4.泡沫ランデヴー Ⅳ
クロさんに腕を引かれ、腰に手を回される。
あと少しでも近付こうものなら、唇が触れてしまいそうな程の距離。
でも、決して触れ合うことのない、ただ見つめ合うだけの、視線の口づけ。
……いつも、ここまで。
そう……いつもなら。
「…………忘れてた」
彼は、再びそう言うと、
「……君の言うこと、なんでも聞いてあげるっていう約束」
指で、あたしの頬を、そっと撫でる。
触れられた肌に走る、甘く痺れるような感覚。
高鳴る鼓動に身体を強張らせながら、あたしはなんとか言葉を絞り出す。
「で……でも、あれは時間切れだって……」
「そのつもりだったけど……気が変わった」
そう言って、頬を撫でるのと反対の手で……
彼は自分の眼鏡をはずし、そのまま無造作に地面へ落した。
初めて出会う、眼鏡越しでない、裸の瞳。
その美しく危うい黒さに、心ごと吸い込まれてしまいそうで……
「……ほら」
「え……?」
「今ならなんでも……言うこと聞いてあげるよ?」
「…………っ」
「……言ってごらん。レンは……何が欲しいの?」
…………なんだ。
この人、やっぱり意地悪だ。
今日一日、優しくして、散々ときめかせて……
後戻りできないくらい夢中にさせた上で、最後におねだりさせるつもりだったのだ。
あたしが望むものが何なのか。
この人はもう……とっくに知っているから。
あーあ。
結局、最初から彼の手のひらの上だったのか。
おねだりするための場を、綺麗にお膳立てされたというわけね。
……悔しい。
この、何もかもを見透かすような瞳が、憎らしい。
でも……
きっと、今日を逃したら、彼はもうしてくれない。
あのお店の中で、"客"と"ホステス"という立場のままでいたら、永久に何も変われない。
なんだか、そんな気がして。
……だから。
あたしは、精一杯の勇気を振り絞る。
「……さい」
「ん?」
声が、掠れる。
「あたしに……ください」
「……なにを?」
こくっと、喉が鳴る。
彼を見上げる瞳が潤む。
心臓が、壊れそうなくいらいに脈を打っている。
……いいの?
本当に、言ってしまっていいの?
そう胸の内で問いかけるが、それが誰に対する問いなのか、自分でもわからない。
そんなことばっかりだ。
彼に出会ってから、自分で自分がわからなくなった。
気付けばクロさんのことを考えていて。
どんなに意地悪されても、会いたくて。
自分の心が、身体が……全部、自分のものではなくなった。
嗚呼、あたし──
「……欲しいです。
クロさんの…………キスが。
お願い。もう、寸止めなんかしないで……
あたしに…………キスしてください」
──恋をしている。
……なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。
また、からかわれるかもしれない。
意地悪を言われるかもしれない。
でももう、そんなことはどうでもいい。
恥ずかしくてもいい。みっともなくてもいい。
欲しいから。
ずっとお預けされていた、あなたのキスが……欲しくて欲しくて、たまらないから。
……ねぇ、クロさん。
昨日、言っていましたよね。
上手におねだりできたら、してあげないこともない、って。
あたし……上手におねだり、できましたか?
……あたしの言葉に。
クロさんは、目を細め、
「──喜んで」
くすり。
と、いつもの笑み。
そして、夜空より暗い色をした瞳が、ゆっくりと閉じられる。
彼の肩越しに、白く輝く満月が見えた。
あ、きれい。
なんて、他人事のように思ってから……
それを最後に映し、彼を真似るようにして。
あたしも静かに…………瞼を閉じた。
──最初はただ、触れるだけだった。
しかし、次に触れられた時……
確かに彼の、たばこの味がした。
ほろ苦くて、大人な、切ない味。
ゆっくりと、むさぼるように。
離れてはまた塞がれ、その繰り返し。
酸欠で、脳が揺れる。
まるで、甘すぎる海で溺れているみたいだ。
ファーストキスがこんなに激しくて、いいのかな?
