第八章 兄と弟
1
長慶は最近、よく幻覚を見ていた。深夜よりは、寝入り端にうつらうつらしている時に出る。決まって目の前が霞んだようになり、幻が浮かび上がった。
幻の類は、さまざまであった。時に義興かと思えば、富美も出ている。一存、義賢は言うに及ばず、死んでもおらぬ冬康や久秀、長頼、義輝なども、気が付けば目の前にいる。
人だけではない。夕食の膳部に出た魚が、飛び跳ねてきたこともあった。猪などの獣も、長慶の鼻先を掠めるように通った。
――決まって、生ある物であった。
幾多の戦で、殺生を繰り返してきたからであろうか。戦以外でも、多くの人を殺していた。それらが化けて出るのだとしたら、止むを得ぬ。己の成した行為の責めを取るのが、武士の生き方であろう。
「御屋形」
つと見上げた天井から、声が出たような気がした。
また幻が現れたか、とも思った。が、今は昼間である。それとも、とうとう昼間にまで幻覚が出るようになったか。
長慶が天井を仰ぎ見ていると、天板がズズズ、と擦れて開かれた。すとん、と猫でも落ちたかと思うくらい弾んだ音がして、蓬髪で百姓姿の男が降り立った。
曲者の分際で、顔を隠す様子もない。閉め切った障子越しの陽に、締まった顔を晒している。
「誰じゃ、お主は」
刺客であったとしても、特に動じはせぬ。
手練れであれば、今の長慶では、とても太刀打ちできぬ。三好家の当主として、恥ずかしくない死に様を見せるだけであった。病んでも、誇りまで捨てる訳にはいかない。
目の前の男は、怪訝な表情を浮かべながらも、まじまじと長慶を観察していた。
三好長慶を真近で観察するなど、無礼極まりなかった。声を荒げようとした時、
「もはや、儂を忘れてしもうたか……。保士じゃ、御屋形様」
と、男は名乗った。
「保士……」
目の前の男は思い出さぬが、『保士』という名は、かつて呼んだ機会があるような気がした。
「御屋形に可愛がって貰うておる忍じゃ。いや、『おった』だな」
「忍が、今の儂に何の用だ。命を奪いにでも来たか」
かつて用いた機会があったとしても、忍であった。金さえ積まれれば、手の平を返したように、平然と命を狙いに来るであろう。
「……御別れと、忠告をしに来た。無駄やもしれぬがな。覚えておらぬやもしれぬが、忍は、己の腕を高く買うてくれる主に、術を売る。今の御屋形に、儂はもう必要なかろう。それから、儂の言葉が頭に入るのならば、今すぐに弾正少弼の命を絶たれよ。道順まで殺されては、御屋形、飯盛城を乗っ取られるぞ」
「ちょっと待て! 今、道順が殺された、と申したか。申せ、誰に殺された」
道順には、一介の医師以上の信頼を置いていた。長慶の、良き相談役である。
「……申して良いかどうか。もしかすれば、目が覚めるやもしれぬ、か。世間では、御屋形が道順に死を賜った仕儀になっている」
保士と名乗った男は、頬を手で掻きながら、長慶を窺っていた。
「有り得ぬ! 儂が、道順に死を与える、など」
全く覚えがなかった。怒りが体中に沸き起り、保士を睨み付ける。
保士は長慶の様子を見て、首を振った。「おさらばでござる」と、一言呟いたかと思うと、元の天井に吸い込まれて、消えた。
2
認めたくはなかった。が、物忘れが激しくなっている、という事実を受け入れざるを得ない。
そう考えた長慶は、気になる儀があれば、半紙に書き付けるようになった。呼べば、すぐに小姓が筆と半紙を持ってくる。
おかげで、書院机の上には、半紙が山と積もった。一日の内の一刻くらいは書院に籠もり、書き付けと睨み合っている。
弥生も二十日を過ぎていた。
庭の木々の新芽が伸び、緑は天に向かって繁っていた。夏が待てぬのか、日に日に、陽射しも強くなっている。
暖かくなると、城下の人通りも増えた。山上から見下ろすばかりだが、道々に集う人の群れが、永遠に続く人の営みを思わせた。
――そう、残された者の日々の営みは続く。
多くの者が長慶の下を去った。が、長慶の肩には、今なお多くの者たちの生活が圧し掛かっていた。
長慶は少しでも己の意識がはっきりしている時に、義継に家督を譲ろうと思っていた。義継を中心に、冬康、長逸、久秀らが脇を固める。長慶は見守り、時折は口を挟む程度でよかった。
「弾正少弼、この書き付けを見よ。お主が儂を唆し、道順を死に追いやった、との噂があるそうだ」
書院に、久秀を呼びつけていた。昨日、書き付けを眺めていた際に、道順の死を思い出したからだ。
「御屋形様。差し支えなければ、手に取って、見せて頂きとうござる。きちんと、返答致します故」
「構わぬ、見るがよい」
小姓が、久秀に書き付けを渡した。久秀が背筋を伸ばし、半紙を遠く離したり、顔に近づけたりしている。
一通り見終わって、久秀が、小姓に半紙を戻した。長慶に、目を向ける。
「儂が唆したのではござらぬ。御屋形様が、お命じになられたのでござるよ。お忘れにございますか。であれば、一番下の文箱をご確認くだされ。証拠を残して頂いており申す」
