七海は赤い花柄のパジャマに身を包んでいる。その顔は、深い悲しみに包まれていて、今にも泣き出しそうだ。

「凪くんは、わたしにとって太陽なの」

 声は震えている。潤んだ瞳で凪を見据えながら、一語一語をはっきりと発音しながらしゃべる。

「だから、来てくれないとさびしい。お願いだから、部屋から出て。病室まで来て。わたしに顔を見せて」

「病室に行かない」という凪の対応を、七海はとても深刻に捉えているらしい。

 七海と会うか会わないかの問題が大切なのは、凪も同じだ。しかし、思いの強さにはかなりの差があるようだ。

 七海は病気のせいで気軽に外出できない。凪に会いたいと思っても、凪が会いにきてくれなければ、願いを叶えられない。だから彼女にとって、凪が病室に来るか来ないかは大問題なのだ。

 そんな当たり前のことに、凪は今までまったく気がつかなかった。

 病気の体に無理を強いてまで、会いにきてくれる。

 七海はそんなにも、僕のことを大切だと思ってくれているのに、僕は――。

「お礼に、わたしからも支払うね。こんなものしか持っていないけど、わたしの中で一番価値があるものだから」

 七海はおもむろにパジャマのボタンに触れた。一番上のボタンだ。

 なにをしようとしているのかを、凪は瞬間的に悟った。頭に血が昇った。七海へと猛然と駆け寄る。

 一番上のボタンを外し終え、その下のボタンに触れようとしていた右手の手首を、凪の手が掴んだ。ごく短い距離を走っただけなのに、息が切れた。

 七海は切なそうな表情で凪の顔を見返す。彼は右手にこめた力を緩めた。

 見つめ合う視線を逸らすことなく、凪は言葉を探す。そのあいだ、七海はずっと黙っていた。

 やがて彼は言った。

「だめだよ、七海。軽々しく裸を見せちゃいけない。僕に言うことを聞かせるために、君が犠牲を払う必要はないよ。だから、そんなことは二度としないで。もっと自分のことを大事にして。……ね?」

 七海の目に見る見る涙がたまっていく。あっという間にあふれ出し、頬を滑り落ちた。透明な雫は、照明の光を受けて輝きながら床に落ちた。

 しばらくのあいだ、七海は泣いた。洟をすすらずにただ涙を落とす、とても静かな泣きかたで。

 しばらくしてから、凪はそっと右手を離した。彼女は自由になったばかりの右手で、パジャマのボタンをとめた。

 二人の視線が交差する。

 七海は泣きやんでいる。涙の跡が残る顔で、凪の顔をじっと見つめる。その眼差しは、さらなる言葉を求めている。彼は期待に応えた。

「七海は、僕のことを太陽だって言ってくれたけど」

 七海から目を逸らさずに、凪はしゃべる。

「公園でも少し話したように、僕はそんな立派な人間じゃないよ。親からはなかば見捨てられて、学校ではいじめを受ける寸前の、なんの取柄もない落ちこぼれだ。そんな僕を、七海はどうしてそんなにも高く評価してくれるの? あのとき、君を助けたのが僕だから? きっとそれも一因ではあるんだろうね。でも、目の前で誰かが血を吐いて倒れたら、誰であってもその人を助けると思う。僕があのとき病院の前を通りかかったのは、単なる偶然だ。それなのに、どうして?」

「偶然」という言葉が出た瞬間、七海の顔はわずかに歪んだ。その意味が、凪にはわからない。

 沈黙は一分近く続いた。終わらせたのは、七海の声だった。

「凪くんに伝えたいことはたくさんあるけど、上手く言葉にできない。でも、凪くんが好きだっていう気持ちは嘘じゃない。だから、だから――」

 涙がぶり返した。上半身を大胆に凪に近づけ、両手で服にしがみつく。

「わたしの命が尽きるまで、ずっと、ずっと、わたしに会いにきて。そうしたら、わたし、消えてなくなるのだとしても――」

 すべてを言いきらないうちに言葉が途切れた。凪が七海を抱きしめたからだ。

 七海の体は柔らかく、温かい。誰かを抱きしめるのは、凪にとって初めての体験だ。自分から人肌のぬくもりに触れ、味わう。言葉で言い表せないくらいすばらしい体験なのだと、身をもって知った。

 これから何度も、何度でも、こうして七海を抱きしめよう。求められるたびに、必ず、欠かさず、七海が満足するまで。

 心の中で誓いを立てたのを境に、凪の意識は遠のきはじめた。

 彼は困惑した。決意したことと、その現象が発生したこととのあいだに、なんの因果関係もないからだ。抗うべきなのか、身を任せるべきなのか。どちらが正解かがわからないという意味でも混乱した。

 遅いような速いような時間の流れの中で、凪はやがて諦めた。またたく間に、彼の意識は闇に呑みこまれた。


 暗黒は一瞬で晴れた。

 凪がまぶたを開くと、自室の天井が視界いっぱいに映った。

 枕元に置いてあった携帯電話で時刻を確認する。昼下がりと夕方の中間、中途半端な時間帯だ。

「……夢、か」

 体を起こす気力が湧かず、視線の向きは天井のまま息を吐く。

 夢の世界にいるあいだは疑問に思わなかったが、目覚めてから振り返ってみると、不自然な点がいくつもある。七海が凪の自宅の場所を知っていたこと、パジャマ姿で出歩いたこと、凪に裸を見せようとしたこと……。

 七海はたしかに、子どもっぽいことを言ったりしたりすることがよくある。しかし基本的には理性的に、常識的に振る舞う人だ。夢の中での彼女の行動は、あまりにも突拍子がなさすぎた。

 こんな夢を見たのも、七海が持つ「力」のせいなのだろうか? 岩永月夜看護師の「力」が見せたのとは違って、悪夢とはいえないかもしれないが、精神的に疲れるという意味では同じだ。

 凪は岩永と一対一で対話して以来、岩永の「力」から七海を守らなければ、と強く思うようになった。それがまさか、七海の「力」に悩まされるとは。

 これから僕は、僕たちは、どうなってしまうのだろう? 密度の高い不安が心にのしかかる。

 それでも凪は前を向く。

 岩永さんの「力」だろうと、七海の「力」だろうと、僕は負けない。あの日心に誓ったように、なにがあっても七海を守り抜く。ただそれだけだ。

 ふと気がつくと、いつも家を出る時間まであと半時間を切っている。

 今日も病室へ行こう。七海と会って、話し合おう。彼女の病気について。今までに見た夢について。そして、今後のことも。

 逸る気持ちは抑えられそうにない。凪は自宅を発った。


「凪くん、こんにちは」

 七海は今日も笑顔で出迎えた。

 凪はあいさつの言葉を返すのがワンテンポ遅れた。七海の笑顔が少し陰っているように見えたからだ。

 岩永看護師は今日も病室にはいない。

 休憩室で話をしてからというもの、岩永は凪の前に姿を見せていない。一度、夢の中に現れたが、あくまでも夢であって現実ではない。

 仕事が忙しい? それとも、凪や七海をひどい目に遭わせようと、虎視眈々と計画を練っている?

