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三好四兄弟  作者: いつみともあき
6/7

第七章 去りゆく者たち

   1

「修理大夫、此度の河内・大和の乱を鎮めたる次第、真に大儀であった。今後も、畿内の平和のために努めてくれ」

 義輝の第一声から、宴は始まった。居間に並んだ諸将の注目が、長慶と義輝の主従に集まっている。

 永禄四年(一五六一年)は弥生の十日(陽暦四月四日)になっていた。ちょうど、桜が満開に向かって花弁を開き、見頃を迎えようとしている。

 開け放たれた障子戸からは、一糸乱れずに並べられた石畳が目に入った。

 庭を囲んだ土塀に寄り添うように、桜の木々が悠然と佇んでいた。篝火に赤々と照らし出された花弁は優美に、闇に浮かび上がっている。

 昨年中には、久秀が大和もほぼ平らげ、長慶は河内に続いて大和も、版図に加えていた。約束通り、久秀には大和一国を与えている。

 河内・大和を制した際に、義輝から祝言があった。此度は、お礼の意味も含めて、義輝を京の私邸に招いていた。

 含めて、と言ったは、他に意図があったからだ。将軍から二か国の所有を正式に認められている状況と、将軍をも自邸に招く長慶の権勢を、天下に誇示する狙いがある。

「ははっ、この修理大夫、身命を賭して公方様の御為に働きまする」

 長慶は、いささか得意気になって声を張った。集まった諸将に、自信が漲った姿を見せる狙いもある。今宵の長慶の姿は、諸国に喧伝されるであろう。

 義輝は満足げに頷き、笑みを浮かべた。

「今宵は、修理大夫の今後の活躍を、皆で祝おうぞ」

 義輝が盃を干し、諸将も続々と盃を呷った。

「それから、修理大夫よ。一つ、儂の頼みを聞いてはくれぬか」

 義輝が笑みを崩さぬまま、目だけが、すうっと、真剣な色に変わった。何か意図があるのか、はたまた、手持ち無沙汰なのか。空いた手で、顎鬚を擦っている。

「どのような件にございましょうや。できるだけ、お望みが叶うように取り計らいまするが」

「よう申してくれた。儂は、修理大夫のような臣に恵まれて、嬉しいぞ。では、望みを申そう。心月一清がことじゃ。儂の顔に免じて和睦し、京に戻してやってはくれぬか」

「一清様を……」

 此処しばらくの義輝の態度は、長慶の機嫌を取るようなものであった。晴元との和睦を勧めるためであったか。

「どうじゃ。頼みを聞いて貰えぬか。一清も長らく京から離れ、戻りたがっておる。あ奴も、もう五十歳を目前にしている。今後は、京で静かに暮らしたい、と申してな。儂に泣きついてきおった」

 義輝は、畳み掛けるように長慶に迫った。この場で、何とかして確約を取ろうとしているようだ。

 晴元の旗下を離れてから、かれこれ十年以上は敵対関係を続けてきた。長慶が甘い顔を見せる度に、晴元は袖にするか、和平を破ってきている。

 ――晴元を京に戻しても大丈夫か。

 長逸や久秀など、列席した重臣たちも、長慶と義輝のやりとりを見守っている。

「わかり申した。一清様を、京にお迎えしましょう。お預かりしております、総明丸様とのご対面も、取り計らいましょう」

 今更、晴元を京に呼び戻したとて、長慶の勢力には何ら痛みはあるまい。また、長慶の頭には策が浮かんでいた。

   2

 具合が良くないとは聞いておった。が、これほどとは……。

 目の前に平伏している一存の肩は痩せ細り、筋骨隆々であった面影を全く喪失していた。顔中に吹き出物が散らばっており、幾つかは膿を吹いているようだ。

 長慶は、変わり果てた一存の姿に絶句していた。

 閏三月になっていた。長慶は、堺の宗久の屋敷に逗留している。

 一存は昨年末から、原因不明の病に臥せっていた。最初は微熱が続く程度であったが、徐々に熱が高くなり、体中に吹き出物が出始めたと聞いている。

 いろいろな医師や薬師を呼び、診立てをさせてはみたが、一向に症状は改善しなかった。

 此度は、症状がこれ以上ひどくなる前に、有馬に湯治に出かける途中であった。体の無理を押して、堺にいる長慶を訪れている。

 和泉を治める将が不在になるため、あくまでお忍びの旅で、家中でも数人しか知らなかった。一存の病の状況も、家中ではきつく箝口令を敷いていた。それほど、一存の盛名は諸国に知れ渡っている。和泉が空白と知れると、乱を起こそうとする輩が出ぬとも限らなかった。

 ここ数日の摂津湾の波は穏やかで、港の船の出入りは活発であった。夏の陽射しが、障子越しに板間を照らしていた。

 あれほど海や陽射しが似合う男であった一存が、陽を浴びると体が疲れる、と弱弱しい声を出した。そのため、障子戸を閉め切っている。

「しっかり養生して、戻って来るのだ。お主は、我が三好家には、なくてはならぬ武将だからな。今後の戦でも、しっかりと働いてもらわねばな」

 下座の一存に近づき、両肩に手を置いた。

 ――これが、鬼十河と呼ばれた弟か……。骨の感触が、手に伝わってくる。

 長慶は、思わず呻いた。驚きと、哀れみの混じった声だ。

「有難きお言葉、痛み入り申す。ご期待に沿えるよう、しかと心掛けまする。が、兄者、もし今生で二度とお目に掛かれぬ場合のため、お会いしておこうと、訪ねて参りました」

 一存が、じっと視線を向けて来た。眉間の間にまで、吹き出物が出ている。 

「何を弱気な……。二度と会えぬなどと、冗談でも申すでない」

 言葉では励ましたものの、一存の弱り様は、刻一刻と死に近づいておるようにも思えた。

「儂の体は、己が一番ようわかっており申す。故に、此の弱り果てた体を衆目に晒す屈辱に耐えて、堺に参った次第。儂の最期の願いを、何卒、お聞き届けくださいませ」

「最期の願いとは、何じゃ。よもやお主が、病などで身罷る状況にはなるまいが、せっかく参ったのだ。聞いておこう」

 一存の両肩から手を離し、胡坐を掻いた。一存の落ち窪んだ目を、凝視する。

   3

「弾正少弼が仕儀にござる。お耳に煩いと思われるやもしれませぬ。が、此度は何卒お聞き届けくだされ」

 一存は長慶が拒否せぬところを見て、言を続けた。このような姿になった弟の訴えを、聞かぬ訳にもいかぬ。

「昨年、彼奴が従四位下・弾正少弼と相伴衆に任官されし仕儀でござる。儂は、兄者の為さりようが正気とは思えませなんだ」

 一存の息が、荒くなった。弱った体なれど、怒りが滲み出ている。

「なぜじゃ。説明してみよ」

「なぜ? 実休や摂津の兄者たちからも、散々にお諫め申し上げたはずでござろう。彼奴めの官位は、兄者や筑前守様と同等になったのでござるぞ。一家臣に過ぎぬ弾正少弼が、主家である兄者親子と同等の官位を頂くなど、あってはなり申さぬ。まず、家中の秩序が保たれませぬし、叔父や兄弟より弾正少弼の位が上というのは、どうしても納得行きません」

 子の義興は昨年、久秀と共に正五位下から従四位下に昇叙していた。今は筑前守を名乗り、長慶、久秀と同じく相伴衆であった。

「儂はもちろん、血縁も大切にしてきた。じゃが、器量によっても家臣を引き上げてきたつもりだ。そのおかげで、三好家は此処まで大きくなっておる」

 長慶自身が、細川家の陪臣から成り上がっている。家柄や血縁に捉われずに人材を登用してきた、という自負はあった。

「それを否定するものではありませぬ。確かに、備前守のように有能な武将が育ちましたのは、兄者の度量におるもの。しかし、器量で申さば、実休や摂津守の兄者たちのほうが上に思いまする。とは申せ、たとえ二人の兄とて、御屋形様と同等の官位や力を与えるのであれば、儂は反対致す。また、勘でものを申すな、とお叱りを受けるやもしれませぬ。が、儂は勘を研ぎ澄まして戦場を、乱世を生き抜いてきました。故に、あえて申し上げます。、あの弾正少弼という男は、危険です。何卒、三好家のため、弾正少弼を除いてくだされ。この通り、お頼み申す」

 一存は平伏した。窶れて小さくなった背中が、物寂しい。

 ――ここまで病み、死期を感じてまで、久秀を嫌うのか。

 一存の憎悪のすさまじさに、身震いがした。いや、この時点での長慶は、一存の憎悪としか思えなかった。

「讃岐守よ。なぜそこまで弾正少弼を嫌うのじゃ。憎しみからは、何も生まれぬぞ。儂を見よ。幾度、公方様や一清様を許してきたか。お主も、今は病んでおる。心を安らかにしたほうが、症状も回復へ向かおうぞ」

 一存の肩に手を置いた。肩が、小刻みに揺れ出している。

「……泣いて、おるのか」

 一存は、くくっ、と嗚咽を堪えながら、涙を流していた。

「いつの間にやら、兄者は別の世界に行ってしまわれていた……。儂は、悲しゅうござる。もはや、儂にできるのは、三好家の行末のために、最期の瞬間まで祈るばかり」

 すうっと赤い目を上げた一存が、一礼をした。威儀を正し、鋭い視線を向けてくる。

「兄者。いや、御屋形様。兄弟四人で遊べた頃が、一番良かったのかもしれませぬ。いつまでも、息災でお過ごしくださりませ。では、さらばにござる」

 一存は、枯木のような体躯を、引き摺りながら下がっていった。

   4

 冬康は、日課の調練に出ていた。炬口港から由良城が望める位置まで小早で南下し、港に戻る途中である。

 己の体躯で、風を切っている。いや、風に乗っている感覚であった。いつからか、ふと海風と一体になれるような気持ちになる瞬間があった。

 卯月に入っていた。今年は閏三月があったので、卯月と雖も、かなり暖かい。陽が昇れば、じっと甲板で立っていても、汗がじわりと這い出てくる。

 港が見えてきた。桟橋に、人が集まっている。

 ――どうも、様子がおかしい。

 いつもは調練後、にこやかに出迎える家臣たちの表情が、強張っていた。先頭には、肩衣姿の元常が立っている。元常が出迎えている時点で、只事ではなかった。

「何か、ありましたな」

 並んだ之正が、声を投げた。之正も齢四十半ばを過ぎ、口髭が逞しい。

「殿。急ぎ、城にお戻りなされ」

 元常の矍鑠たる声が響いた。打ち寄せる水音も、物ともせずに、よく通る声である。

「何があった」

「……城に、御屋形様よりの使者が参っております。まずは、ご対面なされ」

 言い澱んだ元常が、先を促した。元常が口に出すのを憚る出来事とは、いったい何か。不審に思いつつも、秘密を要する事項と受取り、城まで疾風に乗って駆けた。

 之正ら数騎が、離されぬように追うてくる。

「な、何かの間違いではないのか! 信じられぬ、あの讃岐守が」

 一存が……、亡くなった。

 冬康は知らせを聞いて、その場に立ち上がった。やり場のない衝動が、地団駄を踏ませる。

 城の謁見間であった。長慶からの使者が、目の前に控えている。

 部屋は閉め切っており、せっかくの陽光を遮っていた。隙間からの光だけで十分に明るく、行灯は不要である。

 閉め切ったは、内密の話と思ったからだ。が、一存の死は、既に畿内各地に広まっておるらしい。

「なぜ、御屋形様は讃岐守の死を隠さぬのだ。和泉が不穏になるはもちろん、畿内や四国にも影響があるやもしれぬ。それから、もう少し詳しゅうに、讃岐守の最期の様子を申せ。お主の知っておる範囲でよい」