久秀が、机上に視線を向けた。目で、長慶に確認を求めている。
小姓が一礼して文箱を開け、長慶に中身を見せた。確かに、書状が何通か入っている。
書状の中身を見て、長慶は愕然とした。
義興は、道順と冬康らが結託して毒殺した、と長慶の字で書かれていた。故に、道順には即刻に死を与え、弟の冬康は、飯盛城で十分な詮議を尽くす、とある。花押も、長慶自身のものだ。
「お呼び出しは、てっきり摂津守様の詮議の件かと思いました。思い出して頂けましたかな」
久秀が、凛と言い放った。
久秀の声は、あまり聞こえなかった。それよりも……。一人息子の義興が、毒殺された、だと。
長慶の顔からは、ささっ、と血の気が引いたような音が聞こえた。
「義興の死に不審あらば、何者であろうとも許せぬぞ」
怒りの感情が、無尽蔵に迸っていた。
文箱を持った小姓が手を震わし、青白い顔で久秀を窺っていた状況にも気づけずに。
3
長慶から、岸和田城の冬康に召喚状が届いた。有無を言わさずの命であり、皐月の初旬までと、期限も区切られている。
之正を始めとする皆が、久秀の罠だと言い、冬康を諌めた。飯盛城に行けば、生きては帰れぬ、病で床に臥せておる態を装うべきだ、との意見が大半を占めている。
冬康も、恐らくは命の危険があると思っていた。あれほど長慶が信頼していた道順でさえ、命を奪われたのだ。長慶の判断力は、そこまで低下している。
しかし、誰かが長慶の病を癒さねば、今後も久秀に傀儡のように操られる。もしくは、飯盛城から長慶を奪うか。
飯盛城の長慶の側近の中にも、松山影道を始めとして、久秀の専横を良しとは思っておらぬ者がいる。が、久秀の監視が厳しく、逆らえば、道順のように長慶から死を賜る仕儀となりかねなかった。
そうこう悩んでおる間に、卯月も半ばを過ぎた。皐月初旬に飯盛に出頭するのであれば、それなりの準備もしておかねばならぬ。
冬康の悩みが伝染したかのように、和泉の空は灰色の雲が棚引き、海面を黒く染めていた。
梅雨入りが近いのだろう。数日来、どんよりとした空模様が続き、時折は、霧のような小雨が降っていた。
「殿。笑岩様が、お忍びで参られました。すぐに御通ししましたが、宜しかったでしょうか」
景直が、天守の階段を上って来た。ここのところ鬱いでいる冬康を、心配そうな目で見ている。
家臣にまで心労を掛けていた。しっかりせねば、と背筋をぴんと伸ばす。
「わかった。すぐに広間に顔を出す故、お待ち頂くよう」
笑岩の用件は、十中八九は飯盛行であろう。冬康自身の結論が出ておらぬ故、他人から一方的に意見を言われる状況は、辛い。が、周囲の皆が、冬康の身を案じての振る舞いなので、何とも言えなかった。
意外にも、康長は上機嫌であった。広間に出るなり酒を所望したらしく、冬康が現れると、赤い顔を向けてきた。
「こういう空模様であるとな、景気付けに一杯やりとうなるわ。ささ、難しい話が控えておる故、まずは寛ごうぞ」
盃を手に持たされた冬康は、グッと一気に干した。
「酒もようござるが、難しい話を、先に片付けてからにしませぬか。でなければ、楽しく酔えませぬ故」
康長は、きょとんとした目をして、出っ張った腹を擦った。酒を止められた故、手持ち無沙汰になったか。
「摂津守殿は、やはり真面目だのう。幼き頃より、本当に変わらぬ。よし、わかった。先に、難しい話を済ませよう。摂津守殿は、もはや飯盛城に行く必要はない」
「病を装おうのでござろうか。それでは、解決にはなりませぬ」
「そうではない。飯盛城を、我らが兵で囲むのよ。弾正少弼から、御屋形様を取り戻すのじゃ。日向守殿、主税助、孫四郎らには、既に話を通してある。故に、今日は、挙兵の算段に来た」
康長の目は戦を思い浮かべているのか、殺気が宿っていた。
4
康長の策は、冬康が久秀糾弾のために義挙として兵を募り、長逸、康長、石成友通、篠原長房らが応じて飯盛城を囲む計画であった。
赤ら顔で、得意気になって話している。もはや、事が成就したかのようだ。
「笑岩様。お待ち下され。儂は、その策には同調しかねまする。義挙とは申せ、御屋形様に兵を向ける次第となるのは変わりありませぬ故。それに、弾正少弼も、そう易々とは退くまい、と存ずる。松永兄弟も兵を募れば、家中同士で一大決戦となる恐れもあり申す。備前守の武勇は、侮れませぬ」
松永長頼は丹波の内藤氏を継ぎ、内藤姓を名乗っていた。その武勇は近隣に知られ、丹波を恙無く治めている。
「侮っておる訳ではないぞ。お主や日向守殿、主税助、孫四郎らで力を合わせれば、勝てる、と踏んでおる」
康長は、久秀を討つことのみを考えているようだ。
「三好家が割れれば、またもや、反三好軍の蜂起も予想されます。となれば、畿内全体が荒れ申す。事は、飯盛の周辺だけでは済みませぬぞ。六角勢とて、再び攻め寄せるやもしれませぬ」
「殿。たとえ畿内が荒れても、此処は起たれるべきではありませぬか。今こそ殿が起たなければ、いずれにしろ、近い将来、家中は割れると思われます。総介様が此処におられれば、同じように申されましょう」
