召喚獣
魔法みたいなものさ。
ぼくは人を殺したけど、だからってどうってことない。
ぼくが天国に行けることに変わりはないんだ。
――「バッド・ペイ・バッド(悪には悪を)」、年齢不詳
――P.W. シンガー『子ども兵の戦争』
◇◆◇
白い光だ。
何もかも飲み込む光。
天上の楽園への階段をいつの間にか登ったのかと錯覚させる。
しかし、目の前の世界は天上の楽園とは思えない鬱蒼と生い茂る森の中だ。木々が発する森の香りは精神を安定させてくれるどころか不安を増大させた。
当たり前の話だ。ここにいる生徒たちは一瞬前まで教室にいたのだから。
黒峰中学の1年2組の生徒たちが異世界に転移したのは授業が終わって昼休みに入ろうとしていたときだった。突如として視界を覆った強い光に目を焼かれ、その光が消えた後には見知らぬ森の中に放り出されていたのだ。
ほとんどの生徒が身一つでどことも知れない地にいる。この事実だけで絶望的な状況だ。いたるところで不安を抑えきれずに激高する声が挙がった。
「おい、ここはどこなんだ?!」
「ちょっと、どういうことなの!」
「何が起こったんだ。早く元のところに戻せよ!」
その疑問に答える者は誰もいなかった。答えを知る者がいなかったせいもあるが、不測の事態に備えて導くべき先生もここにはいない。ここにいるのは喚き散らせば誰かから助けを得られると思い込んでいる子供しかいなかった。
ひとしきり悪態を吐いた後、腹が減ったことを思い出した。昼休みから随分時間が経っていた。何も口にしていないことが更に不安を煽った。
「ここでこうしていても仕方ない。水を探しにいかないか?」
クラス委員の柴崎良胤がおずおずと提案した。推薦しても断らないだろうと誰もが思ってクラス委員にした男だ。こんなときの統率力を期待しても仕方なかった。
「はあ? 森に何がいるかわかんねえんだぞ!」
バレー部の大井楊貴は声を荒げた。いつも仲の良い三人組でつるんで馬鹿をやっている陽気な男だった。こんなときこそ率先して積極性を発揮してもらいたいところだったが、言っていることは間違っていない。
鬱蒼と生い茂る森は少し先でさえ見えない。この世界の生き物を見てはいないが、全員がきっと何かがいるに違いないと思っていた。そんな危険な場所に踏み入るのに、戦う術もないなんて馬鹿げている。
柴崎の提案は誰の賛同も得ることなく却下された。
しかし、ここでずっと待っていても仕方がない。誰かが助けにくることなどないと断言できる。生きるためには何が最善か考えた方が良い。柴崎は一人で森に分け入ろうとした。
「待って、良胤。一人じゃ危ない。僕も一緒に行くよ」
美術部の江洲帝が柴崎に声をかけた。日頃から柴崎と馬が合う数少ない友人だ。小柄で線の細い江洲が探索で役に立つとは思えない。だが、精神的に柴崎はかなり助けられた。やはり一人では心細かったのだ。
「だけど良胤もはっきり言った方がいいよ。なんでもはいはい聞いているだけじゃつけあがるだけだから」
「わかっているよ。僕だって自己主張をするときはするさ」
森の中を歩きながら地面の湿り気を確かめる柴崎は振り返らずに答えた。江洲のいうことは一々痛いところをついてくる。山崎が自己主張することで決定的に対立することを恐れ、いつも自分から折れていることを見抜いているのだ。
「まあ、そんな良胤を放っておけない僕も大概お人好しだよね」
「はっ、帝には感謝しております」
江洲の名前をネタにしたいつものやり取りだ。柴崎は少し気が晴れるのを感じた。声を上げても誰もついてこない。何をするにも冷めている周囲が問題なのか自分のカリスマ性の無さが原因なのかとにかく思い通りにならないことばかりだ。柴崎は沼に足を取られて進めない自分の姿を思い浮かべた。
「こっちに水の気配がある」
「えっ、何? 良胤にそんな特技があったの?」
「水辺に生える植物だ。近くに水場があるんじゃないかな」
しばらくして微かにせせらぎが聞こえてきた。自然と足が早まる。転がるように坂を下りると渓流が見えた。流れる水を見て初めて、自分が喉が渇いていたことに気が付いた。飲める水かなど考える余裕もない。直接、口を水につけて飲み始めると、喉が潤うまで止まらなかった。
「はあ、生き返るね」
「ただの水がこんなに美味いなんてな」
しばらく異世界にいることを忘れて、暖かな日の光と清涼な森の空気を楽しんだ。まだなにひとつ解決していない。これからのことなんて、どうなるかわからない。だが、このときだけは先のことなど悩むこともなく、穏やかな時間が流れた。
茂みの揺れる音が背後から聞こえた。振り向いた二人が目にしたのは巨大な熊に似た生物だ。熊に似ている、そう決定的に違うところがある。熊の額には鋭い角が生えていた。
「帝、ゆっくり後ろに下がるんだ。奴から目を離すなよ」
「う、うん。わかった」
一角熊は鼻を地面につけて何度も臭いを嗅いだ。やがて大きく咆えると後ろ足で立ち上がった。二人との距離は10mもない。走ったところで逃げ切れるとは思えないが、生きるためには逃げ切るしかなかった。
「逃げるぞ、帝!」
「やっぱりこうなるのか」
渓流を渡って森の中を走った。舗装されていない道なき道を走るのは、精神力と体力を同時に削っていく。息は荒くなり、心臓は早鐘のように打った。長い距離は走れないだろう。一角熊の追跡を止める方法を
「かはっ」
柴崎は後ろから強い力を受けて地面を転がった。地面で背中を打って肺の空気が無理矢理押し出される。全身が酸素を求めていた。目の前の景色がフェードアウトしいく。湧き立つ頭を意志の力で押さえつけ、必死で冷静さを取り戻そうとする。死神の鎌はもう喉元まで届いていた。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ、僕はまだ死にたくない!
強い願いがどこに通じたかわからないが、振り向いた柴崎の目に飛び込んできたのは、青白い狼が一角熊と戦っている光景だった。
狼は周囲の木々を足場にして飛び回り、素早い動きで一角熊を翻弄する。動きを捉えきれずに闇雲に振り回す丸太のような腕を難なくかわしていった。そして狼は一瞬の隙をついて一角熊の喉元に鋭い牙を突き立てる。ぶ厚い皮を突き破って深い穴を穿った牙は、振り回される度に傷口を大きく引き裂いた。溢れ出した血が狼の純白の毛並みを赤く染めていく。
やがて一角熊の動きが鈍り、電池が切れたように前のめりに倒れた。青白い狼は下敷きにされないようにすっと獲物から離れる。獣にしては何もかも理解しているような賢明さだ。
――この狼は一体なんだ? どこから来た? 僕を襲わないのか?
