091、つかむ力より強く引き寄せて
それを口に乗せるときには腕の力はすでに強いと言えるものではなくなっている。だが、拘束が緩んだということとつながろうとする意志が緩むこととは別だ。それはむしろ増していると思える。
瞳に力を、声に想いを、
「帰って来て」
「え……」
耳に聞き覚えのある単語である。もちろん、しかし、馴染みのない単語だ。
帰る、という単純なことが俺にはどうしてもイメージできなかったからだ。
「ど、こに……」
「帰る場所に」
そんな場所はない、と口にしそうになって、
ニコの瞳に射止められて止まる。
「ごめん、嘘ついた。場所じゃない」
「場所じゃない?」
帰るという言葉は、どこかからどこかへと戻る、とそんな意味のはずなのに。
彼女は口を閉じて、頬を赤くし、決意がなければ開かないように閉ざされた唇は、
「まっ……。 ……待ってる人のところに帰って来て」
と、そんな言葉を口にした。
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そんなに不安にさせただろうか、と俺は思う。
ニコはあの後、一つの重く長く熱いため息を吐くと俺の腕を取って肩に乗せた。
俺は先程の言葉を一つずつ反芻している最中だ。
かつてどこかで言われたことだ。
――俺が孤児として捨てられたことには、他の多くの同情すべき孤児たちとは違い明確で明白な理由がある、と。
多分、先程のニコの言葉はそこに埋まっているべきものなのだろう。
神様に捨てられた子供、その欠損部分がうずいているのだ。
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ぐるぐると、腹の中に何かがいるようにスッキリとしないが、作業は順次進んでいき時間は刻一刻と削られていく。
自分の中身を見つめるのもいいが、現実的に最も期限が迫っているのは屋台を出す時間である。全体の作業進行の様子をなんとなく見ながら、ニコの手を握っていると、しばらくの時間が過ぎたころには主要なメンバーが帰ってきていた。
シレノワとクヌートには怪訝な目で、シノリにはなぜか気づかわし気な目で見られたが大きな問題はない。ニコに力を借りて立ち上がる。
そして、まず、100枚で大銅貨2枚、つまり、銅貨一つで5枚という値段で坊とシノリは葉っぱの容器を仕入れてきた。包み方については、完全に満足はいっていないようだが、リノはだいぶ漏れにくい包み方を発見してくれたらしく、楽し気にその包み方の説明をしてくれた。
マルは作業を終えたようで、肉串がかなりの量布に覆われて山積みになっている。外気で冷やすことで劣化を防いでいるのだろう。その布に包まれていない肉串もそれなりの量があって、それをどうするのかというと、もちろん、
「んじゃ、かまどに火を入れるぞ」
少女の声とともにしばらくすると部屋の中が温かくなってくる。屋台で使う炭と同じものを使ってかまどに火を入れている。
「ちょっと出てくる」
作業をしているマルの様子を尻目に、一人店から出て行ったのはオーリだ。シノリに聞くと、彼はパンを取りに行ったのだ、と教えてくれた。
「そいじゃあ、山をくずすぞー」
声とともに、鉄網に肉が広がり、さっそく肉汁と混ざって落ちたタレが室内に、唾液の止まらないような甘い匂いを広げだした。
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音、におい、熱。
要素のすべてが絡み合って、しかし、売り物なので口にできないという、お預けの地獄。
200本近くのそれが終わって、リノが並行して進めていた包む作業を終えるころに店の入り口から声がした。
「パンも取ってきたぜ」
オーリの声が麦の焼ける匂いの向こう側からした。
麦と言ってもこの辺りの麦は小麦ではなく、良くない土地でもそれなりに取れる貧者の麦と言われるものの一種だ。
これはこれで風味があるが、癖は強い。
具体的に言えば、俺は好きで、オーリとニコは苦手、マルは何と食べるかを考えるだけなので省くとして、シノリは、うん、まぁ、で、意外とリノはこの味が好きらしい。
ということで、印象は良くないパンらしいが、肉との相性では話が別だ。野趣の強い味を受け止めるのはどこか酸味を感じるこちらのパンのほうがいい。そして、マルが貧者の麦に合うように調味料とつけ合わせをセッティングしているとのことだ。
「美味しそう……」
ソーセージが焼けるのを見ていた子供たちの一人が思わずという感じで零した言葉に誘われるように、さわさわとした、ざわめきが立つ。それは、風を受けた草原のように強くはなくても響くささめき。
「しょうがない奴らだぞ」
言いつつ嬉しそうに、リノに何かを指示した。リノは包み方をまだ模索していたのか、軽く忘我のふちにいたようで指示を聞きなおし、深くうなずいた。
「包丁、借りるね」
マルに断って包丁でパンを切っていく。それは、小さなプレート状だ。パンの輪切りとでもいえばいいのか。
スカスカかと思いきやよく詰まっているパンの中身は、一センチほどの厚みしかないのにほとんど向こうが見通せないくらいに穴が少ない。そして、端っこの細くなっている部分を除けて、二本のパンを同じような輪切りにした。
二十と少しの輪切りができる。
「ちょっと失礼」
鉄網の前にいるマルを軽く二の腕で押して隙間を作ると、そこから、網の上に二十の輪切りを並べた。
「真ん中火力強いから注意だぞ」
「はーい」
料理番から注意を受けつつ、細長い調理器具で器用にパンの順番を入れ替えて火の入りを均一に近づけようとしているのだろう。
一呼吸分、網の前から身をひるがえすと、木の桶を取り出した。それも二つ。
それなりの距離があるところから見ても、一つは明らかにもう一つよりも重そう。
中を伺うことはできないが、動かした瞬間に甘いにおいと、それに混じった刺激があった。
嗅ぎなれた匂いだし、正体は先ほど見たばかり、記憶が繋がって……、
――リルの実のスライスと干し林檎。
重そうな桶の中から取り出したのはリルの実。なぜ重そうだったのかといえば、そのスライスが水につけられていたからだ。
それをパンの上に乗せようとして……、
「待って」
「……っと」
マルの静止の声にリノの手が止まる。なぜ手を止めさせたのかは、見てわかる。
ぽたりと、リノの手から水滴が落ちたからだ。
「パンはすぐに水を吸う」
リノは一瞬迷ってそのあたりにあった笊を斜めに立てかけて、そこにリルの実のスライスを置いた。
それから、すぐに網の前に戻る。火力が高いと言われていた真ん中から順に返す、手は早いが、偶に掴み損なう。
道具を使うことに躊躇がなくとも、作業そのものには慣れがないという感じ。
しかし、作業自体は丁寧で、しばらくすると、オーリが運んできたときの倍ほども香ばしいいい匂いがして、
「肉の用意は任せるんだぞ」
マルが先に焼きあがったソーセージを小さく切る。
それは先ほどのリノの輪切りのパンに合わせたサイズ。
断面から肉汁がこぼれているのがわかる。
焼きあがったパンに、ハーブを練りこんだ油を塗って、その上に、先ほどリノが水を切ったリルの実を乗せ、ソーセージを乗せる。最後に、乾燥したリンゴのスライスを乗せれば、
「パンとリンゴのソーセージサンド、かな?」
輪切りをすべて焼き上げたリノは、そのすべてをマルの前に置く。
マルは黙々と作業を続けているので、完成したものを取って、一人ずつに渡していく。
全員にいきわたったところで、
「じゃあ、みんな、お昼御飯ですよー」
とリノの明るい声が響いた。




