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天使のささやき

作者: 照岡葉子

 地獄のような絶望が体にまとわりついていた。

 朝日が差し込めば、あまりにも遅く、鈍い夜が死んでいく。

 浩人はリビングに足を踏み入れ、重苦しい足の感覚に耐えきれず立ち止まった。線香の匂いが部屋には充満している。

 彼は目を見張った。

 夜が沈んだ場所に、朝日が昇る。

 リビングに置かれたソファには、誰かが寝ている。そう気付くと、鼓動が早くなるのを感じた。

 全身に駆け巡る血潮の感覚。やっと、今、自分の体が動き出したような気がした。

 ソファへと近付く。不思議と自分の動作がゆっくりに感じた。

 カーテンの隙間から僅かに光が差し込んでいる。その光は刺すように真っ直ぐに、ソファを照らしている。そっと覗けば、そこには端正な顔の少年が、朝日に目を細めて微笑んでいた。少年はゆっくりと浩人の方へ顔を向け、その心配そうな顔を見とめた。

 目が合うと、一瞬苦しそうな顔をした少年だったが、すぐに優しい表情にかわる。

 少年のまつ毛にやわらかな光が当たり、目元に影を落としている。

 少年はそっと浩人を見上げ、朝のやわらかな光を吹きかけるように、薄い唇を開く。

「ひろ兄、ぼく、死んじゃったんだ」

 少年のまつげに、きらめく涙の輝きが見える。

 朝日が昇る。

 白々しいまでの光。

 弟が死んだ四日後の朝、弟はそう言った。


「ほんとうに、ぼく、死んじゃったんだね」

 仏壇に置いてある自分の写真を見て、悠人は何事もないように呟いた。

 浩人はソファに深く腰掛けていた。横で一緒に座っている自分の弟は、身を乗り出して線香の煙を目で追っていた。

「覚えていないのか?」

 遠くで蝉の声が聞こえている。しかしそれは異様にくぐもって聞こえてくる。この家だけ、季節に取り残されたような冷気を感じる。

「あの時のこと」

 浩人が尋ねると、悠人はうーん、と唸った。

 その難しそうな横顔を見つめながら、浩人はぼんやりと思う。

(目の前にいるこの子は、誰だろう)

「思い出せないや。海にいた覚えはあるんだけど。気が付いたらここで目がさめたんだ」

 背もたれに体を預けて、悠人は窓から差し込む朝日を見た。

 そっと彼の横顔を見る。

 隣に座る少年は、あの写真と同じ顔をしている。優しい印象のやわらかな輪郭も、何にも興味を示す、黒々とした瞳も、濡れたように煌めく細い黒髪も。浩人がよく知る弟の顔と一緒だった。

「でもね、ひろ兄の顔を見たとき、死んじゃったんだ、って思ったんだ」

 薄い唇からつむがれるその声色は、記憶の中の弟と全く一緒だった。

 その言葉と、その表情に、浩人は息をのんだ。

「そう、安心したんだ」

 静かに口にした彼の言葉は、朝日にやわらかく溶けていくようだった。

(安心)

 悠人の言葉に、浩人は胸が痛んだ。

 隣に座っているこの子は、本当に自分の弟なんだろうか、と浩人は心の奥で懼れた。

 悠人の薄い唇はかすかに微笑んだ形をしているが、その純美な瞳には冷酷さが潜んでいる。

 もともと落ち着いていて、大人びた発言の多い子だと、浩人は思っていた。学校での様子はわからないが、成績が優秀であることと、その容姿の端麗さに一目置かれていたであろうことは想像できた。しかし、家の中では末っ子を発揮し、甘え上手なところを浩人に見せていた。両親に可愛がられ、厳しい性格の姉でさえ悠人に対しては甘やかすところもあったと思う。

 浩人自身、懐っこく後ろをついてくる弟のことを邪険に扱うことは一切なかった。

 その弟が、突然、家族の前から姿を消した。

 そうして海から引き上げられ、今こうして、曖昧な姿で浩人の隣に座っていた。

 悠人の視線の先を追う。鋭い夏の太陽が目をくらませる。

 浩人は生前の悠人をよく知っていた。それは兄だからだ。悠人が生まれたときからずっと彼を見てきたからだ。

 しかし、今の浩人の中には言い知れぬ不安があった。

(今、隣に座っているこの子は、一体誰だ?)

 ただ真っ直ぐ伸びる線香の煙。

 ぬるい風がカーテンをそっと揺らした。


 悠人は庭に出て朝顔を見つめていた。

 縁側に座り、学ラン姿の彼の背中を見つめる浩人。頭を揺さぶるような蝉の声が聞こえる。暑さにうなされた庭の土からはゆらゆらと視界を歪ませる熱が見える。

「今年の夏も暑いのかなあ……」

 誰にあてるでもなく、浩人は言った。じんわりと肌から汗が滲み出てくる。しかし、浩人には暑さを感じられなかった。

 太陽は真上にある。

「今年は朝顔、どこまで伸びるかな」

 高く伸ばされた支柱を仰ぎながら、悠人は楽しそうに呟いた。

「さあ、どこまでかな」

 何気ない会話に錯覚しそうになった。この子は幽霊なのだと、浩人は胸に刺すように思った。

 どうやら悠人の姿は浩人にしか見えていないようだった。

 父親にも母親にも、姉にさえも、悠人の姿は見えていないようだった。

 それ以前に、あの日から、家族全員によそよそしさがあった。

 これ以上傷付かないように、縮こまっているような。

「悲しみの置き場所って何処にあるんだろうな」

 浩人は呟いた。

「さあ、時間じゃないかな」

 朝顔の花を背にして、悠人は浩人の呟きに答えた。

 その返事に、浩人は押し黙ってしまった。

(よそよしいのは自分だって同じだ)

 目の前にいる少年に、どう接したらいいのか分からなかった。

 生きている頃よりも慎重だった。触れてしまえば夢だったように消えてしまうような気がしたのだ。

 しかし、悠人がここにいることが、本当に良いことなのかもわからなかった。

「暑いなあ……」

 頬を流れていく汗を感じて、浩人は思わず口にした。けれど、実際に暑さを感じているわけではなかった。弟がいなくなったあの日から、どうにも体の芯が冷たいような気がした。

「ひろ兄、ちゃんと寝てる? しっかり寝ないと夏バテしちゃうよ」

「お前は毎年夏バテしてたもんな」

「暑いのは苦手だったからね」

 悠人は恥ずかしそうに笑って小首を傾げた。

(だった、か)

 その言葉に、浩人は思わず自分の足元を見る。

「でも、もう関係ないもんね」

(笑えばいいんだろうか。一体、どんな気持ちでいれば)

 重苦しい心を感じた。

 その時、悠人が不意に声をあげた。

「見て、ひろ兄、猫だよ」

 悠人は細く白い指をすっと視線の先へ向けた。

 顔を上げて彼の言った先を見ると、黒い猫が一匹、花壇に身をすりつけながら近づいてきていた。

「この日陰によく来るんだ」

 水も撒いているからか、他の場所より少しは涼しいらしい。

「おいで」

 弾んだ声で悠人は猫を呼んだ。しゃがんで手招きをする。

 猫はじっと悠人を見つめ、ゆっくりと向かってきた。

(幽霊が見えるのか)