 一存からは先月、病が重く治らぬため、忍びで有馬に湯治に行く、と便りがあった。有馬に着いてからの便りには、症状が少し改善された、とまで記してあった。

 ――まさか、最期の便りとなろうとは……。

 じんわりと、両目に滴が溜まり始めていた。一存の死を信じたくない気持ちはあったが、長慶からの使者が、動かしがたい現実を突きつけてくる。

「では、申し上げまする。讃岐守様は、有馬での湯治で、一旦は病状が快方に向かわれた様子。御屋形様も心からお喜びで、弾正少弼様をお見舞いに差し向けてございます。ここからは想像でございますが、日頃は関係の悪いお二人でも、弾正少弼様が心から見舞わば、通じ合える、と思われたのでしょう。弾正少弼様も、御屋形様の御心遣いに涙を流され、喜んでお見舞いの使者をお受けになられた、と聞き及んでおり申す」

「何と申した! 弾正少弼が有馬に見舞いに、だと……」

 先を促すにも、胸騒ぎがした。一存の精悍な面影が、瞼の裏に浮かんでいる。

   5

「弾正少弼様は有馬に着くと、讃岐守様の手を取り、一緒に湯に浸かったる由。病が移る恐れも気にせず、真に大した御方と、お見受け致しました。ですが、讃岐守様は翌晩から高熱を出されて寝込まれ、そのまま意識が途絶えました。本当に、残念にござる。御屋形様も、せっかく二人の間が良くなる切っ掛けができたところで、とお悔みにござった」

 使者は、真顔であった。長慶が抱いた印象を、そのまま信じている。

 ――疑念は、ますます募ってきた。兄者は、何という心ない仕打ちをしたか!

 一存からの最期の文には、堺で長慶を諌めた状況が記されていた。

 久秀の危険性を訴えたが、取り合ってもらえなんだ。敬愛して止まぬ長兄だが、もはや此の件に関しては諦めた、と。己は病のため、今は症状が少し改善したと雖も、恐らくは志半ばで倒れるだろう。が、義賢と冬康で久秀の増大を阻止し、三好家を守って欲しい旨が、懇々と述べられていた。

 一存は、最期まで危惧した存在の久秀と湯に浸かり、いったい何を思ったか。真に、一存の意思で久秀と湯を共にしたのか。冬康は、胸が破られるような思いがした。

 と同時に、押さえきれぬ悲しみが、降り掛かってきた。がくっ、と四つん這いになり、声を上げて泣いた。ひたすら、泣いた。

 気が付くと、陽が西に向かって落ち掛けていた。いつの間にか、居間に一人でいる。皆が、気を遣ってくれたのだろう。

 ゆっくりと、障子が開いた。信子が、行灯の火を入れに来たようだ。ふっと、冬康の視線を感じたのか、顔を向けてきた。

「少しは、落ち着かれましたか。お茶をお持ちしましょう」

 信子は、笑みを浮かべようとしたが、表情を戻した。

「気を遣わせて、済まぬな。もう、大丈夫だ」

「いえ、気遣うなどと。讃岐守殿は、妾にとっても大事な弟にございます。まだお若いのに、本当に残念で堪りませぬ」

「……讃岐守の真の最期を、確かめてやらねばなるまい」

「えっ、真のご最期……。何か、ご不審がありますのか」

 信子の声が掠れ、裏返った。思いもしなかったようだ。

「弾正少弼が、讃岐守の死に絡んでおるやもしれぬ。考え過ぎであれば良いが、讃岐守が無念を残しておるなら、調べてやるのが兄の務めじゃ。むろん、他言は無用だ」

 冬康は、すぐに之正を呼んだ。泣き過ぎて、声が嗄れていた。

「既に、手の者をやっております。追って、詳細が明らかになりましょうぞ」

 さすがに、之正は心得ていた。冬康の抱いたと同じ不審を抱き、有馬に向けて、忍を放ったという。

 それとは別に、日頃から久秀の身辺を探らせている物見たちからも、後日に報告が入るだろう。

 冬康としては、一存が安らかに身罷ってくれている状況を祈っていた。が、そうでなければ、弟の恨みを晴らしてやらねばならぬ。

 西陽で朱に染まった障子に、冬康と之正の影が浮かび上がっていた。

   6

 久しぶりの元主従の対面は、生憎の雨空であった。摂津の空は、どんよりと薄墨で塗り潰されたようである。

 皐月は六日になっていた。

 今朝、近江の坂本まで、長頼を迎えに出していた。故に、もう間もなく、晴元を普門寺(後世の大阪府高槻市富田)に迎える手筈になっている。

「六郎様。久方ぶりの御父上との御対面、真におめでとうございます」

 長慶は傍らの昭元に視線をやった。

「……何分にも御父上にお会いしたは、一昔も前にござれば」

 昭元は緊張しているのか、表情が硬い。

 わからぬでもなかった。

 育ての親とも言うべき長慶と実父晴元は、長年来ずっと憎しみ合ってきた。さすがに十年余も養育し、元服までさせたので、昭元も大分、長慶に懐いてきている。二人の間で、どのように振る舞ってよいか、さぞ困惑しておるだろう。

 昭元は、決して暗愚ではなかった。父である晴元が、執拗に京を乱すを、内心は苦々しく思うておる面もある。

 屋根瓦や戸を叩く音がし始めた。

「降り始めてござる。一清様が道中、難儀にならねばよいが」

 長慶が自分でも不思議に思う点だが、未だに晴元を敬う心を失っていなかった。憎しみ深く、八つ裂きにしてやりたい、と何度も思うた。が、冷静になると、元の主に間違いはなかった。

 しとしとと、雨水が伽藍を濡らしていた。長慶たちは雨音を耳にして、静かに待っている。

「お越しになられました! 間もなく、駕籠が門前にお着きになります」

 未の刻を過ぎた頃、晴元の一行が寺に到着した。

「お出迎えに上がろうぞ。皆、仕度せい」

 長慶はすっくと立ち上がり、廊下を歩いた。慌てて、後ろから従ってくる。

「御屋形様、雨に濡れまする。何も、そこまでせずとも……」

 康長が長慶を諌めようとし掛けた。が、ハッ、と昭元の存在に気づき、言葉を止めている。息子の前で、元管領の父親を蔑ろにはできぬ、と思うたか。

「一清様は、元主にして、前管領様である。当たり前の仕儀じゃ」

 長慶が鋭く言い放つと、皆は黙って従った。

 それなりの儀礼は尽くさなければならない。仲介の労を取った、義輝への聞こえもあった。

「一清様。ようこそ、お出でになられました。この修理大夫、感極まってござる」

 不覚にも、目尻から滴が零れた。何とも表せぬ感情が沸いている。

「久しいな、修理大夫。いろいろあったが、儂も出家した縁もあり、全て水に流そうと思った。今後は良しなに、頼むぞ」

 色白に変わりはない。が、幾分か頬がふっくらと肥えていた。仕えている頃は、もちっと精悍であった顔付きが、さすがに京を追われて流浪し、法体になれば丸くなるのだろう。

「ははっ、承ってござる。一清様、御覧くだされ、六郎様はこんなに立派に成長されました」

 昭元が無言のうちに、晴元に頭を下げた。

   7

「備前守、近くに」

 長慶の乗った駕籠が、普門寺の門を潜ろうとしていた。見送りに出てきた長頼を、近くに呼び寄せた。

 昭元は、普門寺に置いてきた。親子水入らずの時を、長慶が具申し、晴元が了承している。

 雨は一時的に上がっていた。薄墨のような空模様には変わりがないため、また、いつ降り出すやもしれぬ。境内の枯山水が、濡れて独特の風情を醸し出していた。

「御側に。如何、あそばされましたか」

 坂本まで晴元を出迎えた長頼には、まだ役目があった。

「一清様の今後だが、儂の許しなく、一切の外出はお控え頂くようにせよ。やんわりと、な」

 長慶は、晴元を監視下に置くつもりであった。京に戻り、将軍や公家などと、要らぬ画策をされては敵わぬ。晴元との和睦を、完全に信じた訳ではなかった。

 晴元は、軟禁された、と憤るかもしれぬ。が、既に長慶の手中に落ちている。もはや、如何ともし難かろう。

「心得ており申す。籠の鳥に、お成り頂くのですな」

 長頼は驚く様子もなく、命を受けた。長頼も、長慶を憚って言えなかっただけで、同じ考えであったのだろう。

 数日後に、長頼が報告に訪れた。長慶の京での私邸である。

 長頼はこの後、丹波に戻る予定だ。長頼も、長く丹波を空ける訳にはいかぬ。亡くなった一存と同じく、三好軍団を支える柱の一人であった。 

「思いの他、すんなりと御納得されました。此方が、肩透かしを喰ろうたような気になるほどに。少しは、御怒りになられるかとも思いましたが」

 長頼は、呆れた表情になった。長頼ならば、怒髪天を衝くほどの激情を見せるだろう。晴元の腑抜けぶりが、理解できぬようだ。

「良かったではないか。さすがの一清様も、長年の流浪暮らしで丸くなられたのであろうよ。備前、此度は大儀であった」

 長頼が下がった後、長慶は一人、居間で考えていた。長頼には、ああ言うたものの、何か心に引っ掛かりがあった。

 晴元が大人しく軟禁状態を受け入れただけなら、それほど気にする必要はないかもしれぬ。が、和睦を斡旋した義輝から何らの抗議もない状況が、気になっていた。普段の義輝であれば、間違いなく怒りを顕にしたであろう。

