第16話 王者の疑惑
(芯は……ある。消しゴムも綺麗で完璧…)
6月29日の勉強会から翌日、6月30日にていよいよ恐れ多くも待ち望んだ定期テストの時間がやってきた。
開始まで1分。幸村一葉は自身の文房具類に異常がないか、何度も確認する。
先日あれほど身に染みる勉強会をしたのだから今更、「え、えんぴつがないぃっ!!?」などというミスは許されない。細心の注意を払って一葉は状況を確認した。
(だ、大丈夫…勉強会の後家でも復習はしたし…その前の日だって何もしてなかったわけじゃない……)
彼女が張り詰めた思考を巡らせる内に、否応なくその時は訪れる。
「でぇ……ではぁぁ……はじめ?──」
──担当教師の気の抜けた掛け声とともに、生徒達の地獄への旅が幕を開けるのだった。
……
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問35 A〜Cの国の首都を答えよ(2×3)
A日本 Bアメリカ Cインド
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(あ、サービス問題じゃん!…これなら多分…)
テスト開始から2時間ほど、一葉は想像よりも順調に問題を解き進めていた。
最も苦手とする歴史の科目でも教師の優しさを感じる簡単な問題に当たり、危惧していた赤点のボーダーを乗り越えた。
化野川高校の定期テストでは、1日の内に基本科目5教科のテストを受けることになる。そして一葉が現在受けている歴史は数えて3つ目にして、最大の障害だ。それを乗り越えた一葉は、既にリレーでゴールテープを切った後のような達成感に包まれていた。
(ぁ、ダメだダメ……危うく調子に乗るところだった)
最大の鬼門を乗り越えたとは言え、幸村一葉は苦手教科に関わらず頭の弱い女子高生だ。
この程度の事で調子を上げていられるほど優れた人間ではない。
その後も彼女は決して気を緩めることなく、淡々と問題を解ていった。
◯
「ユッキー!!終わってみてどうだっタァ?」
「……バッチリだよ…」
全試験終了後、兎崎からの問い掛けに、どこか虚で不安げな表情で一葉は答えた。
「…ンゥ…言葉の割に浮かない顔してるネェ?」
浮かない顔。それは今の一葉の表情を表すのに最も適した言葉だった。
まるで風邪を引いた子供のように落ち着かない様子で、兎崎には彼女が何かに怯えているように見えていた。
「本当にどうしたのサ…もしかして用紙に名前書くの忘れちゃったトカ?」
「…それはテスト中に20回は確認したから大丈夫……」
(スゴイ回数確認してるネ)
「ホントのホントに……テストは何も問題なかったんだ……」
「…それ以外になにカあったってこと…ッ?」
「……」
深刻な面持ちのまま、一葉は口を閉じた。
しかしながら、兎崎の心配は全くと言って良いほどに的を射てはいなかった。
「ホントになんにも…悪いこと起きてないんだ…」
「………?」
兎崎の頭上に疑問符が浮かび上がる。何も起きていないのなら、何故目の前の少女はこれほどの不安を顔に浮かべているのか理解が出来ないのだ。
しかし彼女が思考を初めて数秒で、一葉から答えが告げられた。
「朝起きてから……今は午後の5時……おかしいんだ……」
「…ナ、何がおかしいノ?」
「てっきり…今日はテスト中だと思ってたんだ……」
「……だから何がナノ…?」
神妙な一葉の語り口に、凄まじい緊張がその場を包み込む。
しかし彼女が口にしたのはその緊張に見合わない、奇怪な答えだった。
「…今日1日…まだ何も不運な目に遭ってないんだ…」
「……?エ、ホントに何も起きてないの?ならなんでそんなに不安そうに──
「──いやっ!?あり得ないんだよぉ!!?私が1日の内に1度も不運な目に合わないなんてぇ!」
(…なんて悲しいことヲ断言するノ……)
幸村一葉は不運な少女だ。
それ故に彼女は毎日、1日に1度は必ず、何かしらの不幸に見舞われる。彼女本人にとってそれは確信的な事実なのだ。
「いくらユッキーが不運だって言っテも、毎日必ずってワケじゃないんじゃないノ?そんなに規則的に起こるモノでもないデショ?」
だからと言っても故に必ず毎日不幸が起きるわけがない。兎崎にとっても、世を生きる大多数の凡人にとっても、その考え方こそが自然だった。
しかし幸村一葉という少女には、そんな常識は当てはまらない。
「…これを見てもそんなこと言える…?」
その理屈の根拠を示す様に、一葉は机からノート一冊を取り出し、その記載内容を兎崎へ見せつけた。
「え…とコレって…エ……」
ノートの表紙を見て、兎崎は口を開いたまま硬直する。表紙の下部分には持ち主である幸村一葉の名前がとても丁寧な文字で記されていた。
だが上部分、所謂ノートのタイトルを記すだろう位置には名前と比較すると明らかに荒々しく太い文字が記されていた。
「…不運記録日記帳ォ……ぇ?ェ」
ノートのタイトルは不運記録帳。そこには幸村一葉が遭遇した、数百を裕に超える不幸体験が記されていた。
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─1ページ目
4月1日 今学期から私も高校2年生だ。とはいっても2年生からはまた転校、今度の学校こそは上手く馴染めるといいな。
だから布団を被ってないで早く部屋に入ってきたカラスを追い出さないとだね。
─10ページ目
4月10日 転校初日だ。いつも通り登校中に鳥のフンを被っちゃったけど変わったことはそれくらい。自己紹介の時少し噛んじゃったけど、転校初日は思いがけないほど上手くいった。
よかったー!