 浩人はぼんやり思いながら悠人たちのやり取りを眺めた。

「わ、来た」

 声の調子をあげて喜ぶ悠人。

 猫は悠人の目の前で背を丸めて座った。

「お前のこと見えるんだな」

「すごい。猫って本当に見えるんだね」

 そうして手を伸ばした悠人が、猫の頭に手をのせた。しかし、彼の白い手は猫の体をすり抜けた。猫は目を細めて動かないままだ。

「……」

 悠人はそっと目を伏せて猫から手をひいた。

「まだ温かいからね」

 蝉の鳴き声が一瞬消えたような気がした。悠人のその冷徹な言葉だけがはっきりと耳に届いた。

 黒くつややかな髪から覗く彼の横顔は青白く、小さな唇はそっと微笑んでいる。

「姉ちゃんは、動物嫌いだけど、悠人は好きだよな」

 取り繕うように、浩人は言った。

 蝉の声は遠い。

 悠人はゆっくりと立ち上がって猫をみおろした。

「動物は何でも好きだよ。でも、そうだな、人間は嫌いだな」

 ぽつりと言った。

 浩人は口をつぐんだ。

 太陽は真上にある。

 前髪の影で、悠人の表情は一切推し測ることはできなかった。

 じりじりと日差しが照り付ける。

 猫はいつの間にかいなくなっていた。


「あんた、大丈夫?」

 リビングには夕暮れの冷たい風が吹き抜けていく。

 浩人が縁側で涼んでいると、姉の真琴が声をかけてきた。

「何が?」

 真琴は浩人の隣に座った。麦茶が入ったコップをそっと床に置いた。

「最近なんかぶつぶつ言ってるから」

「そうかな……」

 浩人は言いながら、庭に出て、閉じた朝顔を見つめる悠人に一瞬視線を送った。

 悠人はその目配せには気付かず、朝顔から目を離して空を見上げた。

「お母さんみたい。気持ち悪い」

「気持ち悪いって……」

「ほんとうに大丈夫? 今日なんか食べた?」

 顔を覗き込んで、眉を寄せて心配してきた。

 浩人は気に障ったように顔をしかめて、姉から身を引いた。

「大丈夫だって」

「そう」

 真琴はそれ以上詮索はしなかったが、その表情は晴れない。真琴は一間置くように、コップをそっと持ち上げて、麦茶を飲む。

 身を冷やすような風が頬にあたる。あちこちにはねた真琴の短い髪を揺らして通り抜けていく。

「姉ちゃんはどう思うの?」

「何が?」

「悠人のこと」

「……」

 浩人は悠人を見つめていた。

 自分の名前が耳に入り、悠人はこちらを向いた。しかし、何を言うでもなく、きょとんとした顔で見ているだけだった。

「ごめん」

 隣にいる姉が俯いた気配を感じて、浩人は思わず謝った。

「かわいい子だったからね。わたし、すごいかわいがってたから」

 手に持ったままのコップを握る力を強める。コップの表面に浮かぶ水滴が流れ落ち、手のひらが濡れる。

「今は、ただ、なんにもない」

 言葉を選ぶように、真琴はゆっくりと言った。

「寂しいも、悲しいも、なんにもない」

 悠人は真琴を見つめていた。その言葉は、ちゃんと、悠人にも聞こえていたはずだ。

 悠人は何も言わなかった。ただ、無感情な瞳で真琴を見つめていただけだった。

「ただ、寒い」

 足先が冷たい。陽が沈むと、夜風はただ寒いだけだ。

「うん」

 浩人は姉の言葉に静かに頷いた。

「このままずっと寒いままなのかもね」

「……」

 浩人は何の言葉も返さなかった。

 顔を上げれば、目の前に、弟がいる。

(もっと何か話したいんだ。でも……)

 花壇の前に佇む学ランの少年は、じっと浩人を見ていた。暗闇の中で光る瞳は、睨んでいるように細められている。彼の口が開く気配はない。

 浩人は何故か、彼の前でこれ以上何か言う勇気がなかった。


 その日は普段と変わって、真琴が夕飯の買い物をした帰りだった。

 目の前に学ラン姿の見知った少年の姿を見つけ、真琴は忍び足でその背中に近づいた。

「わっ」

 と真琴がその人物を脅かすと、

「うわあ」

 と、脅かされた本人は情けない声を出して立ち止まった。

 真琴はくすりと笑う。

「気付いていたでしょ」

 意地悪そうに微笑む姉に、振り返った悠人は肩をすくめた。

「影でバレバレ」

「そういいながら付き合ってくれるんだから、あんたって良い奴だよね」

「こと姉はもう少し落ち着いたらどう?」

 六歳も下の弟にそんなことを言われて、真琴は口を尖らせた。

「あんたみたいなかわいい子にはいつだって悪戯しちゃうの」

「ひろ兄にもかまってあげてよ」

「やだよ。浩人、全然リアクション面白くないだもん」

「じゃあ、今度からぼくもリアクションしないもん」

「さて、あんたにそれが出来るかな?」

「……」

 悠人の優しさを知っている真琴はそんなことを言った。悠人は押し黙って、自分の影を見つめた。

「……」

 真琴は弟の小さな頭をみおろして、やがてにっこり笑って言った。

「ほら、一緒に帰ろう」

 悠人は顔を上げて優しく微笑んで頷いた。

 赤く染まった道に、二人は並んで歩いた。側溝に流れる水の音が聞こえてくる。

「こと姉、手をつなごう」

 しばらく無言で歩いていたが、不意に悠人がそんなことを言ってきた。

 真琴ははっとして、歩きながら悠人の横顔を見た。

「あんた、中学生にもなって恥ずかしくないの」

「恥ずかしくないよ。だってぼく、こと姉のこと好きだから」

 一瞬のためらいもなく、悠人はそう言い返してきた。

 穢れのない純真な言葉に真琴は気圧されて口を閉じてしまった。

(天使みたいだ)

 赤い光を背に受けた隣の少年は屈託なく笑う。

 そして、腹の奥底でうずまく嫉妬心の存在を認識して、真琴は自分が恥ずかしくなった。

 悠人は何も言わない真琴を心配に思って、隣を歩く姉の様子をうかがう。

 真琴は悠人に察せられないように、諦めたように微笑んでその小さな手をとった。

 まだ小学生の頃を思わせるようなやわらかな感触。けれど細く骨ばったような存在感もあるその手に、真琴は少し驚いた。

 これから、もう一人の弟のように、この子も自分の背を越す日が来るんだろう。

 真琴は思った。

 言った通りに手をつながれた悠人はご機嫌になり、足取りが軽やかになる。

 悠人の胸の内には、手をつないでくれた姉の優しさが広がっていた。優秀で両親から甘やかされていることを、悠人自身は痛いほど理解できていた。そんな自分を少なからず姉が妬んでいることも。それでも弟の自分を心の底から可愛がってくれていることも。

 悠人には彼女の優しさがうれしかった。

 そして、凛とした優しさを持つ彼女と血が繋がっていることが、何より心強かった。

 自分がまるで、人間であるような気がしたからだ。

「ねえ、こと姉。世界には絶対に言っちゃいけない言葉があるって知ってる?」

 手をつないだまま、悠人は言った。

「え?」

 突然の問いに真琴は悠人を振り返ったが、悠人は真っ直ぐにその先の道を見つめていた。

夕日を背にしているせいで、その表情は暗く判断がつかない。彼はいつもの優しい微笑をたたえているのだと、真琴は信じたかった。

「なにそれ」

 冗談っぽく真琴は聞き返した。

 隣に並ぶ少年は小さく、しかし姉にはよく聞こえるように言った。

 夕陽が沈んでいく。茜色が一等強く世界を染めていく。

「誰も知らないんだ……みんな、一体、どんな気分で暮らしているかなんて」

 光は少しずつ闇にのまれていく。道路の熱が静かに何処かへ逃げていき、気が付いた時にはすっかりあたりは暗くなっていた。

「あんた……」

 真琴が立ち止まると、悠人も同じように隣で止まった。

「手をつなごう。それでもぼく、こと姉と手をつなぎたい」

「……」

 悠人は真琴をみあげた。

 彼の疑いのない明眸に真琴は胸が痛んだ。

 目の前にいる天使のように穢れのない少年が、一体何を抱えて生きているのか、真琴には想像がつかなかった。

(どんな気分で暮らしているのか。この子は一体何を抱えて生きているんだろう。教えてはくれないんだ……きっと、それが絶対に言っちゃいけない言葉なんだ)

 真琴は無意識につないだ手の力を強めた。

(わたしには意気地がない。こんな天使にはなれない)

 背後には確かに先ほどまで、まばゆい夕日が存在していた。薄闇の空の向こうに、まだ太陽はある。残った光の気配に押されて、二人はゆっくりと歩いていた。この光の気配だって少しずつ消えていき、やがて深い暗闇が道を染めていくことを二人はきちんと知っていた。

