5.黒猫、現る II
「君、名前は?」
席に案内して、お酒を注文した後。
およそ成人男性には見えないそのお客さんは、そう尋ねてきた。
見た目は少年のように愛らしいが、声も雰囲気も落ち着いた、不思議な人だ。
「レン、です」
「レンかぁ。いい名前だね」
「お客様のお名前は?」
「ん? 僕はねぇ」
彼は、その幼い顔立ちに激しく似合わず……
黒いスーツのポケットから、たばこを取り出した。
そして、慣れた手つきで口に咥えると、あたしに銀色のライターを差し出し、
「火、点けてくれたりする?」
「え? あっ、はい」
喫煙家であることに驚きつつ、あたしはローザさんに教わった通りにたばこに火を灯す。
ていうか……近くで見るとますます可愛らしい顔立ちだ。まつ毛長。黒目デカ。
なんて、思わず見惚れていると、彼はたばこをゆっくりと吸い……
ふぅー……と、煙を吐いた。
「……クローディア・クローネル」
「え?」
「僕の名前。好きに呼んでいいよ」
あぁ、そうか。あたし、名前を聞いていたんだった。
クローディアさん、かぁ……
「それじゃあ……クロさん、ってお呼びしてもいいですか?」
あたしの言葉に、彼はがっかりしたような顔をする。
「なんでみんな僕のこと『クロ』って呼ぶのかなぁ。犬や猫じゃあるまいし」
「あっ、すみません。じゃあ……」
「いいよいいよ。もう慣れてるもん」
いや、あなたが好きに呼んでいいって言うから……
と、あたしは内心ツッコむ。
それに、なんか『クロ』ばっかりが聞こえる名前なんだもの。
「いいじゃないですか。可愛らしい呼び名で」
「男が可愛いって言われてもねぇ。だって、クローディアだよ? 普通なら愛称は『クロード』じゃん」
「あたしは『クロ』っていう呼び方、好きですよ? 黒い色も好きですし」
「……あっそ」
吐き捨てるように言って、彼は子供みたいに口を尖らせた。
ぬぅ……営業スマイルでご機嫌を取りたかったが、通用しないか。
なんとも掴みどころのない彼の態度に、あたしが次の言葉を考えていると、
「お待たせしやした~」
そんな声と共に、ローザさんが注文した品をお盆に乗せて持って来た。
「ほい。まずお酒、っと」
彼女はグラスを手際良くテーブルに乗せると、気まずそうに視線を逸らし、
「……さっきは悪かったよ、お客さん。お詫びと言っちゃなんだが、これ、店からのサービス」
そう言って、フルーツの盛り合わせをお酒の横に置いた。
どうやらヴァネッサさんとの口論は落ち着いたらしい。ローザさんも、クロさんを追い返そうとしたことを申し訳なく思っているようだ。
ローザさんの言葉に、クロさんはにっこり笑うと、
「全然気にしていないよ。僕、気の強い女性は好きだから」
なんて、口説き文句とも取れることをさらりと言う。
ローザさんはそれに「どーも」と小さく呟き、去って行った。
うーん……ローザさん、こういうタイプは苦手そうだなぁ。
「あっ、リンゴ」
ローザさんの引き攣った顔を気にする様子もなく、クロさんは嬉しそうにフルーツの盛り合わせを覗く。
「リンゴ、お好きなんですか?」
「うん。大好き」
「剥きましょうか?」
「いいの? じゃあ、お願い」
と、素直にお願いされ、少しほっとする。
よかった……とりあえず愛称の件で拗ねていたのは直ったみたいだ。
あたしはローザさんが持って来てくれた果物ナイフを手に取る。
ここでまた機嫌悪くなることがないように、手際良く皮を剥かなければ。
そう考え、あたしは集中してリンゴを剥き始めた。
が……すぐに後悔する。
しまった……皮剥きに集中すると、気の利いたトークが出来ない……!
でも、クロさんはリンゴを食べたがっているし……
でもでも、このままじゃクロさんが手持ち無沙汰になってしまう……
そこで、あたしは苦し紛れにこんなことを口にする。
「り、リンゴの皮をこうやって、途中で切れないように剥くの、結構難しいですよねー……あはは」
って、なんだこのしょーもないトークは。
しかも、それに対するクロさんの返答はない。
……え? まさかの、無視?
眉をひそめながら、ちらっと彼を横目で伺う……と。
「…………」
彼は、リンゴを剥くあたしを……
真剣な目で、じっと見つめていた。
思わず、心臓が跳ね上がる。
その表情は、女の子みたいに可愛いくせに……
完全に、大人の男性のものだったから。
思わず、ぱっと視線を逸らす。
……ちょっと待って。え?
なんでそんな表情で、あたしを見ているの?
あたしの顔に、何かついていますか?
