6.種明かしは蜜の味 II
見開いた瞳から、涙が零れる。
目の前には、眼鏡の奥で閉じられた、クロさんの瞼。
突然の口付けに、あたしは抵抗することも忘れ……
「…………は……っ」
唇が離れ、やっと息をついたかと思うと、今度は強く抱き締められた。
そして、
「……本気でそう思う?
だとしたら……君、相当鈍いよ」
らしくない、ぼそっとした口振りで……
クロさんが、そう呟いた。
キスの余韻と、抱き締められている温もりに、その言葉の意味をうまく考えられなくなる。
……いや、考えるな。騙されるな。
彼はこうやって、何度もあたしを振り回してきたのだから。
「も……もう騙されないんだから! そうやって籠絡して、実験台にしようったって、そうは……!!」
「ねぇ」
……と。
いつになく強い口調で言葉を遮られ、思わず口を噤む。
固まったあたしの身体を、クロさんはより強く抱き締めて、
「……一度しか言わない。一度しか言わないよ。
だから……ちゃんと聞いていて」
耳元で、そう囁く。
こんな、掠れたようなクロさんの声……初めて聞く。
どんな顔しているのか見てみたいけれど、ぎゅっと抱き締められているせいで、それが叶わない。
「……最初は、そのつもりだったよ。
君には、研究のために近付いた。
けど……今は違う。
特別な能力なんかなくったって、僕は──」
──それは。
低く、甘く、切ない声で。
「──君のすべてが欲しい。
心も、身体も……この先の人生も、全部。
この意味……わかるよね?」
……鼓膜を揺らす、その声に。
胸の奥が、痛いくらいに締め付けられる。
だって、いつも飄々としているクロさんが……
こんなに、声を震わせるなんて。
堪らずあたしは身体を離し、彼の顔を見た。
すると、
「…………なに」
眉間に皺を寄せる、その顔は……
ごまかし切れない程に、赤くなっていた。
「クロさん……ほっぺ、真っ赤」
思わず口にすると、クロさんは「うるさい」と言って……
顔を隠すように、再びあたしを抱き締めた。
あのクロさんが、こんな顔をするなんて。
頬を染め、照れ隠しをするなんて。
……それだけで、もう充分だった。
この言葉は、きっと本物。
彼の気持ちも、きっと……本物。
今度こそ、夢じゃないよね?
彼も、あたしと同じように……
あたしのことを、想っていてくれたんだ。
なんて……なんて、幸せな運命の中にいたのだろう。
……ん? でも、待って。
それなら……
「……なんでさっき、普通に返事してくれなかったんですか?」
「さっき、って?」
「あたしが『好き』って伝えた時ですよ! 遊びは終わりだ、とか言って、あたしのこと振りましたよね?!」
「別に振ってないよ。本当のことを言っただけ」
「はぁ?! ど、どういう意味ですか?!」
「君の心を手に入れたんだから、これで幼稚なごっこ遊びも、客とホステスっていうつまらない関係性も終わり。ここからが本番、ってこと」
「本、番……?」
「……だって」
彼は、あたしの顎に手を添え……
目を細め、妖しく笑う。
「君、正式に僕のものになったんだよ? おさわり禁止の制約も解けたし、ここからはもう……どんなことをされても、文句は言えないよね?」
「…………っ……!!」
そう言って笑う彼の顔は、やはり小動物のように愛らしいのに……
闇色の相貌だけは、獲物を捕らえた肉食獣のように、ギラギラと熱を帯びていて……
……ひょっとして。
さっき振られた(と思い込んだ)時、冷たいと感じた視線の正体は、この獣のように真剣な目付き……?!
なんて、脳内で答え合わせをしていると、クロさんは「あはは」と笑い、
「まぁ、勘違いさせるような言い方をしたのは事実だよ。『失恋したんだ』って思い込んで、絶望する君の顔が見てみたかったからね。案の定、君の反応は最高だったよ。涙がじわぁって滲んで、この世の終わりみたいに顔を歪ませてさ……はぁ。今思い出しても興奮する」
「さ……最低! 変態!!」
「そう。僕は変態なんだ。優しくするだけじゃつまらない。君に意地悪をして、モヤモヤさせて、いつも僕のことで頭を悩ませていて欲しい。君の心に忘れられない失恋の痛みを刻みたかったし、初めての恋が成就する喜びも味わって欲しかった。その両方の感情を……僕が、奪いたかったんだよ」
言って、彼はあたしの額にキスをする。
そのキスは、とても優しいけれど……
あたしを見つめる瞳は、やはり隠し切れない熱を孕んでいて。
「要するに、それだけ僕は君に夢中ってこと。
どう? 嬉しいでしょ?」
と、可愛らしく尋ねる。
……こんなことを言われたら、恐ろしくて逃げ出すのが普通なのだろう。
でも、あたしは……
彼の、歪んだ愛情表現に…………
背筋がゾクゾク震えるような、甘い悦びを覚えてしまって。
彼のことを「変態」と罵ったけれど。
あたしも、もう……引き返せないくらい、「変態」になっているのかもしれない。
……だから。
あたしは、その瞳に操られるように頷くと、
「う……嬉しい、です」
蚊の鳴くような声で、そう答えた。
その返答に満足したのか、クロさんは「いい子」と囁いて……
もう一度、おでこにキスをしてくれた。
