5.逢引きノワール II
「は……はわわわ……」
……どうしよう。
あたし、今、人生で初めて…………
……男の人に、押し倒されています。
「──教えてあげようか? 男が、どれだけ怖い生き物かってことを……」
うそ……
よりによって、こんな………
…………外で?!
……って、そういう問題じゃなくて!!
などと混乱している間にも、クロさんはゆっくりと顔を近付けてきて……
あたしの耳に、口付けしてしまいそうな距離で、囁く。
「あたし服のレンもいいね……可愛い」
「……っ」
こ、ここで呼び捨ては……反則だ!
こんな状況なのに……いや、だからだろうか。
近すぎる距離で『可愛い』と言われ、心臓がバクバクと暴れ始める。
「君、今日休みだもんね。お店の中ではおさわり禁止らしいけど……」
「……っ」
「今なら……関係ないよね?」
「え……?!」
「昨日、キスされると思ったんでしょ? 目、瞑ったもんね」
「ち、違っ……!」
「今なら本当にできちゃうけど……」
「…………」
「…………してみる?」
「……ッ!!」
そう言って、彼はあたしの目を見つめると……
ふっと小さく笑い、顔を近付けてくる。
ほ……本気、なの?
あたしまだ、そんな、心の準備が……!
かっ……母さん助けてぇえっ!!
……と、心の中で叫んだ、その時。
「──とまぁ、こんなかんじ。ね? 怖いでしょー、男って」
……なんてことを。
急にクロさんが、真顔で言う。
「……ふぇ?」
涙の溜まった目で見つめ返すと、彼はあっさりとした口調で、
「男はみーんなオオカミなの。いつどこで誰が君を狙っているかわからないんだから、安易に心を許さないこと。わかった?」
「は……はひ」
「ん。わかればよろしい」
首を縦にぶんぶん振るあたしに、彼は満足そうに頷いて……
何事もなかったかのように、あたしから離れた。
び、びっくりした……もうだめかと思った……
……でも。
なんだろう。この、肩透かしを食らったような、ちょっと虚しい感覚は……
……いや、ないない。気のせい気のせい。
「君の部屋が店の上だったなんて知らなかったよ。もう、危ないなぁ」
悶々としているあたしを残し、クロさんはすっかり元の調子で言う。
こっちはまだ心臓がバクバクしているというのに、恨めしいくらいの切り替えの早さである。
「あ、危ないって……何がですか?」
「男だよ。レンちゃんのことを気に入った客がこのことを知ったら、なにされるかわかんないじゃん」
「その心配はいりません。なんせ、三階にはヴァネッサさんが住んでますから」
もし不法侵入でもしようものなら、ヴァネッサさんにとっ捕まえてもらうのだ。
と、少し落ち着きを取り戻しながら答えると、クロさんはそれでも納得のいかない表情で、
「でも、今日みたいにヴァネッサがいない日はどうすんのさ」
「そ、それは…………確かに」
「心配だなぁ。僕の専属ホステスが誰かに狙われるんじゃないかと思うと……そうだ。僕が一緒に住んで護ってあげようか?」
「丁重にお断りします」
彼の明らかな冗談を、バッサリと斬り捨てる。
今のところ、あなたが一番危険だっつーの。
本当に……わからない人。
あたしを待っていたかと思えば、そうじゃないし。
押し倒してきたくせに、なんでもない顔するし。
そのくせ、他の人に狙われるのを心配するし。
一体、あたしをどうしたいというのだろう?
そんな疑問をぶつけるように見つめていると、クロさんは「んー」と唸りながらあたしの部屋を見上げる。
「こんなんじゃ簡単に侵入できちゃうよ。ヴァネッサにもっと防犯を強化するように言わなきゃなぁ」
なんて呟きながら、彼は先ほど落としたたばこを拾い、灰皿に捨て……
ポケットに手を突っ込み、新しく取り出したもう一本を口に咥えた。
そして、銀色のライターをカチッと鳴らし、火を点ける。
火が風に煽られないよう手をかざしながら、うつむく彼。
その横顔に……どうしてだか、目を奪われる。
こんな可愛らしい見た目をしているくせに、こういうふとした仕草が、妙に大人っぽくって……
その伏し目がちな横顔に、ライターを扱う綺麗な手に。
さっき押し倒された時の、あのゾクゾクする感覚を、思い出してしまう。
……と、
「……ふふ」
彼が、笑いながらあたしの顔を見る。
なんで笑われたのかわからず、「へっ?」と声を裏返すと、
「……どうしたの? これ」
そう言いながら、彼はたばこを持っていない方の手で、あたしの頬に優しく触れ……
「……ほっぺ。真っ赤だよ?」
と、囁くように言った。
うそ。あたし……
さっきのことを思い出して、顔が赤くなってた……?!