 それでも、真琴には空に残る頼りない光が何よりもうつくしく見えた。

 悠人と一緒に歩くこの道が、どんなところよりも素敵に思えた。

 真琴は応えるように手をつなぐ力を強めようと思った。しかし、そうした瞬間、隣にいる少年がぱちんと消えてしまうような気がした。

 緩やかに優しく揺れる二人の手は、それでもきちんとつながれていた。

 二人の影が目の前にある。

 影ははっきりと、二人を導くように、手をつないで前を進んでいる。


 そっと瞳を開けた。

 意識が戻った瞬間、瞼が重いことを認識した。その時、真琴は眠りが浅かったことを知った。

「……夢だ」

 一人呟いた。

 カーテンの向こう側は少し白けていた。

「悠人がいない、これは、ほんとうのこと」

 言い聞かせるように、また呟いた。

 その言葉を口にしても、心は静かだった。

「あいつは、また寝てないのかな」

 窓の向こう側を見るように視線を送る。外の様子はカーテンで遮られている。隣の部屋の静けさを感じながらも、真琴の中には心配する気持ちがあった。

 静かな朝だった。

 そのことに真琴は腹が立った。

 忍び寄る絶望感を焼き殺すような、強い光が欲しかった。

 けれど、優しい朝はそっと寄り添うようにやってくる。

 真琴は恨むような様子で、カーテンのその先を睨んでいた。


 煮えたような気持ちのまま、真琴がリビングに降りてくると、ソファには浩人が座っていた。

 浩人はぼんやりと庭先を眺めているようだった。

 朝顔の傍には野良猫がいる。

 浩人には未だにしっかりと見えていた。

 悠人は今日もまた、庭に出て猫とじゃれている。触れることもできないようだったが、猫も悠人を認識しているような様子だった。

(この悠人も、近いうちにいなくなってしまうんだろうか)

 弾けたように笑ってはしゃぐ悠人を眺めながら、浩人はぽつりと思った。

「浩人」

 後ろから声をかけられて、浩人は微かに首を動かした。

「姉ちゃん……早いね」

 思うよりうまく、声が出なかった。浩人はそれを誤魔化すように再び視線を庭先に戻した。

「明るくちゃ寝てられない」

「そうだね」

「あんた、遅くまで電気ついてる。光が入ってくんの。よく眠れない」

 真琴はあてつけるように厳しく言った。

「ごめん」

 浩人は素直に謝った。

 その姿を見て、真琴はすっと怒りが消え去ってしまった。

 胸に残ったのは寂しさだった。

 しかしその寂しさに気付かれないように、真琴は悪戯っぽく笑って背後から浩人の顔を覗き込んだ。

「寝れないなら、一緒に寝てあげようか」

「何言ってるの。ちゃんと寝てる。消し忘れてただけ」

 浩人は迷惑そうにそう弁解した。

 真琴の表情は曇ったままだった。

 それに気付いたとき、浩人の心はずきりと痛んだ。

(あぁ、怒っている)

 浩人の嘘に彼女が騙されることはなかった。

(それもそうだ。だって、これじゃあ……)

 ちらりと外にいる悠人を見た。悠人には声が届いていないようで、場違いな笑顔でこちらに手を振った。

「あんたさ……何言ったら良いかわかんないんだけどさ」

 浩人の目の前に座る形で真琴が窓際にある椅子に腰かけた。

「わたしだってつらいからさ。浩人だってつらいって言って良いのに」

「……」

 そんな姉の気遣いにも、今の浩人には素直に甘えられなかった。

 彼女の傍らには悠人が立っているのだ。

 悠人は何を思っているのか、口の端を少し上げて優しい双眸で姉の横顔を見ていた。

「あの子も、あんまり眠れていなかったみたいだね」

 思いかえすように、真琴は言った。

「え……?」

 浩人ははじめて知る悠人の様子に、ほんの少しショックを受けたようだった。

「同じ部屋でも気付かないのは当たり前だよ。あの子、隠し事うまいしさ」

「姉ちゃんは知ってたんだ」

「あの子の夜更かしにたまに付き合ってあげてたし」

「悠人、何か言ってた……?」

 姉の背後に立つ弟を見やる。悠人は何か言う様子もなかった。ただ、諦めたように微笑んでいるだけだった。

 そうだな、と真琴は思い出しながら天井を見つめる。

「星を見てたの。縁側に座ってね……宇宙で死ぬ気分ってどうなんだろうって、あの子聞いてきた」

「えっ……?」

 浩人の視線の先は悠人へと集中した。悠人は浩人を見て、恥ずかしそうに静かに笑った。

「宇宙で、死ぬ気分」

 自分の中に飲み込もうとするように、浩人は真琴の言葉を反芻した。その真意を確かめたいような気持ちで、浩人は悠人を見ていたが、やはり悠人は口を閉ざしたままだった。

「今思うと、そういうことだったのかもね」

 姉は言った。

(宇宙で死ぬ気分。ひとり、くらやみの中で)

 少しずつ高く上がっていく太陽。これから、また新しい一日が始まるのだ。

 悠人の身体は朝日に透けている。蝉の声が少しずつ大きくなっていく。伏せたその瞳を縁取るまつ毛が煌然として、浩人ははっと口をつぐんだ。

(自分が死んだことも、誰も気が付かない場所で)

 浩人の表情に気付いた悠人は、肩をすくめて、やがて柔らかく微笑む。

(でも今は笑ってる。安心したって、言ってた。それは良いことなんだろうか? 今のこの状況は、良かったことなんだろうか?)

「一緒に水族館行こうって約束したんだけどなあ」

 不意に真琴が思い出したように呟いた。

「水族館?」

「クラゲの話もしたの。宇宙と海って似ているねって。クラゲは死体が残らないとかいって……宇宙で死んだら、死体はどうなるのかなって言ってさ……」

 真琴の声は少しずつ力なく小さくなっていく。彼女は俯いて、肩を震わせていた。

 泣いているようにも見えたが、彼女の強かさを浩人は知っていた。

「悠人、わたしのこと嫌いだったのかな……」

 真琴はそんなことを口走った。

「それが、言っちゃいけない言葉だったのかなあ……」

 悠人は彼女の隣で自分の写真が飾られた仏壇を眺めていた。その表情は相変わらず優しく微笑んでいるだけだった。

 浩人もそっと仏壇を見た。仏壇には高級そうな袋で覆われた箱が置いてある。浩人自身葬式には出ていなかったので、彼が一体どんな姿であの箱の中に入っているのか分からなかった。

(あれには彼の骨が入っている。細くて、弱くて、脆い骨が。確かに、ある)

 そして、まだ彼はここにいる。

「悠人はちゃんと生きてたよ」

 浩人は言った。

 それは、姉に対して言った言葉ではなかったような気がした。

 悠人は浩人を見ている。

「水族館にも行きたかったはずだ。それはきっと本心からだ」

「……そうだと良いけどね」

 真琴は俯いたままだった。

 悠人が見ている。

 浩人も悠人の様子をうかがった。

 悠人の表情を見たとき、浩人はずきりと胸が痛むのを感じた。

 何か言う様子も彼の中には感じられなかった。ただ、彼の冷たい表情が、浩人の心に突き刺さった。

 浩人の中には煮え切らない気持ちが現れた。何か言いたい気持ちがあったが、その言葉が一体どんなものなのか、とうとう見つけることはできなかった。


「悠人」

 ソファで寝転がっている悠人にそっと声をかけた。

 昼下がりのまばゆい日差しが窓から差し込んでいる。

 悠人は声をかけられ、ゆっくりと身を起こした。

「水族館に行こうか」

 浩人が言うと、悠人はなんでもないことのように言った。

「こと姉との約束の話だよね」

「忘れてたのか?」

「こと姉との約束を忘れるわけないよ。もちろん、ひろ兄との約束も」

「そんなに約束事してないけどな」

「二人は特別だから」

「……そうなのか」

 そんなことを言いながら、突然いなくなったことについて言及したい気持ちが浩人にはあった。しかし、踏み込んでしまったら、今度こそ本当に二度と会えなくなってしまうのではないか、という懸念もあった。