動揺から、リンゴを剥く手まで遅くなる。
何か話したいのに、余計に黙り込んでしまう。
どうしよう……彼の視線に、射抜かれたみたいだ。
こんなの、生まれて初めて。
目を泳がせ、一人混乱していると……
クロさんは、あたしを見つめたまま……一言、こう言った。
「……下手」
「…………は?」
「だから、下手。皮剥くの」
……彼が言い放った言葉を理解するのに、少し時間がかかった。
そんな、意味ありげな視線でじっと見つめて、何を言うかと思えば……
下手、ですってぇ?!
「ほら、貸して」
「え?」
「ナイフ。僕のほうが上手いよ」
そう言うなり、クロさんはあたしの手から瞬時にナイフを奪い取る。
……なにこの人。本当に読めない。
変な人だ。絶対に、変な人だ!
戦慄するあたしの横で、彼はたばこを灰皿に押し付けてからリンゴを剥き始める。
すると……
「…………」
その手つきは、「僕のほうが上手い」と豪語するだけのことはあった。
くるくると螺旋を描きながら、しなやかに伸びてゆく赤い帯。
果肉と表皮のはざまを、絶妙な加減で剥いていくその横顔は………
悔しい程に、様になっていた。
……くそっ! 変人のくせに、黙っていたら王子様みたいなんてズルすぎる!!
リンゴの皮を見事に剥き終えると、彼は手のひらに乗せたままカットしようとナイフを入れる。
……が。
「あ、いた」
クロさんは手を止め、声をあげた。
どうやら指を切ったらしい。
「だ……大丈夫ですか?」
「いったーい。けっこう深くいっちゃったかも」
見ると、彼の親指から血が滴り落ちていた。
さっきまであんなに上手に剥いていたのに……本当に、めんどくさい人だ。
仕方ない。
ここで少し、驚かせてやるか。
「傷、見せて下さい」
あたしは彼の手を取り、膝に乗せ……
宙に、『署名』をする。
そして、
「──精霊よ。契約に従い、姿を示せ」
唱えた。
すると、手のひらから熱を帯びた光が生まれ、彼の親指を包み込み……
傷が、みるみる内に塞がってゆく。
その様を見つめながら、あたしは内心勝ち誇る。
どう? びっくりした?
ホステスだからって、あまり舐めてもらっちゃ困るのよ。
なんてことを考えながら、クロさんの方を見るが……
しかし彼は、驚くでもなく、怖がるでもなく……
ただ真っ直ぐに、傷が塞がっていくのを見つめていた。
……あれ? これも、反応なし?
と、あたしが肩透かしを食らっていると、
「──すごいね」
視線をそのままに。
低い声で、彼は言う。
「まるで、傷ができる前に時間を戻しているみたいだ。実際はその逆で、細胞の再生を急速に促しているんだろうけど……早い上に、痛みもない」
「え……?」
クロさんがブツブツと何かを呟くが、よく聞き取れない。
聞き返すあたしに、クロさんは顔を上げ、
「君……こんな力を持っているのに、なんでこんなところで働いているの?」
あたしの目を見据えて、尋ねた。
その問いかけに、あたしはまた面食らう。
……え? そう来る?
もっと、「わー、手品みたい!」とか、「ありがとう、見直したよ」みたいな反応が来ることを期待していたのだが……
なんでここで働いているのか、だなんて……
「それは、えっと……そ、そうだ。あたしのことより、クロさんのお話を聞かせてくださいよ!」
と、はぐらかそうとするが……
彼の目は、有無を言わさないオーラ全開で……
黒ぶちメガネの奥の視線に負け、あたしはため息をつき、
「……いないんです、両親とも。戦争で、亡くしました」
大人しく、自分の話をすることにした。
しかしそれは、半分は本当で、半分は嘘だ。
両親はいない。けど、戦争で亡くしたわけではない。
この店で働くまでの経緯を詳しく語ろうとすれば、ルイス隊長の──敵国であるロガンス帝国のお世話になっていたことまで話さなければいけなくなる。
クロさんが何者なのかわからない限り、そのことは伏せておくべきだ。
「こんなご時世ですから、頼るあてもなくて……困り果てていたところを、オーナーのヴァネッサさんに拾っていただいたんです」
「ふーん」
いや、ふーんて……あなたが聞いたんでしょうが。
「楽しい?」
「へっ?」
「この仕事。楽しい?」
「…………」
この人は……さっきから一体、なにを聞きたいんだ?
話がふらふらと、あちこちへ飛んでいく。いい加減、こちらのペースに持っていきたいものだ。
ならば……仕掛けるのみ。
「……楽しいですよ。だって」
傷が完全に塞がった彼の手を、あたしはきゅっと握り、
「クロさんみたいな人に、出会えましたから。あたし、この髪の色がコンプレックスだったんです。それをさっき、好きって言ってもらえて……本当に、嬉しかったです」
と、ここで上目遣い。
……きた。完璧だ。
完璧な流れで、殺し文句に持っていけた。
さぁ、どうだ?
どう反応する?
あなただって、こういう夢を見たくて色酒場に来たんでしょう?