でも、これが……
あたしが、ずっと欲しかったもの──
どれくらいの時間が経っただろう。
「……っは……っ」
長すぎた口付けに、唇が離れた途端、眩暈を覚えた。
腰に……足に、力が入らない。
よろけそうなあたしを、クロさんは何も言わずに、ぎゅっと抱き締めて……
あたしも何も言えないまま、ただそれにすがった。
「……足りなければ、おかわりもできるけど」
息も絶え絶えなあたしの耳元で、彼が囁く。
その声が、微かに笑っている。
「いえ……も……おなかいっぱいれす……」
「ふふ。それはよかった」
彼が笑う振動が、抱かれた腕から、重なる胸から直に伝わってくる。
──本当に、夢みたい。
彼とキスをして、抱き締められている。
こんな幸せなこと……あっていいのかな?
「……クロ、さん」
あたしは、乱れた呼吸の合間に、
「クロさん……わたし……」
譫言のように、彼を呼ぶ。
そして……
「…………好き……」
小さく。
しかし、はっきりと。
「あたし……クロさんのことが…………好きです」
そう、伝えた。
もう、胸の中に留めておけなかった。
幸せで、愛おしくて……
頭の中が、クロさんへの『好き』で埋め尽くされている。
好き。好き。大好き。
その気持ちが溢れて、喉をついて出てしまった。
だから、深く考えていなかった。
これは、独り言ではなくて……
返事をする相手が目の前にいる、告白なのだと。
その事が急に怖くなって、胸がきゅっと苦しくなる。
ねぇ、クロさんは……
あたしの気持ちに、なんて答えるの……?
───それは。
「……そう」
呟かれた、彼の声は。
「じゃあ───僕の勝ちだね」
怖いくらいに、冷静なもので……
身体からあたしを引き離し、彼は続ける。
「僕に染まった君の負け。そういうゲームだったよね」
そう言って、笑う。
にこりと、笑う。
しかし、笑っていない。
真っ黒な瞳が……笑っていない。
「よかった。最後の最後で勝てて。これでやっと終えられる」
最後?
終えられる?
「あれ、忘れちゃったの? 『どちらがお互いを望む色に染められるか』。最初から期間限定のゲームだったじゃない。指名料を先払いしたあの日からちょうど二ヶ月。今日でこのお遊びも、おしまいだね」
淡々と言いながら、彼は先ほど取り払った眼鏡を拾い、かけ直す。
頭の中が、真っ白になる。
彼の言っていることが理解できない。
理解したくても、脳が拒絶する。
ゲーム? お遊び? おしまい?
あなたにとって、最初からこれは……
本当に、ただの勝負事だったの……?
「……おしまい、なの?」
「うん?」
掠れる声で尋ねるあたしに、クロさんが聞き返す。
「もう、この関係は……おしまいなんですか?」
「そうだよ」
ぱっ、と顔を上げる。
彼が、あまりにも簡単に答えるから、どんな顔をしているのか見ようと思ったのだ。
しかし……すぐに、見たことを後悔した。
……なんで。
なんでそんな、涼しげな顔でいられるんですか?
本当に……本気だったのは、あたしだけだったんだ。
すべて、遊び……だったんだ。
「…………ッ」
堪え切れず、あたしは。
彼に背を向け、駆け出した。
涙が、次から次へと溢れ出す。
嗚呼、馬鹿だ。
あたしは、馬鹿だ。
振り返らなかった。けど、本当は……
引き止めてくれるのではと、少しだけ期待した。
「嘘だよ」って、いつものあの、意地悪な笑顔を見せてくれるんじゃないかって。
ほんの少しだけ、そう期待したのに……
彼があたしを追ってくることは、なかった。
これにて、第4章は終幕です。
次回から最終章に突入します。
果たしてどのような結末が、フェレンティーナを待ち受けているのでしょうか。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
最後までお楽しみいただければ、さいわいです。