 浩人は、目の前にいる少年にどう触れればいいか分からなかった。

「あたしのこと嫌いだったのかな」

 真琴の言葉を思い出した。

 あの時、姉の心の中にはどんな痛みがあったのだろうか。

 浩人は思案しながら、悠人を見つめた。

 悠人は仏壇を見ていた。背が低くなった線香から煙が天井に頼りなさげにのぼっていく。

「置いていっただけ。それだけだよ」

 悠人は呟いて、ソファからぴょん、と離れた。その勢いのまま、縁側へ躍り出た。

「行こう。明日行こう」

 嬉しそうに悠人ははしゃいで言った。

「あ、うん」

 悠人の姿に戸惑いながら、浩人は頷いた。

「今日は早く寝なくちゃね」

「そうだな」

「しっかり寝なくちゃ、明日疲れちゃうね」

「そう、だな」

 歯切れの悪い返事をした。

 今朝の姉との会話を思い出して、後ろ暗い気持ちがあった。

 弟にも心配をかけていることに気付いて、浩人は情けなく微笑んだ。

「お昼ご飯も食べなくちゃ。おそうめんがあるよ」

 悠人はキッチンの方を見て言った。

「うん……」

 浩人は歯切れの悪い返事をした。食欲がどうにもわかなかった。

 しかし悠人が異様にしつこく促すので、しぶしぶいつもの自分の席に座った。

 そして、ゆっくりとぎこちなく、そうめんを口に入れた。

 味がしなかった。

 不思議だと、それだけ思った。

 悠人は死んでいるのに、自分がこうして食事をとっていることが、ただひたすら不思議だった。

 目の前の席は悠人の席だ。あの日から、ずっと誰も座ってはいない。

 今、その悠人が座っている。とても、曖昧な姿で。

 浩人がそうめんを食べる姿をただ嬉しそうに眺めていた。

 それが、浩人にとってひたすら心苦しかった。


 静かな夜だった。蛙の声もすっかり消えてしまった。真夜中であることに、時計を見て浩人は知った。

 起き上がって、ベッドから見える悠人の描きかけの絵を見た。

 電気をつけていないので、そこに何が描かれているのかは判断できなかった。しかし、目覚めるたびに浩人はこの絵を見ていた。描きかけであることだけは分かる、真っ青に塗られたままの絵。

 悠人は美術部に所属していた。絵を描くような趣味をもたない両親は、一体どこからそんな興味が、と、悠人を不思議そうに眺めていたこともあった。風景を描くのが得意な彼は、いつもどこかの景色を描いている。

 下書きの時点でなんとなく容貌が掴めるのだが、この絵だけは、完成図が分からなかった。

 そして、きっと、永遠にこの絵は完成しない。

 浩人は眠ることができなかった。

 拭うことのできない絶望感が体を常に撫でているような感覚だった。悠人がいなくなったあの日から、心細さが消えなかった。

 目がさめるたびに、黒い夜だと思った。

 弟がいなくなったあの日から、ずっと夜が続いているような気がしていた。

 悠人が目覚めたあの朝を思い出す。

 冷えた空気に差し込む白い光。

 浩人はそっと起き上がり床に足をつけた。

(悠人はどこにいるんだろうか)

 自分にしか見えない彼が、みんなが寝静まっている時には何をしているんだろうかと気になった。

 慎重に階段を降り、リビングを見ると、月明かりが部屋を照らしていた。

 カーテンは開け放たれ、庭の朝顔はそっと顔を伏せて眠っている。

 ソファに近づくと、そこに悠人が横になっていた。

 伏せたまつ毛に月光が反射する。

 浩人は悠人の寝顔をじっと見つめた。

 月光に照らされた彼の顔は蒼白で、その端正な顔をなお引き立たせていた。

 ふと浩人の脳裏には、棺桶に入った彼の姿が想像された。

(きちんと死んでいたら、きっと、死に顔はこんな風なんだろう)

 浩人は悠人の最期の姿を見てはいなかった。

 かわいい弟が花に埋め尽くされている姿を想像する。

(今、声をかければ、悠人は起きてくれる)

 浩人は思った。

 しかし、声をかけたところで、何を問えばいいのかわからなかった。

 浩人は戸惑っていた。そして、恐れてもいた。

 目の前の彼は本当に弟なのか、何故ここにいるのか、何故自分にしか見えないのか、何故何も話してくれないのか。

 何故、死んでしまったのか。

 湧き上がる怒りにも似た疑問が浩人には渦巻いていた。しかし、それを一つでも聞いた瞬間、目の前の弟は跡形もなく消えてしまうのではないかと思われた。

 浩人は静かに寝入る悠人の脇を通り、ソファと彼を背にして座った。正面に広がるしずかな庭を眺めながら膝を抱えた。庭先の朝顔は閉じたままその頭を垂れている。

「……宇宙で死ぬ気分」

 浩人は呟いた。

 空を見ても星は見当たらなかった。その黒い夜は深海のような重みもあった。

(自分が死んだことも、誰も気が付かない場所)

 心細さを感じた。

 背後にいる自分の弟との、途方もない距離を感じた。

(孤独の中。くらやみ。ずっと、ずっと、終わりのない絶望感)

 ぽつりぽつりと思う。

(終わったら、安心)

 はあ、と、一つため息を吐いた。

 そうして項垂れて、ただ身を守るようにうずくまった。

(安心するんだ……やっと、終わることで)

 両肘を抱えた手に力を込めた。

(でも、こんなの……あんまりだ……)

 行き場のない怒りだった。

 弟の死を知った瞬間の時のような、途方もなさだった。

 背後にいる悠人とは、まったく違う場所にいるような心地だった。

 不意に暗闇を感じて、さっと血の気が引いた。

 顔をあげると、月は雲に隠れて部屋はすっかり暗くなっていた。



 陽がのぼるころには雲は一つもなくなっていた。

 鮮明な青が空を覆っていた。

 浩人と悠人は二人並んで歩いていた。

 バスから降りるとすぐに水族館につく。海沿いにあるこの水族館は浩人の家からも近かった。

 隣で悠人は心なしか軽い足取りで水族館へと向かっている。

 その様子を見て、浩人はほっと安心した。

 彼の弟らしいはしゃぎぶりを見れて、安心したのだ。

 水族館の前には大きな漁船が展示されている。

 悠人はそれを口を開けて見上げていた。その瞳は好奇心に煌めいている。

「すごおい。大きいね、ひろ兄」

 船を指さしながら振り返り笑う。

 浩人は優しいまなざしでその様子を見ていた。

「うーん」

 船から視線を外し、悠人は水族館の周囲を不思議そうに眺めた。

「ねえひろ兄、ぼく、ここに来たことあったっけ」

「え、たしか、お前が3歳くらいの時に来ただろ」

 その時浩人は6歳だった。小さな悠人の手をひいて歩いたことを思い出す。

「だから見たことあるなあって思ったのか……」

 悠人は忘れかけていた思い出のかけらを探すように、ぼんやりと水族館を眺める。

 そしてやわらかく微笑んだ。

「ぼくが忘れちゃったことも、ひろ兄が覚えててくれてうれしいね」

「……」

 悠人の寂し気な横顔に、浩人は息が詰まった。

 浩人は、きっとこれからだって記憶を重ねていくのだと思っていた。

 家の仏壇で微笑んでいる、彼の遺影が脳裏に浮かんだ。

「中に入ろう。外は暑い」

 浩人は言って入口へと向かった。

 悠人はきょとんとした顔をした。空を見上げて、らんらんと輝く太陽を見つめた。

「そうか。そうだね」

 悠人は浩人を追いかけるように駆けだした。

「すごい! きれい!」

 水族館に入った途端、悠人ははしゃいだように館内を駆けまわった。

(入場料が一人分というのもいたたまれないな……)

 浩人は重い心を抱えながら、悠人のはしゃぐ姿を眺めた。

 青い光に照らされた廊下に、かすかにゆらめく白い光。幻想的なその中に、学ランの少年が嬉しそうに歩いている。ほんの少しひんやりとした空気が頬を優しくなでていく。

 小さな水族館であることと、平日であるためか、観光客は少ないように見えた。

 浩人は保護者の気分で悠人の後ろを静かについてまわった。

「ねえねえ、変な色の魚!」

「おかしな顔をしているよ」

「生き物じゃないみたいな、不思議な形!」

 悠人は水槽を眺めては一つ一つ思ったことを発していた。その姿を見る限り、普通の中学生の男の子に見えた。

 水槽をそっと触るその青白い手のひらに、油断をすればどきりとする

 彼の白い横顔を見ながら、浩人は喉につまった言葉を飲み込もうとしていた。

「きれいだね、ひろ兄」

 悠人は無邪気に同意を求めてきた。

(今、俺は悠人と同じものを見ている)

