3.泡沫ランデヴー III
……消えたい。
今まで散々恥ずかしい思いをさせられてきたけれど、今回ほど本気で消えたいと思ったことはない。
あぁ、もう。最悪だ。
クロさんとの間接キスに、気持ちが昂った結果……
彼の目の前で、鼻血を垂らすなんて。
「──甘いもの食べすぎちゃったからかな。大丈夫?」
クロさんは「外の風にあたった方がいい」と、待ち合わせ場所だった噴水広場まで連れて来てくれた。
頭が冷えたのか、お陰で出血もすぐに治ったのだが……
もう、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいだった。
「大丈夫です……ごめんなさい。まだケーキたくさん残っていたのに、お店を出ることになっちゃって……」
「ううん、気にしないで。残った分はあとで受け取れるようにしたから、帰りに寄ろう。君の店へのお土産にすればいいよ」
と、クロさんは優しい声音で言う。
そして、噴水の縁に座りながら微笑んで、
「にしても、いくら僕が赤い色が好きだからって、わざわざ鼻血まで出してくれなくていいのに。文字通り、出血大サービスだね」
「いや……そういうつもりで出したわけじゃないです……」
という間抜けな返答に、クロさんは「だよね」と楽しそうに答えた。
……おかしい。
やはり今日の彼は、いつもと違う。
あのタイミングで鼻血なんか出したら、確実に大笑いするような人なのに……
こんな、普通に優しい常識人みたいな態度であたしに接してくれるなんて、どう考えても異常である。
何か、企んでいるのだろうか?
それとも単純に、クロさんもこのデートを楽しんでくれている……?
……いや。この際、どっちでもいいや。
今日ぐらいは何も考えず、素直に楽しんでおこう。
嘘でも気まぐれでも、こんなに優しくしてもらえることなんて、もうないかもしれないのだから。
そんなことを考えていると、クロさんはあたしの顔を覗き込み、
「他に、どこか行きたいところはある? どこでも連れて行ってあげるよ」
なんて、柔らかく言う。
ほら。こんな風にあたしの意見を尊重する姿勢なんて、未だかつて見たことが無い。
今日ぐらい、素直に甘えても……いいんだよね?
「えっと……それじゃあ……」
と、あたしがリクエストを考えていると……
徐ろに、クロさんがポケットからたばことライターを取り出そうとした。
……それを見た瞬間、
「あ……っ」
思うより早く、あたしは彼の手からライターを取り……
──カチッ、と。
いつもの要領で、たばこに火を灯した。
あたしの行動に、クロさんはたばこを吸うことも忘れ、驚いたようにあたしを見つめる。
……しまった。
つい、お店にいる時の癖で……
「ご、ごめんなさい。なんか、身体が勝手に動いちゃいました」
謝りながら、ライターを返す。
すると、それを受け取りながら、
「いや、ありがとう。……ふふ」
……と。
彼は、笑いを噛み殺す。
「……面白いね」
「え?」
聞き返すあたしに、ふぅと煙を吐くと……
からかうような視線をこちらに向け、口の端を吊り上げる。
「だって、完全に調教されているじゃない。僕がたばこを出したら火を点けるように、って」
「な……た、ただの習慣ですよ!」
「だから、そういうのを調教されてるっていうの」
「言いません!!」
「そんな真っ赤な顔して言われても説得力ないなぁ」
必死に否定するあたしを、にやにやと見つめる彼。
あぁ、この感じ……いつものクロさんだ。
優しくされるよりも、こうしてからかわれて、意地悪を言われた方が、どこか安心してしまうあたしは……
……本当に、調教されているんだろうな。
「──で? どこか行きたいところ、あるの?」
たばこをふかす彼の言葉に、あたしは宙を仰ぎ、
「うーん……それじゃあ……」
考え付くかぎりの楽しそうな場所を、挙げてみた。
──それからクロさんは、あたしが思いつきで挙げた場所に、すべて連れて行ってくれた。
可愛い雑貨屋さん。
小さな射的場。
怪しげな占い屋。
おしゃれなレストラン。
このベラムーンという街は、元々かなり大きな商業都市なので、戦争前の賑やかさはないものの、それなりにデートらしいことができた。
その間もクロさんは、やはりいつもと違い、ずっと優しくて……
あたしの心には、喜びとときめきと、少しの胸騒ぎが同居していた。
──そして、その日の最後に。
「わぁ……」
クロさんはあたしを、街はずれにある小高い丘の上まで連れて来てくれた。
ベラムーンの街が一望できる、眺めの良い場所だ。
もうすっかり日が沈んでしまったので、家々から灯りが漏れて見える。
それが暗闇の中でキラキラと輝き、一面がまるで宝石のようだった。
「綺麗……」
「いいところでしょ。たまに来るんだよ、一人で」
この街に来て三ヶ月近く経つが、こんな場所があるなんて知らなかった。
クロさん、おぼっちゃまのはずなのに、こんな場所を知っているなんて……そんなに頻繁に家を抜け出しているのだろうか?