 浮かび上がってくる考えは不吉なものばかりで、だんだん暗い気持ちになっていく。

「そのレジ袋、もしかしてお土産?」

「そうだよ。チョコレートのお菓子。コンビニで買った、どうってことない安物だけど」

「全然いいよ。わたしのために買ってきてくれただけで、むちゃくちゃうれしいから。ありがとう、凪くん」

「どういたしまして。……ところで、今日も外出は無理そう?」

「うん。公園に行ったあと、いろいろな数値が予想以上に悪化したらしくて、当面はやめておきなさいって岩永さんから言われているの。今すぐに命がどうこうとか、そういうレベルではないんだけどね」

「……そっか。それは残念だね。そろそろまた二人で遊びに行きたいと思っていたから」

「岩永さんも、わたしがお出かけしたい気持ちは理解してくれているみたいだし、きっとチャンスはあると思う。気を取り直して、今日はお菓子を食べたり、お話をしたり、折り鶴を折ったりする日にしようよ」

 余命がつきるまでに、あと何回、二人で外出できるのだろう。あと何回、病室で二人きりの時間を過ごせるのだろう。

 胸が苦しくなったが、凪は感情を抑えつけてうなずいた。

 他愛もない話をする。チョコレート菓子を食べる。折り鶴を折る。

 ただそうするだけの時間が、凪には歌い出したくなるくらい楽しい。七海も同じ気持ちらしく、笑顔が絶えないし、よくしゃべる。

 今日のところは、楽しく話をするだけにしよう。七海に関わる重要事項については、また別の機会に話せばいい。

 交わす言葉の数と、完成した折り鶴の数が増えるほど、凪の中でそんな思いが高まっていく。

 考えてもみろ。あと一か月も生きられない少女に、心にダメージを与えるような話を振るのが、人間として正しい振る舞いなのか?

 言わないでおこう。今はまだその時期ではない。もう一か月しかない、ではなくて、まだ一か月もある、と考えるべきだ。今はただ、七海とともに過ごす時間を味わい、噛みしめ、堪能しよう。

 いったんはそう結論した。

 しかし、気分は快晴からはほど遠い。

 ほんとうにこれでいいのか? 割り切れないものを内に秘めたまま七海と接する限り、七海と過ごす時間を心から楽しめないのだから、まずは問題解決に全力を注ぐべきでは?

 この前みたいに、僕が悩みを抱えていることを、七海が見抜いてくれればいいのに。

 そんな身勝手な心の嘆きに、七海はまったく気がついていないようだ。

 他愛もない話をしながら菓子をつまんでいるうちに、箱の中身は空になった。それを機に、二人は本格的に折り鶴作りに取りかかった。一羽、また一羽と、鶴が完成していく。

 七海と過ごす時間そのものは、文句なしに快いだけに、かえって苦しい時間となった。彼女に不愉快な思いをさせたくないので、できる限り感情は表にしないようにした。しかし、上手くこなせている自信はない。むしろ、下手くそな努力をしているのが災いして、滑稽な空回りを演じている気がする。

 それなのに、七海はなにも指摘してこない。

 なぜなのだろう、と考えて、すぐに気がつく。

 七海も、自分にとって重要な問題から逃げているのだ。自分の命があと一か月だという事実と向き合いたくないから、自分からは触れないようにいているのだ。中庭での告白は、例外中の例外。事実は伝えたからこれ以上触れないでね、という意味での告白だったのかもしれない。

 何食わぬ顔で会話を続けながらも、凪は深く安堵していた。

 七海が現状維持を望んでいるのだから、そうしよう。僕が見た夢のことは、打ち明けない。七海の病気や命の問題について、議論はしない。今はただ、二人で過ごす時間をめいっぱい楽しもう。

 これは逃げじゃない。七海が望んでいることだ。

 だから、これでいい。

 そう結論してしまうと、心が大幅に楽になった。とたんに眠気が襲ってきた。気を抜くとすぐにでも眠りに落ちてしまいそうな、強力な睡魔だ。

 凪は戸惑ったが、窓から射し込む日射しの温かさに気がつき、なるほどと納得した。今日は早めに家を出たので、日射しがいつもよりも強く、それが眠気を誘ったのだ。

 凪がうとうとしていることに気づいていないらしく、七海はしゃべりつづけている。彼女の明るい声は耳に心地よくて、眠気は転がり落ちるように悪化していく。

『わたしはしゃべりたいからしゃべるから、凪くんは眠りたいのなら眠ればいいよ』

 まるで、そう言ってくれているかのようだ。

 その言葉に甘えて、凪はまぶたを閉じた。


 市場は喧噪に包まれている。

 テントを張った店。わずかな面積の敷物を広げただけの店。通路が狭いせいで、人々はみな窮屈そうに移動している。威勢のいい客引きの声と、人々の話し声が混ざり合う。売られているものの多様さも相俟って、混沌とした雰囲気だ。

 騒々しい空間の通路を、凪は一人、あてもなく歩いている。

 凪は欲しい商品の売り場を探していた。ただ、その商品がなんなのかが彼はわかっていない。だから、陳列された商品を吟味しながら会場を隈なく歩き回り、目当ての商品に巡り合うのを待っていた。

 市場の広さを思えば、願いが叶う確率は低いかもしれない。しかし、必ず手に入れられると彼は信じていた。根拠はない。ただなんとなく、きっとそうなると楽観していた。焦りも不安もなく、ひたすら歩きつづけた。

 立ち止まって売られている商品を見ている人のせいで、ただでさえ狭い通路はさらに狭くなっている。そんな中、一軒だけ、誰も客がいない店があった。興味を覚えた凪は、その店の前で足を止め、なにが売られているのかを目で確認した。

 危うく叫び声を上げるところだった。

 薄汚れたゴザが敷かれた売り場の中央に、二人の若い女性がたたずんでいる。どちらも粗末なねずみ色の服を着ている。一人の髪の毛は真っ赤で、もう一人は真っ黒。どちらの首にも銀色の首輪が取りつけられている。二人とも瞳は虚ろで、死んだ魚の目のようだ。

 服装こそ違うが、間違いない。黒髪は木花七海で、赤髪は岩永月夜看護師だ。

 二人は凪を見てもなんの反応も示さない。直立不動でたたずむ姿は、まるで魂を抜かれたかのようだ。

「奴隷をお買い求めですか」

 声をかけられた。二人が並んで立つその奥から、何者かが進み出てきた。

「まだ若いのに、珍しい。いや、若いからこそ、ですかな」

 金色の派手な服を着た、でっぷりと太った中年男性だ。ひげをたくわえた顔には、人のよさそうな柔和な表情が浮かんでいるが、どこかうさんくさいオーラが全身からにじみ出ている。金もうけのためなら手段を選ばないやり手の商人、といった雰囲気だ。