 浩人は水槽の中を泳ぐ魚たちを見つめた。水面にゆらめく白い光に目を細めた。

 奥底で覗く深い青を見つめ、浩人は唇を強く結んだ。

 何故か喉の奥が熱く、言葉を発した瞬間に何か、余計なことを言いそうになる予感があった。その考えを振り払うように横を見ると、悠人はそこにはいなかった。

 弾かれたように振り返ると、悠人は構わず先に進んでいた。

「……」

 締め付けられる胸の痛みを感じながら、浩人はその場から離れた。

 悠人はある水槽の前で立ち止まっていた。

 彼の細い背中を見つめる。

 銀色にきらめくやわらかな生き物が、長い尾を揺らしてたゆたっている。群青の水槽の中にいるように、悠人は一心にその生物を眺めている。

「海のなかって気持ちいいのかな」

 どこにもあてたようでもなく、悠人は続ける。

「あのとき、ぼくは絶望に手をひかれたんだ」

 細い糸のような、繊細な銀白を漂わせながら、水槽のクラゲは泳いでいる。

「たぶん、この先が正しいんだと思った。一番冴えたやり方なんだって確信したのかもしれない」

「あのときって……」

 のどに詰まったように、言葉がうまく出なかった。

「海がとても綺麗だった。夕日が世界全部を照らしてるように見えたんだ。でも、この夕陽が沈んだあと、とても寒いってことを分かっていた。だから怖くなったんだ。寒くなってしまったら、ぼくはどこに行けばいいんだろうって思って」

「うちに……帰ってくれば……」

 悠人は振り返る。水槽を照らした照明のせいで、悠人の表情はよく分からなかった。

「帰る場所なんて分からなかったよ。誰もぼくを知らない場所に、どうしてぼくの居場所があるの?」

 その声色は不思議と明るかった。

 なんの躊躇の色も見えないその言葉に、心臓を掴まれたように体が冷たくなった。

(誰も、悠人を知らない……俺たちは、悠人のことを何一つ分かっていなかった、っていうんだろうか? 悠人が忘れてしまったことも、覚えているくらいに、悠人をずっと見てきたのに……)

 この水族館に初めて来たときも、悠人は同じようにはしゃいでいた。その姿を思い出す。今でも、まるで、目の前で、あのころの悠人がはしゃいでいるかのように。

(この子は、いったいどんな気持ちで、今まで生きてきたんだろうか)

 クラゲはやわらかく体をくねらせ泳いでいる。

 死体の残らないクラゲは、安心したように水槽の中に浮かんでいる。

(孤独)

 クラゲは泳いでいる。

(自分の死体は残らない。なにもかも、残らない)

 目の前の弟を見る。

 弟は、ただ静かに浩人を見ていた。

 青く暗いこの世界は、宇宙のようにも見えた。

 その姿に、息をのんだ。

(宇宙で死ぬ、絶望感)

 浩人は悠人の表情を窺う。

(今、目の前にいる悠人が何者なのか、分からない……生前の、ことだって、一つも、一つも……)

 喉の奥の熱さを感じながら、顔をあげて水槽を見た。

 ささやかな照明を受けたクラゲがきらきらと輝いている。

 青い水槽の中に、純白の羽が浮かんでいるようだった。

「天使みたいだ……」

 浩人はふと、ぽつりとつぶやいた。

 悠人は水槽を振り返る。

「……そう。天使、みたいだね」

 水槽の前で彼は微笑んでいるのだと、浩人は思った。

「死体も何も残らなければ、こんな風にはならなかったのかな」

「……」

 クラゲがたゆたっている。

 なんて暗い世界だろう。

 浩人は思った。

(宇宙で死ぬ気分)

 悠人の見た宇宙を想像して、浩人はそっと目を伏せた。

 それから、二人は大きな水槽の前で休んでいた。

 浩人の元気がないことに気付いた悠人が、ここで休もうと提案したのだった。

 自覚のなかった浩人だったが、悠人があまりに強く心配するので、渋々座っていた。

「きれいだなあ」

 悠人は二階まで突き抜けた水槽を見上げながら言った。

「こと姉にも見せたかったなあ」

 浩人は黙っていた。

「ほんとうのことだよ」

 隣で肩を並べながら、悠人はすぐに付け足した。

 浩人はうつむいた。

「疑ってないよ」

 自分の兄から見え隠れする怒りを、悠人は知っていた。それでもなお、信じてくれる浩人の甘い優しさに心を打たれた。浩人が自分の味方でいようとしてくれているのが分かった。責めたい気持ちを必死で抑えていることも。

(この優しい人の血が、ぼくにも流れている)

 悠人にとって、兄弟との血のつながりが、人間である証明だった。

(この気持ちを、この人たちは知らないんだろう)

 悠人は寂しさに、つい口を開いた。

「……ぼく、嘘つきなのに?」

「え?」

 ゆっくりと頭をあげ、浩人は隣にいる少年を見た。

 悠人は眉を情けなく下げ、薄い唇は微かに震えていた。

「みんなのこと、あんなに好きみたいに振る舞って。ほんとは、……全部、置いてっちゃったのに」

 水槽の光が青白く悠人の頬を照らしている。

 白い彼の肌に反射した深い青色が波打つように優しく揺れている。

「ほんとは、嫌いだったのか?」

「……」

 悠人は弱ったように俯いてしまった。

「ほんとは嫌いだったから、自分のこと嘘つきなんて言うのか?」

 浩人は優しく悠人に聞いた。

 何も知らなかったからこそ、今、聞くべきだと浩人は思った。

 そこに自分の求める答えがあるのだと思った。

「嘘つきで良かったんだ。それでも、良かったのに……だって……」

 言いかけて、続く言葉がどこにも見つからなかった。

 視線を外して水槽を見つめた。その中に答えがあるような気がした。今、自分は、悠人と同じ宇宙にいる気がした。

 奥底に渦巻く黒い深淵を見つめる。

 光も届かず、星も見えない。

(だったら、俺はこの子に何を望んでいたんだろう? 俺は、俺たちは、どうやってこの子の気持ちを押し潰していたんだろう?)

 言葉の続きをすっかり見失った浩人の様子を見て、悠人は隣でそっと微笑んだ。

「この世界には、絶対に言っちゃいけない言葉があるんだ」

 その言葉に、浩人ははっと顔をあげた。

 隣を振り返ると、いつものように優しく微笑む弟が、白い人差し指を立てて唇に当てていた。

「それでもぼく、ひろ兄の隣にいて楽しかったよ」

 浩人がひどく傷付いた顔をしたことに、悠人は気付いていた。

(これで良かったんだ)

 悠人は思った。

(ぼくは、死んで良かったんだ)

 悠人はそう思うしかなかった。


 水族館から帰る途中、ふと悠人が足を止めた。

 足元からは川が流れる音がする。悠人は橋の欄干に手を置いて、まばゆい夕日を眺めた。

「今日はとっても楽しかった」

 頬をオレンジ色に染めたまま、悠人は噛みしめるように言った。

 浩人は光の強さに目を細めながら、悠人の背中を見つめた。

「俺も、久しぶりに来れて、楽しかった」

「ふふ、ひろ兄、サメが来たときびっくりしてたよね」

「お前は小学生みたいにはしゃいでたな」

 負けじと浩人も言い返した。

 悠人の肩はくすくすと笑って揺れた。

「ひろ兄って怖がりだよね」

「そういうお前も怖がりだろ」

「うん……」

 何か刺さったように歯切れが悪くなった。

「ぼくね、こと姉と一緒に水族館に行こうって言われたときね、何を聞かれるんだろう、って怖かったんだ」

「……」

「逃げたんだ、ぼく。こと姉から」

「……」

「それから、お母さんからも、お父さんからも、もちろん、ひろ兄からも」

 欄干に置いた手に力を込めた。

 浩人は押し黙った。しばらく重い空気が流れていたが、その空気を裂くように、悠人が大きく声をあげた。

 夕日がまばゆく世界を照らしている。

「ね、見て! 夕日が沈むよ。あんなに真っ赤に燃えてる!」

 身を乗り出して悠人は夕日に手をかざした。

 その手のひらはオレンジ色に透けて、今にも溶けてしまいそうだった。

「ねえ、綺麗だね! 光の線が走っているの! 星のまたたきが聞こえるよ!」

 その小さな体躯で、一身に、焼き焦がれそうなほど強い光を受けていた。

「世界って綺麗だね! ああ、水族館! 本当に楽しかったなあ。この気持ちを絵にできたらとっても良い! 絵が描きたいなあ。もっともっと遠くに行きたいなあ。もっといろんなものを見てみたいなあ。ひろ兄と、こと姉と、もっとたくさんおしゃべりしたい!」