それまで黙って成り行きを見守っていた景直が、強く声を放った。
之正は、冬康が呼び出しを受けてすぐに飯盛を探り、淡路に急を知らせに走っていた。
景直は、之正の代わりを、立派に務めている。今後の安宅衆を、支えていってくれるだろう。
二人が申すように、今ならば、久秀を討てる。が、家中を二つに割った戦の後の三好家は、どうなってしまうだろうか。
長慶が苦心して築き上げた三好家を、此の手で崩壊させる状況は、考えただけで恐ろしかった。
また、何よりも、長慶に刃を向けるなど、断じてできぬ。
「……済まぬが、やはり、儂は御屋形様に刃を向けられぬ。故に、飯盛城に行く所存だ」
二人の目に、視線を這わせた。冬康に、迷いはない。
「殿」「摂津」
二人が、同時に悲痛の呻きを上げた。
「しかし、みすみす、弾正少弼に殺されるつもりはない。御屋形様の詮議を真っ向から受け、申し開きをする。その中で、儂の言い分を、心から御屋形様にぶつけよう。そうすれば、少しは御屋形様に、通じるのでなかろうか。いや、届かせて見せる」
病んでいる兄に、何とか心を、取り戻して欲しかった。そのためであれば、己の命など、捨てても惜しくはない。
冬康の頭から、霧が晴れるように悩みが消えた。どのような形にせよ、一度は兄と、ゆっくりと話し合ってみたかった。
5
皐月に入った。畿内は完全に梅雨入りし、長らく晴間は覗いていない。
小雨がパラついていたが、冬康は海岸沿いに馬を走らせていた。貝塚港から、遠くに霞んだ淡路島を臨んでいる。
八日の午後には、岸和田城を発つ。供回りは、側近が二十名ほどであった。
何かがあった際の犠牲は、できるだけ少ないほうがよい。故に、冬康の本音は己一人で十分であった。が、側近の安宅衆が、頑として従いていくと言い張った。
――本当に、良い家臣に恵まれた。良き伴侶、兄弟たちにも……。
長慶も、病みさえしなければ、今のようには、決して変わらなかったであろう。
何があっても、己の人生に悔いはなかった。が、心残りは、信子や信康、太郎丸に別れを言えぬ状況であった。故に、冬康に出来ることと言えば、港から炬口城の皆の無事と、今後の平穏を祈るばかりである。
之正も飯盛に従うと抵抗した。が、後事の全てを託している。冬康が倒れても、家族や安宅衆は、何としてでも守って貰いたい。
小雨から、本降りになりつつあった。背負った蓑が水を含み、重くなっている。
馬の鬣もしな垂れ、手綱を握った手も、滑りそうだ。
「城に戻ろう。まだまだ、雨は強うなるぞ」
供の数人に、強く声を投げた。怒鳴ったのではない。雨音で、聞こえ難くなっている。
帰り際に一度、灰色の海面と黒雲のような淡路島を振り返った。
天気が良ければ、今日とは全く異なる景色が見えただろう。抜けるような青が、美しい島影まで伸びていく情景が目に浮かぶ。輝く陽光が幾筋も、海面を走っていたに違いない。
出発までに港に出る機会は、もう金輪際あるまい。美しい淡路を見れなんだは、ちと悔しい気がした。
湯に浸かり、冷えた体を温めた。夕餉まで、一人で酒を飲むつもりである。
「殿。只今、戻ってござる」
ちょうど、奥書院で飲み始めた時であった。障子越しに、之正が声を掛けてきた。
「総介か……。ちと、早うはないか。どうした、何かあったか」
「御免」と、之正が障子を開け、中腰のまま冬康の前に進み出た。
之正は、しばらく淡路に逗留する予定であった。
「五郎右衛門に、全てを引き継ぎ申した。やはり、儂のような老いぼれは先が長うはありませぬ故、若い者に後事は託すべきかと。殿の命に、初めて叛き申した」
之正は薄く笑みを浮かべた。まじまじと見ると、之正の髪と髭には、白い物が増えたような気がする。冬康が長年、苦労を掛けてきたからやもしれぬ。
冬康は沈黙したまま、視線を天井に這わせた。あくまでも冬康と共に行こうとする之正の忠義に、言葉が出ない。
幼き頃から、片時も離れずに、冬康を助けてきてくれた。父を早くに亡くした冬康にとって、長慶は父親代わりであった。が、之正も同様である。
酒のせいか、目頭が緩みそうになったため、銚子を手にした。
「総介。お主も飲め」
手にしていた盃を、之正に差し出した。
「ははっ」と、押し頂くように持った之正の盃に、ゆっくりと酒を注いだ。
之正は、信子からの文を預かって来ていた。といっても、短く、簡潔なものだ。
『後顧の憂いはございませぬ。ご兄弟、仲良くなされませ。信子は殿のお戻りを、いつまでもお待ち申しております』
危険な賭けだとはわかっておるだろう。が、信子は、自分たち家族を顧みる必要はなく、兄と仲良くせよ、とだけ書いていた。
毅然とした筆使いからは、自分たちが足枷になってはならぬ、という信子の強い意志が伝わってきた。署名には信康、太郎丸が連名している。皆で相談しながら、書いたのだろう。