助かったことに安堵するよりも先に目の前にいる存在が新たな脅威なのか確かめようと柴崎の思考はぐるぐると回り始めた。そんな警戒心を露わにする人間のことなど気にも留めず、狼は欠伸をすると、その場に伏せて毛づくろいを始めた。
「良胤、大丈夫なの? その狼は一体、何?」
「ああ、どうやら助かったようだ。この狼に助けられた」
「僕たちの味方をしてくれるのかな?」
「わからない。襲ってくる様子はないみたいだけど……」
狼は二人の会話に耳を傾けるように顔を上げた。どこか賢そうな雰囲気を感じるのは、助けられたと感じているせいなのか。柴崎はそっと手を差し出して狼の鼻の辺りに持っていく。記憶に焼きつけるかのように何度も臭いを嗅いだ後、狼は柴崎の目をじっと見つめた。
――こいつに認められたのかな?
意を決すると柴崎は狼の喉を撫でた。気持ち良さそうに目を閉じる狼の姿を見てほっと胸をなでおろす。一角熊のような魔物がこの世界にいる以上、自分を守ってくれる存在は貴重だった。
「みんなのところへ戻ろう、帝。こんな魔物が襲ってきたら大変なことになる」
「そ、そうだね。早く対策を話し合わないと」
対策を話し合ったところで結論が出るとは思えなかったが、二人だけでは心もとない。とにかくみんなに合流するため来た道を戻り始めた。狼は何の躊躇いもなく、柴崎の後をついてくる。まだ出会ったばかりだというのに、柴崎にとって最早欠くことのできない頼もしい存在だった。
◇◆◇
みんなのところへ戻ると、そこには見知らぬ大人たちがいた。全員が剣を佩いて革の鎧に身を包んでいる。危険な森に踏み入るには当然の装備だろう。だが、その刃が魔物だけに向けられるとは限らない。柴崎は身を固くした。
「おう、柴崎。こっちの隊長さんがお前に話があるってよ」
「わかった、すぐに行くよ」
こんなときだけクラスの代表者として祭り上げられるのだ。誰も先頭に立たないのは誰もが責任から逃げたいだけかもしれない。少しぐらい話を進めておいてくれても困らないのにと日頃の不満が顔を出した。
「初めまして柴崎です。こちらの代表者、みたいな者です」
「私はイグァラーシ王国第三騎士団長のテーゴマと申します。あなたたちは異世界から転移してきた方でしょうか」
騎士団長を名乗る男はどうみても年上にも拘らず、慇懃な態度で話しかけてきた。腰の低さにも驚かされるが、普通に会話が成立していることも驚きだ。そして最も驚かされたのは異世界から来たことを知っていた点だった。
「異世界……、僕たちに起こったことが何か知っているのですか?」
「あなた方みたいな転移者はここでは珍しくないのですよ。我が国の王も転移者の末裔ですから」
「あなたと言葉が通じるのもそのお陰ですか?」
「そうですね。我が国の言葉は王が故郷の言葉を広められたと聞いています」
異世界の住人が日本語を話すことは、柴崎たちにとって都合がいいと言えばそれまでだが、騎士団長の顔はどうみてもモンゴロイドのそれではない。碧眼で鼻梁が高く、小顔という白人に近い特徴を持っている。吹き替えの映画を観ているような違和感が拭えなかった。
「それで僕たちは助けてもらえるのでしょうか。正直、途方に暮れていました」
「いきなり見知らぬ土地に来れば、みなさんそう思いますよ。もちろん保護させていただく用意はあります。しかし、これには条件を飲んでいただかねばなりません」
「条件ですか? それは一体どんな?」
「この地は魔物で満ち溢れています。人が暮らしていくには厳しい場所なのです。あなた方に魔物を倒す手助けをしていただきたいのです」
「手助けと言っても僕たちは戦い方なんて知りませんよ」
「あなたはすでに召喚獣を使役しているのではありませんか?」
騎士団長は柴崎の後ろに控える狼を指差した。狼は人間同士のやり取りに無関心だったようで欠伸をひとつして答えた。
「この狼が、戦う術ですか?」
「そうです、転移者は召喚獣を使役する力を持ってこの世界に来ます。例外はありません」
「僕たち全員がこの狼みたいな魔物を呼び出せると?」
「召喚獣は召喚する者の心のありようを映し出します。姿は人それぞれです」
召喚獣を使役する力がみんなにあるとなれば、魔物と戦うこともできるだろう。戦うことに関して素人の柴崎でさえ、あの凶暴な一角熊を倒せたのだ。だが、このまま王国に保護されることを了承していいのか判断がつかない。この世界のことは教えられたこと以外、何も知らないのだ。騙されていたとしてもおかしくない。
「あの、その、断った場合はどうなりますか?」
「どうにもなりませんよ。こういう場合は何と言いましたか。そう縁がなかったと思って諦めます」
「諦めるって……、僕たちはどうなるんですか?」
「それはみなさんの才覚次第です。少なくとも魔物と戦う力はあるのですから」
「ここに放り出すってことですか?!」
「いえ、私たちが去るだけです。最初から会わなかったと思えば、こちらも諦めがつきます」
柴崎にはどうにもこの押しの強くない騎士団長が信用できなかった。嘘を言っているようには聞こえないが、全てを話しているようにも思えない。柴崎たちの身を案じて手を差し伸べているわけでないことは確かだ。
「向こうが助けてくれるって言ってんだから。素直に頷いておけばいいじゃん」
「積木、いるんなら最初から応対してくれよ」
「えっ、面倒じゃん。柴崎がいるんだし、任せるよ」
積木照は同じクラス委員の女子だ。彼女は自薦でクラス委員になっている。理由は2つ。クラス委員になればそれなりに外聞がいいこと。学校側にも受けがいい。そしてもうひとつは柴崎の存在にある。彼が仕事を頼んでも断れない性格であることを彼女は知っていた。面倒事はいつも柴崎に押し付けて自分は何もしない。今回も話には一枚噛もうとするが、決定的な場面では矢面に立たないでいた。
「大事なことなんだ。みんなで話し合った方がいいだろう?」
「そりゃまあ、そうだよね」
「テーゴマさん、みんなで話し合いますので、少し待っていただけますか?」
「構いませんよ。ですが、陽が落ちるまでに移動した方がいい。ここは魔物の闊歩する危険な地なのです」
柴崎は曖昧な笑顔で騎士団長に頷いてみせた。王国に協力して魔物と戦わなければ、その危険な場所に置いていくと言っていたのは誰だったのか。ここでは他人の善意にすがるだけでは生きていけないのだろう。
柴崎は生徒たちを集めて騎士団長の提案を説明した。一番に話に食いついてきたのは大井だった。大井もこの年齢の男の子だったということだ。自分に秘められた能力があると知れば、心が湧き立つのは仕方がない。柴崎でも力に目覚めたときは自分が英雄になってように感じた。
「その召喚獣って奴は、俺たちみんなが使えるのかよ」
「この世界に転移してきた者は全員が使えるそうだ」