 ――考え尽くしても、何かがわかるものではなかった。

 長慶が提示した条件を、相手がすんなりと呑んだだけなのだから。

「申し上げます。摂津守様から使者が参っておりまする」

 障子戸の外から、小姓の呼ぶ声がした。ふうっ、と我に返る。

 障子に人影が伸びておらぬのは、陽が天高く昇っておる時刻だからだ。数日間、ぐずついた天気の後の、久しぶりの快晴であった。

「すぐに会おうぞ。通せ」

 冬康には、先月に亡くなった一存の代わりに、和泉の守りに入るように命じていた。一存の代わりなど、なかなかに見つからぬ。そのため、仕方なく淡路から呼び寄せる仕儀となった。

 やがて、廊下を叩く足音が、だんだんと大きく聞こえた。

   8

 冬康は、堺から一路、飯盛城に向かっていた。

 辻は乾き、冬康らの馬群が通り過ぎた後には、砂煙が靄を作った。

 皐月は二十四日になっていた。しばらく晴天続きなのは、梅雨が明けた証拠であろう。

 燦々と輝く陽を、前方に見て走っていた。この分だと、巳の刻には、城に到着するだろう。

 長慶に会うのは、ちょうど一年くらいぶりであった。皐月の初めには、使者を出している。

 長慶には、岸和田城に入る前に、目通りを願い出ていた。詳しい要件を話しておらぬため、単なる挨拶程度と思ておるやもしれぬ。

 冬康の心中は、鬱々としていた。飯盛城に向かうは、一存の死について長慶に具申するためであった。

 物見たちの報告を集めたところによれば、一存の死には不自然な点が多かった。

 まず、久秀が有馬に向かう際、大和の忍たちが多く同行していた。

 久秀は、大和を与えられた後、忍を大量に召し抱えていた。

 大和は鎌倉時代以来、守護が置かれていなかった。支配者が居らず、諸豪族がそれぞれの派を唱えている土地柄である。豪族の中には、忍の術に長けた一族が幾つかあった。大和を平らげた久秀は、豪族の中から、腕利きの忍たちを拾うのに成功していた。

 ――真に見舞いならば、多くの忍は必要がないはずだ。

 冬康が送った忍の中に、戻らぬ者が増えてきた。恐らくは、討ち取られていると見て間違いない。

 元来、久秀は諜報活動など、いわゆる陰働きを得意として、伸し上がってきていた。此度、大和の忍を手に入れたことで、さらに力が増した、と考えられる。

 そればかりではない。

 久秀は一存の家臣が諌めるのも聞かずに、入湯中の一存に、強引に面会を求めていた。一存の配下からも、言は取れている。

 世間に捻じ曲げられて喧伝されていたのは、その後、二人が一緒に湯に浸かった点に関しては、事実だからだ。その事実だけを、大きく取り上げられた。

 最後は、死因についてだ。

 一存の状態は、湯治でかなり良くなっていた。久秀が訪れた日も、体の具合が良くて、付近に散歩に出たほどである。翌朝も、何ら体調に変化がなかった。

 にもかかわらず、翌晩には急変が起っている。之正が抱える腕効き忍の報告では、効き目を遅らせる何らかの毒が使われたのではないか、とあった。毒薬の調合に長けた忍の一族であれば、不可能ではない、と。

 気が鬱いでいる原因は、久秀が強引に面会を求めた以外は、全て証拠が残っていない状況であった。疑いだけでは、長慶が相手にしてくれぬのではないか、と考えていた。

 ――久秀は、証拠を残さぬ陰働きで地位を得た男だ。

 長慶に、此度は何としてでも理解して欲しかった。

 清清しい一陣の風が、首元を通り過ぎて行った。ふと、気持ちのいい一存の武者ぶりを、思い出している。

   9

 飯盛城の本曲輪までは、数十丈ほどの高さがあった。巨大な山城である。曲輪だけでも数十を越えている。

 登るに連れて、風が強くなった。鬱蒼と茂った草木が陽を遮る場所では、涼を感じられる。

 やがて、山頂の近くに出た。周囲の視界が、一気に広がっていく。

 眼下には、豆粒のような民家が点在していた。南北を貫いて聳える山々の緑が、黄金掛かった色合いを見せている。

 黙々と、本曲輪下の石垣に沿って馬を進めた。馬も麓で一度、乗り換えてきている。

「見事なものですな。実休様は、よく落とされました。儂には、とても真似できそうもない」

 之正が本丸を見上げて、感嘆の声を上げた。壮大な山城に、圧倒されている。

「糧食を尽きさせたのが、何より大きい。いかに実休様とて、十分な兵糧が蓄えられた此の城は、易々とは落とせなかった」

 兵糧が尽き、敵の戦意が萎えた。それが、一番の勝因である。

 かつての一存のように、一人の武将の勇猛さが戦の帰趨を決する時代は、過ぎ去ろうとしていた。

 一面の畳を敷き詰めた大広間は、さすがに畿内の覇者たるにふさわしかった。各々の襖には、龍虎や水墨画が描かれ、訪問者の目を騒がせていた。

 冬康ら一行は、直ぐ居間に通された。長慶が姿を現すまで、静かに座している。

 開け放たれた四方の窓からは、よく風が通っていた。眺望は、申すまでもなく、抜群である。チラと、視線を向けただけでも、透き通るような青空の下に、緑の山が煌いて見えた。

 しかし、冬康には、話を終えるまで、襖の絵や景色を楽しむ余裕はなかった。

「よう来た、摂津守。すまぬな、急遽、和泉を任せる次第となった。当たり前だが、なかなか讃岐守の代わりなど、見つからぬ」

 肩衣姿で入ってきた長慶は、どかっと、上座に腰を下ろし、柔和な目を向けてきた。

「讃岐守が身罷ったのは、真に残念でござる。また、三好家にとっても大きな痛手。まるで屋台骨を、一本なくしたように感じます」

 平伏したまま、少し視線を上げた。長慶は、頷きながら聞いている。

「真に、その通りだ。摂津よ、今宵は飯盛に泊まれ。讃岐守の冥福を、酒を飲みながら祈ろうぞ。儂も近頃は、一人で考え込むと、辛くなる。お主と一緒ならば、楽しい思い出も溢れて来よう。さあ酒の支度じゃ。急ぎ、持って参れ」

 長慶は、酒の支度を命じた。

 長慶にとっても、一存の死はよほど応えたと見える。でなければ、昼間から酒を飲む兄ではなかった。少し、気弱になっている様子だ。

 が、まだ、肝心な話が終わっておらぬ。

「お待ちくだされ、本日は、大事なお話があって参上仕りました。まずは、御人払いをお願い致す」

 じっと、長慶の目だけを見詰めた。一瞬は驚きに目を大きく見開いた長慶が、表情を戻した。いつもの、強く、気高い眼差しである。

「……わかった。酒は、もうしばらく後にしよう。皆の者、聞いた通りだ。此の場から、急ぎ下がるがよい」

 長慶が促すと、小姓たちが下がり始めた。

「総介。お主らも」

 後ろに控える之正たちにも、下がるよう促した。兄と、二人だけで話したい。

「儂からも申し上げたほうが……」

 之正の使っている忍の報告が、情報の主であった。それを気にしたようだが、冬康の想いを汲んで、広間を出ていった。

   10

「御屋形様。讃岐守が、死の直前にくれた手紙でござる。まずは、ご拝読くだされ」

 もはや一存の了承は取れぬ。が、弟の無念を理解してもらう仕儀を優先した。

 一読し終えた長慶に、一存の死についての不審点を述べた。

 長慶は黙って、冬康の言を聞いていた。途中からは扇子を握った手を膝に乗せて、目を閉じた。聞こうとする姿勢を、見せている。

「讃岐守の死に、久秀が何らかの関与を示しておるのは、ほぼ間違いありませぬ。儂の報告をお聞きになり、如何お考えでしょうか」 

「……確かに、弾正少弼が大和に入りし後の動きに不可解な点あり、との報告は、儂の元にも届いておる。なれど、たとえ怪しい動きがあったとしても、何らの証拠も残っておらぬであろう。以前にも申したが、証拠もなしに重臣を処罰できぬ」

 叱責を受ける覚悟で、久秀の追及を申し出た。が、珍しく、長慶が久秀の行動に不審を持っていた。

 ――長慶も、ようやく久秀に対して、何らかの不審を抱き始めたか。

 切っ掛けを掴んだ冬康は、畳み掛ける力を得た。心が、昂ってくる。

「いいえ。そもそも弾正少弼は、陰働きを得意としてきており申す。であれば、手練れの忍を使い、証拠を残さずに事を起こすなど、朝飯前にござる。故に、弾正少弼に限って申せば、証拠が出てくる機会を待っていては手遅れになり申す。讃岐守の命も、もはや戻っては参りませぬ。兄者、何卒、ご決断を!」

 長慶が、再び目を瞑った。低く、息を吐いている。

 静寂に覆われた広間の外からは、口笛が響くような音が聞こえていた。鳶が、本丸の上空に弧を描いておるのだろうか。

「儂が、直に弾正少弼を問い質してみよう。その際に、弾正少弼がどう申すかで、後の次第を決めればよい。動きに不審な点はあれど、あ奴が、儂に刃を向けるなどは、やはり考えられぬでな」