─19ページ目
4月26日 もう無理 なんかもう一気に学校いずらくなっちゃったじゃん。
なんでこうなるの。ちょっと理科室爆発させちゃっただけじゃん あんな目で見なくてもいいじゃん。
─21ページ目
4月30日 あいうえお、かきくけこ、なにぬねの、さしすへそ、らりるれろ、わをん、らりるれろ──
─22ページ目
5月2日 やっぱり平日の真昼に布団で寝てられるって最高だなぁ 何故か窓の外からカラスがずっと覗き込んで来てるけど全然気にならないないや
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「ん……えぁ、間違えたァ!!?」
一葉の絶叫と同時に、ノートは彼女の指で叩かれる。
「香織違う違うぅ!裏からだよぉ!! やめてやめて……それ読まないでぇ!! 色々頭が弱ってる時に書いたやつだから!! 本当に恥ずかしいヤツだからァ!!?」
「……本当にどうしヨウもなくなったら私がユッキーを養うからネ……」
「…真剣に憐れむのやめてぇ……」
思わぬ混乱は本来の議題を掻き消した。その数秒で場の空気は一転、幸村一葉がどれだけ不運で、どれだけ闇深い人生を送ってきたのかが想起される。
──しかしその数秒後、その場に生まれた幸村一葉を憐れむ空気さえも吹き飛ばす、とある事件が起こってしまう。
「田中!田中はいるかァ!!」
(え……?)
試験が終わり、一葉らを含む生徒達は各々の結果、反省を重ねていたのだ。そこには本来大人はおらず、生徒達の声しか聞こえない。教師の姿が見えることはない、平穏に包まれた生徒達の憩いの場なのだ。
しかし突然、歴史の担当教師利根川の声にその平穏は打ち破られる。そのうえ声には明らかな怒気が篭っていた。
「田中くん…って田中実くんだよ?」
利根川が呼ぶ者は田中、先日鬼離山に名を挙げられたばかりの田中実だ。
その田中を何故なのか利根川は呼び出そうとしている。
何故なのか、一葉達にはとても理解が及ばない。
「な、なんですか…?利根川先生」
(ぁ!?ぁそうか真後ろの子が田中くんだったよね……)
利根川の呼び掛けに、田中実は答え席を立つ。
存在感の薄さから一葉は、彼が自身の背後で本を読んでいたことにさえ気付いていなかったために少し驚いてしまったが、彼女がいたその教室内に田中実もいたのだ。
そして一葉の驚きなど関係なく、田中実は利根川のもとへ近づいていく。すると利根川は変わらずどこか怒りを感じさせる表情のまま、それまた衝撃の言葉を吐いたのだ。
「お前、カンニングしたんだってなァ?」
(ぇ……)
利根川の言葉とともに、談笑の声が聞こえていた教室に静寂が訪れる。
なぜか、ほんとうか、どうしてか、生徒達は各々考えを頭に浮かべる。
一葉も例に漏れることなく「ほんとうなの?」という思考が脳を埋め尽くした。
それにより田中実と利根川の会話にその場の全ての人間が注目することになった。
「してませんよ…なんで僕にそんな容疑がかけられたんですか」
田中実が呟くように利根川へ言葉を返す。
だが利根川と彼の問答がそこで決着することはない。
利根川は返答を聞き入れた上で、「では」というように会話を切り出す。
「お前に疑いがかかった理由は分かるだろ?そもそもお前はいくらなんでも高得点を取りすぎている。1年生の1学期、最初のお前からは想像できないほどにだ」
「それだけで……疑いを掛けられないとは思えません!」
(そ、そりゃそうだよ…)
それだけなら言い掛かりもよいところだろう。
しかし利根川はそれを疑えるだけの材料を持ち合わせていた。
「お前がテスト中カンニングをしていたと、何人かの生徒から通報があったんだよ。だったら教師が何も言わない訳にはいかんだろぉ。今すぐ調べさせてもらうぞ」
「えっ、ちょっと先生ぃ!!」
田中の応答も聞かないまま、利根川は彼の身なりを調べ始めた。
胸ポケットに手を伸ばしてそこから下半身衣服まで触れていき、ズボンの裏側さえ調べている。
そんな利根川の行動に、周囲の生徒達は半ば呆れたような視線を送っていた。
(正直、田中くんがカンニングなんてするとは思えないな……小柄で気弱そうだし……鬼離山くんも凄いって認めてたし)
幸村一葉は田中のカンニングを虚偽のものだと見積もっていた。その思考は何も彼女特有のものではなく、側に立っていた兎崎や、教室内のクラスメイトらもそうだ。田中実がそんな下劣な事をする人間には思えない。
きっとカンニングの証拠など見つからないのだろうと、その場にいたほぼ全ての人間が考えていた。
──そんな生徒達の視界に、ヒラリと小さな紙が映り込む。
「え…」
一葉の思考が途切れる。その目に映ったものは一体なんだ、なんだ、なんなんだ。すぐさま思い至った答えを口出すことはできず、彼女よりも先に、利根川が口を開いた。
「これはなんだ?」
「……ッ!」
(え、え、……本当に?)