「……それと、もう一つ。君に伝えなくちゃいけないことがある」
クロさんは、少しだけ声音を変え、こう続けた。
「実は、この馬鹿げた戦争も、もう間も無く終わる。君の国が、降伏宣言を出した」
「え………」
この国が……イストラーダ王国が、降伏した。
やっと、やっと……この戦争が、終わるのだ。
「そうなると僕も、いよいよ国に帰らなくちゃいけなくなるでしょ? だから、今日のデートで君を僕のものにするって決めていた。ルイスには事前に、あの森まで迎えに来るよう頼んでいた。それでルイスも隊の連中も、こぞってあの森まで来ていたんだけど……それを察知した敵さんが、慌てて君を連れ去ろうと仕掛けてきた、ってわけ」
そうか……
フォルタニカにマークされたあたしを無事にロガンスへ連れて行くため、わざわざ隊長たちが迎えに来てくれたのだ。
つまり、あたしさえいなければ、隊長たちはあんな目には……
……と、自分を責め始めた矢先、クロさんが続けて、
「だから……やつらと戦闘になってしまったのも、ルイスたちを危険に晒してしまったのも、ぜーんぶ僕のせい。僕のわがままのせいだから」
微笑みながら、言った。
その言葉に、あたしの胸がぎゅっと締め付けられる。
これまで決して「僕のせい」なんて言うはずがなかったクロさんが……
何もかも自分のせいだと思っているあたしを、罪悪感から救うために、こんなことを言ってくれた。
その事実が、切なくて、嬉しくて……泣きそうになる。
……が、しかし。
「でも、よく考えたら、僕がこんなにわがままになったのは君のせいだよね」
「……へっ?」
って、やっぱりあたしのせいにするんか!
……と、声を上げるより早く。
──トサッ。
視界が、宙に返った。
彼に……押し倒されたのだ。
そのまま、無防備に投げ出された手首を、きゅっと掴まれる。
「……どうしてくれんの?」
「な、ななな、なにがでしょう……?!」
「僕をこんな風にした落とし前……どうつけてくれるの?」
お、落とし前って……
彼は、あたしの唇に人差し指をそっと押し当てる。
そして、ニヤリと、いやらしく笑って、
「……ふふ。しちゃったね、キス。もう二回も」
「…………っ!」
そして、あたしの耳に、唇を近付け……
「次は…………ナニをしようか?」
甘く、甘く……囁いた。
は……は…………
はわわわわむりむりむりむり!!
持たない! 心臓が持たない!!!
ドキドキが限界に達し、あたしはその囁きから逃げるように顔を背ける。
しかし、未だ手首を掴まれたままで、逃げ出すことが叶わない。
すると、
「恥ずかしい? それとも……僕に触れられるのは、嫌?」
……と。
手首を押さえる力を緩めながら、クロさんが低い声で尋ねる。
その声に違和感を覚え、恐る恐る彼の方を見ると……
彼は、どこか余裕のない、寂しげな表情で、あたしを見つめていた。
「……ズルイですよ」
その表情に、切なさを覚えたあたしは……
「そんな顔で見つめられたら…………何されてもいいって、思っちゃうじゃないですか」
彼の頬にそっと触れながら、そう囁いた。
言って、すぐに「しまった」と思った。
何故なら、あたしの言葉を聞くなり、クロさんは……
「……言ったね?」
と、嬉しそうに口の端を吊り上げて……
「うわわ……っ!」
あたしを抱き寄せ、ベッドの上をゴロンと転がり……
あたしの身体を、自分の上に乗っけた。
つまり……あたしが、クロさんの身体に跨がっているような体勢だ。
「ち、ちょっと……!」
「何してもいいって言うならさぁ」
戸惑うあたしの言葉を遮り、クロさんは眼鏡を外しながら、
「次は…………君から、キスしてみてよ」
……そう、挑発するように言った。
思いがけない要望に、あたしの全身が一気に熱くなる。
「なっ……そ、そんなの……!」
「あぁ、子供みたいなキスじゃダメだよ? ちゃんと……気持ちのいい、大人のキスね」
そして。
あたしの唇を、つぅ……っと指でなぞりながら、
「初めての時、教えたんだから……やり方は、知っているでしょう?」
……と。
眼鏡のない、裸の瞳で命じた。
その言葉に、あたしは……身体中で思い出す。
蜂蜜の海で溺れるような、甘くとろける、濃厚なキスを。
あの甘美な時間を、もう一度味わえるのなら……
あたしは……あたしは…………
「…………」
もう、何も考えられなかった。
気付けばあたしは、その命令に突き動かされるように……
彼の唇に、自分のを重ねようと……
顔を、ゆっくりと近付けて………………
…………というタイミングで。
「──あー……いちおう声はかけたんだが……悪い、取り込み中だったか」
……横から、別の声が聞こえる。
知っている声。
よーく、知っている声だ。
ギギギギ、と首を回し、恐る恐るそちらを見ると……
案の定、テントの入口に佇む、ルイス隊長の姿があった。
…………ぎ、
「ぎゃあぁぁあああああああっ!!」
恥ずかしさのあまり、あたしは人生で一番の絶叫を上げた……
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
あと2話で完結します。
お楽しみいただけると嬉しいです。