「きっ……気のせいじゃないですか?!」
「いいや、本当に赤いよ。ねぇ、ナニ考えてこんな色にしてんの?」
「ナニって……お、お店の光が反射して、赤く見えてるだけですよ!」
「ふーん……そっか。それは残念」
とっさに思いついた言い訳に、クロさんはちっとも残念そうにない声で言う。
うぅ、最悪……今日は……いや、今日も翻弄されてばかりだ。
本当なら、ホステスであるあたしが、お客さんをメロメロにするはずなのに。
悔しさに震えながら、顔を逸らすあたしに……
「……いいよね、赤い色って」
突然、彼はそんなことを口にする。
そして、ゆっくりとあたしに近付き、
「赤は、生きている色だ。紅潮した頬の色。泣き腫らした目の色。それから……」
すっ──と。
彼は、あたしの唇に人差し指を当てると、
「──キスを求める、唇の色」
そう、微笑みながら言った。
そのセリフと、唇に当たる指の感触に、あたしが顔を熱くすると、彼は嬉しそうに笑って、
「すごく、『生きている色』だ。だから僕は……赤い色が好き」
優しい眼差しで、囁く。
……ずるい。
そんな風に言われたら、嬉しくなっちゃうじゃない。
この赤い色が……自分の色が、大嫌いなあたしだから。
きっとこの人は、知ってて言っているのだ。
こう言えばあたしが絆されそうになることをわかっていて、反応を面白がっているに違いない。
そう、頭ではわかっているのに。
……どうしよう。
このままでは、立場が逆になってしまう。
ここは色酒場で、あたしはホステス。
本当なら、あたしに会うためにお客さんが来てくれるはずなのに──
──あたしが、この人に会いたくなってしまう。
「──冷えてきたね」
「……え?」
「風邪を引くといけないから、今日はもう部屋に戻りな。僕ももう、帰るから」
「で、でも、ヴァネッサさんへの用事は……」
「明日でいいや。遅くなっちゃったし……それじゃあ」
彼は立ち上がると、コートの両ポケットに手を入れて、
「また明日ね。レンちゃん」
こちらに背を向けて、去ってゆく。
「────あの!」
その背中を引き留めるように。
あたしは、声を張り上げた。
クロさんが、驚いた顔をして振り返る。
声が震えていた。
けど、そんなの構わない。
「あなたの言う通り……あたし、負けず嫌いなんです。だから……」
すぅっ……と、息を吸い込んで、
「あなたを夢中にさせて……『あたしの色だから』赤が好きなんだって、言ってもらえるようになりますから!!」
自分でも驚くくらいの大声で、そう叫んだ。
それを、クロさんはぽかんとした顔で見つめ……
やがて、「あははっ」と笑い出す。
「なにそれ。愛の告白?」
「んなっ?! ち、違います! ホステスとして、ちゃんとあなたをメロメロにしますから、という宣言です!!」
「あはは、ウケる」
「ウケるなぁぁああっ!!」
ムキになるあたしに、クロさんはまた楽しげに笑う。
あぁもう……結局、最後まで彼のペースだ。
一頻り笑うと、彼はニヤリとあたしを見つめ、
「それじゃあ……明日からはさらにいじわるしちゃお。覚悟しておいてね」
なんて、不穏な一言を囁いて。
「おやすみ、レンちゃん……また、明日ね」
そう言うと彼は、背を向け……
闇夜に溶け込むように、去って行った。
「…………また、明日」
胸の奥を焦がすような、苦いたばこの香りを残して───