「どのような奴隷をお探しで? といっても、当店ではこの二人しか販売していませんが」

「僕は未成年なんですけど、売ってもらえますか?」

「もちろんでございます。ちなみに、手持ちのお金は?」

 正直に金額を申告すると、店主は笑顔を一ミリも崩さずにうなずき、

「問題ありませんよ。ただし、どちらか一人だけになりますが」

 どちらか一人。

 その言葉を聞いた凪は、無意識に七海に注目していた。

 つまり、今までは不明だった「買いたかった商品」は木花七海、ということになる。

「凪くん!」

 突然、七海が凪へと身を乗り出して大声を発した。

「一人ぶんのお金しかないんだったら、わたしを買って。気が合うわたしを買ったほうが、凪くんの人生はきっと充実するよ。だから、買ってよ」

 七海の声は、普段凪と過ごすときのように明るく、生き生きしている。対照的に、顔には表情というものがなく、そのギャップが彼を戸惑わせる。

「この子じゃなくて、私を買ってくれないかな」

 今度は岩永看護師が話しかけてきた。口調は淡々としていて、顔に浮かぶのは七海そっくりの無表情だ。

「あなたと木花さんを結びつけてあげたのは、他の誰でもない私よ。私を買えば、木花さんを買わなくても、実質的に木花さんを手に入れたようなもの。だから、私を買って」

 凪は助けを求めるように店主を見た。しかし、他人行儀な営業スマイルが返ってきただけだった。

 二人はもうなにもしゃべらない。二人の意見を参考に、凪が自分の意思で決めるしかないのだ。

 凪が買いたいと思っているのは、断然七海だ。一方の岩永は、「力」を使って七海を苦しめている。七海からもらった折り鶴を台無しにしたし、夢の中で七海を殺そうとした。親しみという意味では、圧倒的に七海が上だ。

 ただ、「私を買えば七海も手に入る」という岩永の発言は、とても魅力的に感じる。

 懸念は、あまりにも話が上手すぎることだろう。二人とも手に入ると言っているが、実際には一人も手に入らないような、そんな気がしてならない。

 凪は迷いに迷った末、先に欲しいと思ったほうを買うことにした。

「それでは七海を、若いほうの奴隷をください」

 そう告げて、七海を見た。

 視線が重なると、彼女は口角を吊り上げた。

 笑顔といえば笑顔なのだろう。しかし、選ばれたことを無邪気によろこんでいる様子ではない。

 凪ははっと息を呑み、今度は岩永の顔を見た。岩永の顔は、七海の顔に変わっていた。逆に、さっきまで七海だった顔は岩永の顔になっている。

 さっきまで岩永の顔だった七海の顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。選ばれなかったことを悲しんでいる。

 僕はとんでもない過ちを犯してしまった!

 途方もないショックが凪を襲い、見る見る気が遠くなっていく――。


 目が覚めると、凪は七海の病室にいた。

 ベッド脇の丸椅子に座っている。窓外に広がる空の青さも、射しこむ午後の日射しの温かさも、眠りに落ちる前となに一つ変わらない。

 同じなのは、ベッドの上に七海がいることもそうだ。色とりどりの折り紙が散らばり、完成した折り鶴が何羽も置かれていることも。

 ただ一つ、違うところがある。

 七海は泣いている。声を上げずに涙を流しながら、ときどき洟をすすり上げる、という泣きかたで。

 彼女はおもむろに凪のほうを向いた。涙を拭おうとはしない。泣き顔を恥じらい、隠そうとする素振りは見られない。唇が動いた。

「凪くんが醜いわたしを選んだから、わたしは死ななければいけなくなった」

 先ほどまで見ていた夢のことを言っているのだ、と察した。ただ、その発言がなにを意味しているのかまではわからない。

 そもそも、他人が見た夢を把握しているというのは、どういうことなのか。

 まさか、これも七海が誘発した「不思議な現象」?

 そして、「わたしは死ななければいけなくなった」という宣言。

 泣いているとはいえ、取り乱しているわけではないのに、きっぱりとそう宣言した。

 ということは、つまり――。

「ごめんね、凪くん。嫌だけど、怖いけど、わたしは死ななければいけないの」

 突然、七海の体が赤いものに包まれた。

 凪の脳裏に、七海と出会ったときの光景――大量の血を吐いて横たわる彼女の姿が甦った。その映像は一瞬で消滅し、あざやかな赤が視界を埋めつくした。

 炎だ。

 凪は椅子を蹴って立ち上がり、何歩か後ずさりした。

 炎に焼かれるのは恐ろしい。誰だってそうであるように、凪だってそうだ。

 しかし、苦しんでいる七海を放ってはおけない。放っておくわけにはいかない。

 ――助けないと!

「七海! 七海!」

 もしできるなら、炎を両手でかきわけて七海に駆け寄り、救い出したかった。しかし、恐怖がじゃまをする。ナースコールで助けを呼ぼうかとも考えたが、ボタンはすでに炎の中にあって手を出せない。

 凪が狼狽しているあいだにも、火の勢いは見る見る強まる。もはや、彼一人の力ではどうしようもない。助けを呼ぶべきだ。病室を飛び出そうとすると、

「凪くん、待って」

 驚いて振り向いた。凪の目に映ったのは、灼熱の炎に焼かれながら、ベッドの上で正座をしている七海の姿。燃え盛る炎のせいで表情が読みとりにくいが、泣きやんでいる。炎の中にいるのに、まったく熱がっていない。

 彼女は折り鶴を折っている。普段となに一つ変わらない、熟練した指づかいで。

「やっぱり折り鶴を折るのはいいね。心が落ち着くから、死ぬことなんて怖くなくなっちゃった」

 七海の口ぶりは、まるで我が身を焼き尽くそうとするものに包まれてなどいないかのようだ。凪は困惑しながらも、叫ばずにはいられない。

「なにやってるんだよ、七海。どう考えても、折り紙遊びをしている場合じゃないだろう。君は今、炎に焼かれているんだよ。熱いでしょ? 痛いでしょ? 苦しいでしょ?」

「ううん、全然」

 軽やかな返答だった。声からは、恐怖も、不安も、無理をしている様子も感じられない。

「今は折り紙を折りたい気分なの。だから、そうさせて。わたしの意思を尊重して」

「尊重って、そんな場合じゃないだろ。七海は炎に焼かれているんだよ? このままだと、死んでしまう。病気が君の命を奪うよりも先に、炎に奪われてしまう。熱くなくても、痛くなくても、苦しくなくても、死んでしまったら元も子もないよ。だから助けを――」

「必要ないよ。だってわたしは、凪くんが見ている夢。いつか必ず消滅する運命なんだし、生身の人間ではないから苦痛は感じない。そして、わたしは折り鶴を折りたいと思っている。だから、これでいいの。このままでいいの」

 夢? 七海が、僕が見ている夢だって?