「甚太郎様は加えて、『父上の御武運をお祈りしております』とも申されておりました。此度の面会が、ある意味では弾正少弼との戦だと、考えておられるのでしょう。立派に、成長されました」
「甚太郎も、今年で十五歳だ。儂らが、歳を取るはずだ。のう、総介」
冬康も、四十歳を目前に控えていた。之正に至っては、五十歳を超えている。
その日は若かりし頃のように、之正と飲み明かした。
6
八日の朝は、まだ暗い内に目が覚めた。
冬康は、此処数日を自然体で、ゆったりした気分で過ごしてきた。時には、堂々と兄に会いに行ける喜びの感情も、噛み締めたほどである。いつかのように、門前で追い返される状況にはならぬ。
しかし、やはり、いざとなれば意識をせずとも、自然と心が緊張するのだろう。起床してからも、妙に喉が渇いた。
むろん、梅雨特有のじめじめした蒸し暑さのせいではない。空は曇り模様であったが、雨は降っていなかった。
そのため、己の心身を落ち着かせようと、本丸の庭で刀を振った。木刀ではなく、文字通りの真剣であった。
木刀だと、どこか心に甘えが残る。心身統一には、真剣が最も適していた。
――久秀の間者が見れば、儂が兄を討つつもりだ、と報告するだろう。
じんわりと体中に汗を滲ませたまま、冬康は一人で微笑を浮かべた。
いつも通り、一汁一菜の朝餉を終えた後、重臣たちを本丸に集めた。重臣たちは、誰に指示された訳でもなかろうが、一様に気難しい顔をしている。
「未の刻までには出発する故、手筈を整えよ。皆の者、そのように難しい顔をするな。儂の目に、皆の難しい顔ばかりが残るではないか。それに、何かが起こると決まった訳ではないし、儂は反対に、御屋形様の目前で弾正少弼を追及してやろうかとも、考えている」
冬康は目に、気魄を込めていた。信子の文の影響もあるが、之正を始めとして、冬康と共に飯盛へ向かう者たちの命も、無駄にはできぬ。
「城門を開け!」
之正の指揮で、いっせいに騎馬が進み出した。岸和田城の豊かな水堀の辺を馬上で闊歩しながら、城から遠ざかる。
一存が死んでから、僅か三年ほどの居城であった。が、此の城に来てから、三好家にはさまざまな出来事が起こっている。中身の濃い、三年だ。
その時、城の石垣から轟音が鳴り響き、陣太鼓も叩かれた。冬康以外の馬上の供たちが、「おおー」と、叫び声で応じている。
信康が、此度は久秀との戦と捉えた状況が、伝わったのか、または、皆が同じように考えておったか。
冬康は、サッと拳を掲げ、力の限りに叫んだ。皆も、応じる。冬康が再び叫び、皆が続いた。
掘りの水面が揺れるほど、城内外の叫びを、何度も続けた。
7
岸和田を出発した冬康たちは、久宝寺(後世の大阪府八尾市)に宿を取った。
翌九日は、早朝から慌しかった。長慶に会うため、全員が素襖に正装し、宿を発っている。
雲が覆い、晴れ間は覗いておらぬが、空は少し明るかった。今日は、雨が降らぬやもしれぬ。梅雨も小休止といったところか。
「殿。昨夜の酒は、残っておりませぬか」
轡を並べた之正が、吹っ切れた顔をしていた。
之正は、どこまでも冬康に従いていくつもりであったが、最後まで飯盛行きには反対していた。しかし、先ほど寺を発ってからは、腹を決めた様子である。
「少し、体は気怠い感じがする。が、心は晴れやかだ。昨夜は、楽しく酔えたでな」
昨夜は、冬康と二十人の供たち皆で、酒宴を催した。
生きて無事に帰れればよし、たとえ死んでも、安宅の武士らしく潔く死のう、と語り合った。
今日の出立の予定が早かったので、一刻ほどで切り上げる予定の酒宴であった。が、それぞれ話が尽きず、深夜にまで及んでいる。おかげで、五体が少し重い。
それでも、酒宴をして良かったと思う。不安や恐れを抱いていた一行の顔が、今朝は一様に晴れやかに変わっていた。文字通り最後の晩餐になったとしても、やった価値は十分にあった。
辻々には、野菜、魚、豆腐売りなどの棒手振が闊歩していた。近所の女房たちが呼びとめ、人だかりができている。亭主たちは、夜明けとともに田畑に出ておるだろう。
冬康も武家に生まれておらんかったら、平穏に田畑を耕していたに相違なかった。
いや、海原を駆ける喜びは捨てられぬ。きっと、漁師になっていたであろう。
もっとも、それでは信子や之正に出会えなかった。長慶、義賢、一存といった、素晴らしい兄弟たちも、おらんかった。
――やはり、安宅冬康に生まれて良かったのだ。
民衆たちを見て、他愛のない想像をしていた。
冬康たちは、粛粛と辻を急ぐ。
途中で休憩を挟み、巳の刻には飯盛城に着いた。
いつぞやの門番はもちろん、冬康らが到着を告げると、本丸まで無人の野を行くが如くに通された。
本丸に入る前に、悶着があった。大刀はともかく、全員が脇差まで預けるようにと、警固の者に言われたからだ。
抗議の末、冬康の他、重臣のみ脇差が許された。
悶着は続いた。
「合点が行かぬ。儂は、摂津守様が第一の側近の篠田総介にござる。御屋形様より終生、摂津守様のお側でお仕えするように、と仰せつかっており申す。御屋形様の命なしに、離れる訳には参りませぬ」