「どうやって呼び出すんだよ?」
「わからないな。僕の場合は誰か助けてくれって強く願ったら現れたよ」
みんながどっと沸いた。魔物に追いかけられてみろ、誰だって召喚できるようになるさと柴崎はひとりごちた。
一人の女の子が手を上げた。逢坂慧、クラスで一番の美少女だ。学業も優秀で運動神経も悪くない。神の不平等な愛を証明する存在としてみんなに噂されている。
「王国が保護してくれる条件は、私たちが魔物と戦えばいいってことなのかな?」
「向こうから提示された条件はそうだね」
「当然、危険はあるわよね?」
「さっき魔物に襲われたばかりだけど、凶暴な野生動物だと考えればそんなに遠くないよ」
「いくら召喚獣がいても無理じゃないかな?」
「そうかもしれないね。だけど、向こうは申し出を断れば、このままここに置いていくと言っているから、ここで生きていくにはどうすればいいかも考えないと」
みんなが一様に暗い顔になった。召喚獣を呼び出せると聞いて浮かれていた心に一気に冷や水をかけられたようなものだ。涙ぐんで鼻をすすっている女の子もいる。柴崎は結論を性急に求めすぎたことを後悔した。
「柴崎さあ、もうちょっと優しく言ってあげてよ。そんなんじゃ、みんながついていけないよ」
「ごめん、悪かったよ。でも、あまりのんびりもしてられないんだ。暗くなる前にここを離れないと」
積木の苦言を聞いて胃が痛くなった。異世界まで来てクラス委員は全員の面倒を見ないといけないのだろうか。自分の身が危ないのだから他人任せにしないで一人一人が真剣に考えて欲しい。そう思いながらも強く出られない柴崎は一人ため息をついた。
「僕は安易に彼らの提案に乗るのは危険だと思う。もっと情報を集めてからでないと正しい判断はできないよ」
「北里の言うことはもっともだ。その場合は僕らだけで、これからどう生きるかを考えなければならないよ」
「とりあえず人がいる場所に行かないとどうしようもない。提案を断ったとしても彼らの後についていって街まで出ることが先決だよ」
北里修星の意見はそれなりに多く生徒の賛同を集めた。慎重な北里らしい意見だが、柴崎からは見通しが甘いように思えた。彼らが素直に街まで案内してくれるとは限らない。それに彼らの着ている鎧を見ると、現代とはほど遠い文明レベルだろう。運良く街にたどり着けたからといってコンビニがあるわけではないのだ。
「それじゃ、そろそろ決を採ろう。彼らの提案を受け入れる人は俺の近くに、もう少し様子を見る人は北里の近くに集まってくれ」
活発な意見交換もないまま待ち続けていても時間がもったいないので、それぞれの判断に委ねることにした。多くの生徒は仲の良い者と相談して決めている。誰がどちらに付いたのか見極めてから動こうとする者もいる。これまで子供には重要な判断を求められることがなかった。今は自分の判断で自分の命を天秤にかけている。そう考えている者はあまり多くはなかった。
「積木はこっちでいいのか?」
「ん、だって柴崎は生き残りたいんでしょ?」
「みんなそう思っているはずだよ」
「それならこっちに乗っておく方が良さそうってね。単なるカンだけど」
「後で僕に文句を言わなきゃいいよ」
何を考えているかわからない底の深さが積木を恐ろしいものに感じさせた。これまでクラス委員として一緒にいることが多いが、彼女のことは何一つ理解できない。彼女は自分のことを混乱させたいだけだと思うこともあるぐらいだった。
「まあ結構、集まった方じゃない?」
「自分のカリスマ性のなさを感じるよ」
「誰も柴崎にそんな期待はしてないって」
柴崎はこちらに集まった生徒が全体の3分の1程度なことを見て少しほっとした。あまり多くの人生を背負いたくないのだ。もしこちらが失敗したとしても、残りの3分の2は生き残るだろう。
「テーゴマさん、こちらのメンバーは魔物を倒す手伝いをします」
「それは良かった。向こうにいる方々はどうされますか?」
「街までついて行きたいと言っています」
「ついて来るのは構いませんよ。ぞれではあなた方にはこの道具で印をつけさせてください」
「印ですか?」
「身分証みたいなものですよ。少し痛みがあるので、先にこのポーションを飲んでください」
騎士団長は部下に命じて、柴崎たちに青い液体の入った瓶を渡した。蓋を開けて中の液体を少しなめてみる。甘くて少し酸味のある柑橘系のジュースのようだった。柴崎は思い切って液体を喉に流し込んだ。アルコールが喉を焼くように身体の隅々まで活力が満ちていく感覚が広がる。気分もすっきりして何でもできそうな高揚感に包まれた。
「これは美味しいですね」
「このポーションは痛みを消して傷を治してくれます。戦闘には欠かせませんよ」
「大きな傷も治るんですか?」
「腕が切り落とされても再生してくれますよ」
異世界の文明レベルをかなり低く見ていたが、これほど便利な道具が珍しくないのなら生活も豊かなのかもしれない。この先の展望が開けないことを悲観していた柴崎は少し肩の荷が下りた。
騎士たちは腕輪を手首につけると、くるりと回転させて植物を模した模様を刻み付けた。どんな染料かわからないが、手でこすっても落ちる気配はない。ライブの入場用のリストバンドみたいで、少しおかしくなった。
「さあ、行きましょうか。ここから街まではかなり歩かなければなりません」
「わかりました。みんな日が暮れる前に街まで移動しよう」
柴崎たちは騎士たちの後に続いて歩き始めると、すぐに後ろで騒ぎが起こった。北里たちが騎士に抗議をしている。どうやら飲まず食わずで、このまま歩かされることに文句を言っているようだ。
「待ってくれ。僕たちにもポーションを分けてくれないか。喉が渇いているんだ。このままでは街まで歩けそうにない」
「それはできません。ポーションは騎士団への支給品なのです。見知らぬ人に施す余裕はありませんよ」
「なんだって?! そんな馬鹿なことがあるか?!」
「そう言われましても、あなた方を助ける理由がありません」
この先の困難な道程が現実的なものとなったことで北里たちは互いを罵り始めた。自分の非を認めたくないのだ。その判断が甘かったことを。
そして彼らの非難の矛先はすぐに柴崎たちに向いた。すぐ近くにのうのうと助けられている者の存在がある。それだけで彼らは許せないのだ。
「おい、柴崎、僕たちも助けるようテーゴマさんに言ってくれ」
「僕らだって助けられている身だ。そんなわがままは言えないよ」
「わがままだと! 僕たちの命がかかっているんだぞ」
柴崎はダメ元で騎士団長に頼んでみたが、すげなく袖にされた。それだけでなく北里たちに関わるなら援助を止めることを匂わされる。自分たちの足場がひどく脆いことを改めて知らされて柴崎の胃はさらに痛みを増した。