「……」

 とめどなく流れる悠人の願望に、浩人は言い得ぬ怒りを覚えた。

「生きていたい。もっと生きていたいなあ!」

 奥歯を噛みしめて出かかる言葉を必死で止める。お腹の底から煮えたぎる炎を鎮めようと浩人は顔を伏せた。

「でもね、ぼく、死んじゃったんだ」

 悠人は振り返った。視界の端に映った彼の口元だけがはっきりと見える。

 うつくしい彼の唇は確かに微笑んでいた。

「だったら、どうして……」

 これ以上は抑えられなかった。

 浩人は口から出てくる炎を、全て目の前の弟に叩きつけてやろうと思った。

 しかし、熱くなったと思った頭は途端に重くなり、浩人はその場で崩れて膝をついた。

「ひろ兄?」

「浩人!?」

 悠人が驚いて固まった。どこからか現れた真琴が浩人に駆け寄った。

「大丈夫? ねえ、やだ、やだよ。あんたも、いなくなるなんて……」

「ねえちゃん、落ち着いて」

 なんとか絞り出すように浩人は言った。

 真琴に背中を支えられながら、浩人は立ち上がった。

「ただの寝不足だと思う……大丈夫だから」

 気が動転している姉を諭すように、浩人は落ち着いた様子だった。

「……」

 真琴は納得していないように困った顔をして、無言で浩人に合わせて歩き出した。

「悠人……浩人を連れて行かないでね……」

 真琴はぽつりとつぶやいた。

 ぼんやりとする頭の中、浩人にはその言葉はよく聞こえなかった。

 ただ、すっかり陽が落ちた暗闇の中で、悠人の耳にだけは、はっきりと聞こえていた。

「ぼくはそんなことしないよ……だって」

 誰もいなくなった橋の上で、悠人はあてどなく呟いた。

「あぁ、悪魔だからか」


 空には昼間の快晴が嘘のように、いつの間にか黒い雲が現れていた。

 夕立の気配を感じながら、浩人はリビングへとやってきた。

 未だ線香の匂いが充満した部屋に入り、真琴の姿を見つけて思わず足を止めた。

 いつもきびきびとした姿の姉が、今はぼんやりとした様子で窓から外を眺めていた。

「姉ちゃん……」

 声をかけていいものか戸惑ったが、あまりに憔悴しきった姉の姿に、浩人は恐る恐る呼んだ。

 声をかけられてはじめて浩人の存在に気付いたのか、真琴は少しばかり驚いたように目を見張り、声がした方へ振り返った。

「浩人、大丈夫なの?」

「びっくりしたけど……だいじょうぶ」

「寝れないときは、全然眠れないものなんだね」

 疲れ切った顔で真琴は身に染みたように呟いた。

「……悠人は、全然大丈夫、って風に振る舞ってた。心配かけないように、じゃなくて……なんだか、怯えているようだった」

(怯えている……)

 浩人は悠人の姿を探したが、ここにはいないようだった。仏壇で微笑む彼と目が合い、反射的に顔をそらした。

(悠人は逃げたんだ。怖くて、逃げた)

 水族館での青白い彼の横顔を思い出す。

(宇宙で死ぬことを、選んだんだ)

「馬鹿だよね……」

 真琴は力なく言った。膝を抱えて縮こまった。

 丸く収まった彼女は今までになく小さく見えた。

 ぼさぼさと櫛の通されていない真琴の髪は、浩人にはやけに痛々しく映った。

「あの子は、本当に馬鹿」

 どこに言っているかも分からない様子で、真琴は呟いた。

「悠人は、いつだって優しくて、賢い子だよ」

 弁解するように浩人は言った。昼間の怒りはすっかり消えて、ただ、今は、真琴は誤解しているのだと教えたかった。

 悠人の本当の心の内を、教えてあげたかった。

 しかし真琴は首を振った。

「賢くても優しくても、馬鹿は馬鹿。自分を守ってやれなかっただけの、弱い奴だったの。自分が傷付いたことを他人のせいにして。守れなかったのは、あの子が弱かったから。全部、あの子の責任」

 憔悴しきった真琴だったが、芯の強さは見失っていないようだった。

 その言葉に、浩人はひどく傷付いた。

「ふふ。そんなこと言って、こと姉は、ぼくの前じゃ絶対に言えないでしょ」

 やわらかく歌うような声色に、浩人は身を固めた。

 仏壇の横には悠人が立っていた。

 姉の言葉を一身に受けた悠人は落ち着いていて、優しいまなざしで真琴を見つめていた。

 その姿に浩人は喉の奥が熱くなり、震える唇を無理に動かして言った。

「そんなこと、こと姉は、そんなこと」

 浩人の様子に気付いた悠人は反射的に浩人の前に飛び出した。

「ひろ兄、言わなくていいから!」

 目の前の彼は今までに見たこともないような必死な顔をしていた。

 何か、絶望感にも似た色をしていた。

「なに、こと姉って、気持ち悪い」

「そんなこと、悠人の前で言えるのか」

 浩人は真琴の言葉を遮って言い放った。

 膝を抱えたままの真琴は、恨めしそうにまっすぐに浩人を見つめていった。

「何とだって言ってやれる……言ってやる! でも、あの子は、もういない……!」

 糸が切れたように、真琴の瞳からは涙が流れた。真琴は涙をぬぐうこともしなかった。

 浩人は唇を固く結んだ。

 目の前の弟はゆっくりと振り返り、姉の姿を見つめた。

「もう、死んじゃったじゃない……!」

 肩を震わせて、真琴は膝に顔をうずめた。

 行き場をなくした浩人の視線は悠人の横顔にとまった。

 残酷なほど、ひどく冷たい顔をした彼は、ただ黙っていた。

 しばらくの間、沈黙があった。

 部屋は暗かった。いつの間にか黒々とした雲が空を覆い尽くしていた。外からは耐えられなくなったように大粒の雨が降り出している。叩きつけるような大きな雨粒の音が部屋に響いた。