之正が、案内役に食って掛かった。
本丸に一行が入ると、今度は、大広間で長慶と謁見できるのは冬康のみ、と言われた。供は全て、別室に控えさせられる手筈である。
之正が真っ赤に顔を染め、唾を飛ばした。己の言い分を主張し、一歩も退かぬ態を見せている。
案内役の男二人は、之正のあまりの剣幕に、たじろいでいた。
8
「儂が一先ず、この場を預かろう。如何した」
大広間の方向から現れたのは、久秀であった。
案内役たちが、久秀に状況を説明した。久秀は笑みを浮かべながら聞き、頷いている。
「摂津守様。ご無礼を致しまして、申し訳ありませぬ。それでは、篠田殿とお二人で、お通りくだされ。儂が、案内を致しましょうぞ。残りの方々は、此の者たちに従いていってくだされ」
久秀は物腰低く、丁寧な口調であった。が、主張は入れたので、それ以上は口を挟ませぬ、との意思が感じられる。
之正の主張が通ったため、背を向けて廊下を歩み出した久秀に、従いて行かざるを得ぬ。
「皆は別室に控えておれ。大事ない」
冬康は皆に頷き、歩を進めた。各々が、強い眼差しで応えている。
長廊下を、三人が進んだ。長袴が、摺音を立てている。
之正が、熱い視線を向けて来ていた。同じ考えが、頭を過ぎっているからだろう。
久秀の引き締まった背中が、えらく無防備に見えた。脇差を腰に着けているが、此方は冬康と之正の二人が持っている。
――今ならば、殺れるか。
首筋に汗が浮かんだ。握った手の平も、熱を持っている。
よもや考えもせなんだ。が、千載一遇の機会が、目の前にやって来ていた。
咄嗟に決意し、之正に鋭く視線を投げ、頷いた。
「摂津守様!」
突如、久秀が振り返った。
冬康と之正は驚き、脇差に伸ばしかけた手を、元に戻した。胸の動悸が、激しくなっている。
久秀は一瞬、鋭い目付きになったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「一つ、申し遅れましたが、御面会には儂も立ち合わせて頂きまする。今日はマシですが、此処のところ御屋形様の体調が優れませぬ故、御屋形様より命じられましてござる。ご了承のほどを」
一礼した久秀は、再び静かに歩を進め始めた。
冬康と之正は、互いに視線を合わせた。互いに脱力したようである。しょうがなく、久秀の後を追う。
偶然なのか、はては、冬康らの気配や殺気を感じたのか。久秀は、何とも不気味な男である。
相変わらず、見事な大広間であった。中央に通された冬康と之正は、畳の膳に乗せられた魚のようだ。
それほど、大広間には他人がおらぬ。右端に久秀が控えて座した他は、警固の兵がいるのみだ。
座して落ち着くと、立っている時と障子絵の景色が変わった。
一枚の絵が、見る角度によって、さまざまに鑑賞できる。さすがに、当代随一の絵師を集めて、描かせていた。
「間もなく、御屋形様がお越しになられます。しばし、お待ちくだされ」
久秀は立ち上がり、長慶を迎えに出た。
長慶に会うのは、一存の死後以来、三年ぶりくらいだろう。兄に会うのを、こんなにも緊張して待った機会はなかった。
9
ゆっくりと板を踏む足音が、廊下から聞こえた。複数である。
やがて、足音がピタッと止まり、上座側の障子が開いた。
まず現れたのは、久秀であった。久秀が赤子の手を引くように慎重に歩を進めている。
冬康は、息を呑んだ。思わず、呑みこんだ。
――兄者は、これほどまでに変わられたのか。
凛々しかった眉と目元が、虚ろな眼差しと半ば白眉になっていた。口は半開きで、時折はあはあ息を吸い込むようにしている理由は、唾を垂らさぬためであろう。
武芸で鍛えた体躯の面影は欠片もなく、痩せようは、正に病人の態であった。覇気に富み、張りのあった肌は青白く、生気が感じられない。年上の久秀や之正よりも、長慶は老けて見えた。
長慶は、久秀と小姓に支えられながら、なんとか上座に落ち着いた。
冬康と之正は、驚きを封じ込め、平伏した。
冬康は初め、大広間に人がおらんのは、冬康の詮議のためだけと思っていた。
もちろん、それもあろう。が、今の長慶を家中の者に見せるは、あまりにも忍びないためやもしれぬ。
そういう想いを久秀がほんの少しでも持っているとすれば、久秀の長慶に対する忠義は、未だ残っている気がする。
長慶がゆっくりと、骨とシミの浮いた手甲を上げた。
「……摂津守、久しいな」
絞り出すような声だった。
「長らく、御無沙汰しており申した。御体は、如何にござりましょうや」
聞くまでもなく弱っている。が、心底より、兄の体を案じた。
「そうやって……。儂の体を心配しながら……、いずれは儂まで殺すつもりであろうが!」
弱弱しかった長慶の声が、突然、激しい怒りを含んだ。両目も虚ろなまま、狂気が宿っている。
「な、何のお疑いでございましょう。この摂津、身に覚えもございませぬ事柄なれば、まずは、ご説明頂けましょうや!」