利根川は縦横6cmほどの紙を指で挟み、田中へ突き出した。
それにはいくつかの歴史の必須単語が記されており、カンニングペーパーと呼ばれる物だと一葉の目には映った。
田中実の衣服を調べた際にそれは宙を舞った、それすなわち、
「これは十分カンニングの証拠になるな?」
「……ッまって下さい!何かの間違いです。こんな紙僕には覚えがッ──
「──とにかく、話は職員室でしようか田中」
彼の弁明は利根川の耳には入らない。
そのまま両手首を掴まれ高速され、田中は教室から連れ出された。
──これが僅か2分の間に起きた、今回の定期テスト1番の大事件だ。
そんな事件の後、利根川と田中が退室した後の教室では生徒達の憶測や不満が飛び交った。
「田中ってコスい奴だったんだなぁ。ろくに話したことないから知らなかったわぁ」
「いや多分なんかの間違いじゃね?あいつだいぶん貧弱で臆病なやつだ。去年体育祭のリレーで同じチームになったけどビクビクしてんのなんの…」
「そういうやつが意外とやってるって話じゃねーか」
「でも本当に意外だよね。かなりひたむきって言うか、真面目なんだと思ってたなー」
「そうだねぇ、顔も身長もあんまりだからアレだったけど、勉強できるから割と狙いどころかもとか思ったこともあるし」
「その勉強がズルかもだけど」
根拠などない生徒達の想像がクラスを埋め尽くす。しかし困惑や疑問は一葉や兎崎も同じだった。 本当に彼はカンニングに手を染めたのか。
「…ユッキーはどう思う?」
「分かんない…田中くんの声をちゃんと聞いたのが、今初めてだってくらいだよ……」
(鬼離山くんもとっつきにくいけど、田中くんはまともに話したことだってない……)
鬼離山も比にはならない。一葉は彼のほとんどを知らない、知りようがなかった。
記憶にある田中は、体育の時間マラソンの最中に酸欠を起こしている以外に思い浮かばない。彼女に判断が着くはずがない。
「ぁ、そうだ……よく知ってる人に聞けばいんだ!」
「ォ?あ!鬼離山くんカァ!!」
先日彼は田中実について彼女達に語った。一葉にはその語り口はとても一同級生に向ける言葉とは思えない。
つまり、鬼離山桃太は田中についてよく知っているはず、そう考えたのだ。
「早速聞きに行くヨ!ユッキー!!」
「え!?ちょっと待ってよ!!」
思い付いてすぐさま兎崎は飛び出し、追いかける形で一葉も駆け出す。
かなりの速度で走り出した2人は20秒程度で彼のいる2年1組の教室へ辿り着く。
そして教室の扉に手を掛け、躊躇することなく開いた。
「鬼離山くーーーーン!!いるーー??」
「え、急にどうしたの?兎崎さん」
「香織声大き……あれ、いないよ…鬼離山くん」
兎崎の叫びに1組の志村は思わず耳を塞ぐ。しかし彼女達はそれどころではなく、教室内を見渡し、鬼離山桃太の姿がないことに気付いた。
「アレ?志村さん鬼離山くん知らナイ?」
「鬼離山くんなら確か…テストが終わってすぐに教室から出て行っちゃったよ。なんだがすごい怖い顔してたんだよね」
(……怖い顔?)
幸村一葉にはそれがどんな表情なのか想像がつかなかったが、どうしようもならない不安に襲われる。
その後、兎崎は志村へいくつかの質問を投げかけたが、何一つ彼の居場所を知れる情報は得られない。
そんなやるせない空気のまま、彼女達は2年1組の教室を後にした。
田中実(16) 誕生日5月12日
身長162cm 体重51kg 血液型A型
化野川高校 2年2組 出席番号23番
所属部:なし 将来の夢:???
好きな食べ物:??? 好きな言葉:???
特徴:???