「それでは、上手く言い逃れられはしませぬか。弾正少弼は、口が達者にございます」

 長慶が久秀に丸め込まれぬか、心配であった。

 さすがに、長慶に向かって、丸め込まれる恐れがある、とは言い難い。が、どうも長慶は、久秀には甘い態度を見せる傾向があった。

「お主は、儂の目を節穴と思うてか。案ずるな、兄を信じるがよい。詳細は、後日に知らせてやろう故に」

 長慶にそこまで言われては、もはや何も具申できなかった。あとは、長慶を信じる他はない。

 少なくとも、長慶自身が久秀を問題視し始めてくれたのは、前進であった。

 義賢にも、報告をやらねばならぬ。一存の死が無駄ではなかった、と喜ぶだろう。

   11

「早速ではあるが、弾正少弼よ、お主に嫌疑が掛かっておる。儂が直々に詮議を致すため、問われた内容については真摯に答えよ」

 長慶は威儀を正して宣言した。といっても、目の前には久秀だけがいる。

 先月、冬康の座った位置に、ぽつねんと久秀だけが座していた。小姓と護衛の母衣衆以外は、誰も同席させておらぬ。

 ただでさえ誤解を招き易い久秀であった。詮議を受けたとの情報が広まっただけでも、諸将の目の色が変わる。長慶なりの配慮の仕方であった。

「……嫌疑、にござりますか。はて、いったい、どのような」 

 素襖姿の久秀は、さも心外そうに小首を傾げた。皺の寄った額には、微かに汗が浮かんでいる。久秀は、既に齢五十を越えていた。

 猛々しい夏の光が、広間に射し込んでいた。そこかしこで、蝉の声が喧しい。

「お主が、讃岐守の死に関わりがあるのではないか、との情報がある。いくつか、不審な事実が浮かび上がっておるしのう」

 長慶は、冬康から報告があった一存の死の間際の出来事を、語った。

 久秀は、微動だにせず耳を傾けていた。長慶への視線は、決して逸らさない。後ろめたさは感じられぬ、堂々たる態度である。

 陽気な昼下がりであったが、傍らに控えている小姓たちは固唾を呑んで見守っていた。

 畿内の覇者である長慶が、今や家中で筆頭の家宰を追及しておるのだ。さもありなん。

「どうじゃ。今度は、お主の言い分を聞こうぞ」

 気が付くと、長慶も、手の平に汗を滲ませていた。置いていた扇子を広げ、己の顔をやんわりと仰ぐ。

「……御屋形様。儂は、悲しゅうござる。元を申さば、讃岐守様のお見舞いに馳せ参じたは、御屋形様の命によるもの。命がなければ、行きませなんだ。病弱の讃岐守様を親身にお世話を申し上げたにもかかわらず、あらぬ疑いを掛けられては心外にござる」

 久秀の落ち着いた声が、広間に響き亘った。心底、悲しんでいるような響きだ。

「確かに、見舞いに向かわせたのは儂である。が、なぜ大量の忍を引き連れていった。有馬は、我が三好家の版図内にある。たとえ護衛だとしても、過ぎるであろう」

「これまではお伝えするのを憚っておりましたが、やむを得ませんな。申し上げましょう。忍を多く伴ったは、儂の命を狙う輩が、家中に多くいるためでござる。今まで幾度となく命を狙われ、時には手傷を負わされた機会もございました。御屋形様に、ご心配をお掛けせぬよう、ずっと己の胸に留めておりました。三好家の版図で多くの家臣を引き連れては、家中に内乱の種あり、と周辺国に隙を与えかねませぬ。故に、忍と致しました。かつて、御屋形様も京にて命を狙われましたが、あれと同じでござる。この弾正少弼も、人知れず多くの妬みを買っておる様子。真に不徳の致すところではございますが……」

 久秀は、軽く頭を垂れた。

 長慶が京の伊勢邸で暗殺され掛けた時に、命を救ったのは久秀であった。助けに入った久秀の背中を、忘れてはおらぬ。

「では、強引に湯に押し入った件は、どうじゃ。これについては、讃岐守の臣からも、言は取れておる」

 裏の取れた事実なら、襤褸を出す可能性が高い。久秀の頭の先から足の先まで、不審がないか観察していた。

「湯に入った件につきましても、御屋形様の命を確実に守るためにござる。讃岐守様は初め、お体の状態が良いのにもかかわらず、儂の目通りを、ずっと許しませなんだ。それでは、御屋形様の命に叛く仕儀となります。三好家中において、御屋形様の命に服せぬのは、弟御様でも許されませぬ。また、いつまでも大和を空けておく訳にも参りませなんだ。治め始めたばかりの土地故に、騒乱の恐れがひっきりなしに絶えませぬ。故に、意を決して湯に入ってござる。なれど、怪我の功名とは申したもの。二人で湯に浸かって語り合い、初めて讃岐守様と理解し合えた心地が致しましてござる。犬猿の仲であった二人が、最期には和解した、と家中で噂になっておる通りに」

 久秀は少し笑みを浮かべた後、俯き、肩を震わせ始めた。呻きのような、啜り泣きを始めた。

「……何をしても穿った目で見られ、悔しゅうござる。やはり、讃岐守様が最期に申された通り、儂が成り上がりだからでござろう。以前にも申し上げましたが、儂が御屋形様の命に叛くことは金輪際、ございませぬ。何卒、信じてくださりませ」

 五十を過ぎた久秀が、皺の入った目尻から、滴を畳に落としていた。

「……讃岐守が、お主は成り上がり故に穿った目で見られる、と申したか」

 本当に一存が、そこまで腹を割って話したか。興味を持った。

「ははっ、儂の御屋形様への忠誠心には間違いない、と認めて頂きました。なれど、このままでは疑いを受け続ける、とも」

 久秀が、伏せていた顔を、向けてきた。両の目は真っ赤で、しきりに洟を啜っている。

「讃岐守は、何か策を申したか?」

「はい、讃岐守様が仰った内容ですが、驚かれずにお聞きくだされ。お里様を、嫁に娶るように、と申されました。そうすれば、お主は三好家の血縁に繋がる者となり、もはや成り上がりではない、と」

「なんじゃと! お里を、だと。馬鹿を申すな。讃岐守が、そのような話を申すはずがない」

 長慶は、扇子で床と膝を打った。頬には、苦笑すら浮かぶ。

 お里は、長慶の娘であった。波多野氏から迎えていた正室との間に、できた子である。

 齢十六で、近隣に鳴り響くほどの美女と謳われていた。当然に、縁組の話も数多である。

 ――誰が、五十歳を過ぎた久秀の嫁にやれようか。

「戯言ではありませぬ。どうせ信じては貰えぬ、と申したところ、讃岐守様から書付を頂いて参りました。ご覧くだされ」

 久秀が懐手に出した書状を、小姓が受取って長慶の下に運んだ。

 長慶は手に取った書状をしばし眺め、ゆっくりと開いた。

 気が付くと、呻いていた。見覚えある、一存の字が並んでいたからだ。

「お里様からは、既に了承を得ております」

 驚きで言葉をなくしていた長慶に、追い討ちを懸けるような久秀の言葉であった。

「偽りを申すな。お里が儂に相談もなく、勝手に縁組を決めるはずがなかろう」

 とその時、長廊下を着物が擦る音が聞こえ、だんだんと大きくなってきた。

   12

 広間の障子戸が開き、桔梗色の打掛が目に入った。お里である。背後からは、お付の女房が従ってきていた。

「父上様、ご無礼を致しまする」

 長慶に似た切れ長の目を向けてきたお里は、中央に座している久秀の後ろまで進み出てきた。

「そこで待ちやれ」

 女房どもが、戸の付近で待つように叱責されている。

 お里は、久秀の背後の半間に座し、畳に両手を着いた。

「父上様が、弾正少弼殿をお叱りになる、という噂があり、居ても立ってもおられずに参りました。弾正少弼殿は、誰よりも父上様を敬い、忠誠を誓うておりまする。よもや父上が、つまらぬ讒言などに惑わされぬとは存じますが、念のために申し上げておきます」

 雪のように白い肌をしたお里が並ぶと、久秀の黒い顔が浮き立った。顔の作りにしても、整っているお里と皺の寄った久秀。誰が見ても、夫婦に似つかわしくはなかった。

「弾正少弼の詮議の件は、しばし置こう。お里よ。お主が、弾正少弼と夫婦の約束をしたというのは、真か?」

 あり得ぬ、と思っていた。が、こうして出張ってきたところを見ると、確かめずにはおけぬ。じっと、お里の表情を窺う。

「真にございます。妾の夫となる殿方は、弾正少弼殿しかおられませぬ。叔父御も、それが良い、と仰られていた、と聞き及んでおりまする」

 お里の目の色には、長慶への反抗心が感じられた。

 お里は、長慶に反感を持って育ってきていた。長慶が実母を離縁し、その実家である波多野氏と、長年に亘って敵対してきたからだ。長慶の知らぬ間に縁組を了承したは、父に対する反抗心もあるやもしれぬ。

 しかし、それでも長慶は驚いた。父に対する反抗だけで、よりによって久秀に嫁ぐだろうか。他の、長慶の意に沿わぬ武将が相手でも、目的は達せられるはずだ。とすれば、やはり好いておるのか。いったい、いつの間に……。

 小姓たちも、驚いていた。どう見ても、釣り合わぬ容姿の二人である。若い侍の間で、お里の人気は高かった、とも聞いている。

「本気なのだな、お里。戯言は許さぬぞ」

「はい、弾正少弼殿でなければ、尼になる覚悟でございます」

 勝気な眼差しが、飛んできた。この辺りの性は、長慶の血を引いている、と思う。  

「……考えておこう。弾正少弼。まだ詮議は済んでおらぬ。が、思わぬ邪魔が入った。またにしよう。一つだけ申しておくが、儂は、お主を穿った目では見ておらぬ。むしろ、ずっと信頼してきた。裏切らぬように、励め」

 一存の直筆の書に、久秀とお里との縁組。一度には、考えられぬ事柄であった。じっくりと、頭を冷やして考える必要がある。

 久秀が一礼して下がると、後を追うように、お里も姿を消した。久秀の背中に、なぜか余裕が感じられる。

 ――まさか、儂の詮議を受ける状況を想定して、お里が来るように仕向けたか。

 いや、さすがに考えすぎであろう。齢五十を越えた久秀が、女子を手玉に取れるものではない。

 側に置いていた頃と違い、だんだん久秀の考えが読めぬようになっていた。

   13

 文月は十三日になっていた。

 長慶からの使者が具足姿であったので、冬康には、直ぐに戦が起きたとわかった。

 秋の到来とともに、和泉の暑さも、かなり和らいできた。今も、西から海風が、天守の欄干の煤を払うように吹き込んでいる。

 六角義賢が、京を窺って兵を集めていた。

 義賢は、細川晴元の次男である晴之を旗頭に担いだ。長慶が人質に取った長男の昭元は、諦めたようである。

 晴之に細川家を継がせ、管領職を氏綱から取り戻す名目である。が、実際は、京の覇権に絡む意図があろう。義賢はいよいよ、近江だけでは物足りぬようになったか。

 皐月に、晴元が長慶と和睦して京に入ったは、三好方を油断させる狙いがあったのだろう。長慶の文にもあるが、とすれば、義賢の挙兵の背後には、将軍や公家たちが、間違いなく暗躍している。

 しかも、策が大掛かりだ。京を狙う義賢の挙兵と同時に、昨年に降伏させ、紀伊に亡命していた畠山高政が兵を集めて、和泉に攻め寄せようとしていた。畿内の南北から、三好軍を攻める算段である。 