長慶の感情の起伏の激しさに、一瞬はたじろいだ。が、これは、明らかに罠に嵌められている。
――長慶の感情に、感情で応じてはいかぬ。
道順から、長慶の病の症状を聞いていたので、思い直した。冬康まで激しては不味い。冷静に、話に応じようと努めた。
「恍けるでないわ! 儂が病んでおるからと思って侮っておるのだろう。だが、そうはいかぬ。筑前守を殺したわ、お主の仕業であろう。それほどまでに、貴様は三好家が欲しかったのか」
長慶の怒声が、広間一面に轟いた。
背後で、之正の気配がした。が、目で制した。今は、兄弟二人での話である。
「儂が筑前守様を手に掛けた、と申されるか。何か、証拠はございましょうや。何でもお答え致します故、きちんと詮議をお願い致す」
憎悪に歪んだ長慶の顔に、毅然とした視線を投げた。久秀の作戦が、長慶の激情を煽り、冬康を処罰させる状況にある、と読んでいる。
なるほど、全ての罪を冬康に被せて、消す算段か。
10
「弾正少弼。書き付けをこれへ」
長慶が命じると、久秀が書を差し出した。
「儂の記憶が定かな時に書き付けている物じゃ。此処には、お主と道順が結託して筑前守を毒殺した、と記しておる。字も花押も、間違いなく、儂のものだぞ」
「真に、御屋形様の書かれた字でございましょうや。一流の書家であれば、御屋形様の字体を真似るなど、いとも容易いものでござる。御屋形様が物事をお忘れになるを利用して、誰かが陰謀を企んでおるのではないでしょうか。昨今の飯盛城には、大きな鼠が憑りついておるようにござりますれば」
久秀の浅黒い顔に、視線を向けた。久秀も、苦い表情を向けてきている。
「摂津よ。お主こそ、儂が弟である状況を利用して、最近は重臣たちとしきりに交流を深めておると聞く。家中では、お主が謀反を企んでおるのではないか、との噂が飛び交っている。かつてのお主ならば、決してそのような仕儀はせなんだはずだ。二心がある故に、諸将と秘密裏に交渉しておるのであろう」
さすがに、久秀側もよく調べていた。冬康も細心の注意を払って使者などを往来させていたが、ある程度は掴まれておったらしい。
「確かに、主だった重臣たちとの好を深めており申す。が、それらは全て、御屋形様と三好家を思うての仕儀。そこにおる弾正少弼が兄者の病を利用して、三好家を思うがままに操ろうとする状況を、止めるためにござる。兄者、お気づきくだされ! 讃岐守や筑前守様の死は、全て弾正少弼の仕業にございます。その上、道順と、此度は儂まで。己の邪魔になる人物を、悉く抹殺していっており申す。そうであろう! 答えよ、弾正少弼」
久秀との決着をつける時が来た。此の場で長慶に目を覚まして貰わねば、冬康たち一行に明日はない。
長慶の怒りの表情が、少し和らいだような気がした。キョトンと、様子を窺う目をしている。
「己の行動を詮議され窮まり、儂に罪を擦られるとは。いやはや、摂津守様の厚顔無恥にも呆れ果て申す。御屋形様。間違いのう、摂津守様は謀反を企てており申す。このような次第も考え、証拠を持って握り締めて参りました。まずは、御覧になられませ」
久秀が懐から出した書状を、小姓が長慶に取り次いだ。手渡された長慶は、表裏を確かめて、書状を開いている。
――書状に、見覚えがあった。もしや……。
斜め後ろの之正の気配が揺れ、久秀が北叟笑んだ。
「……摂津守。此処まで証拠が上がっておるが、まだ白を切る所存か。見覚えのある、お主の筆跡と見るが。確かめてみよ」
冬康が手にした書は、間違いなく己の筆跡であった。
義興に宛てた書状であった。中身は、義興が家督を継ぎ、家中が皆で盛り立てていく計画である。冬康が長慶を説得し、家督を譲らせる、とまで書いていた。
――久秀が義興に近づいていた狙いの一つは、これであったか。
頻繁に会合を持ち、芥川城にまで通っていた理由は、冬康と義興を罠に嵌める証拠を押さえるためであった。故に、証拠を押さえた途端に、義興は始末されたのだ。
11
場が少し、静かになった。長慶が悲しげに、冬康を見詰めている。恐らくは、申し開きを求めている。
絶体絶命の窮地ではあった。が、長慶が聞く姿勢を見せたのは、好機である。少し、以前の長慶が戻っているのか。
「儂は兄者のお身体が心配で、養生に専念して頂こうと考えました。それ故、筑前守様が家督を継がれる状況が一番、と思うた次第にござる」
長慶は無言であった。すう、と目を瞑っている。
昔からの癖、長慶が話をじっくりと聞く際の癖が出た。やはり、今の長慶は正気が勝ってきている。
「兄者は、儂らのため、三好家のために、長らく己を犠牲にして来られた。故に、元の兄者に戻って頂きたかった。このままでは、兄者の心と体は保たぬ、と道順も心から心配しており申した。儂は、ずっと兄者の大きな背中を追いかけて生きて来ました。一度たりとも、背を追い越そうなどと、考えたこともございませぬ。それは、実休様や讃岐守も同じであったでしょう。兄者はずっと、我ら兄弟の憧れでござる故」