 真琴が雨にかき消されそうな声色で言った。

「悠人は、今もまだ、迷子なのかな」

 悠人は目をつむり、優しく微笑んだ。

「あの、海の中で」

 ぱちり、と部屋が明るくなった。

 後ろを振り返れば、仕事から帰ってきた母親が電気をつけたようだった。

 母は痩せた頬を硬直させて、真琴の泣いている顔を見て口を結んだ。力強く結ばれたその唇は震えていた。

 熱のこもった瞳で真琴を見据え、何か言いたげだったが、ついには何も言葉が浮かばず、母はただ無言でその場を去った。

 雨の音は打ち寄せる波の音のようにも聞こえた。

 悠人は足元に白波が行ったり来たりしているかのように、心地よさそうに微笑んでいる。


 浩人は階段を降りている途中、悠人が玄関を出て行くのを目にした。不思議に思って、追いかけるように靴を履いて外へと出た。

 家を出た瞬間、ふりかかる蝉の声に、浩人は頭が痛くなったような気がした。

 あたりをみまわして悠人を探す。コンクリートの細い道を行った先の大通りで、足を止めて何かを眺めている姿を見つけた。

 不審に思い頭一つ分違う小さな弟の傍らに並ぶ。そしてその視線の先を辿った。

 猫の死骸があった。

 車に轢かれたらしいその猫は固まったように横たわっている。生ぬるい風が、ごわごわした毛並みを撫でで揺らしている。

 庭に来ていた猫だ、と浩人は思った。

 悠人の顔を窺うと、彼はとても冷淡な顔をしていた。

 そうなることを知っていたように、ひどく落ち着いて見えた。

 何か声をかけるべきか迷った。すべてが分かっていたような顔をしている彼が、浩人には恐ろしく映っていた。

 結局何も言えずに、そっと悠人のそばから離れて家に帰ろうとした。

「道路で死んだ動物は生ごみとして処分されるんだ」

 背後から、悠人のつぶやく声が聞こえた。

 恐ろしく冷たい声色に、浩人は思わず歩みを止めた。

 振り返ることが怖かった。

 道の先にある自分の家を見つめながら、浩人は息をのんだ。

「ぼくはそれを知っているんだ」

 悠人はまた呟いた。

 何故だか胸が締め付けられた。

「どうしてぼくは生ごみにならなかったのかな」

 そのあてどない問いに、浩人はついに振り返った。

 悠人は死骸の傍らにいた。腰を折ってその猫に手を伸ばしたが、彼には何も触れられなかった。

 何も掴めなかった両手を強く握りしめ、顔を上げた。

「天国なんてないんだ。神様だっていないんだ」

 無残な姿の猫に向かって悠人は言った。

「ぼくは冷たくなっていくだけ。ずっと、永遠に」

「帰るよ」

 これ以上何も言わせないように、浩人は鋭く言い放った。

 声をかけられてはじめて浩人がいることに気が付いたように、悠人はその時はじめて浩人と目を合わせた。

 そして花が開くようにぱっと明るく笑って見せ、駆け足で横についてきた。

 浩人は悠人と並んで家へと戻った。

 背後で、一台のトラックが通り過ぎる音がした。


 あの猫の死骸を見た日から、日中、悠人を家で見ることが少なくなった。

 浩人自身、重苦しい家の様子に耐えられないような気がした。

 家を出て、近くの公園へ来た。外に出るだけでじっとりと額に汗がにじむ。

 公園からは風力発電のためのプロペラが、向こう側に小さく見える。

 青々とした空と、銀色に煌めく羽を背に、黒々とした学ランを着こんだ悠人が立っていた。

 なまぬるい風が吹いている。浩人の前髪をそっと撫でる。

「悠人……」

 海からやってくる風が頬にあたる。悠人はなにものにも影響されないように毅然と立っている。

 浩人が声をかけたが、悠人は振り返らず、落ち着いた様子で言った。

「なんて冷たい世界なんだろうね」

「え?」

「世界が五分前にできたみたい、って思ったんだ。あの時、目がさめたときから」

 悠人の途方もない遠くを見つめる瞳の奥には、あの朝の白々しい光が見えた。

「目がさめたとき、あ、死に損なった、って思ったんだ。わっ、て恥ずかしくなって……でもね、ひろ兄の顔を見たときに、あぁ、ちゃんと死ねたんだ、世界ってこんなに優しいんだって思って」

 悠人は銀色のきらめきがまぶしいように目を細めた。

「でも、相変わらず世界は冷たいままで、ぼくは、やっぱりうまくいかないままで……」

 力なく悠人は言った。

「どうして、誰も分かってくれないままなのかな」

「なあ、姉ちゃんがどれだけ寂しい思いをしているか、お前は理解してるのか」

 浩人は尋ねた。しかし、こんな質問をしなければならないほど、悠人が愚かだとは思っていなかった。あの死骸を冷たく見ていた彼も、無邪気に笑う生前の彼さえも、たくさんのことを見、たくさんのことを思っていたことは、今の浩人には痛いほどわかっていた。

 だからこそ、今、こうして言葉で聞くべきだと言う事も、浩人は痛感していた。

 悠人は何も答えなかった。優しく微笑んでいるだけだった。

 浩人はなお何も言いたがらない悠人に腹が立った。

「お前の事だから、そんなの、あの時からわかってたはずだ」

 畳みかけるように浩人はしつこく続けた。

 悠人は優しく振り返り、浩人を見つめた。悠人の背後には銀色のきらめきが反射してまぶしい。

「ぼくがいなくなって、みんなが寂しい思いをするって知ってる。その事実だけはちゃんと理解しているんだ。でもね、ぼくは寂しくないから。みんなの寂しさがどれほど辛い、耐えがたいものなのか、ぼくにはわからないんだ……それに、誰かが悲しむって理由だけで、この地獄は生きられなかった」

 すべて手放したように、悠人はさらりと言った。

 浩人はそれ以上は何も言えなかった。静かに口を閉じて、きらきら、煩わしい光に眉をしかめた。

 悠人は俯いて、ゆっくりと首を振った。

「ううん……ぼくは悪魔なんだ。きっと、人間だってみんな、隣人の気持ちなんて何一つわからないんだよ」

 黒い瞳を縁取る深いまつげが濡れたように光って見えた。

 浩人はふいに真琴の泣いた姿を連想した。

 諦めたように項垂れた姉の姿と、目の前の弟の姿が重なった。

 ついに浩人は、何も言えずに悠人から背を向けて、公園を出て行った。

 家の玄関を開けようとすると、引き戸に手をかける前に先に扉が開いた。

 はっとして浩人が固まると、目前には蒼白な面持ちの真琴が立っていた。

 彼女の顔を間近に見て、浩人はさっと血の気が引いた。いつも落ち着きのある彼女だったが、今は焦っているような、けれど必死に冷静になろうとしているような様子がうかがって見えた。

 その尋常ではない様子に、浩人は何があったのかと問いかけるのが怖く、唇を固く結んだ。

 先ほどの悠人との会話で続いた自分の口のかたさが続いているような気もした。

「ごめん。今から病院に行く」

 気が付くと、真琴の片手には大きめのバッグが握られていた。

「何かあったの」

 やっとのことで浩人は言葉を絞り出した。

「お母さんが倒れたって。救急車で運ばれたって」

 真琴は包み隠さず早口に言った。

 言うが早いか、浩人の脇をすり抜けて真琴は家を出る。

 目の前で繰り広げられる光景に、浩人はどうしてか他人事のようにぽつりと立って見守っていた。

 ふわ、と浮いたような感覚があった。それは、いつか最近感じた感覚だった。

 そうだ、あれは、悠人の死を告げられた時と同じだと、浩人はぼんやりと思った。

「大丈夫なの?」

 真琴の背中を捕まえるように聞いた。

 立ち止まって振り返る真琴は、浩人の顔を見ると少しやわらかな表情になった。

「わかんない……わかんないけど……傍にいなきゃ」

 一言、一言喋るたびに真琴の表情は崩れていった。喉に何かがひっかかっているかのような声色だった。震えているようにも聞こえた。

「ごめん、夕飯、一人で食べて」

 真琴は赤くなった瞳を最後に見せて、大きなバッグを抱えて走っていった。

 ぽつんと残された浩人はふわふわとした気持ちだった。

 地面が遠いと思って、足元を見つめた。そこには自分の足があった。地に足をつけた自分の足が見えるが、奇妙な不安が見えるような気がした。

呆然とした面持ちでリビングに戻ると、そこには悠人が立っていた。

先ほどのやり取りを知ってか知らずか、困ったように微笑んでいた。

浩人はその笑みが気に食わなかった。

自分よりも先に帰っていたことに、驚き、そしてその驚きも、自分では信じられないほどの怒りに変わった。

「お母さんが倒れたって。病院に運ばれたって」

真琴の言っていたことを、そのまま口にする。自分でも言ってみたが、それはやっぱり他人事のように響いていた。

「お前がいなくなったから、お母さんが」

喉の奥が熱くなった。そして、それを自覚するとじりじりと心臓が痛んだ。母が倒れたことがやっと現実だと理解し始めた。

そして、悠人がほんとうに死んだということも、現実味を帯びてきた。

「なあ、なんで死んだんだよ。なんでこんなことしたんだよ。誰も喜ばないって、分かってただろ」

今まで悠人にかけてきた優しい声色も、今の浩人には一欠片もなかった。ただ鋭く叩きつけるように声を荒らげた。しかし、浩人自身、こんな形で悠人に伝えるつもりはなかった。気付いてはいたが、浩人の激情は止まらなかった。

悠人はそれでも冷静だった。諦めの色が見えるその顔に、浩人はさらに腹が立った。

「喜ぶ人はいないって、わかっていたよ」

言い聞かせるように、やけにゆっくりと悠人は言った。

「そんなの当たり前だ。だからどうして」

「でも死ななきゃならないって思った。行き着く先はいつもそこだったんだ」

「死ななきゃならないってなんだよ、誰もそんなことお前に頼んでないだろ! 姉ちゃんも、俺だって、悠人に生きていてほしかった!」

 浩人は今まで黙ってきたことすべてをぶちまけた。

 言い終えた瞬間、はっとして顔をあげて、悠人の顔色をうかがった。

 悠人は驚いたような、傷付いたような顔で立ち尽くしていた。

 その顔を見た瞬間、皮膚を刃物で撫でられたような、不気味な冷たさが全身を駆け巡った。

「こんなに辛いのに、どうして死んじゃダメだったの?」

 それでも冷静さは欠かず、悠人ははっきりと言った。

 その言葉は浩人の耳の奥でじんわりと広がっていくようだった。冷たい水をかけられたように、浩人は頭が冴えるのを感じた。

「これが一番冴えたやり方なんだって確信してたんだ。絶対に一番いい方法なんだって。だからぼくは海に行ったんだ。なのに、みんなどうしてぼくを責めるの。何がいけなかったの。あんなに辛かったのに、それでも生きていかなきゃいけなかったの」

(これが、言っちゃいけない言葉だっていうのだろうか)

 肩を震わせていたが、真っ直ぐに悠人は浩人を見つめていた。

 浩人ははっきりとした意識の中で、自分が放った言葉を思いかえしていた。

 悠人の瞳からはついに涙が流れたように見えた。

 真琴の涙とよく似ていた。

「誰も知らない場所で、どこにも居場所がなくて、誰も見つけてくれないのに、寂しいのに、どうして生きていかなきゃならなかったの!」

 弾かれたようにベランダから出て行く悠人。

 黒い学ランをひるがえして駆けていく姿を、浩人は呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。

 体が動かなかった。

 浩人は悠人の見た残酷さを知り、成すすべがなかった。

(それじゃあ、あの子を救う方法なんてなかったんじゃないか。どうすれば助けてあげられたんだろう)

 悠人がいた場所を見つめたまま、浩人は思った。

(それって、誰をだ?)