「七海、それってどういう……」

「言葉どおりの意味だよ」

 紙を折る手を止め、人間らしい目で凪の顔を見返しながら、七海は答えた。手元の赤い折り紙は、すでにちゃんとした鶴の形に変わっている。

「今まで凪くんがわたしといっしょにいるときに、わたしたちのあいだに起きた出来事の数々、思い出してみて。血を吐いて倒れるとか、ジュースの色が魔法みたいに変わるとか、リアルで残酷な夢を何度も見るとか。どれもこれも現実離れしていたでしょ。ベクトルは違うけど、非現実的という意味では共通していた。

 じゃあ、どうして、そんな出来事が何度も起きたの?

 理由を一言で説明するとね、夢というのはそういうものだからだよ。

 わたしや岩永さんのように、常人離れした『力』を使える人間が普通に存在する。奇妙な夢だって毎日のように見る。矛盾に満ちていて、荒唐無稽で、なんでもあり。それが夢の中というものなの」

「七海、言っている意味が――」

「言葉どおりの意味だよ。わたしたちが過ごした時間は夢の中の出来事であって、現実ではない。ちょっとまぎらわしい言いかたをするなら、夢の中の現実に過ぎなかったというわけ。あれも夢、これも夢、それも夢、どれも夢……」

「嘘だ。夢なんかじゃないよ。夢だなんて、信じられないよ。だって僕は、君の声や表情をこんなにもリアルに感じているし、炎の熱さだって非現実のものとは思えない」

「わたしが言ったばかりの言葉、もう忘れちゃった? そういうものだからだよ。夢っていうのはね、なんでもありなの。そう感じたいと思えば、なんの障害もなくそう感じられる。

 だけねど、凪くん、現実ではないの。あくまでも夢の中の現実であって、現実そのものではない」

 凪は口をつぐんだ。いくら反論しても手応えがなく、食い下がっても無駄だと思ったのだ。

「――というわけで、わたしは死ぬわけだけど」

 七海は炎に焼かれながらほほ笑む。

「凪くんは悲しまないで。こんな言いかたをするのはちょっと悲しいけど、しょせんは夢なんだから。夢だったっていう事実、凪くんには悪いほうじゃなくて、よいほうに解釈してくれるとうれしいかな」

「そんなことを言われても、無理だよ。受け入れられないよ」

 反論ではない。凪はただ、率直な思い吐露しているだけだ。

「とにかく、七海がちょっと特殊な存在だっていうのはわかったよ。わかったっていうか、認めざるを得ないとは思う。君が言うように、君は僕が創り出した夢であって、現実世界に生きている人間ではなくて、もうすぐ消えてしまう。それは事実なのかもしれない。でも、だからといって、そう簡単には受け入れられないよ。だって、非現実のはずなのに君はこんなにもリアルだし、それに――生身の人間だっていつかは死ぬじゃないか。人間だろうが、想像の産物だろうが、大きくは違わない。だったら、なんで七海が夢なんだ。現実の存在じゃないんだ。おかしいよ、こんなの」

 ぶつけたい思いはまだまだある。しかし、上手く言葉に変換できない。手間取っているうちに感情がこみ上げてきて、自分がなにを言いたかったのかがわからなくなった。

「まったく同じは不可能だけど、そっくりな夢ならまた見られる可能性もある。だから、永遠のお別れじゃないんだよ」

 七海の口ぶりは、まるで癇癪を起こした我が子をなだめる母親だ。

「そう考えれば、悲しみは消えないのだとしても、慰めにはなる。そうでしょ?」

「でも、だからって……」

「やっぱりお別れはつらい? そうだよね。悲しいものは仕方ないよね。その感情、ゼロにする力はわたしにはないけど、慰めてあげることならできる。はい、これ」

 七海は手にしているものを凪へと差し出した。

 真っ赤な折り鶴。炎に焼かれながら折った一羽だ。炎は今も七海を包みこんでいるが、掌の上の折り鶴はまったく燃えていない。

「触っても熱くないよ。熱さを感じるなんて、ありえない。だってこの子は、そういう星のもとに生まれたんだから」

 七海はきっぱりと断言した。

「わたし、折るのに慣れているから、とても簡単に作っているように見えるでしょ? スピードだけを見ればそうかもしれないけど、どの子も愛情をこめて作ってる。一羽だって例外はないよ。特にこの子は、自分がもうすぐ消えるってわかったあとで作ったから、わたしそのものと言ってもいいかもしれない。だから、この子さえそばにいれば、凪くんは今後、なにがあったとしても生きていける。凪くんも言ったように、人は誰しもいつか必ず死ぬけど、でも、今はそんなことは考えなくていい」

 七海は白い歯を見せてほほ笑む。凪の目から涙があふれ出した。受けとろうと伸ばした両手が震える。

「命をかけて産んだわたしの子ども、大事にしてね。……さようなら」

 突然、炎が消えた。七海のまぶたが閉ざされる。体が前に倒れ、ベッドから落ちそうになる。手から赤い折り鶴がこぼれた。反射的に動いた凪の体は、紙製の一羽を両手に包んだ。

 彼女の体が床に落下した。折り鶴を左手に持ち替え、右手を伸ばしながら凪は叫ぶ。

「七海!」


 映像が断ち切られ、視界は薄汚れたクリーム色で満たされた。

 まぎれもなく、凪の自室の天井だ。

 天井を見つめたまま、凪はさきほどまでの体験について振り返る。

 夢。

「全然気がつかなかった……」

 夢から覚めるまで、病室での七海とのやりとりが夢だったことには。

 その一つ前に見た市場の夢は、夢の中にいるときこそ自覚しなかったが、覚めてから振り返ってみると、「これは夢だ」と薄々感づいていたような気もする。

 しかし、今回の七海が突然炎に包まれる夢は、まったくの無理解、まったくの無自覚だった。

 ゆっくりと上体を起こす。枕元の携帯電話をとろうとして、その横に赤い物体が置かれていることに気がつく。

 折り鶴だ。燃え盛る炎のように真っ赤な、一羽の折り鶴。

 携帯電話ではなく、そちらを手にとる。手ざわり、重さ、ともに折り鶴のそれだ。鼻先まで近づけ、まじまじと観察する。無駄なしわも折れ目もなく、低いクオリティではないことが素人目にもわかる。

 間違いない。七海が折ったものだ。

 一瞬、炎の中で折られたものかとも思ったが、七海の体が炎上した時点で、凪はすでに夢の中にいたはずだ。

 今度こそ、携帯電話を確認する。現在時刻は、もう午後六時が近い。

 つまり、凪はすでにT市民病院まで行って七海と会い、帰宅している。

 病室で温かな日射しを浴びながら七海と言葉を交わし、折り鶴を作っているうちに、凪は眠ってしまった。七海に揺り起こされた彼は、少し早いが帰ることにした。赤い折り鶴を手土産に帰宅したが、まだ眠気があったので、ベッドで眠った。そして、七海が炎に包まれて焼け死ぬ夢を見た。

 憶測を交えて推察するならば、おそらくそのような経緯だったのだろう。

「――いや、おかしい」

 思わず、声に出してつぶやいていた。

 なにかがおかしい、と思う。しかし、具体的にどこがおかしいのかまではわからない。

 七海の死がテーマという意味では、過去の二つの夢と同じだ。しかし、前の二つは死を匂わせるだけだったが、今回の夢では実際に焼死している。

 七海は今、どこでなにをしているのだろう?