北里たちはさらに追いすがろうとするが、騎士たちは彼らを無視して出発しようとした。北里たちは騎士たちの前に出て一歩も退かない構えを見せる。実力行使で自分たちの言い分を通そうとしたのだ。
何かが柴崎の足元に転がってきた。それを認識するまで、少し時間がかかった。あまりにも現実離れした光景だからだ。それは驚いた顔のまま硬直した北里の生首だった。騎士の一人が行く手を遮る北里の首を剣ではねたのだ。
「北里おぉぉぉ!」
「そんな、そんな……」
「なにこれ、嘘でしょ? 冗談よね?」
「きゃああぁぁぁぁぁぁ」
至るところで悲鳴と怒号があがった。目の前で級友が殺されたのだ。無理もない。だが、そんな生徒たちの混乱状態を見ても騎士たちは歯牙にもかけずに歩き始めた。
柴崎は慌てて自分についてきた生徒たちに声をかけた。ここで騎士たちに置いていかれては何もかもが無駄になってしまう。憤っている男子生徒をなだめ、泣いている女子生徒を慰めて引きずっていった。
北里の提案に乗った者たちもぽつぽつとついて来た。状況の変化についていけず、放心状態でその場に留まっている者もいる。期せずして1年2組の生徒たちはここで別れることとなった。それぞれの選択がどういう結果を生むかまだわからない。柴崎はその場に留まった級友たちにちらりと目を向けてため息をついた。
――見捨てたとは思わないからな。どちらの選択が正しいかなんて僕にはわからないんだ。
◇◆◇
ここまでたっぷり4時間は歩いただろうか。途中の水場で休憩は取ってくれるが、基本的に柴崎たちは放置されている。今まで飲まず食わずの者たちは水を得て生き返ったように元気を取り戻した。
北里の提案に乗ったはずの大井も息を吹き返したようだ。少し余裕ができて早速、柴崎にからんでくる。
「おい、柴崎。てめえ俺たちのことを見捨てただろう」
「見捨ててなんていないよ。君たちは自分で北里についていったんじゃないか」
「北里が殺されるなんて聞いてねえぞ」
「僕だって知らなかったよ。この世界の人命がこんなに軽いなんて」
「だとしてもだ。俺たちを助けるために騎士団長とやらに頼めよ」
柴崎は頭を抱えることになった。騎士団長との交渉は細心の注意を払わなくてはならない。何せ相手はこちらの境遇に一片の同情も持ち合わせていない。こちらが強く出れば、自分について来た生徒たちへの援助の約束も反故にされてしまうかもしれない。彼らが何を求めているのか交渉するための材料を集めなければ、話にもならないだろう。
「……悪いけど、僕には無理だよ」
「なんだとてめえ、前々から思っていが、心底冷たい奴だな」
「何と言われてもいいよ。できないものはできない」
「チッ、使えねえな!」
大井は柴崎の腹に拳をめり込ませた。バレー部で鍛えられた身体だ。パンチ力もかなりのものだった。だが、それ以上の追撃はなかった。柴崎の狼がその前に立ちはだかったからだ。狼が唸り声をあげると、大井は捨て台詞を吐いてその場を立ち去った。
「大丈夫かい?」
「ああ、帝か。腹に何も入ってないからね。吐くものもなにもない」
「まったく勝手な奴だ。自分で交渉すればいいじゃないか」
「きっと怖いんだろう。北里みたいになるのが」
「そりゃ、僕も驚いたよ。まさかこんなあっさりと……」
「魔獣との戦いは僕たちが考えている以上にシビアなのかもね」
江洲の整った顔が歪んだ。柴崎は悩みを共有できて少し心が軽くなるのを感じた。大井に殴られた腹に痛みはない。以前に殴られたときは3日ぐらい青あざがついてじくじくと痛んだものだった。少しは自分も鍛えられたのだろうかと考えて柴崎はシャツを捲って腹を眺めた。
「なに、セクシーショット? 柴崎じゃ売れないよ」
「バカなこと言ってるなよ、積木」
「大井ともめたってきいたけど?」
「アイツも必死なんだろう。僕なんかを頼るぐらいだから」
「あんま、気にしなくていいんじゃない。柴崎はよくやってるよ」
「僕も積木みたいに考えられたら、楽なんだろうな……」
次々に巻き起こる出来事に柴崎の精神的な負荷は許容量をとっくに超えている。いつもと変わらない積木の態度にいつものような恐れも苛立ちもなく、ただ純粋に羨ましく思った。
◇◆◇
さらに3時間の道程を歩いてようやく街に着いた。周囲を城壁に囲まれた大きな街だ。城壁が必要なぐらい周囲に危険が満ちている表れでもある。それが人なのか魔物なのか柴崎にはわからなかった。
城門から街に入ろうとして、またひと悶着が起こった。北里の提案に乗った者が街へ入ることを拒まれているのだ。柴崎について来た者たちは自分たちだけが街に入れることが後ろめたく感じているのか、彼らと目を合わさなかった。
「柴崎、お前から街に入れるように説得してくれ!」
「それはできないと言ったじゃないか」
「はあ?! お前、俺たちが死んでもいいって言うのかよ」
「そんなことはない。でも、できないんだ……」
「誰かが死んだらお前の責任だからな。絶対に恨んでやる!」
街に入れてもらえない生徒たちの目から逃げるように柴崎は城門を通り抜けた。大井の捨て台詞が頭から離れない。胃がキリキリと痛みだすのを感じた。
街の中はそれなりに賑わっていた。住人の服が古めかしくなければ、ヨーロッパ旅行に来たようだ。しかし、看板の文字はひらがなとカタカナが使われているので日本のテーマパーク感が強い。どこかいびつさを感じさせる風景だった。
「柴崎様、城まで来ていただけますか」
「王様に会わせていただけるんですか?」
「はい、我が王もあなた方と話をしたいはずです」
柴崎は否応もない。これからのことを聞けるのであれば、どこにでもついていくつもりだ。まだ、ここでの生活のことは見通しさえ立っていない。生き残るために何をさせられるのか不安だけが大きくなっていった。
◇◆◇
謁見の間に通された柴崎の前に現れたのは黒髪に黒目のどう見ても日本人の顔をした壮年の男だった。身体は引き締まって豹のような筋肉を纏い、目は鋭く猛禽類のようだ。響き渡る低い声はどこか映画俳優のように思えた。
「よく来たな。日本の方々。私がこの国の王、ハルトだ」
「ありがとうございます。あなたも日本の方ですか?」
「いや、私は日本人の血を引いているだけだ。先祖に転移者がいたのだよ」
「そうでしたか。言葉が通じるのはありがたいことです」
「そうだな。意志を示す術がないのはとても辛いことだよ」
ハルト王の話によると、転移者はこの世界では珍しいことではないそうだ。ここでは日本からの転移者ばかりだが、場所によって異なるとのことだった。
「僕たちは魔物を倒す手助けをすると聞いていますが、どうすればいいのか教えてくれませんか?」
「何、簡単なことだ。我々から倒すべき魔物を知らせるので、それを君たちで倒してくれればいい」
「召喚獣を使役して、ですか?」
「そうだ。召喚獣の力は歴戦の騎士さえ上回る。魔物を倒すのに不足はないはずだ」