長慶の様子が変わった状況に気づいたか。久秀がそわそわと、己の膝を撫でている。
「摂津守様。御兄弟の情に縋ろうなどと」
「弾正少弼。要らぬ口を挟むな。今は、儂が詮議しておる」
長慶が凛とした声で、久秀を諌めた。久秀がハッと、目を剥いている。
「……確かに、今日の三好家があるは、お主たち兄弟のおかげだ。お主たちが身を粉にして命懸けで働いてくれたおかげで、儂は畿内九か国に及ぶ領地を手に入れられた。摂津守よ、真に、お主は謀反を企ててはおらぬのか。筑前守を、手に掛けなんだか」
長慶が両目を見開き、視線を投げて来た。冬康のどんな動作も、見逃さぬ態である。
「ははっ、身命に誓って謀反など企ててはおりませぬし、筑前守様を手に掛けており申さぬ。むしろ、筑前守様の死が惜しゅうてなりませぬ」
「恐れながら、御屋形様。殿は、筑前守様の武将としての将来を、それは楽しみにしておられました。お亡くなりになったと聞いてからの嘆きは、想像を絶する様子でござった。その殿が、筑前守様を亡き者にするなど、あり得べきはずもございませぬ」
緊迫した場に堪りかねた之正が、長慶に訴えた。之正も、今の長慶ならば話が入ると覚ったか。
長慶が、再び目を瞑った。沈思黙考する様子も、以前はよく軍議の時に見せていた。
七分ほど開けられた窓の外は、曇り空であった。山上から見渡せる城下も、薄炭のような色合いである。
久秀も、じっと長慶の様子を窺っていた。苦々しげな口元から察するに、久秀の思う方向へは話が進んでおらぬ。
――以前の長慶であれば、久秀を追及できるやもしれぬ。
冬康も、次に目を開けた長慶の様子が、気になっていた。
12
「……お富美が死ぬ間際、摂津と和解せよ、としつこいほど儂に申していた。今の儂はあまり覚えておらぬが、書き付けに残している」
長慶の目が穏やかな色を帯びていた。張り艶の失せた表情だが、険が取れている。
「はっ、お富美ノ方様とは、接する機会は多くはありませなんだが、真の弟のようにお目を掛けて頂き申した。真に、惜しまれる死でございました……」
長慶の眉が、ピクッと揺れ、目に憂いが宿った。思い出すと、今でも辛くなるのだろう。
「儂は、富美がおらんようになり、心に穴が空く、という状況がどんなものか、わかった気がしておる……」
長慶の心がみるみる沈んでいく様子が、見て取れた。
これが、道順の申していた感情の起伏であろう。心が沈みだすと、今まで凜と張っていた声や体躯も、衰えていく。
「儂は、屋敷に下がる。摂津守の詮議は、これまでと致そう」
長慶は、腰を上げて、立ち去る素振を見せた。
「御屋形様、お待ちくだされ! お富美ノ方様の死因も、摂津守様と道順の薬殺にござるぞ」
長慶が場を収め、屋敷に戻ろうとした時、久秀が身を乗り出して諌めた。
「な、何を申すか! 御屋形様、またもや弾正少弼の謀にござる。儂がお富美ノ方様を死に追いやって、何になろうか」
込み上げた怒りを、久秀に吐いた。長慶の奥方に相応しいと思い、ずっと認めてきた御方を、殺す訳がなかった。
「摂津守様は、筑前守様を担いて三好家を思うがままにしたかった。そのためには、たとえ御屋形様がご養生に入られても、人望の高いお富美ノ方様が健在では、やり難いと考えたのでござろう。それ故に道順に命じたか、互いに図ったか。お富美ノ方様の食膳に密かに毒を盛って、命を縮めた。それで味をしめ、筑前守様まで手に掛けられたのであろう。御屋形様、この弾正少弼、証拠もなしに申しておるのではござらぬ」
長慶の表情が険しく変わり、猜疑心の強い目が、冬康と久秀の間を往復し出していた。
――また、正気が隠れようとしておられる。
長慶は立ち去りかけた体の向きを、広間の内側に戻した。立ったまま、妖気の宿ったような視線を、広間中に這わせている。
「弾正少弼。儂が、富美が事で戯言を許さぬを、知っておるな。命を懸けるつもりで、証拠とやらを出してみよ」
「承知致しました。皆の者、入れ」
久秀が声を掛けると、広間に入って来たのは、飯盛城の女房たちのようであった。冬康らのかなり後ろの畳に並び、頭を下げている。
「儂の詮議で打ち明けた次第を、そこで申し上げよ」
久秀が、冷たく声を放った。女房どもが、震え上がるような響きである。
「では、憚りながら申し上げまする。お富美ノ方様の御体の様子が変わる前から、道順様やお弟子の道案様がよく台所を訪れるようになりました。それも決まって、台所が忙しくなる時刻に。時折、御二人がお富美ノ方様の膳に何かを入れる場面を、幾人かが見かけましてございます。御屋形様のお抱え医師の道順様の為さる行動でしたので、薬湯などを混ぜておるのだと、皆が気にも掛けませなんだ」
一番身分の高い女房だろう。長慶の御前で怯んだ様子はあったが、はっきりと申し述べた。