 もう一度携帯電話を確認したが、誰からも連絡は来ていない。

 岩永月夜看護師からのメッセージが届いていないということは、七海の身には何事もないはずだ。それとも、連絡を入れるひまさえないくらい大変な事態が起きている? あるいは、なにか起きたのはたしかだが、岩永がその事実を隠ぺいしている……。

 真相は不明だが、いずれにせよ岩永が鍵を握っている、というのが気がかりだ。なにせあの看護師は、「力」を使って七海を苦しませている犯人かもしれないのだから。

「七海……!」

 居ても立ってもいられず、凪は部屋から飛び出した。

 七海に会いに行こう。一日に二回行くのはこれが初めてだが、そんなちっぽけなことに構っていられない。どうだっていい。

 七海に会いたい。

 一秒でも早く、大好きな人の顔が見たい。


 世界は急速に夜に向かいつつあった。

 病院までの道のりを急ぐ凪の心を、不安と焦燥がさいなむ。二つの感情はゆっくりと、しかし着実に膨らんでいく。

 杞憂であってくれ。大好きな七海の笑顔が、行き着く先で待っていてほしい。

 今度こそ、僕が見た夢のすべてを打ち明けよう。七海には、彼女のすべてを教えてもらおう。僕に不都合な真実が明らかになることを、もう恐れはしない。七海なら、僕の心配性を明るく笑い飛ばしてくれる。きっとそうだ。

 T市民病院の前まで来た。

 足を止めた凪は、愕然として立ち尽くした。

 病院の建物が消えているのだ。

 建物がこの場所に存在していた痕跡すら見当たらないから、「取り壊された」ではなく「消えた」と表現するべきなのだろう。残っているのは、病院の敷地だった長方形の土地と、それを囲むレンガ造りのフェンス、そしてわずかばかりの植木のみだ。大きな建物がなくなると、敷地は実際の二倍も三倍も広く見えた。

 あまりにも非現実的な光景だ。

 いつ、誰が、なんの目的で病院を消したんだ? ほんの一・二時間前までたしかに存在していた建物を、跡形もなく消し去るなどいう離れ業が、現実的に可能なのか?

 無限に湧いてくるクエスチョンマークと格闘する中で、凪は気がつく。

 病院なんてどうでもいい。七海だ。七海はどこへ消えたんだ? 病院が消えたのだとしたら、病院で生きることを余儀なくされている彼女は、どうなってしまったんだ?

 凪はあたりを見回した。敷地の地面の中央に、巨大な穴がぽっかりと口をあけていた。薄暗さにまぎれていたとはいえ、すぐには気づかなかったのが不思議なくらいの大きさ、そして存在感だ。

 凪は口の中にたまった唾を飲みこみ、穴へと歩を進める。

 おぞましさ、近づきがたさは感じたが、それでも入ってみようと思った。病院の周りに、異変らしい異変はこの穴くらいしかない。穴に入れば、七海の行方のヒントが見つかる。きっとそうだ。

 穴の入口からはぬるい冷気が立ち昇っている。直径は五メートルほどで、緩やかな下り道になっている。凪は中に足を踏み入れた。

 道は直径を一定に保ちながら、奥へ、奥へと続いている。下り坂の角度は二十度ほどで、少し急になることもあれば、ほぼ水平になることもある。入口から見たときは真っ暗だったが、足元の様子くらいならば確認できるので、歩行に支障をきたすことはない。

 空洞はどこまでも続く。先は見えない。体の奥で大人しくしていた不安と焦燥が、またうごめきはじめた。

 ほんとうに、この先に七海はいるのだろうか。いないのだとしても、行き先に関するヒントは落ちているだろうか。……もしかして、これは罠なのか?

 ふと顔を上げると、進路が少し明るくなっている。

 鼓動が高鳴りはじめた。罠かもしれない、という疑いが手品のように消滅した。凪は足を速めた。

 通路の直径はだんだん狭くなっていく。逆に、視界はだんだん明るくなる。

 とうとう足が止まった。

 穴の終点にあったのは、板状の岩でできた戸。明るさの正体は、戸の隙間から漏れている白い光だった。

 ……戸の内側になにかがいる。正しくは、なにかがいる気配がする。七海なのか、そもそも人間なのかさえもわからないが、とにかくなにかが。

 考えられる行動は、三つ。ノックをするか。隙間からこっそり中をのぞくか。思い切って戸を開けてしまうか。

 悩む凪の耳に、かすかな音が届いた。反射的に聴覚に全神経を集約させた。――誰かがすすり泣いている。

「七海……?」

 戸越しに、大声でも小声でもない音量で呼びかけた。

 返事はない。すすり泣きは続いている。

 絶対に七海だ、と確信した。凪のことを知らない人間であれば、彼の声を聞いた瞬間に少なからず慌てたはずだ、というのがその根拠だ。

「七海、そこにいるんでしょ。……どうして泣いているの? 体調は大丈夫なの?」

 声を少し強めたが、やはり反応はない。返事がないうえに泣いているのだから、嫌な予感しかしない。きっと、笑顔ではないのだろう。

 だとしても、一刻も早く七海の顔が見たい。

「七海、帰ろう。迎えに来たから、僕といっしょに帰ろう」

「どこへ?」

 聞こえてきたのは、まぎれもなく七海の声。全身が熱くなった。

 なんとしてでも、この場所から彼女を救い出さなければ。心はその思い一色になった。

「僕の家だよ。病院がなくなっても、帰る場所までなくなったわけじゃない。一生僕の家にいろ、なんて言うつもりはないよ。これからのことは、心が落ち着きを取り戻したあとで考えればいい。だから、帰ろう」

「無理だよ。わたしは死んでしまったから、もう凪くんがいる世界には帰れない」

「返事ができているってことは、生きているんだよ。だから帰れるよ。僕といっしょに帰ろう」

 不毛なやりとりが続く。どうすれば彼女のかたくなな心を変えられるのかが、凪にはわからない。言葉を交わせば交わすほど、七海が七海ではなくなっていくような、そんな気がしてならない。

 とうとう、七海はなにも言い返さなくなった。

 凪は粘り強く説得の言葉を重ねたが、やがて口をつぐんだ。恐ろしい静寂が一帯を支配した。

「凪くん、少し待ってくれないかな」

 聞きとるのもやっとの小声で七海はつぶやいた。

「外に出るには準備が必要なの。少し時間がかかるから、待ってくれない?」

「いいよ。時間が必要なら、いくらでも待つよ。どのくらい待てばいいの?」

 返事はない。

 凪はひんやりとした壁にもたれ、ひそやかにため息をついた。七海が出てきてくれるまで、待つ。選択肢はそれしかなさそうだ。

 凪は待った。待ってさえいれば、七海は必ずや戸を開いて姿を見せてくれる。そう信じて、待った。

 ときどき衣擦れのような音が漏れ聞こえるだけで、準備のために体を動かしているようには思えない。

 それでも待ちつづけた。嘘をついて騙しているのかもしれない、とは疑わなかった。彼女が言った「準備」とは、心構えのことを言っているのではないかと考えたからだ。

 我慢強く、かなり長時間待ったが、七海は出てこない。

 待っているあいだになにかトラブルが起きて、出てこられなくなったのだろうか?