どうやら本当に召喚獣を使役して魔物を倒す仕事をやらされるようだ。転移者が例外なく召喚獣を使役できるとしても、柴崎以外はまだその力に目覚めていない。柴崎たちは戸惑いを隠せなかった。
「全員がまだ召喚獣を呼び出すことさえできていません。大丈夫でしょうか」
「何も心配しなくていい。この国には召喚の能力を引き出す秘術がある」
「なるほど。それで能力を開花させたとして、僕たちはこの国に保護していただけるのでしょうか?」
「働かざる者食うべからずだよ。ここは人が暮らすには厳しい場所なのだ。無能な者を養う余裕はないと思って欲しい」
ハルト王の答えは魔物を倒す仕事をこなせば、この国で暮らすことに不自由させないとの意味だと解釈した。とにかく生活の基盤ができれば、立ち止まって考えることもできるだろう。
「外にいる僕たちの仲間も街へ入れてもらえませんか?」
「外の者たちはこちらの提案を飲まなかったと聞いたが?」
「その通りですが、彼らも戦力になるはず。もう一度説得させてもらえませんか?」
「君たちは大きな力を得たのだ。その力の使い方を誤ってもらっては困る。私から見れば彼らはとても信用できる者とは思えない」
「それでは僕たちが功績を上げれば、彼らを助けて構いませんか?」
「功績に報いる形なら仕方ないだろう」
この辺りがハルト王から引き出せる最大の譲歩だろう。慣れない交渉役を担って柴崎の胃はさらに痛みを増した。
王との謁見が終わり、柴崎たちは宿舎に案内された。一人一人に個室が与えられ、食堂で食事も提供される。申し分のない環境だった。全員が空腹を満たし、睡眠を貪った。ようやく柴崎は波乱の一日を忘れて泥のように眠ることができた。
◇◆◇
次の日、柴崎たちは召喚の能力を引き出す秘術を受けるために広間に集まった。全員に赤と青の液体が入った2つの瓶が渡された。騎士団長のテーゴマが秘術について説明を始めた。
「秘術と言ってもそれほど難しくはありません。青い液体を飲んだ後、すぐに赤い液体を飲んでもらうだけです」
「そんな簡単なことで能力を引き出せるのですか?」
「はい。ですが必ず二人一組で行ってください。青い液体を飲むと、身体が痺れて動けなくなります。赤い液体は他の方に飲ませてもらってください」
命に別状がないとはいえ、青い液体は明らかに毒だろう。柴崎が魔物に襲われて召喚獣を呼び出したように、死に直面して初めて能力に目覚めるのかもしれない。最初は戸惑っていた生徒たちも意を決して青い液体を飲みほした。
口の端から青い液体を垂らした江洲は徐々に全身が痺れて立っていられなくなる。前のめりに倒れるように柴崎に身体を預けた。柴崎は慌てて赤い液体を江洲の口に流し込んだ。江洲の白く細い喉が上下し、こくりと液体を飲み込んだ。
「もう大丈夫だよ、良胤。手を放してくれない?」
「あ、ああ、まだ顔が青いぞ」
「それよりも召喚獣は、僕の召喚獣はちゃんと現れた?」
柴崎は江洲の言葉にはっと顔を上げる。江洲の背後に牛よりも一回り小さい黒い塊があった。黒い毛で覆われた身体にガラス玉のような目が並んでいる。黒い塊は身体からゆっくりと足を伸ばした。8本の足が地面に伸びていく。
「クモ、なのか……」
「ハエトリグモみたいだね」
「帝は気味悪くないのか?」
「なんで? かわいいじゃないか」
江洲にそんなゲテモノ趣味があったとは初耳だった。感情のこもらない黒い目はこちらの心の中をのぞき込んでいるようにも感じる。巨大な蜘蛛を前にして柴崎は落ち着かない気持ちになった。
「みんなは、成功したのか?」
「どうやら上手くいったみたいだよ」
部屋のあちこちで歓声が上がっていた。大小の召喚獣が現れて部屋の中の密度が急に上がったようだ。召喚獣の姿もまちまちで個性に溢れている。鳥、猪、猿、虎、まるで干支だ。
「おい、しっかりしろ、柿崎!」
「佐久間、どうしたんだ?」
「く、薬を飲んでも柿崎が目を覚まさないんだ」
「テーゴマさん、赤い液体を飲んでも目を覚まさない。どうすればいいんだ?!」
赤い液体を口から溢れさせた柿崎信人はぴくりとも身体を動かさない。胸に耳を当ててみると鼓動が聞こえなかった。慌てて口の中の液体を吐き出させると、気道を確保して心臓マッサージを始める。
「ああ、もう駄目ですよ。解毒が遅かったのです」
「死ぬなんて、そんなこと一言も言ってなかったじゃないか!」
「すぐに赤い液体を飲ませてくださいと言ったではありませんか」
騎士団長は柿崎が死んだことに何の痛痒も感じていない。交通事故での死者数を発表するようなものだ。そこに当事者の感情は読み取れない。佐久間樹はそんな騎士団長の態度に噛みついたが立て板に水だった。
「さあ、あなた方には訓練もしてもらわなければいけません。さっさと薬を飲んでください」
「しかし、現に一人死んでいる。もっと他の方法はないのか?」
「我々と模擬戦をしていただいても構いませんよ。腕は一本ぐらい失うかもしれませんが」
「もっと安全な方法を教えて欲しいんだ」
「これが一番安全なのです。嫌なら街を出ていただくしか」
人はひとつ弱みを見せると際限なく退き続けなければいけないのだろうか。この世界の全てが悪意を持って柴崎たちに襲いかかってくるようだった。
「いいよ、柴崎。私が先に飲む」
「積木、無理するな。死ぬかもしれないんだぞ」
「これを飲まないと、ここから追い出されるんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「代わりに柴崎が解毒剤を飲ませてよ。もし飲めなかったら口移ししてでも飲ませてよ」
「わかった。責任を持って飲ませるよ。安心してくれ」
青い液体の瓶を持った積木の手は微かに震えていた。柴崎が止めようとしたときには彼女は瓶の中の液体をあおっていた。倒れそうになる身体を受け止めて力なく垂れた頭を上に向かせると柴崎は赤い液体を口に流し込んだ。
「……なんだ、口移しじゃなかったのか。残念」
「お前、死ぬかもしれないってときによく冗談が言えるな」
「冗談、冗談ね。まあそういう反応も嫌いじゃないよ」
積木が無事だったのを見て残りの生徒たちも秘術を行った。全員が召喚獣を呼び出せるようになった頃にはもう日が傾いていた。
「今日はこれで終わりにしましょう。訓練は明日にします」
「わかりました。みんな部屋で休んでくれ。解散しよう」
「明日は外に出ます。しっかり休んでください」
「テーゴマさん、少し街の外に出て構いませんか? 仲間の様子が気になるんです」
「そうですね。日が暮れたら城門は閉じられますので、それまでに帰るのであれば構いません」
「良胤、僕も一緒に行くよ」
「実は心細かったんだよ。そうしてくれるか、帝」
◇◆◇