「総介。急ぎ、籠城の備えをせよ。敵は、紀伊から攻め寄せるぞ」

 岸和田城の兵力は、掻き集めても二千~三千程度であった。紀州勢や根来衆に押し寄せられては、とても野戦では対応できぬ。

「援軍は送って頂けるのでしょうか」

 之正が、少し不安げな表情をした。之正の懸念は理解できる。

 まず、兵力差が大きくなる状況が予想された。また、主力の安宅衆は、海戦こそ得意だが、籠城には慣れていない。

「急ぎ兵を送る、とは書かれてある。が、数はわからぬ。御屋形様としても、京の戦線にどのくらい兵力が必要になるかが、現時点では読めぬからだ。それにしても、儂も舐められたものよ。讃岐守であれば、岸和田城が狙われなかったやもしれぬ」

 将の武勇が戦を決する時代は過ぎようとしている。が、まだまだ勇将を畏怖する気持ちは強い、ということか。

「お気になされますな。讃岐守様と殿は、それぞれに得手とするところが違いました」

 之正は、兄弟に引け目を感じてきた冬康の心を知っている。

「な、何としたことか! 弾正少弼にお里様が嫁ぐ、とな」

 文の最後を読み進めるうちに、冬康は胃の腑から怒りが逆流してくるような感覚に陥った。

 久秀を追及するはずだった兄が、娘を久秀に嫁にやると書いていた。しかも、亡くなった一存の最後の意思だと申し添えている……。

 ――やはり、上手く丸め込まれたのか。

 久秀が長慶の娘婿になれば、義理とは申せ、息子ともなる。ますます危険な存在になるは必定であった。

   14

 急ぎ長慶の下に赴き、久秀とお里の縁組を断固として反対したかった。恐らくは、義賢や他の親族衆も、同じ気持ちであったに違いない。

 が、畿内の情勢は風雲急を告げていた。

 文月の二十三日には、根来衆を主力とした紀州勢が、和泉に雪崩れ込んできた。近江の六角勢も、間もなく京に進軍を始める気配である。

「殿。急ぎ、御屋形様に早馬を出しましてござる。寄せ手には、予想通り河内守や左近らも混じっており申す。やはり、情けは仇となりますな」

 之正が頬に皺を寄せ、小さく息を吐いた。

 昨年の戦で降伏させながら、逃げるに任せた高政と直政に対する処置を言っている。直政に関しては、二度も命を助けていた。長慶の敵に対する寛大さのほとんどは、刃で返されていた。

「わかっておる。もう、申すな。それが、御屋形様の美徳であり、弱点でもある。それよりも、兵糧の運び込みは済んだか」

 敵の兵力は、数千~万余に膨れ上がる様相を呈していた。高政だけでは、それだけの数は集まらぬ。とすれば、やはり背後で動いている輩の姿がチラつく。

「大方は。ただ、秋の刈り入れが間に合わぬ田畑もあり申した。焼き払わなんだので、敵に取られるかもしれませぬ」

「それでよい。百姓が精魂込めて耕した田畑を焼くは、領主の有りようではない」

 冬康も、兄の長慶に似て、甘い面があった。兄との違いは、敵に対しては、甘くないところだ。

 並々と水を蓄えた外堀に、陽が映っていた。水面には、港から吹く風が細波を作っている。

 先ほどまでの激戦の跡が嘘のように静かになり、硝煙の匂いだけが鼻を擽っている。

 冬康は、本丸下の石垣の上に立っていた。半刻ほど前まで繰り広げられた銃撃戦で、兵たちを叱咤していたからである。

 二十六日は、未の刻であった。

 敵は、二十五日の朝には岸和田城を取り囲んだ。周囲のどこをも人馬が埋め、城に襲い掛かってきた。

 根来衆の鉄砲による射撃を主に、河内の残党たちが城壁を越えようと殺到してくる。味方は、少ない鉄砲や弓で応戦し、跳ね返していた。

 鉄砲の射程で気を抜くと、腕利きの根来衆に、城兵が眉間を討ち抜かれた。故に、歩哨たちには、油断なく、敵の射撃手を見張らせていた。

 冬康は、改めて鉄砲の威力と、根来衆の恐ろしさを感じていた。

 鉄砲で遠距離からでも狙われると思うと、兵たちの神経の疲弊が早かった。籠城戦において、城兵を弱気にさせては不味い。それ故に、冬康は自ら士気の鼓舞に尽力していた。

「実休様の軍が来れば、坊主どもを、すぐに蹴散らしてやりましょう」

 長慶は、義賢と長逸ら親族衆を、岸和田城の救援に送る、と使者を寄越した。京の防衛は、長慶の中軍と松永兄弟らで行う。

 また、長慶は、淡路・阿波衆の主力を呼び寄せるように命じてきた。戦線が拡大した場合を危惧したのだろう。既に、誰かが三好軍に対して兵を挙げる情報など掴んでおるのやもしれぬ。

 冬康は、すぐに淡路に使いを走らせ、兵を募るように命じていた。

 高屋城の義賢も、阿波を守っている篠原長房を、和泉に呼ぶつもりだ。

 いつの間にやら、畿内の覇権を懸けた、大戦の様相を呈してきていた。

   15

 凄まじい轟音が、間断なく城の東南の方角で起こっていた。

 三十日になった。

 義賢の援軍が和泉に到着し、城を目指して進軍してきていた。

 しかし、敵が数町の距離で義賢たちに立ち塞がり、押し寄せる味方に、激しく射撃を繰り返していた。城の天守からは、味方がバタバタと倒れている様子が見える。

 冬康は城を出て、根来衆の背後を遮二無二、突き崩したかった。が、昨年の河内の戦で長頼が根来衆の背後から襲い懸かり、勝ちを得ている。同じ手には掛からぬという意思の表れか、敵は城の包囲も緩めてはおらぬ。

「ええい! 歯痒いわ。小面憎い坊主どもが、背を見せておるというに」

 冬康もすっかり安宅の海の男たちに染まり、籠城は性に合わなかった。城から討って出て、早期に雌雄を決したい。

「討って出るにも、我らに、しっかりと銃口が向けられております。なかなかに、厄介な坊主どもでござる。御屋形様の中軍であれば、それなりの数の鉄砲が揃うておりますので、太刀打ちも敵いましょうが」

 長慶直属の鉄砲隊が、家中では一番、鉄砲を揃えていた。昨年の戦で根来衆の鉄砲の凄まじさを見た長慶は、堺に、より多くの鉄砲を作るよう命じている。

「このままでは、実休様らは城に寄り付けぬ。籠城が長引く次第となろう」

 慣れぬ土地での長期の対陣は、できるだけ避けたかった。昨年河内に配された義賢も、同様であろう。一年やそこらで、土地に馴染めるものではない。

 案の定、戦線は膠着を迎えていた。

 近づけぬ義賢軍は、岸和田城の東南半里の場所にある久米田寺(後世の大阪府岸和田市)に本陣を置き、敵と睨み合った。むろん、冬康らも、包囲されたままである。

「恐れ入りまする。殿、お伝えしたき儀が」

 冬康は、既に寝所にいた。が、之正には、何かあれば自由に出入りを許してある。

 小姓が急ぎ、寝所隣にある居間の行灯を、点した。

「闇に紛れて、放っていた忍が戻りました。報告では二十八日に、承禎が約二万の兵を、京に出兵させた次第にござる」

 六角義賢は永禄二年(一五五九年)に出家して家督を嫡男に譲り、承禎と名乗っていた。が、実質は表舞台から去る気はないらしい。

「いよいよ、来たか。我が軍の踏ん張りところだな。早々に目前の敵を蹴散らし、御屋形様の御加勢に馳せ参じたいものよ」

 久米田の義賢本陣には、冬康が呼び寄せた淡路衆や、阿波の篠原長房が応援に駆けつけていた。

 戦線の膠着が長引けば、敵味方共に、士気が萎えてくる。何とか、状況の打開を模索しようとしていた。

   16

 長慶は、戦に倦んでいた。

 一昨年に義輝と和睦し、昨年には河内と大和を版図に加えた。しばらくは、敵対勢力は出て来ぬと踏んでいた。が、甘かったようである。

 着々と、反長慶の勢力は結び付いていた。ほぼ間違いなく、義輝や晴元が絡んでおるだろう。でなければ、六角勢と紀州・根来衆の連携の素早さが説明できぬ。

 義輝、晴元、高政、直政。一度は長慶が勝利して、助けた者たちだ。将軍や元主に対して不遜かもしれぬ。が、これだけ裏切られ続ければ、不遜になってもよかろう。

 もっとも、義輝や晴元は京にあって、何食わぬ顔で戦を眺めておろう。三好軍は、内部に公然の間者を抱えておる次第となる。

 ――儂は、戦ばかりし過ぎた。また、勝ち過ぎたのやもしれぬ。

 長慶が大きく成るに連れて、敵も増えていった。この状況を、自分は望んでおったのだろうか。当初の目的は、父の仇を討ち、三好家を再興するだけであったはずだ。

 故に、此度は出陣を見合わせていた。長慶自身が大将として出陣したほうが、兵たちの士気は俄然、上がる。が、家臣たちには済まぬが、戦のやる気が出てこぬ。

 嫡子の義興を梅津郡城(後世の京都市右京区)に、久秀を西院小泉城(後世の京都市右京区)に入れ、勝軍地蔵山に布陣した六角勢と対峙させていた。

 文月の終わりから対陣を始めて、ずっと小競り合いを続けていた。

 南の戦線、岸和田城も同様だ。冬康が籠城し、救援に向かった義賢が久米田寺に陣を置き、敵と対峙したまま膠着していた。

 既に、霜月に入っていた。飯盛城周辺の山々の朝晩には、霜が降りる日が多くなっている。

 京も、寒くなっているだろう。

「また、此処で茶を点てておられまするか」

 心配気な表情の富美が、戸口に顔を出した。重ね桂の裾を擦りながら、長慶に近づいてくる。

 戦が始まって以降、長慶はあまり本丸に顔を出さぬようになった。二ノ丸曲輪内にある下屋敷で、茶や連歌などの遊興に耽る機会が多くなっている。

 いや、そうではなかった。一存の死を聞いてから以降かもしれぬ。

 何とも言えず気が鬱ぐ時などは、特に一人で居間に籠っていた。気が鬱ぐと、何事にも無気力になる。

 富美は、長慶が本丸から姿を消すと、必ず様子を見に来た。一番身近にいて、長慶を気遣ってくれている。

「心配を掛けて、済まぬ。どうも、本丸におると、戦の状況を考えなければならぬでな。以前は戦の展開を考えると胸が躍ったものじゃが、此度は、どうもいかぬ。皆にも、本当に済まぬとは思うておる」