 それとも、まさか、僕を試している?

 七海は、自分で戸を開けるのではなくて、僕に開けてほしいのかもしれない。僕が自分の手で戸を開く。それこそが、七海が外に出るために必要不な手続きなのかもしれない。

 推理が当たっている自信はなかったが、試してみようと思った。

 戸に手をかけ、音を立てないようにゆっくりと右方向にスライドさせる。隙間の幅が十センチほどに広がった。白く清潔そうな空間の床に、なにかが横たわっているのが見えた。

 七海だ。七海が床に仰向けに横になっている。

 しかし、いつもの彼女ではない。髪の毛は焼け焦げ、顔面は焼けただれ、衣服は融け落ちている。

 まるで炎に呑みこまれ、命を失う寸前に助け出されたかのような……。

 凪が見た夢の中で、七海は真っ赤な炎に包まれていた。しかし、現実ではその悲劇は起きていないはずだ。

 これはいったい、どういうことなのか。

 七海の体が動いた。ゆっくりとした、しかし迷いのない動きで首を回し、戸のほうを向いた。二人の視線が重なった。

 七海は双眸を見開いた。悲しみ、憤怒、どちらでもあってどちらでもない表情が、焼けただれた顔に浮かび上がる。凪は鳥肌が立った。

「……どうして。待っていてって言ったのに、どうして見たの」

 震えを帯びた声は、悲しみと憤り、正反対の感情を同時に表現していた。凪は気圧され、一歩二歩と後ずさりをする。

「わたしはもう死んだの。この世界から帰れないの。だから、凪くんもこの世界で暮らそうよ。永遠にいっしょに暮らそう。ねえ、凪くん。凪くんってば……!」

 ゆっくりと体を起こし、酩酊したような足どりで歩み寄ってくる。呑まれる、と思った。凪は戸に背を向けて走り出した。

 戸を開ける音が後方で響いた。それに続いて、走って近づいてくる足音が聞こえてきた。

 凪は加速した。恐ろしかった。それ以上に、呑まれたくなかった。

 七海はもはやこの世界の人間ではない。直視するだけでも毒だし、触れられたら自分が自分ではなくなってしまう。絶対に追いつかれてはならない。逃げなければ。遠ざからなければ。

 凪は走って、走って、走る。持てる力をすべて費やして、走りつづける。

 七海が走るスピードは速く、全力疾走しても引き離せない。だんだん脚が疲れてきた。息が苦しい。それでも、走るしかない。

 あんなにも会いたい、顔を見たいと願った七海から、今は逃げている。炎に身を焼かれたような姿に変わっていた。ただそれだけの理由で。あんなにも仲睦まじく交流してきた人なのに。あんなにも楽しい時間を共有してきた人なのに。

 僕は薄情なやつなのだろうか?

 逃げるのをやめて、七海と向き合うべきなのでは?

 迷いながらも、凪は走りつづける。走って、走って、走りつづけて、

 とうとう穴の外に出た。

 世界は、穴に入る前と代わり映えしなかった。入る前よりも少し、空が暗くなっているくらいで。

 穴と敷地の出入り口の中間地点で足を止めて、体ごと振り向く。七海は穴の出口付近にいるらしい。彼は身構えた。

 しかし、出てこない。姿がぎりぎり見えない位置に留まったまま、動こうとしない。

「……七海?」

「人間は」

 七海の声が聞こえた。なにかを悟ったような、身震いしそうになるくらいに静謐な声。

「人間は、誰しもいつか必ず死ぬ。だけど、死ぬまでになにかを生み出せば、死後もこの世界に残ることができる。だから、人間は子どもを産むし、ノートに詩をつづるし、洞窟の壁に絵を描くの」

 凪は不吉な予感がした。その原因は、語り手の姿が見えないことなのか。話の内容なのか。それとも語り口なのか。

「だからわたしも、あと少しの命だとわかっていたけど、折り鶴を折ってきた。生きた証を残すために折ってきた。だから、凪くんも」

 名前を呼ばれて、唐突に理解する。

 これは、別れの言葉だ。

「凪くんも、なにかを生む人になって。形あるものでなくても、すぐに消えてしまうものでも構わないから、この世界になにかを生み落として。そうすればきっと――ううん、絶対に、この世界で生きる意味が見つかるから」

「でも……。でも僕は、誰かに誇れるものを生んだことがないよ。なにを生むのも下手くそだよ。折り鶴だって、七海に教わらなかったらきれいには折れなかった」

 凪は泣きそうだった。七海と別れなければならないのが悲しいから。別れる運命は自分の力ではどうしようもないから。

「なんの取柄もない僕に、なにか生み出せるのかな。なにを残せるのかな。わからないよ。全然わからない」

「大丈夫だよ。凪くんならきっとできる。そのなにかは、凪くんが見つけるしかないから、わたしからは教えられない。でも、きっと見つかるよ。諦めなければ、いつかきっと見つかる」

「ほんとうに? 僕にはそうは思えない」

「だとしても、きっと見つかるよ。わたしが言うんだから間違いないって」

 明るく言いきったその声に、凪はありのままの七海を見た。夢の世界で呼吸をする彼女でも、余命一か月だと打ち明けてからの彼女でもなく、それ以前、病室で談笑しているときの七海を感じた。

 七海のことがおぞましいとは、もはやまったく思わない。今、穴の中にいるのは、もとは木花七海だった異形ではなく、木花七海の姿をした木花七海だ。そう確信できた。

「わたしがあげた赤い折り鶴、大事にしてね。焼けちゃって、もうあの一羽しか残っていないから。それから――」

「ちょっと待ってよ、七海」

「ん? どうしたの?」

「どうしたの、じゃないよ。だって僕たち、永遠にお別れなんだよ? 平常心でいられるはずがないじゃないか」

「わたしは平気だよ。だって、これが運命なんだから」

「運命って、なにがいけなかったの? 僕はどこで間違ってしまったの? ……もしかして、僕が君から逃げたから? あれは試験のようなもので、僕は間違った選択をしたということ?」

「凪くんは正しい道を選んだよ。だって、わたしはもう死んでいるんだから。死者と生者が交わる方法は、生者が死者に歩み寄るしかない。それってつまり、死ぬっていうことだからね」