柴崎は宿舎の食堂でもらったパンを袋一杯に詰めて江洲と一緒に街の外に出た。大井たちと別れた場所には誰の姿もない。城壁の一角に近付いてそれを見たときに始めて背中を冷たい汗が流れるのを感じた。血の跡だ。おびただしい血の流れた跡。柴崎はすぐに門番を務める騎士に問いかけた。
「ここにいた僕ぐらいの子供たちを知りませんか?」
「うん、ぼうずぐらいの子供か? 俺がここに来てからは見てないな」
「昨日の夕方にはここにいたはずなんですが」
「夕方だって?! 夜には魔物が襲ってくる場所だぞ。こんなところにいたら食われちまってるに決まってるだろう」
目の前の視界が急に焦点を失ったようにぐるぐると回り始めて立っていられなくなった。柴崎は膝を地面につこうとして江洲の手に支えられた。もうわかっていたことかもしれない。水も食事もないまま置いてきたのは誰なのか。考えないように蓋をしていただけだ。いつ宿舎に帰り着いたのかもわからないまま柴崎はベッドで悪夢にうなされていた。
◇◆◇
柴崎の目覚めは最悪だった。いまだに大井が糾弾した言葉が耳元で繰り返されているようだ。疲れの取れない身体にムチを打って集合場所に急いだ。
騎士団長は集まった柴崎たちを連れて移動を始めた。街から歩いて3時間ほどの道程だ。歩き続けることに文句を言う者はいなかった。騎士団長は馬に乗る練習もしなければなりませんねと軽い調子で言っていたが、昨日の秘術の様子を考えるととても無事に済むようには思えない。この先に待ち構える訓練にも暗鬱な気持ちが先に立った。
「さあ、ここです。この先にゴブリンたちの巣があります。その巣を殲滅するのがあなた方の仕事です」
「ゴブリンですか?」
「はい、緑の肌をした子鬼ですよ。村を襲って人を殺す厄介者ですよ」
「そいつは強いのですか?」
「何、あなた方の召喚獣なら簡単です。ただ数は多いので注意してください」
騎士団はその場に待機して手を貸すつもりはないようだ。柴崎は生徒たちに召喚獣を呼び出させて5人一組の班を作った。それぞれの班で自分たちを守れば、素人といってもそうそう遅れは取らないだろう。
「ゴブリンは数が多く、凶暴な魔物らしい。みんな反撃に気を付けてくれ」
「殲滅ってゴブリンたちを殺すの?」
「そうなるね。奴らも村を襲って人を殺しているから情けは無用だよ」
「そんな……、ゴブリンだって生きているんだよね? 殺すのは可哀想だよ」
「僕たちが生きるためなんだ。そうも言っていられない」
緑谷遥は動物を愛する優しい性格の女子だ。よく捨て猫を拾ってきては飼ってくれる人を探している。そんな虫も殺せない彼女に宗旨替えを迫るのは心苦しい。だが、自分たちの命が安全だからこそ言える主張なのだ。この状況で彼女だけを特別扱いするわけにはいかなかった。
柴崎たちはゴブリンの巣に近付いた。それは森の中に作られた村のようだった。木を組み合わせただけの簡素な家がいくつも立ち並んでいる。周囲には柵のようなものが建てられていて外敵の侵入を拒んでいた。
「巣の入り口はここと向こう側の2箇所だけみたいだ。同時に攻め込んで追い立てていこう」
「二手に分かれるのか。こっちの指揮は誰が執る?」
「佐久間に頼んでいいか? 向こう側には俺の班が行こう。騒ぎが起こったら突入してくれ」
「わかった。気を付けろよ」
柴崎の班は巣をぐるりと半周してもう一方の入り口までたどり着いた。見張りがいる様子もない。完全に無警戒の状態だ。柴崎は森を出ると巣の入り口まで走った。
「僕と帝で攻撃する。積木は周囲を警戒してくれ。後の二人はみんなを守るんだ」
「任せておいてよ」
「みんな離れないで固まって行こう」
みんなが頷いたのを見て柴崎は召喚獣にゴブリンを倒すように命令した。白狼は獲物を見つけると一目散に駆けた。巨体で押し倒して次々に鋭い牙の餌食にする。喉を食い破られると緑色の肌が裂けて赤い血飛沫が舞った。白狼の身体は返り血を浴びてすぐに真っ赤になる。穴の開いた喉に手を当てて何かを訴えようとするも、口からはごぼごぼと血の泡しかでなかった。
江洲の召喚獣の蜘蛛はさらに凶悪だった。巨体をジャンプさせて圧しかかると、噛みついて牙から毒液を流し込んだ。地面に倒れたゴブリンは身体が麻痺して動けないまま、緩慢に死を迎えていった。
2体の召喚獣によって次々にゴブリンが倒されていく。ゴブリンも粗末な武器を持ち出して応戦しようとするが、召喚獣の相手ではなかった。混乱する状況の中で巣の中に入ってきた柴崎たちに攻撃しようとする者もいたが、すぐに積木の召喚獣によって無力化される。
積木の召喚獣は大鷲だった。大きさは普通の鷲より一回り大きく、知能もかなり高い。積木の命令を理解して、こちらを攻撃しようとするゴブリンを選択的に倒している。上空から襲い掛かられて空中に放り出されると、後は落下して地面に叩きつけられるだけだ。辺りには身体中の骨を粉々に砕かれた死体や頭をかち割られて脳漿をまき散らした死体が転がっていた。
巣の中央の広場までゴブリンたちを追い込んだときにはその数は十数体になっていた。錆びた剣や細い槍を構えたゴブリンたちの後ろに小さな身体が見える。子供だろうか。乳飲み子を抱えた母親らしき姿も見えた。
「もう十分じゃない。止めて! こんなのおかしいよ!」
「緑谷、立つんだ。相手は俺たちを殺そうとしてるんだぞ」
「だってまだ子供じゃない。どうしてこんなひどいことができるの?」
緑谷は蹲ったまま絶叫するような金切り声でみんなを責めた。佐久間の説得にも耳を貸さない。みんなは緑谷の糾弾に顔を顰めた。誰も好き好んでやっていることではない。やらなかったときにどうなるかを考えると怖いからやっているだけだ。自分だけを安全な場所に置いて文句だけを言っているように感じられて、みんなの態度を頑なにさせた。
そのとき槍を持ったゴブリンが佐久間の方に突っ込んで行った。緑谷の召喚獣である大亀はそれを止めようとしない。召喚獣の脇をすり抜けたゴブリンは佐久間の胸に槍を突き刺した。背中まで貫通した槍の開けた傷口から勢いよく血が噴き出す。佐久間は槍を掴んだまま驚いたような顔をして倒れた。
「佐久間、おい、しっかりしろ!」
「う、嘘、そんな。なんでこんなことに……」
「てめえら許さねえ。皆殺しにしてやる!」
激高した佐久間班の男子が召喚獣に命令を与える。虎の姿をした召喚獣によってゴブリンが次々に屠られていく。首根っこをくわえられて振り回されたゴブリンの子供は首の骨が折れて四肢は力なく垂れていた。虎は遊び飽きたおもちゃのようにぽいとそれを投げ捨てる。次の標的にした母子は鋭い爪によって切り裂かれ、折り重なって地面に倒れた。
「佐久間、これを飲め。ポーションだ。おい、目を覚ませ!」
「良胤、無駄だよ。もう息をしていない。即死だったんだ」
「そんな……、魔物を倒す力も得たっていうのに、なんで」
