1.泡沫ランデヴー I
午後十時五十分。
「……なんで、いつもそうなんですか?」
あたしは、抗議の声を上げた。
相手はもちろん、いつものように横に座り、たばこをふかす、クロさんである。
簡潔に言ってしまえば……今日も、キスの寸止めみたいなことをされたのだ。
「なぁに。してほしいの?」
にやり。
と、もうすっかり見慣れた笑みを浮かべ、彼は言う。
それに、あたしは慌てて目を逸らす。
「ま、まさか。そんなワケないですけど……どうせしないくせに、なんでいつもこんなことするのかなぁって」
「……わかってないなぁ」
彼は短くなったたばこを灰皿に押し付けながら、煙混じりのため息を吐く。
「エサを簡単にもらえた犬と、おあずけを食らって、芸までして、やーっとエサをもらえた犬。どっちが飼い主に従順になると思う?」
「あたしは犬でもなければエサも欲しがってもいません。芸もしません!」
なんなの、この人!
いくらなんでも例えがひどすぎる!
……いや、待てよ。
それって、逆に言えば……
諦めなければ、いつかはエサがもらえるってこと……?
……って、違う違う!
そんなことを考えているようじゃ、彼の思うツボじゃない!
「……と、言うより」
頭を振るあたしに、彼は妖しげな微笑みを浮かべ、
「寸止めされた時の君の顔……たまんないんだよね。期待を裏切られたような、切なそうなあの顔がさ」
「なっ……!」
「まぁ、僕も鬼じゃない」
そして……
ぐっと、吐息を感じるくらいの距離で、あたしの瞳を覗き込み、
「上手におねだりできたら……してあげないこともないけど」
……最上級の、ドS発言をしてくる。
嗚呼、そうなのだ。
この人、たぶんもう、全部知っているのだ。
あたしが彼にハマりかけていることも……どうやったら自分に夢中になるのかも。
だからこそ、
「おっと、もうこんな時間か。じゃあねレンちゃん、また明日」
このもやもやを残したまま、いつものように去って行く。
はぁ……今日もまた、弄ばれた。
……と、ため息をつきかけた、その時。
「あ、そうだ。忘れてた」
帰ると決めたらもう絶対に振り返らない彼が、今日は珍しく振り返り、
「君、明日休み取れる?」
「え? えっと……ヴァネッサさんにお願いすれば、大丈夫だと思いますけど」
「よかった。じゃあ、明日の午後三時に、広場の噴水前に集合ね。遅れちゃだめだよ」
そう言って、王子様オーラ全開の微笑を浮かべ、
「じゃあね。明日、ちゃんと来るんだよ~」
彼は、今度こそ振り返らずに、去って行った。
「…………え?」
それって、もしかしなくても…………
* * * *
「──デートぉ? ったく、素姓も知れないヤツと店以外で会って大丈夫なのかよ? ……今さら止めねぇけど。しょうがねーなぁ。これで明日の昼までに好きな服買ってきな。お母さんからの小遣いだ」
そう言いながら、ローザさんがくれたお小遣いで買った、白のワンピースを着て。
「……ちょっと早く来すぎちゃったかな」
次の日。
待ち合わせ場所である広場の噴水前に、あたしは立っていた。
腕時計の針は、約束の時間の三十分前を指している。
「クロさんって、人には遅れるな~とか言っておきながら、平気で遅刻しそうだなぁ……」
じゃあ、なんでこんな早く待ち合わせ場所に着いているのかって?
……緊張しているからに決まっている。
何せ、人生初のデートなのだ。
昨日の晩、ローザさんにデートの極意を再三教えてもらったのだが……緊張のあまり、ほとんど頭に入らなかった。
あぁ、どうしよう。
こんな昼間にクロさんと会うのは初めてだ。
一体、どんな顔して会えばいいのだろう?
……ていうか。
大前提として、これってデートだよね?
まさか……また揶揄われている?