 浩人は思った。

(姉ちゃんも、俺も、一体だれを助けたかったんだ?)

 今の自分の不安定さを思い、浩人は肩を落とした。

(助かりたいのは今の自分だ。今のつらい自分、ただ一人だけなんだ。悠人は、それじゃあ何も助からない)

 悠人のことを見つめていながら、その向こうにいる自分を助けてやりたかっただけなのだと、浩人は知った。あれほどまでに言葉を選び、あれほど悠人の扱いに戸惑っていたのは、自分が傷付きたくなかったからだ。

 悠人の傷付いた顔を目の当たりにして、浩人はやっと自分の卑劣さを知った。

(このまま悠人はいなくなるんだろうか)

 浩人は不意にそう予感した。

(こんな冷たい孤独のまま。悠人は、迷子のまま)

 しかし今の浩人にも、悠人を見つけたとして、なんと声をかければよいのか分からなかった。

 悠人の寂しさや辛さがどこから来ているのか、浩人は知らない。

 重い体を引きずるように二階をあがり、自分の部屋へと戻ってきた。

 悠人の部屋でもある。彼の物が未だ何一つ動かされずにところどころに置かれている。

 描きかけの、真っ青なキャンバスを見つめた。これ以上、誰かが描くわけでもなくなった空しい未完成の絵だ。それは宇宙のようにも見えたし、深海のようにも見えた。

 浩人の机の上にはアルバムがいくつか置いてあった。表紙には『悠人』と、母の字で書かれている。

 遺影を探すために取り出してきたアルバムだった。母と父が、俯きながらアルバムから写真を選んでいた。その後姿を、廊下を通るときに浩人は一瞬見たので覚えていた。遺影を一枚選んだあと、父が突き返すように浩人にアルバムを渡したのだった。受け取ったとき、一枚写真が減ったはずのアルバムの、あまりの重さに、足元がぐらついたことも、よく覚えている。

 そのアルバムをそっと撫でて、表紙を開いた。

 悠人の写真は、真琴や浩人に比べるととても少ない。ほとんどが三人で映っている写真で、悠人が主役のものは数えるほどしかない。

 写真の中の悠人は全員、笑っていた。

(よく笑う子だった。優しい子だった。だから、あんなに冷たいことを言う悠人が、こわかった)

 あの朝の日、目覚めてからの悠人は、死後の悠人は、すべて諦めたような、手放したような冷たさがあった。

(よく気付く子だった。人を笑わせるためのいたずらをして、それが愛らしかった)

 アルバムをめくると、写真の悠人は笑っている。

(こんな子が天使なんて)

 アルバムをめくると、写真の悠人は笑っている。

(馬鹿だ)

 アルバムをめくると、写真の悠人は笑っている。

(天使なんかじゃない。天使じゃないんだ)

 写真の悠人は笑っている。ぱたりとアルバムを閉じても、美しく笑う悠人の顔が脳裏にこびりついている。

(当たり前だ。宇宙で死ぬ気分。選んで当然だ。突然じゃない。全然突然じゃない)

 浩人は振り返ってキャンバスを見た。

 窓から西明かりが差し込んでいる。夕暮れを呼ぶような、ひっそりとした朱色が部屋を染めている。

 青いキャンバスにオレンジ色の光がさす。

 夕暮れの海だと、浩人は思った。

(こんな、絶望の中で。孤独の中で、生きていくなんて)

 浩人は静かに部屋を出た。夕暮れが背中を押すように、浩人の姿を見守っていた。


 浩人は家から一番近い浜辺に来ていた。

 行ったり来たりする優しい波の音がする。

 さざ波が、学ランの裾を撫でてひいていく。

 悠人はまぶしそうに夕陽を眺めていた。

 鋭い夕日が海をオレンジ色に染め上げていた。

 浩人は波の先で足を止めた。

「本当は、つらいことなんて何ひとつなかったのかなあ」

 寂しそうに悠人は呟いた。

 浩人は苦しそうな顔をゆがめて、細い悠人の背中に言った。

 夕日がまぶしかった。

「死んでいいよ。もう、死んでいいんだ」

 自分でも驚くくらい、優しく言えたと思った。

 悠人はその言葉を聞いて、ゆっくりと浩人を振り返った。

 驚いた顔をしていた。

 浩人の言葉をやっと飲み込んだようにやさしく笑い、

「ひろ兄、手をつなごう」

 と、小さなてのひらをさしだした。

 なんのためらいもなく浩人は足を踏み出して海に入っていった。

 白波に足を踏み入れる。浩人の足首を無数の冷たい手が撫でて消えていく。

 浩人は右手でそっと悠人の手をとった。しかし、その手は悠人に触れることなくすり抜けていった。

 浩人は寂しく悠人に向けて笑った。悠人は嬉しそうに微笑んだ。

「絶望に手をひかれて、ぼくはここにきたんだ」

 悠人は言った。

「でもここに来たときは、きっとちがう理由」

 夕日を振り返り、悠人は海を進んでいった。

「ぼくが死んだのは、夕日がこんなにもうつくしかったからだ」

 浩人も夕陽を仰ぎ見た。

 沈みかけた夕日が黒い影を引き連れて、何よりもまばゆく光る。刺すように放射状に光が伸びて、空を、海を、オレンジ色に濃く染めている。桃色の雲が、紫色の雲が、群青の雲が、ぽつりぽつりと浮いている。

 悠人の姿は小さくなっていく。

 浩人は踵を返して砂浜へと戻った。

「ひろ兄!」

 明るく大きな声で呼び止められ、浩人は足を止めた。

 振り返ると、小さな悠人と目が合った。

 オレンジ色に染まった悠人が大きく手を振った。

「ひろ兄は生きていくんだよ。この、冷たい世界で」

 まばゆい笑顔で悠人は言った。

 浩人は優しくうなずくと、悠人に背を向けて歩き出した。

 背中をさざ波の音が押している。一人分の足跡をたどりながら、砂に足を取られながら、浩人はそれでもしっかりと歩いた。

 あたりが少しずつ暗くなっていく。波の音がはっきりと耳元で聞こえてくる。

 何故だか心臓の鼓動が大きくなっていた。

 その力強い脈動に、浩人は喉の奥が熱くなった。

 熱い血が全身に駆けていくのを浩人は感じていた。

 海の匂いは少しずつ遠ざかっていく。


 あたたかくやわらかな日差しが頬を撫でて、浩人はそっと目を開けた。

 朝方のひんやりとした空気が息をひそめている。

 線香の匂いがした。遠慮がちに、遠くで蝉の声がした。

 あたりを見ると、ここがリビングのソファの上であることに浩人は気付いた。

 ゆっくりと起き上がる。

 カーテンには目がさめたばかりの太陽の光が透き通りうつくしく輝いていた。

 浩人はしばらくぼうっと光を眺め、自分の右手を見た。

 朝日が照らしている。手に確かなあたたかさが感じられた。

 胸の内に穴が空いてしまったような気がした。しかし自分の心臓は絶え間なく動いていた。

 前触れもなく、浩人の瞳からは涙が流れた。

 朝日を見つめ、浩人はただ静かに泣いた。

 自分は生きているのだと思った。

 庭先では朝顔がそっと顔を上げて微笑んでいる。

 その花弁に朝露が穏やかに座り、太陽の光を受けて輝いていた。


太宰治賞に応募した作品でした。

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