柴崎は佐久間を抱き起して手を握りしめた。ぶよぶよとしたゴムのような感触が返ってくる。意志のない人間の身体はただただ気持ち悪いだけでしかない。柴崎は思わず手を放して顔を上げた。目に飛び込んできたのはおびただしい数のゴブリンの死体だ。腹を裂かれて内臓が飛び出したもの、手足をもがれて自らの血に沈んでいるもの、毒を受けてどす黒い緑色の肌に変色したもの。どの目も虚空を凝視したままだった。
「すばらしい力じゃないですか。これならば十分に仕事ができそうですね」
「犠牲が出たんだぞ。もう少し言いようがあるだろう……」
「そうでしたね。痛ましいことです」
「それだけなのか。もっと何かあるんじゃないのか!」
「なるほど、柴崎さんはこの場で断罪を行いたいと」
「は? 何を言っているんだ?」
騎士団が子供のゴブリンを連れてきた。騒ぎに紛れて巣から逃げ出したところを捕らえられたのだろう。子供のゴブリンを地面に蹴り倒すと、騎士団長は高らかに宣言した。
「緑谷さんのミスによって我々は貴重な人材を失いました。この罪をあがなうにはこれから自分自身の価値を証明していただくしかありません」
「えっ、どういうことなの?」
「この魔物を殺しなさい、自分自身の手で。あなたの価値はそれで証明される」
「そんなことできるわけがないじゃない!」
「あなたは佐久間さんを殺しているのですよ。今更、一人も二人も変わらないじゃないですか」
「そ、そんな。あれは私のせいじゃない……」
「魔物を殺しなさい。そうしなければあなたは仲間と認められないでしょう」
「できない、できないよ。ねえ、助けて柴崎!」
「それはとても残念です」
騎士団長は剣を抜くと横に倒して緑谷の胸に突き刺した。騎士団長の顔と自分の胸を交互に見て信じられないといった顔をしたまま緑谷は倒れて動かなくなった。柴崎たちはその様子を無言で眺めていただけだ。佐久間の死について緑谷に対して憤っていたのは確かだ。だが、殺されるほどの罪を犯したのか。誰も肯定することはできないだろう。それでも状況だけが刻々と変化していく。思考は靄がかかったように明瞭としない。
「さあ街に帰還しますよ。みなさん疲れているでしょう。ポーションを支給しますので飲んでください」
「佐久間と緑谷をこのままにしていくのか?」
「ああ、安心してください。この世界にアンデッドとやらの魔物はいません」
「埋葬って文化もないのか?」
「墓を作るにもお金がかかるのですよ。このまま森の土に還るのがもっとも効率的です」
効率なのかと柴崎は暗鬱な気持ちになった。死者を丁重に弔って安らかな眠りを与える。それは日本人的な感覚なのだろうか。晴れない気持ちのままポーションをあおった。身体の隅々まで力がみなぎり、気分が高揚してくるようだ。些細な悩みなど忘れてしまいたくなる。せめて街までの帰路が通夜のような雰囲気にならないことを祈った。
◇◆◇
夜になりベッドに横になっていると扉をノックする音がした。柴崎の部屋に来る者など江洲ぐらいしかいない。警戒もせずに扉を開けると、そこには同じくらいの歳の女の子が立っていた。メイドのような服装をしている。この世界の人々は皆がモデルのように整った顔立ちでとても魅力的だ。彼女も例外ではなかった。
「何か用ですか? こんな夜更けに」
「テーゴマ様に命じられて来ました。柴崎様を慰めてきなさいと」
「えっ、騎士団長がですか?」
「はい、今日はとてもつらいことがあったそうですね。私が忘れさせてあげます」
「いや大丈夫だよ。僕は大丈夫だ。ひとりにさせて欲しい」
「随分、つらそうですよ。遠慮しなくても全て任せていただければ」
「本当にいいんだ。君には悪いけど帰ってくれ」
柴崎は誘惑に負けそうになる心を叱咤して女の子を部屋から追い出した。自分が何に遠慮しているのかわからない。ただあの騎士団長の思惑に乗るのが癪に障っただけだ。ため息をついてベッドに身体を投げ出した。隣の部屋から嬌声と共に壁にベッドがぶつかる音が聞こえてくる。安普請のアパートと変わらないと落ち込んだ気持ちになった。柴崎は毛布を頭まで被ると、あらゆる雑音から自分を切り離そうとする。そして目を閉じて眠りについた。
◇◆◇
次の日、練習場に集まった生徒たちの様子はどこか浮ついていた。男子生徒たちは晴れやかな顔をしている。女子生徒たちは歩きづらそうなのを恥ずかし気にしていた。みんな佐久間や緑谷のことなど忘れてしまったかのように楽し気だ。昨晩、何があったのかは大方の察しがついた。
「ねえ、良胤のところにも来たの? その、女の子が」
「ああ、帝のところもか。僕のところにも来たけど追い返したよ」
「そうなんだ。僕も帰ってもらったよ」
「なんだ柴崎はまだ童貞なの?」
「放っておいてくれよ、積木。美人局みたいで怖かったんだ」
「ふふっ、ヘタレの柴崎らしいね」
今日の積木はなんだか機嫌が良さそうだった。昨晩は積木の部屋にも誰か来たのだろうかと下世話なことを考えそうになって頭を振った。すぐに騎士団長が現れて魔物を倒したことに対して慰労の言葉を述べた。
「昨日はお疲れ様でした。これであの地域の村は魔物に襲われなくなるでしょう。みなさんは人々を魔物から救った英雄ですよ。さあ昨日の疲れもあるでしょうからポーションを飲んでください」
「別に疲れても怪我をしているわけでもないのにですか?」
「ははは、あなたはデリカシーに欠けると誰かに言われませんでしたか?」
「……それは、すみませんね。察しの悪い男で」
みんなから温かい視線を送られた柴崎は居心地の悪さを感じた。
◇◆◇
それから3ヶ月間、柴崎たちは命じられるままに魔物の討伐を行っていた。東でオークの巣を焼き、西でコボルトを殲滅し、南でリザードマンを根絶やしにした。帯剣を許されるようになり、必要最低限の自衛の手段も得ている。今は乗馬を練習して柴崎たちだけで目的地まで派遣されるようになった。
みんなは異世界の生活に慣れてきたようだ。食事は満足するだけ食べられ、寝る場所もある。支給されるポーションを飲めば身体が癒されると共に疲れも感じない。今では戦いの前から飲んでいる者もいるぐらいだ。そして夜は心を癒してくれる者たちが訪れる。すでに恋人のような関係を築いている者もいるようだった。みんなの適応能力には驚くばかりだ。柴崎は自分がいまだにこの世界に馴染めないことに忸怩たる思いを抱いた。
魔物を討伐した帰りに柴崎は馬を歩かせて風景を眺めていた。みんなはもう街に帰っているだろう。こうやって風景を眺めることなど誰もしない。戦いでたぎった身体を一刻でも早く酒や異性で冷まそうとしているのだ。大きく変わってしまった日常に絶望にも似た思いがよぎる。しかし、柴崎たちが生きる道はそれ以外にない。まとまらない思考を持て余しながらぼんやりと風景を眺めている間にも馬は街へと向かっていた。城門まで近づいたときに柴崎は襤褸をまとった浮浪者風の女に声をかけられた。