「お気になされますな。殿は、ずっと戦い続けて来られました。そういう時もございましょう。筑前守様と弾正少弼殿に任せておかれれば、大丈夫にございましょう。後継者を育てるいい機会だと思うて、ゆっくりなされませ」

 富美の口から出る言葉は有難かった。が、富美の瞳の奥には、不安気な光が宿ったままだ。よほどに、今の長慶は、傍で見ておって危うく目に映るのやもしれぬ。

 確かに、以前であれば二六時中、戦を考えていた。

   17

 人の気配がしたので目を開けると、天井裏の闇から、人影がすっと飛び出した。

「……保士か」

 音も立てずに板間に落ち、立膝を着いている。

「急ぎでないなら、朝まで、どこぞで控えておれ」

 今までなら、保士の齎す情報は一刻も早く聞こうとしていた。が、今は眠りを優先したい。 

 霜月も半ばになった。飯盛はもちろんだが、京でも雪が積もる日が多くなっている。

「それは、面白くないな。御屋形様。いつの間にやら、腑抜けになられたか」

 闇から、抑揚ない声が響いた。

「無礼を申すか! 今は休んでおる故、朝まで待て、と申しておる」

 気分が優れぬ時は、生意気な保士の物言いが、耳障りに聞こえた。いつもは、長慶を恐れずに直言する珍しい男と、重宝しているが。

「フフフ。それを、腑抜け、と申しておる。今までの御屋形ならば、すぐにも聞きたがったではないか」

 闇が震え、低い笑い声が響いた。

 隣に控える小姓たちが気づき、長慶の寝所を窺っていた。恐らくは、保士と覚っておるだろう。でなければ、踏み込んでくる。

 控えの間で、行灯が点された。障子に小姓、保士の影が薄っすらと浮かび上がっている。

 がばっ、と布団を剥ぎ、起き上がった。

「保士! 儂を、愚弄するか。今は、下がれと申しておる」

 どうにも今は、命を聞かぬ保士が気に食わなかった。

「……御屋形様、どうも心が変になってきたようだな。一度、薬師にでも見て貰うたほうがよいぞ。相わかった、下がろう。が、朝までは待たぬ。このまま、早々に京にでも退散致そう」

 保士の言が終わると同時に、びょん、と天井に影が飛び上がった。スス、と影が天井裏に消えていく。

 保士は、忍としての己の技量に、絶対的な自信を持っていた。己の腕を高く買わぬ将には、興味がない。

「待て。やはり申してから行け。そのままでよい」

 長慶は、思い直した。保士の力量は、嫌と言うほどわかっているからだ。

「嫌なことだ。話す気が失せたので、儂は去る」

「待たぬか、保士。銭は、好きなだけ持って行ってよい」

 消えかけた気配の残滓が、微かに感じられた。銭に、心が動かされたと見える。さすがは、忍だ。

「……仕方あるまい。二十日を過ぎると、南北の敵が一斉攻撃を懸ける手筈になっておる。気を付けられよ」

 痺れを切らせていたのは、敵も同じであった。そろそろ雌雄を決しようとしている。

「わかった。それだけか、他には?」

「余計かもしれぬが、足元を掬われぬように。早う、以前の御屋形様にお戻りなされい」

「足元を……。それは何を指しておる?」

 長慶の問いは、天井裏の闇には届かなかった。既に、外に出たようである。

   18

 岸和田城を遠巻きにしていた軍勢が、闇に紛れて移動していた。城外に出している忍からの報告である。

 冬康は真暗な闇を凝視していた。が、さすがに何もわからぬ。城から見えるのは、厳重に包囲している敵の篝火だけである。

 長慶の忍から、繋ぎがあった。明日の二十四日に、敵は京と和泉で大攻勢を仕掛けてくる計画だ。久米田陣の義賢にも当然に報告が行っておるので、備えはしておるだろう。

 事態は予断を許さぬ。どちらの戦線も、三好方の軍勢のほうが少なかった。

 もちろん、畿内九か国に勢力を及ぼす長慶であれば、さらに大軍を集められる。いや、長慶自身が飯盛城から出馬すれば、敵を圧倒的できるはずだ。

 しかし、長慶は動かず、飯盛に鎮座したままであった。

 報告では、長慶は軍議にもあまり出ず、下屋敷に引き籠もっていた。日々を、連歌や茶道で暮らしている。

 ――兄者は、どうなされたのか。

 冬康は、長慶が心配であった。が、まずは目前の戦を凌がねば、外にも出られぬ。

 夜明けとともに、喊声が上がった。敵が、久米田寺に殺到し始めている。薄らと霜で灰色に染まっていた田畑も、すぐに土色に戻った。

 東の天野山の峰から、柔い冬の陽が、ゆっくりと顔を出した。乾いた、冷たい風が、辺りをそよぎ、木々を揺らしている。

 半里先で繰り広げられている戦の成り行きを、じっと見守っていた。

 膨大な数の鉄砲が発射される音が響き、合間には鬨の声が木霊した。空中に蠢いておるのは、弓矢であろう。

 味方が押され気味のようだ。義賢も、急ごしらえで竹束、楯などを手配したようだが、何分にも根来衆の鉄砲は多かった。むろん、射撃の精度も高いので、苦戦を強いられている。

「我らも、囲みを破るつもりで仕掛ける。仕度せい」

 冬康は、少しでも敵の背後を脅かしたかった。城に籠ったまま、高見の見物を続けてはおられぬ。

「御屋形様。なれど、鉄砲が狙い撃ってきます」

「構わぬ。我らだけ、無傷では済まされぬわ」

 冬康は、自ら外堀前で指揮を執った。が、待ち構えている敵の目を掻い潜るのは、なかなかに難しい。

 外堀を挟んでの銃撃、弓の射合いとなった。橋桁を下ろして押し出すには、あまりに犠牲が大きくなる。また、反対に敵に城内に攻め込まれる恐れがあった。

「外から崩すか、敵の陣形が変わらぬ限り、破れんな」

 やはり、自力で囲みを破るのは、難しい……。冬康は、完全に行き詰っていた。

「此処は、実休様に踏ん張って頂きましょう。追って、御屋形様からの追加の援軍もありましょうほどに」

 之正も、苦い顔をして、敵の囲みを眺めていた。 

 朝陽が映った外堀は、なかなかに風情があった。が、漂う硝煙の匂いが、血生臭い戦場を忘れさせてはくれぬ。

   19

 再び、戦線が膠着していた。昨年の霜月の敵の大攻勢では、義賢の阿波勢に多くの戦死者が出ている。陣を退いてはおらぬが、局地戦では負けていた。

 一方、京の戦線は逆に、多くの六角勢を討ち取った。六角義賢自らが、神楽岡(後世の京都市左京区吉田神楽岡町)まで出張ってきたが、追い返している。

 長慶からの忍が城に入ったは、永禄五年(一五六二年)も如月に入ってからだ。

 忍は、濠の水中を、波も立てずに潜り渡ってきていた。春とは申せ、水は、痺れるような冷たさである。忍の肉体の強靭さは、常人には想像がつかぬ。

 それまでに、久米田からの繋ぎも来ていたので、だいたいの戦況は掴んでいた。が、忍の報告に、冬康は驚かされている。

 今や、京の三好軍の指揮を久秀が執っていた。嫡子の義興がいるのに、である。

 さらには、久秀は昨年末に、お里を正室に迎えていた。

「御屋形様は、我らにご相談なく、お許しになられたのか!」

 忍に憤っても詮無いとは思うた。が、口を突いて言葉が出た。

 握り締めた手の平に、爪が食い込んでいた。拳を、床に叩き付けたいほどの衝動が湧き起っている。

「皆様にご相談するにも、戦の真っ只中でござる。御配慮なされたのかと……」

 全く感情の込もらぬ声だ。報告する、という己の仕事に忠実であった。腕も立つだろう。

 柿色の忍装束で、立膝を着いていた。行灯の炎で、細く、狐のような目が照らされている。

「戦の最中だからこそ、婚儀など控えるべきではあるまいか」

 居間に、重臣たちを集めていた。忍が入ってきた時刻なので、当然に真夜中である。

「実休様も、お怒りになられてございましょうな」

 之正が、話に入ってきた。冬康の怒りを鎮め、皆で議論を尽くそうという意図だ。

「実休様だけで済むまい。日向守様、笑岩様らの怒りの様が目に映るようだ。そればかりではない。他にも、不満を持つ家臣は、決して少なくはあるまい」

 康長は、出家して笑岩を名乗っていた。

 ――家中が分裂する恐れがある。

 冬康は、久秀の力の増大も気になっていた。が、久秀の出世に不満を持つ、他の家臣の動向のほうを、より危惧している。

 今の戦が済めば、長慶と一度、腹を割って話し合わねばならぬ。

 籠城してから、七か月を超えていた。いくら冬康らが鼓舞しようとも、兵たちの士気の低下は防ぎようがない。

 もちろん、敵の士気も落ちているはず、と思っていた。

 弥生五日。再び、敵が大攻勢に出てきた。

 昨年と同じく、夜明けとともに、久米田に向かって敵が殺到した。

「敵の勢いが、前回よりも強いな」

 冬康は本丸の居間を開け放ち、様子を眺めていた。

 いつ何時に戦況が変わるやもしれぬので、重臣たちを控えさせていた。

   19

「と、殿! いけませぬぞ」

 傍らの之正が、珍しく取り乱していた。額が、滲んだ汗で黒光りしている。

 久米田の陣に襲い掛かった敵が、じりじりと味方を押していた。味方の陣が、楔を打ち込まれたように窪んでいっている。

 一旦は味方が押し戻すかに思えたのだが、再び、押され気味になっていた。

「いかん、実休様の本陣が空いておる。敵に、本陣を突かれるぞ」

 形勢が不利な味方の後詰に三階菱の旗印が動いたため、義賢の本陣ががら空きになっていた。動いたのは、長逸か康長であろう。

 そこで、一際ぐわんと高い喊声が上がり始めた。敵が、義賢の本陣への総攻撃を開始したのだ。

 黒具足の塊を、僧兵の多く混じった軍が断ち割っていく。

 轟音、轟音。間断なく、鉄砲の音が響いた。

 ――このままでは、味方が総崩れになる。

「総介! 急ぎ、皆に出陣の支度をさせよ」

「御意。密かに忍を出して、港に船の用意をさせまするか」

 之正も、味方が総崩れになった場合を考えていた。義賢の陣が崩れれば、冬康の寡兵のみでは、和泉を保持できぬ。

「出しておけ。味方が戻すようであれば、背後から敵を突く構えを見せる」

 反対に、味方が総崩れとなれば、どれだけの犠牲を払っても、逃げるしか道がなかった。

 之正が触れ回り、城内が急に慌ただしくなった。各々の曲輪内では、軍勢が隊列を整え始めている。

 義賢の本陣の危急を救うため、久米田に展開している味方の軍勢も、本陣に駆け付け出した。もはや、敵味方が入り乱れての死闘の様相を呈している。

「うぬ……。味方が崩れたぞ! 皆の者、これより全軍、決死の覚悟で城から落ちる。まずは、地蔵浜に向かい、船に乗り込む。船に乗れぬ者は、死ぬ気で堺まで駆け続けよ。堺に入れば、三好家中の者は匿ってもらえる。皆、急げ!」