どうしよう。こんなにオシャレをしてきたけど、彼にそのつもりがなかったら……
「……ただの、恥晒し……!!」
やばい。今からでもラフな格好に着替えに戻ろうか……?!
……などと、一人混乱していると、
「あらら、作戦失敗。もう来ちゃっていたか」
そんな、聞き慣れた声がして。
顔を上げると、そこには……
「く、クロさん……っ」
いつもとは少し違う、柄物のスーツに身を包んだ彼がいた。
想定よりずっと早い登場に、心臓が跳ね上がる。
彼は、相変わらず可愛らしい顔でにっこり笑うと、
「ふふ、偉いじゃん。僕より先に来るなんて」
そう言いながら……あたしの頭を、ぽんと撫でた。
それだけで、鼓動がさらに加速する。
もう……なんなの? その余裕。
可愛らしいチェック柄のジャケット、似合いすぎ。
革靴も、ピカピカの新品だ。
もしかして、今日のためにオシャレしてきてくれたの……?
……ズルい。
そんなの、嬉しくなっちゃうじゃない。
この"頭ぽんぽん"に、犬みたいに心の尻尾を振ってしまいそうな自分が悔しい。
……と、そこで。
あたしの脳裏に、一つの疑問が過ぎる。
「……クロさん」
「ん~?」
「今、『作戦失敗』って言いました? 一体、なんのことです?」
未だあたしの頭をぽんぽんしている彼に、疑いの眼差しを向ける。
すると彼は、「あぁ」と言って、
「僕を待たせた分数だけ言うこと聞いてもらおうと思ってたんだよ。五分待たせたら五個、十分待たせたら十個、っていう感じにね。でも、君が先に来ていたから失敗しちゃった。あーあ、命令したいことを三十個も考えてきたのになぁ。残念」
と、悪びれる様子もなく言ってのけるので……
あたしのドキドキは、すんと鳴りを潜めた。
この人は、隙あらばあたしをいじめようとして……早く来ておいて本当によかった。
「ふぅ……それじゃあ、しょうがない」
クロさんは、撫でていたあたしの頭をぽんっと叩き、
「僕の方が待たせちゃったみたいだからね。今日は一個だけ、君の言うことをなんでも聞いてあげるよ」
なんて、天使のような笑顔で言うもんだから……
く、クロさんが……あたしの言うことを、何でも聞いてくれる……?!
と、一瞬だけ、つい喜んでしまう。
しかし、すぐにハッとなり、
「な……なんであたしは一個だけなんですか!? もう五分くらい待っていたんですけど!」
さらりと流された不公平を、声を荒らげ指摘した。
それに、クロさんはにまにまと口の端を吊り上げる。
「あ、バレちゃった?」
「バレますよ! その条件なら、あたしから五つ命令をしていいことになりますよね?!」
「まぁそうだけど……君、そんなに僕に命令したいことがあるの?」
……そう問われ。
あたしは……また、彼の罠にハマったことを悟る。
が、時すでに遅し。
クロさんは、固まるあたしの瞳をぐいっと覗き込み、
「そっか……レンちゃんも、僕に命令したいことがあるんだ」
「ち、違っ……」
「いいよ。こんな機会、もうないかもしれないし」
「…………っ」
「ほら、遠慮せずに言ってごらん? 今なら、君の言うコト……なんでも聞いてあげる」
妖艶な笑みを浮かべ、囁く。
その視線とセリフに、あたしは……
もう、全身の血液が沸騰してしまいそうで……
「あ……う……」
やばい、立ちくらみが……
どうしよう……何か、何か言わなきゃ……!
ぐるぐる回る思考の中、あたしがなんとかお願いごとを絞り出そうとした……その時。
「……はい、ざんねーん、時間切れ。こんなところで立ち話していないで、さっさと行くよ」
ぱっ、とあたしから離れ。
クロさんは、スタスタと歩き始めてしまった。
その後ろ姿を、呆然と見つめ、
「……………」
あたしの前途多難な初デートの幕が、開けたのであった……