暫しそのまま、彼の瞳をじっと見つめる。
しかし、彼は……
「……それで?」
ツンとした態度で、そう聞き返した。
それで? じゃねぇええ!
この精一杯の上目遣いが目に入らんのかコルァアアッ!!
と、脳内で絶叫しながらブチ切れていると、
「──君さぁ」
突然。
彼は、あたしの瞳を覗き込むように、その綺麗な顔をぐっと近付けて……
「……誰にでもそういうカオして、そういうこと言うの?」
「……え?」
「誰に教わったか知らないけど、やめたほうがいいよ……安い女に見えるから」
「…………っ」
ぱんッ!
気がつけば、あたしは……
彼の頬を、思いっきり叩いていた。
侮辱された。
あたしだけでなく、ローザさんや、ヴァネッサさんまで。
そんな気がして、考えるより先に手が出てしまっていた。
どうしよう。やっちゃった。
お客さんを叩くなんて……絶対にやってはいけないことだった。
心臓が、ドキドキと暴れ出す。
クロさんの反応を、固唾を飲んで見守っていると……
彼は、叩かれた頬を押さえながら──何故か、嬉しそうに舌舐めずりをして、
「いいねぇ……僕は君の、そういうカオが見たかったんだ」
と、笑みを浮かべながら、言った。
……直後。
「きゃっ」
彼はあたしを壁際へと追い込み……
一方の手を壁に、そしてもう一方の手で、あたしの顎をぐいっと掴み持ち上げた。
そのまま、今にも唇が触れてしまいそうな距離で……
「……さっきの言葉には、語弊があったね」
囁く。
「僕はね……おとなしそうな顔をしているくせに、心の内では気が強い、そんな女の子が好きなんだ。だって──」
身体の奥にまで響くような囁きが、あたしを支配する。
そして──
「その方が…………いじめがいがあるでしょう?」
──ばっ。
その言葉と同時に。
あたしは我に返り、彼から離れた。
いじめる、って……この人、一体何をするつもり?
睨みつけるあたしの視線を、彼は笑顔で受け止める。
「ふふ。やっぱりいいね、君」
「な、何言って……」
「これでお互い、腹を割って話せるね。明日から」
「……はぁ?」
「おーい、ヴァネッサぁ」
クロさんは意味不明なことを一方的に口にすると、何故かヴァネッサさんを呼ぶ。
そういえば、この人……ヴァネッサさんの知り合いなんだっけ。
「なぁに、クロちゃ……あらやだ、どうしたの? ほっぺた腫れてるわよ?」
呼ばれて店の奥から出てきたヴァネッサさんは、驚いた様子で彼に近付く。
……ここは、正直に言おう。
彼を……お客さんのことを、叩いてしまったと。
あたしは意を決し、「実は……」と言いかける。
しかし、それを遮るように、クロさんがずいっと前に出て、
「僕、レンちゃんのこと気に入っちゃった。これ、二ヶ月分の指名料。先払いしとくね」
なんて、とんでもないことをさらっと言ってのけて……
懐から分厚い紙幣を取り出すと、テーブルにドンッと置いた。
こ、こんなご時世に、どっからそんな大金を……?!
っていうか……!
「二ヶ月も指名……? あたしを……?!」
「あら。いいわよクロちゃん、先払いなんかしなくても」
そう、申し訳なさそうに言うヴァネッサさん。
お、お願いヴァネッサさん! 断って! こいつ本当に危ないヤツだから!!
先払いなんかされたら、指名を拒否できなくなる……!!
……が、あたしの思いとは裏腹に、クロさんはまるで無害そうな笑みを浮かべて、
「いいのいいの。どうせ後から払うんなら、まとまったお金がある内に払っておきたいだけだから。ね?」
「うーん……そういうことなら……」
だめぇぇぇえっ!
ヴァネッサさん、だめぇ!!
「……わかったわ。じゃあこれ、受け取っていいのね?」
「もちろん」
「い……」
いやぁぁぁああああっ!!
「じゃ……そういうことだから」
あたしの心の叫びも虚しく、交渉は、あっさり成立した。
クロさんは、まだ一口も飲んでいなかったお酒を一気に飲み干すと、
「あ、そうだ」
突然、なにか思い出したかのように、くるっとこちらを向いて……
あたしの右手を、強引に引き寄せた。
また怖いことを言われるのではないかと、反射的に目をつぶる。
と、彼はあたしの耳に唇を寄せ、
「……あの魔法、僕以外の人間に使っちゃダメだからね?」
そう、囁いた。
ま、魔法……?
なんで今さら、魔法のことなんか……
しかし、その答えを探る前に。
「……じゃあね、レンちゃん。また明日」
彼は、ぱっと離れると。
にっこり笑って、店を出て行った。
また、明日……
…………え?
本当に、また明日も来るの……?
「え……えぇええええ……っ?!」
これにて第2章終幕です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第3章はいよいよ恋愛メインのストーリーが展開します。
引き続き、よろしくお願いします!