 久米田の味方が総崩れになった状況を確認した。蟻の子を散らすように、味方の軍勢が四方八方に散り散りに逃げ始めている。

 一瞬、義賢、長逸、康長らの身を案じた。が、冬康とて、無事に逃げ切れるかどうかはわからぬ。

 濠に橋桁を下ろし、遮二無二、進軍を開始した。全軍が死兵となり、何が何でも道を切り開かねばならぬ。

 狙い澄ましたような銃撃が、味方の足軽たちをバタバタと倒していく。橋桁の上が赤く染まり、屍が積み重なる。

 が、此方は死の物狂いであった。倒されても倒されても、味方の屍を乗り越えて進むしかない。

 先鋒の犠牲は甚大にはなったが、冬康らは城を抜けた。田畑を揉み潰すようにして、港に向かって急いでいる。

 轟音。背後で、幾人かの味方が倒れた。振り返らずに、馬の尻を鞭で叩く。

 味方の兵を失うのは辛い。が、今は、味方が倒されると、敵が足止めされて、時間稼ぎになった。

 ――生き延びねば、再起はない。

 非情だが、それが戦であった。

 敵の追撃が、間近に迫っていた。二町もないくらいの距離である。

「殿、儂は堺に向かいまする」

 並んできた之正が、声を張った。冬康を逃がすため、敵の目を晦ませる囮になろうとしている。

「いかん総介。お主は、儂と共に来てくれ。死んではならぬ」

 堺までの道のりは長い。どこまでも、敵の追撃を躱し切れるものではなかった。

「フフ、ご安心なされ。儂はまだ、死にませぬ」

 之正は薄く笑うと、馬首を北に向けた。之正の軍勢が、後を続いていく。

「待て、総介! 行くな」

 冬康の呼び掛けは、馬の蹄の音に掻き消された。遠ざかっていく之正の背は、いつまでも大きく見えた。

   20

 冬康は、淡路に戻っていた。地蔵浜から海路を、命からがら逃げ延びてきている。

 しかし、多くの家臣を置き去りにし、死なせていた。之正の消息も、まだわからぬ。

 堺に逃げ込んだり、上手く落ち延びた者が、一人でも多くいる状況を、祈るしかない。

 義賢が、死んだ。久米田で味方が総崩れとなった原因は、義賢の討死がきっかけである。

 昨年の一存に続いて、次兄の義賢までが身罷った。

 義賢は己の本陣が手薄になった時、「大将が、戦場で退けるものか」と、頑として動こうとはしなかったようだ。そのために判断が遅れ、根来衆の鉄砲に斃れている。

『草枯らす霜また今朝の日に消へて、報ひのほどは終に免れず』と、辞世を残していた。『報ひ』とは、恐らく、細川持隆を弑逆した一件であろう。

 義賢は終生、己の過ちを気に病んでいた。辞世にまで詠むとは、出家までしても、今生で心は救われておらぬ。

 また、命懸けで大将の心構えを周囲に説いた心情には、長慶への諌めもあったと思う。 

 戦時中にもかかわらず総大将が城に籠り切り、連歌や茶に明け暮れるなど、武門にあるまじき状況であった。

 義賢戦死の日も、長慶は下屋敷で連歌会を催していた。里村紹巴・谷宗養らといった、当代一級の連歌師たちを招いて、である。

 義賢の死の知らせを受けてなお、会の終了までは歌を詠み続けていた、と聞いた。

 弟の死にも動じずに歌を詠み続けた長慶は、一流の風流人と噂された。風流人を気取る京の公家共も、長慶の所作を礼賛していた。

 もっとも、冬康にはそうは思えぬ。

 誰よりも兄弟想いであった長慶が、何たる様か、と思った。あの優しかった長慶を、いったい何が変えてしまったか。

 冬康は憤りを通り越し、たとえようのない悲しみに包まれた。二人の兄弟を失くし、敬愛して止まぬ長兄とは、もはや心が通じ合えぬのだろうか。

 が、嘆いている暇はなかった。畿内の戦は続いている。

 和泉・南河内の三好軍は駆逐され、畠山高政らに奪われていた。

 また、三好勢が久米田で敗れた影響は、京にも及んでいた。

 義興らは、義輝を伴って都の西南は勝竜寺城(後世の京都府長岡京市)まで退き、弥生六日には、六角勢に洛中を占拠されていた。

   21

 長慶は、下屋敷の庭から眼下の高政勢を眺めていた。軍馬が犇めく中に、薙刀や鉄砲を手にし、頭巾を被った僧兵どもの姿もある。

 あの鉄砲に、義賢は殺された。

 ――いや、儂が殺したようなものかもしれぬ。

 総大将の長慶が戦線に出ておれば、よもや、久米田で負けはしなかった。根来衆の鉄砲に、阿波勢が崩れたと聞いた。

 時折、敵方と銃撃戦になっていた。が、飯盛に残しておる長慶の鉄砲隊は、二百挺を数える。根来衆の鉄砲は三百挺を超えていたが、山裾から這い上がってくる寄せ手であった。城壁の陰から狙い澄ましている味方の二百挺の、敵ではない。

 弥生も二十日になっていた。

 南河内と和泉を手に入れた高政と根来衆は、勢いを駆って飯盛城下に迫り、包囲をした。その数、約三万に上っている。久米田の勝利に便乗して、敵は数も増やしていた。

 対する長慶の中軍は一万であった。久米田で散り散りになった淡路・四国勢らは、まだ立ち直っておらぬ。京は、睨みあったままだ。籠城するしか、方法がなかった。

 しかし、何も心配はない。兵糧も弾薬もたっぷり用意していた。山全体を巨大な要塞にした難航不落の城である。高政らなどに、落とされるものではなかった。

 戦の指揮は、完全に任せ切っていた。時折、重臣が戦況報告に訪れる他は、長慶の暮らしは静かなものである。

 ――義賢の弔い合戦は、してやらねばならぬ。

 相変わらず、何をするにも気力が湧かなかった。本来ならば、高政風情に城を囲まれただけで業腹ものであるはずだ。けれども、それほど腹も立っておらぬ。

 ただ、義賢を失った悲しみは、ひしひしと感じていた。それ故に、弔い合戦で一人でも多くの敵を討って、義賢の霊を慰めてやらねば、と思っている。

 いつの間にやら、戦を楽しめなくなり、義務になっていた。

「殿。新介殿が参っておりまする」

 富美が、縁側に顔を出した。

「わかった。居間に通せ」

 松山影道は、譜代の侍大将であった。今は、飯盛城防衛の指揮を任せている将の一人である。

 長慶が縁側に上がると、ちょうど影道が姿を現し、下座で両手を着いた。

「弾正少弼様からの忍が、本丸に参っておりまする。御屋形様に、御目通りを願うておりますが」

「要件は聞いたか」

「はっ、どうやら弾正少弼様は、畿内・四国の三好軍に対する指揮権を、お望みの様子にござる。我ら飯盛城救援の後詰のため、という名目で」

 影道は、露骨に顔を顰めた。少し前に突き出た口元が、不満そうである。影道も、久秀をよくは思っていないのだろう。

「新介。弾正少弼の忍に、良きに計らえ、と申しておけ。その代わり、早よう高政らの後ろを衝け、と弾正少弼に命ずるように」

 畿内の戦を、考える気力も失せていた。誰かがやってくれるのであれば、任せたい。

「恐れながら、筑前守様、日向守様、摂津守様、備前守様らは如何思われましょうか」

 影道が、食い下がってきた。膝で、にじり寄らんばかりの勢いである。 

「新介。お主の意見を求めてはおらぬ。伝えよ、と命じただけだ。もう下がれ」

 長慶は、再び一人で庭に出た。富美の視線を、背に感じる。が、誰とも話す気が起らなかった。

   22

 冬康の下を、康長が訪れていた。久米田の戦後、長逸は山城の南領地に逃げ帰り、康長は、篠原長房などと一緒に阿波に渡っていた。

「笑岩様、御無事で何よりでした。日向守様も、御領地に辿り着かれたのですな。兄に続いてお二人まで失くしては、三好家の屋台骨が揺るぎかねませぬ」

「いやいや。それにしても、実休殿は残念にござった。我らの救援が間に合わず、真に済まぬ。が、拘わられずに退いておれば、討たれずに済んだと思うのだが……」

 康長が、具足の袖を揺らした。出家して兜は止め、頭巾を被るようになっている。

 卯月は十日になっていた。

 港から丘を這い上がってくる海風が、暖かかった。潮の匂いが、初夏を乗せてくる。

 四方を開け放った居間の東には、真っ青な水面が見渡せた。庭の緑も映え、生命力に満ちている。

「兄は、武人としての生き様を全うしたのだと思います。して、摂津の首尾は如何にございましたか」

 康長は、飯盛城で敵に囲まれている長慶を救うべく、畿内と四国勢の味方の連携のために動いていた。長年に亘って四国を統治してきた義賢が戦死した今、康長の役割は非常に大きいものとなっている。 

「……予定通り、皐月の初めには四国・淡路勢が摂津に上陸して、畿内の諸将と合流する手筈じゃ。京に筑前守殿が残られても、総勢二万は超える次第となろう」

 ふと、康長の表情が曇った。鼻の頭を触り、何やら思案している。

「何か、懸念がござるか」

「隠しても仕方のない仕儀だから、申そう。軍議が、険悪になってのう。というのも、飯盛の後詰軍の総指揮を、弾正少弼殿が執るからだ」

「えっ、なぜにござる。御屋形様がお許しになられたのでしょうか」

 嫡子義興、一族の長老とも言うべき長逸、目前の康長、長慶の弟である冬康。少なくとも、義康と長逸を、久秀の下に置くとは思えなかった。

「それが、御屋形様がお許しになられたようだ。日向守様は、弾正少弼殿の下で働く状況に、お怒りになられてな。にもかかわらず、御屋形様のお許しを得た事実を傘に着て、弾正少弼めが傲岸に振舞いよって! 後味悪く、摂津港を後にして参った」