「もう死んでいるって……。余命は一か月っていう話だったじゃないか。命はまだ残っているはずじゃないの? ていうか、七海がすでに死んでいるのなら、僕たちがこうやって会話できているのはなぜ? いろいろおかしくて、おかしいことだらけで、意味がわからないよ」

「その一言を聞いて安心した。異常事態を異常事態だと思えるのは、凪くんはこちら側の人間じゃないという証明だから」

 相変わらず姿は見えないが、七海が相好を崩したのがわかった。

「言いたいことがどんどん出てくるね。言いつくしたと思っても、次から次に湧いてくる。まあ、それが当たり前なのかもね。だってわたしたちは――」

 突然、その現象は発生した。

 穴が消えたのだ。

 七海の気配もろとも。

 一瞬にして、跡形もなく。

 先ほどまで穴があった場所には、穴があったときにも穴の周囲に広がっていたような、なんの変哲もない地面がある。そこに穴があったことを知らない者が見れば、ただの殺風景な空き地だとしか思わないだろう。

 そんなことよりも、凪にとって重大なのは――。

「七海が、消えた……」

 まだしゃべっている途中なのに、消えた。「話したいことがある」と言っていたにもかかわらず、消えてしまった。

 それって、ようするに――。

「根鈴くん」

 後方から聞こえてきた声に、凪は体ごと振り向く。

 病院の敷地の出入り口に、制服姿の岩永月夜看護師がたたずんでいる。感情が表に出ないように押し殺しているが、そのせいで人を見下しているようにも感じられる、冷ややかな表情になっている。

「会うのは久しぶりね。根鈴くん、木花さんとは仲よくしていたけど、私のことは避けていたものね。なにが原因なのか、さっぱりわからないけど」

「……岩永さん。自分の勤務先が消えているというのに、どうして平然としていられるんですか」

「状況はおおむね理解しているようね」

「病院を消したのも、穴の奥に七海を閉じこめたのも、七海ごと穴を消し去ったのも――岩永さん、あなたの仕業ですね」

「穴に引きこもったのは木花さんの意思よ。私は関与していないわ。だけど、それ以外はすべて正解」

 岩永看護師は真っ赤な髪の毛を耳にかけ、その手を自分の左胸に宛がう。

「私が持つ『力』は、任意の対象に圧力をかけること。圧力の強さは自由自在に調節できて、弱い圧力だと、私に対してただプレッシャーを感じるだけ。圧力を最大にまで高めると、対象の存在そのものを消し去ることができる。そして、消したものは二度と復元できない」

 七海とはもう、二度と会えない。

 話ができない。

 笑顔を見られない。

 激しくこみ上げてくるものがあった。突き動かされるままに、咆哮しながら岩永に突進する。彼女は肩の力を抜いてその場にたたずんでいる。あっという間に、手を伸ばせば触れられる近さにまで来た。

 凪は右拳を振り上げ、岩永の顔面を目がけて振り下ろす。それに応じて、岩永は右手を彼へと突き出した。

 凪と岩永とのあいだで白い光が弾けた。二つの金属の表面同士を高速でこすり合わせたような音が鳴った。

 手応えは、ない。

 凪は自分の右拳に注目した。

 手首から先が消えていた。五本の指も、手の甲も、掌も、みんななくなっている。

 消えた部分と残っている部分の境界線は、まるで鋭利な刃物で切断されたかのように平らで、グロテスクな断面を晒している。それでいて、血は噴き出していない。さらには、痛みがまったくない。

 岩永がただ単に「消す」能力ではなく、「存在そのものを消し去る」能力だと説明したことを、遠い過去の出来事のように思い出した。

 見せつけられ、突きつけられたのは、圧倒的な力の差。

 そして、自分一人の力では絶対に岩永を倒せないという、凪にとって不都合な、しかし厳然として動かしようがない現実。

 絶望感に押しつぶされて、凪は大地に膝をつく。二つの瞳から雫がこぼれ落ちたのが、頬をくすぐる感覚から把握できた。

 凪は力なく顔を上げる。岩永はかすかに口の端を吊り上げた。

「安心して、根鈴くん。あなたは消さないから」

 頭上から降ってきた声は、あざ笑うような響きを含んでいる。

「木花さんのような目にあわせるつもりはないから。木花さんのように、永遠に甦れない、なんていう目にはね」

 凪は無力感を覚えた。絶望よりも深く、重い、無力感だ。

 僕は、七海が一か月経てば死んでしまうことに対して、なに一つ有効な手を打てなかった。

 そして、七海が永遠に消えてしまったことに対しても、なに一つ有効な手を打てずにいる。

 僕は、なんて無力な人間なのだろう。

 こんな現実、受け入れるのは嫌だ。

 この現実が、夢だったらいいのに。

 ……夢だったら。

 心の中で復唱した瞬間、天啓が舞い降りた。

 それは、絶望の中の光。無力感の大海原を漂流しているさなかに見つけた、希望が封じられた小瓶。

 これが夢の中なら、自力で状況を打開できるはずだ。大蛇に襲われる夢だって、炎から逃れる夢だって、「死んでしまった七海」を直視する場面は回避した。直視する寸前に夢を終わらせられた。夢を見ている張本人である凪が、七海が死ぬところを見るのが嫌だったから。おそらくは、ただそれだけの理由で。

 病室で七海が炎に包まれる夢では、息絶える場面まで放映された。残念ながら、絶対に回避できるわけではないのだろう。

 しかし、光を見つけたことで、凪は今気力が漲っている。かつてないほど漲っている。

 やってやるぞ。この手で岩永月夜を倒してみせる。

 なにかに導かれるように、凪は自分の足元に視線を落とした。透明感のある水色の液体が、直径二十センチほど地面に溜まっている。凪が流した涙だ。

 人の目から流れた涙にしては色がおかしいし、土に吸いこまれずに水たまりを作っているのもおかしい。

 ここが夢の世界だからこそ、こんな非現実が現実と化しているのだ。

 凪はふたたび岩永の顔を見据えた。彼の中でなにかが劇的に変化したのがわかったらしく、岩永の顔から笑みが消えた。

「岩永さん。夢の中だからといって、あなたが七海にしたことは赦せない」

「赦せないんだったら、どうするつもり?」

「消えてください。僕の前から、永久に」

 手のない右手首を涙の水たまりにかざす。水を吸い寄せるイメージを脳内で思い描くと、液体は瞬時に刃へと形を変え、さらには手首と一体化した。闇にうっすらと立ち昇る白い冷気が、刃の素材が氷であることを伝えている。岩永の顔が驚愕に塗りつぶされた。

 凪は立ち上がる。異形と化した右手を胸の高さに構え、上半身から岩永の体にぶつかっていく。

 岩永は咄嗟に防御態勢をとろうとしたが、それよりも一瞬早く、氷の刃が彼女の左胸に深々と突き刺さった。手応えを感じた。刃は付け根まで人体に埋もれ、静止した。

 岩永は刃を急所に突き刺したまま、両目と口を大きく開けた表情で固まっている。口の端から一筋の血が垂れた。それを合図に、全身が小刻みに震えはじめた。血は胸の傷口からも流れ出ている。震えはだんだん激しくなっていく。