「柴崎くん、柴崎くんでしょう? 私、私よ。逢坂よ」
「逢坂……、よかった。生きていたんだね!」
「うん、あの夜、魔物に襲われてみんな次々に死んでいったわ。でも、大井くんが召喚獣を呼び出して魔物を倒したお陰でなんとか逃げられたの」
「そうか、生きていてくれたんだ。それで逢坂は今、どこにいるんだ?」
「……私たちは城壁の外にある貧民街で暮らしているわ」
「なあ、逢坂。僕たちは魔物の討伐でそれなりに生きていけるようになったんだ。今なら逢坂たちも街に呼べる。みんなと一緒に暮らさないか」
「本当?! 私たち生き残っているのは5人だけど」
「大丈夫だ。今度こそ僕に任せてくれないか」
「ありがとう。ねえ、大井くんに話をするから一緒に来てくれない?」
逢坂は柴崎の手を掴んで貧民街まで先導した。クラスで一番の美少女だった逢坂にもうその面影はない。指先は真っ黒に汚れて爪は割れている。髪の毛は乾燥して土埃で白くなっていた。身体からは据えた臭いを誤魔化すように甘ったるい安物の香水のような匂いが漂う。咲き誇っていた蘭が管理された環境でしか生きられないように逢坂の美しさは劣悪な環境の中で枯れてしまったのだ。柴崎はそんな状況に追い込んだ自分の行いを恥じて彼女から目を背けたくなった。
「ここよ。柴崎くん、入って」
「慧、客を取ってきたのか? さっさと終わらせろよ。俺もたまってるんだ」
「大井くん、聞いて。柴崎くんと会ったの。彼がわたしたちを助けてくれるって」
「柴崎、柴崎か! てめえ俺たちのことを見捨てたくせに、今更どの面下げてきやがったんだ」
「大井、あのときは僕には何もできなかった。でも今なら騎士団長を説得できる。もっとマシな場所に住めるように頼むから、一緒に来てくれないか?」
「俺たちはもうここで生きてるんだよ。なあ、慧。こいつと愛梨と悠希が稼いで、俺と丹沢が召喚獣でここを守っている。立派なこの世界の住人だ。てめえなんかにもう頼らねえよ」
「なあ大井、強がりは止さないか。ここのどこが生きる場所だって言うんだ?」
「うるせえな。たまたま上手くいったからって俺たちを見下すんじゃねえよ。出ていかねえなら無理矢理にでも出ていってもらうぞ」
大井が召喚獣を呼び出した。痩せこけて骨と皮だけになった犬のような召喚獣だ。柴崎は後ずさりをすると両手を上げて敵意のないことを示した。
「僕は大井と戦う気はないよ。また来るから、それまでによく考えておいてくれ」
「はははっ、次に来るときは客として来いよ。金さえ出せば慧を抱かせてやってもいいぜ。初めては俺が食っちまったけどな。クラスで一番の美少女の身体だ。最高だったぜ!」
大井の笑い声を背中に浴びながら掘っ立て小屋のような建物を出た。一文もなくここに投げ出されたのだ。生きるだけで並大抵の苦労じゃなかったはずだ。柴崎は大井のことを強く責める気持ちにはなれなかった。街へ戻ろうとしたときに逢坂が追いかけて来た。
「ねえ、柴崎くん。また来てくれるわよね?」
「ああ、もちろんだ。大井はああ言ってたけど、こんな場所に住んでいたら長くは生きられないよ」
「そうね。ここに住んで、私、随分変わったでしょう?」
「そんなことはないさ」
「いいの、気を遣わなくても。ここでは生きるだけで精一杯だったもの。私、子供もおろしたの。なんだかわからない薬を飲んで3日も寝込んだわ」
「そうか、逢坂もいろいろあったんだな」
「ここは地獄よ。ねえ、私をここから救い出して。それができないなら……」
「私を殺して、もう楽になりたいの」
柴崎は何と言って逢坂と別れたかまったく覚えていない。夢遊病者のように街に戻っていた。城の近くで騎士団長の姿を見つけ、棚上げになっていた約束の履行を取り付けようとした。
「以前、僕は王様と約束したはずです。功績を上げれば仲間を助けてくれると」
「左様でしたね。覚えていますとも」
「僕たちの仲間が貧民街にいます。彼らを助けたいのです」
「なるほど、事情は理解しました。何人ぐらい助けるのです?」
「貧民街にいるのは5人です。宿舎に部屋は余っていますよね?」
「まだ、余裕はありますよ。明日にでも受け入れの準備をしておきましょう」
身構えていた柴崎は肩透かしを食らった気分だ。騎士団長がこうもあっさりと、要求を飲むとは思ってもいなかった。この3ヶ月間、魔物を討伐して回った功績が認められたのだろうか。柴崎は久しぶりに悪夢をみないで深い眠りについた。
◇◆◇
そこには何もなかった。いや焼け落ちた建物の残骸と真っ黒に焼けた死体の山が残っていた。昨日まであった人々の雑多な営みは失われ、一切の音が消えていた。魔物が襲ってきたことが失火の原因だと騎士団長から説明があった。無論、信じていない。今まで無事だった貧民街がこのタイミングで火事になり、全て燃え尽きるなど誰が信じるというのか。しかし、騎士団長を糾弾したところで何も変わらない。大井も逢坂も死んでしまったのだ。逢坂を苦しみから解き放ったことだけが柴崎の心の枷を軽くした。
その日、何をしていたか最早記憶から失われている。柴崎はベッドに寝転がってポーションを飲んでいた。ささくれた気持ちが落ち着く。水の中に沈んで何もかも膜がかかったような曖昧な世界に浸りたいと強く願った。
◇◆◇
あれからどれくらい経ったかわからなくなっていた。命じられるままに来る日も来る日も魔物を殺して回る日々だ。ポーションはもう手放せなくなっていた。何か考えようとしたときに飲めばくよくよ悩まなくて済む。
「ねえ、早くしてよ」
「次は僕の番だって言ってたよね」
「じゃあ、キスだけでいいから」
「本当にお前たちはかわいい奴らだよ」
柴崎の隣には裸になった積木が寝息を立てていた。反対側には江洲が寝ている。昨晩は三人がひとつに溶け合って快感を貪り合った。もうモラルや外聞に捉われる必要はない。自分の心の赴くままに進めばいいのだ。柴崎は心を縛っていた鎖から解き放たれ、光の届かない真っ暗な水底に沈んでいった。
◇◆◇
謁見の間でハルト王の前にテーゴマ騎士団長が跪いていた。騎士団長が預かっている柴崎たちについての定期報告だ。最初は反抗的だった彼らも飴とムチが利いてきたのか随分と従順になってきた。
「テーゴマ、彼らはどうしている?」
「柴崎たちですか。もう立派な王国の犬ですよ。周辺の部族を攻撃するのにとても役立っています」
「それは重畳だ。その内に奴らもまとまってこちらに軍を差し向けるだろう。そのときこそ彼らの真価が問われる」
「少しずつ強い相手を当てて成長させています。今なら千や二千の兵など問題にもならないでしょう」
「それは頼もしいな。しっかり手綱を握っていてくれよ。なにせ彼らは……」
「私の『召喚獣』なのだからな」