「後は、儂が引き受けよう。お富美ノ方様は薬湯を直接、口からお飲みになられておりました。御屋形様も、覚えがございましょう。とすれば、いったい道順殿たちは何を混ぜておったか。また、ちょうど、お富美ノ方、筑前守様がお亡くなりになられた頃に、道順の一番弟子である道案が、摂津守様の岸和田城に向かった事実を、掴んでもおります」
久秀は肩を反り、傲然たる態度であった。
13
「……摂津守。お主は、富美まで……」
長慶がぽつん、と漏らした。憎しみの響きではなく、逡巡している声だ。
「兄者。何度も申すように、これら全てが、弾正少弼の罠にございます! 決して、惑わされてはなりませぬ」
冬康も膝を進めんばかりに前屈みになり、強く声を投げた。
長慶が両手で頭を抱え込み、呻き声を上げ出した。傍にある障子を、拳でバンバンと、打っている。
「其方らは、早く立ち去れ!」
冬康は、長慶のあのような姿を、女房どもに見せたくはなかった。
冬康の剣幕に押され、女房たちが下がろうと腰を浮かせた。久秀の顔色を窺っている。
久秀も、制止しようとはしなかったので、女房たちは姿を消した。
上座で悶え苦しんでいる態の長慶を除いては、広間は静かになった。
やがて、長慶の呻きが止まった。据わった両目を、真っ直ぐ冬康に向けた。赤く充血している。
「摂津守よ、弟と雖も、謀反人を野放しにはできぬ。お主はかつて、証拠もなしに弾正少弼を殺せ、と儂に申した。これだけの証拠が上がり、家中の秩序を乱す者を、儂はどうすればよい。お主が儂ならば、どうする?」
長慶の表情は、全ての感情を失ったかのように、生気をなくしていた。声にも、抑揚がない。
「摂津守、いや、神太郎。先に、実休や讃岐守のところへ参っておれ。直に、儂も行こうぞ」
長慶が、振り払うかのように背を向けた。入口に向かい、歩を進め始めている。足取りは重い。
「兄者!」「御屋形様」
之正と同時に叫んだ。之正が早い。長慶を追い掛けようと、踏み出していた。
「やめよ、総介」
冬康も、之正を制止しようと立ち上がった。
「御屋形様に対して無礼なるぞ。この謀反人たちを、取り押さえよ」
久秀が命じ、冬康と之正は警固衆に囲まれた。大人数である。長慶の御前で脇差を抜く訳にも行かず、二人は即座に、取り押さえられた。
「弾正少弼。かりにも、儂が弟じゃ。武士らしく、静かに腹を切らせてやれ」
「兄者……」
長慶の冷たい一言が、冬康の胸に刺さった。もはや、冬康の叫びは届かぬほど、長慶の意識は遠い。
14
冬康のみが、南丸曲輪の一室に通された。之正とは、途中で別れさせられている。
四間四方の間には、窓が一つあった。が、障子は閉められており、外側に警固の者がいる。
薄暗い板間に、ぽつねんと座していた。ただ、静かである。
半刻も、過ぎたであろうか。数人の足音が、冬康の居間を目指して鳴った。
障子が、ゆっくりと開いた。ぬっと、久秀と三人の侍が入ってくる。
侍の一人は襷掛けの態であった。もう一人が、三方に載せた脇差を掲げている。
――此処で、腹を切るか。
通された時から、わかっていた。久秀の目論見は、長慶が思い直す前に、速やかに冬康に腹を切らせる。
「御屋形様のお申し付けにござる。潔く、腹を召されよ」
久秀が、不遜に微笑んだ。
「弾正少弼。総介や他の者たちは、どうなった」
「……情けでござる。お教えしよう。先ほど、全員が腹を召され終えたところ」
グッ、と奥歯を噛んだ。怒り、とは違う。冬康のために命を捨てた皆が哀れで、無念であった。
つと目を瞑り、一人一人の表情や声色を思った。
「儂の命まで奪い、さぞ満足であろう。我らが、これまで甘過ぎた。が、兄者がお主を信じておった状況が、一番の不覚。お主は裏切らぬ、と、兄者はいつも言い張っていたからな」
目を開け、久秀と向き合った。
「勘違いをされるな。儂は、御屋形様を裏切ったりはせぬ。お主ら兄弟が憧れてきたように、儂はずっと、御屋形様を崇拝して参った。今後も、叛くつもりは微塵もない。ただ、お主らが邪魔だっただけだ」
久秀は、長慶に対する忠誠を、捨ててはいなかった。久秀なりの誠は、貫いているのか。
「フッ、フハハハ」
冬康は可笑しくなった。長慶を崇拝する者同士が争い、家中を割っている。
――なかなかに、世の中は難しきものかな。
「少し、安堵した。兄者には、安らかに生を全うして貰いたかった」
兄弟が皆で長慶を盛り立てる、と誓っていた。久秀が、長慶まで手に掛けぬとわかり、ほっとしている。
「それだけは、承ろう」
「では、参ろう。総介たちが待っておる故」
冬康は、久秀の背後にいる介錯人を目で促した。もう一人が、冬康の前に脇差の載った三方を、丁重に置く。
久秀は目の前から姿を消し、脇に回った。目前の景色は、薄暗い障子のみである。
素襖の前をはだけ、腹を擦った。
手を動かしながらも、信子や二人の子、義賢や一存の姿が思い出された。
今から腹を切る時だというに、楽しかった思いばかりが蘇る。
――どうやら、儂はつくづく、良い人生を送ってきたようだ。
脇差を腹に突き立てた時も、冬康は笑みを浮かべていた。
遠くの海原から、幾重もの青波が迎えに来ている音がする。
完