 凪は刃を引き抜いた。岩永は人形のように仰向けに地面に倒れた。体の震えがぴたりとやんだ。岩永の左胸に手を当てると、鼓動は止まっていた。

 刃はいつの間にか融けてなくなっている。

 なくなった右手は、戻ってこない。

 凪はため息をつき、移動を開始した。


 あらかじめこの場所に来ると決めていた気もするし、気がつくとこの場所まで来ていた気もする。

 足を止めた凪の目の前には、黄金色の橋が架かっている。通行する者は誰もいない。公園の中はどうやら無人のようだ。

 まずは橋を渡りきる。その直後、目の端になにかがちらついた。振り向くと、濠にたたえられた水の面に、色あざやかなものが映っている。

 折り鶴だ。いつの間にか凪の体に、無数の折り鶴が付着しているのだ。

 触れてみると、紙の手ざわりだ。折りかたは下手ではない。七海が折った折り鶴、だろうか。

 かなりの数だ。ひょっとすると千羽に達しているかもしれない。ありとあらゆる色の折り紙で折られているが、赤色の鶴は一羽もない。

 水際まで下りられる階段があった。鉄の鎖が入口を封じているが、またいで乗り越える。

 階段を下りきると、一畳半ほどのコンクリート製のスペースがある。柵などは設けられておらず、濠の水が断続的に縁を舐めている。

 水際まで移動し、地面に両手をつきながら片脚を水に浸ける。五月の夜の水は、想像どおり冷たい。どのくらい深いのかは、暗さのせいで判然としない。慎重に足を沈めていくと、つま先が底に触れた。靴底を水底にぴたりとくっつける。もう片方の足も同じようにつけて、コンクリートの陸地を掴んでいた両手を離す。水深は股間と腰の中間。靴底にぬめりを感じることなく、安定して立っていられる。

 凪は折り鶴を洗い流しはじめた。

 体に付着した折り鶴の数が減れば減るほど、七海にまつわる記憶が薄れていく。予想していたことではあったが、やはりさびしかった。総数は多いが、根気強く作業を続ける。やめようとは微塵も思わない。

 願わくは、最愛の人に思いを馳せる時間を作りたかった。

 しかし、ある瞬間を境に、自分にとって大切な人が木花七海であることや、その人が死んでしまったこと、二度とは戻ってこないことなど、七海にまつわるあらゆる情報をことごとく忘れてしまった。

 手品のように一瞬でゼロになるのではなく、だんだん薄れていくという形だったから、立ち止まるチャンスはあった。しかし、まだ大丈夫、まだ大丈夫と油断しているうちに、いつの間にか取り返しがつかない領域に足を踏み入れていた。取り返しがつかないことになった、という思いが湧くことすらなかった。

 僕はどうしてこんなことをしているのだろう? 詳しいことはまったくわからないけど、どうやら僕にとって大事な作業のようだから、とにかく完了するまで続けよう。

 そんな思いを胸に、黙々と洗い流した。

 ふと気がつくと、折り鶴は一羽も体に付着していない。

 凪は水から上がった。コンクリートの上にしばしたたずみ、階段を上ろうとして、水を吸った衣服の重たさ、そして歩きづらさに気がつく。水深は腰にも満たなかったが、前屈みの姿勢で作業する時間が長かったため、全身ずぶ濡れだ。上下ともに脱いで雑巾のように絞り、ふたたび身に着ける。階段を上り、虹色の橋を渡る。

 渡りきった瞬間、早く家に帰りたい、という思いに胸が満たされた。しかし、全身は気だるいような重苦しさに包まれていて、足腰が弱った老人のような速度でしか歩けない。

 早く帰りたい。早く、早く。

 もどかしかったが、現状、凪にはそれだけの力しか残されていない。だから、嫌でも老人の歩みで歩むしかない。

 移動距離の割に時間がかかったことを除けば、何事もなく自宅に帰り着いた。両親はまだ帰宅していない。二階の自室に直行し、服を脱ぎ捨ててベッドに潜りこむ。

 そして、飽きるまでノンレム睡眠を貪った。


 とても寝覚めがいい。そのせいか、今朝は天井がやけに清潔に見える。あくびのさいについ出てしまう間抜けな声を、凪は抑えこもうとはしなかった。

 枕元の携帯電話で現在時刻を確認しようとして、思いがけない物体が目に留まった。

 折り鶴だ。あざやかな赤い折り紙で作られた、一羽の折り鶴。

「どうして、こんなものがこんなところに……?」

 凪は折り鶴を右掌にのせ、首をかしげた。

 自分で折ったわけではない。プレゼントしてくれるような人間は周りにはいない。じゃあ、誰がこんなものを枕元に置いたんだ?

 考えてみたものの、心当たりはない。まるで雲を掴むようだ。

 ただ一つたしかなのは、凪にとって大切な人から贈られたものだ、ということ。

 なぜなら、見覚えのない物体が枕元に置かれているという状況に直面しても、凪は恐怖や不快感をまったく覚えていない。

 この世界のどこかに、僕を大切だと思ってくれる人がいる。クラスメイトからは軽んじられ、両親からは無視されている、こんな僕のことを。

 大切にもかかわらず、その人が誰かを思い出せないのは、悲しかった。悔やまれるというよりも、腹立たしいというよりも、さびしいように悲しかった。

 しかし、ネガティブな感情にいつまでも浸りつづけたりはしない。

 贈り主についての考察はすっぱりと放棄し、折り鶴を枕元に戻す。ベッドから下り、パジャマのボタンを上から順番に外していく。

 本日の凪は、彼らしくもなく気持ちが前向きだ。「自分を大切に思ってくれる人がいる」という発見に、心が弾んでいる。彼にとっては苦痛以外のなにものでもない、今日という一日を乗り切ってやろうという気分になっている。

 こんな僕を気にかけてくれた人がいる。その人を失望させないためにも、がんばらないと。その人が誰なのかはわからないし、がんばりを見てくれているかどうかもわからないけど、それでもがんばらないと。

 折り鶴をプレゼントしてくれた人は、ほんとうは凪のことなど大切ではないのかもしれない。しかし彼からすれば、真実がどうかなどどうでもいいことだ。

「いいじゃないか、夢くらい見ても」

 夢を見た本人が前向きに生きていけるのであれば、それで構わないではないか。

 友だちはいない。ふとしたきっかけでクラスメイトからいじめられるかもしれない。授業はつまらない。将来の役に立つかもわからない。それでも凪は学校へ行く支度をする。

 今日からは、昨日までよりも少し前向きに生きてみよう。後ろ向きな気持ちになることもあるだろうけど、なるべく前向きに。

 そうすれば、忘れてしまったその人のことを、いつの日か思い出せる気がするから。

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