「あ……お城が見える」
ふと、あたしは顔を上げ……
ちょうど正面の、遠くの方。光に照らされた、見たこともないくらいに綺麗で立派なお城に目を向けた。
あたしが指差した先を見ると、クロさんは「あぁ」と言って、答える。
「あれは、ロガンス城だよ」
「え……」
ロガンス……
久しぶりに聞くその名に、思わず鼓動が揺れる。
あれが……あそこが、ロガンスという国。
そうか。ここは本当に、ロガンス帝国に近い場所なんだ。
ルイス隊長や、あの隊のみんなが生まれ育った国。
本当は、あたしも行きたかった国……
今頃、みんなどうしているかな?
無事に、国へ帰れたのかな?
「──どうしたの?」
クロさんの声に、はっとなる。
しまった。つい、思い出してしまっていた。
「いえ、なんでもないです。あたしもあんなお城に住めたらいいなぁ、なんて……お伽話みたいなことを考えていました」
咄嗟に笑顔で返しながら、少しの罪悪感に襲われる。
嘘をついてしまったこと。それから……
クロさんといるのに、他の人のことを考えてしまったことに対する、意味のない罪悪感だ。
そんな気持ちを振り払うため、あたしはクロさんの方を向き、
「……今日は本当にありがとうございました。いろんなところに連れて行ってもらって」
そう、あらためてお礼を述べた。
クロさんは静かに首を振り、微笑み返す。
「どういたしまして。楽しかった?」
「はい、とっても!」
「そ。それはよかった」
その返答の、なんと穏やかなことか。
うーん、結局今日はずうっと優しかったなぁ……本当に何かを企んでいるわけではなかったようだ。
……そして。
あたしは、この後のことを考える。
もう日も暮れたし、街の中も歩き尽くした。
さすがに、ここでお別れだよね?
いや、それとも……
もう少し一緒に過ごそう、なんてことになったり…………
「…………」
あたしは、ローザさんに教わったデートの作法を思い出す。
たくさん遊んで、楽しく食事して、互いにムードが盛り上がったら……
デートの最後には、そういうコトもあり得る、らしい。
……これって、結構いい雰囲気、だよね?
もしかしたら……もしかしたりする?
どうしよう……あたし、今日どんなパンツ履いてきたっけ……?!
なんて、脳内で慌てふためいていると、
「レン」
「は、はいっ」
「もう時間も遅いし、そろそろ……」
と、まさにクロさんが、この後のことを口にしようとする。
わ、うわわわわ……!
い、いいのかな? 付き合ってもいないのに、そんなこと……
でも……あたしは……あたしは……っ!
「あの、あたし……」
「うん、わかっているよ」
「え……?」
あたしの言葉を遮ると、彼はにこっと笑い……
そっと、あたしの肩に手をかけ……こう言った。
「もう帰った方がいいでしょ? ヴァネッサが心配するといけないしね」
……その、真面目な提案に。
あたしは…………一瞬、固まってから、
「…………あ、はい」
カチカチの笑顔で、そう答えた。
うぅ……あたしってば、また恥ずかしいことを考えてた……
「じゃあ、もう行こう。店まで送るよ。あ、その前にケーキ屋さんに戻らなきゃね」
「いえ、大丈夫ですよ一人で! 今日はいろいろお世話になりっぱなしでしたから!」
ていうか、恥ずかしすぎて合わせる顔がないんです……どうかこのまま、一人で頭を冷やさせてください……!
と、必死で断るあたしを、彼は心配そうに見つめ、
「そう? 遠慮しなくていいんだよ?」
「本当に、本当に大丈夫です! 今日はありがとうございました!」
さすがに二回断ったからか、クロさんは諦めたように「そう」と頷き、
「こちらこそ、今日は来てくれてありがとう。嬉しかったよ」
と、やはり優しい声音で言って。
「……それじゃあね」
最後に、いつもの愛らしい笑顔を浮かべ、片手を上げた。
その表情に、胸の高鳴りを隠せないまま、
「はい。それじゃあ、また……お店で」
あたしはぺこっとお辞儀をし、ケーキ屋さんの方へと丘を下った。
……なんだったんだろう、今日のクロさんは。
もう、お陰ですっかりメロメロだ。
やっぱり、送ってもらえばよかったかな……
なんて、さっそく後悔に浸っている──と。
「レン」
ふと、クロさんに呼び止められた。
振り向くと、彼がこちらに駆けて来ていて……
「ど……どうしたんですか?」
「……忘れてた」
忘れてた?
どこかに忘れ物でもしてしまったのだろうか?
「忘れ物ですか? なら、今すぐ探しに……」
行きましょう。
そう言おうとしたのを、彼は遮って。
──ぐいっ。
いきなり腕を引かれ、反射的に目を瞑る。
そして、次に開いた時には……
目の前に、夜空のような色の瞳があった。