 康長が、吐き捨てた。港から淡路までの航海中、ずっと怒りを溜め込んできた様子である。

「……信じられませぬな。笑岩様、近頃の御屋形様は、いったいどうされたのでしょう。どうも、以前と違うような気が致します」

 冬康も、抱え込んでいた悩みを口に出した。思慮深いはずの長慶が、内乱の種を蒔いておるとしか思えぬ。

「摂津守殿、お主も感じられておったか。儂も、近頃の御屋形様の様子は変だ、と思っている」

 康長が、蓄えた髭を顰め、首を傾げた。 

   23

 皐月の初めに、冬康は港を発った。皐月三日までに、三宅城下に軍勢が集まる予定である。

 久秀から文が届いた。長慶から命じられて指揮を執っている、と書かれていた。が、久秀自身の花押のみが記され、冬康に対して馳せ参じるように命じている。

 さすがに、心がざわついた。冬康は、長慶に終生の忠誠を誓っているが、久秀に仕えた覚えは、毛頭ない。

 しかし、今は何より飯盛城の救援が先決であった。敵の囲みを破らねば、長慶に会う機会すら作れぬ。

 安宅船の舳先で、播磨の山々を眺めていた。まだ梅雨に入っておらぬので、空は澄んだ青色で、陽は燦々と輝いている。

 艪を漕ぐ度におこる掛け声の他は、風に撫でられた水音が、耳に入ってくるのみであった。遠くの波頭の先に、商船の群が見えている。

 背後に気配がないのが、どうも落ち着かなかった。冬康の周囲の一間ほどには、皆が気を遣って寄り付かぬ。

 戦の作戦を考えておるか、物思いに耽っておる、と見られておろう。このような時、いつもなら背後から、之正が忍び寄って声を掛けてきた。

 之正の抜けた穴が、冬康の心に、ぽっかりと空いていた。

 冬康が誰かに話をしたい時や思い悩んでおる時に、之正はいつも気づいた。

 ――存在の大きさに、改めて気づかされる。

 いつも傍にいるはずの者が、突然おらんようになる。戦国の習いとは申せ、人の命を奪い、奪われるのは、真に罪深い行いだ。義賢が出家した気持ちも、わからぬではなかった。

 西宮に上陸し、尼崎から神崎川に沿って三宅城に向かう。

「五郎右衛門。関船をいくらか、堺に回しておけ。もしもの時に備えてな」

 敗れた場合も想定しておかねばならぬ。堺に船を舫いでおけば、いざという時に、どこにでも回せる。

「畏まってござる。手配致します故、後から追いつきます」

 船越景直が、溌剌とした動きで応じた。安宅水軍の、若き侍大将である。

 能面のような目に、大きな耳が特徴的な男だ。大きな耳が役だっておるのか、風を感じて波の動きを予測するのを得意にしている。齢は二十であった。

 安宅水軍にも、若手が育ってきていた。冬康は三十四歳になっている。そろそろ、後の状況を考えようと思っていた。

 一存、義賢と身罷った。己だけが、いつまでも生があるとは限らぬ。

 故に、此度は嫡子の信康を連れてきていた。初陣である。齢十三であるが、冬康や長慶が戦に出た年齢を考えると、決して早くはない。

 炬口港を出る時の、信子の不安げな顔が、瞼の裏にまざまざと残っていた。初めて出会った頃、水軍の調練に出ていた女子の影は、すっかり鳴りを潜めている。今は、どこから眺めても、母親でしかなかった。

 信康には、将たる前に、部下たちに馴染むよう命じていた。兵の心を掴まねば、よい指揮は執れぬ。

 特に水軍は、陸とは違い、軍勢の結束の強弱が、操船の巧みさに大きく影響した。

   24

 三宅城の南西は二里ほどの場所、榎坂(後世の大阪府吹田市江坂町)に差し掛かった。見渡す限りの田園の中に、ぽつぽつと民家が点在している、小さな村である。

 冬康の軍勢が通る頃合いを予測しておったのか。辻に百姓の姿はなく、具足の一団が、前方に整然と立ち並んでいた。

 敵の勢力圏ではないため、よもや敵ではないだろう。が、念のために、物見を数騎、走らせた。砂煙を上げて、馬の尻が遠ざかっていく。

 戻ってきた物見の報告を聞いた冬康は、喜び勇んで、馬を走らせた。

「総介。よくぞ、無事に戻った」

 並んだ兵の中央から、之正が一歩前に出てきた。幾分か、肩が小さくなったように見える。

「殿、お久しぶりでございます。別れ際に、死にませぬ、と申し上げたはず」

 之正の目尻の皺が、深くなった。

 冬康は鐙を蹴り、之正に駆け寄った。がっしりと掴んだ之正の肩が、微かに震えている。

 冬康も、しばし言葉を失い、呻き声だけが口から出た。諸将の見ている前で、おいおいと泣いて再会する訳にもいかぬ。

 之正は久米田から堺に落ちる途中で、敵の追撃を受けた。何とか逃げ延びたが、手傷を負って、動きがままならなくなった。故に、数人の側近たちと共に、しばらく山中に潜んでおったらしい。

 その後に堺に入り、冬康の摂津出陣を聞きつけた。同じく堺に逃げ込んでいた味方衆を糾合して、馳せ参じている。

「なぜ、三宅城で待たなかった。三宅城下に三好軍が集まる情報は、諸国に流れておっただろう」

 通るか不確実な街道を選ぶより、集合地の三宅城で待つほうが、よほどに確実であった。

「それについては、儂から話そう」

 脇から、康長が顔を出した。薄茶色の頭巾を載せ、髭には白い物が混じっている。首から上だけを見ると、全くの好々爺であった。

 しかし、話の内容は穏やかではなかった。

「戦に紛れて、弾正少弼を討とうと思う。日向守殿も、既にご賛同なされておる。後は、お主の意見を聞いておきたい。お主も協力してくれれば、百人力だ。摂津守殿よ、三好家の行く末のために、力を合わせてはくれぬか」

 民家の一室を借りての、秘密談義であった。

「殿。儂も、笑岩様や日向守様に賛成にござる。今もそうですが、このままでは弾正少弼が、三好家を思うがままにする恐れがあります。殿の生き様にそぐわぬ策なのは、重々承知。故に、儂がお二方と協力して、策を進めましょう。三好家のために、是非ともお願い申し上げる」

 之正は康長の策に賛同して、此処で待っておったのだ。冬康をも、説き伏せるために。

 以前、一存や義賢が久秀を暗殺しようとした時、冬康は賛成をしなかった。その時は、長慶に話せばわかって貰える、と信じていたからだ。

 ――今は……。長慶と話合っても、正直、自信がなかった。

   25

 待ち構えている根来衆の鉄砲をどう防ぐかが、軍議の主題に上がっていた。飯盛城の味方との挟み撃ちではあったが、最初に敵に攻め懸かるのは、後詰の援軍である。

 三宅城の居間であった。大勢が詰めているため、蒸し風呂のように暑い。

 長慶の嫡子義興が、上座に据えられていた。が、終始ずっと主導権を握っているのは、久秀である。

「敵の鉄砲の威力を削ぐが肝要にござる。故に、梅雨に入る頃合いを待って、軍勢を南に進める。宜しいな、皆様方」

 久秀が、諸将を見渡した。諸将に対しての主君然とした物言いに、幾人もの将が顔を歪めて怒りを呑み込んでいる。久秀が長慶から指揮権を預かっていなければ、間違いなく口論となったであろう。

 久秀自身は、気づいておるのか、おらぬのか。一向に、気にしていない様子であった。

 ――いや、気づいていて、皆を怒らせて観察しておるのやもしれぬ。

 平然と佇んでいる久秀からは、妙な余裕が感じられた。冬康には、読めぬ型の男である。

 皐月も半ばとなった。

 梅雨に入ってから降り続いていた雨が、ぴたっと、息を潜めるように止んだ。故に、すぐさま全軍での渡河を、決断している。

 冬康は、久秀の慎重さに驚いていた。

 すぐさま渡河を決行したい気を抑えて、久秀は多くの物見を出した。索敵のためである。

 渡河中や、対岸で襲撃を受けては、防ぎようがなかった。まして、根来衆の鉄砲などが伏せてあれば、恰好の的となる。

 逸る心を抑えての慎重さに、久秀の恐ろしさを感じた。この男は、滅多な状況では隙を見せぬのではないか、と。

 馬には枚をふくませ、湿った草を踏み分けながら、川に入った。

 淀川の川幅は、流れの細い場所でさえ、かなりのものだ。当然、水が深くなる場所は、船も使った。

「殿、それでは」

 渡河を済ませ、しばらく南に進んだ頃合いであった。鶴見の林を抜ける途中で、之正が隣に並んで声を投げて来た。

 ちょうど、林道には冬康の軍勢しかおらぬ。之正は数騎の供を連れ、林の中に逸れ入っていく。

 冬康は、軽く頷いた。言外に、くれぐれも気を付けるよう、目で訴えている。久秀の慎重な性格は、恐らくはあらゆる方面に及んでいよう。

 之正も、心得た、とばかりに視線を返してきた。

 他の兵たちに怪しまれてもいかん。物見か、どこぞに使者に立つ態で、之正たちは去って行った。

 久秀暗殺の計画は、気は進まぬが黙認した。武士の有りようとしては承服しかねたが、三好家の行末を考えると、何とも反対できなかった。このまま久秀を放っておく危険を、心の中で恐れているためだ。また、一存の最期に関する不審も、拭えてはおらぬ。

 之正は三宅城に着く前に、忍の手配を済ませていた。先回りさせた忍たちの後を追いながら、指示を送る算段である。

 慎重に事を進める必要があった。絶対に、露見させてはならぬ。でなければ、冬康がもっとも恐れる、家中の分裂が起きる。

 下手をすれば長慶自身が、冬康や康長など親族衆を処罰しようとするかもしれなかった。

 之正も理解していた。もし仕損じても、己の命を捨てて、証拠を残さぬように配慮するだろう。

 冬康ら後詰の三好勢は、教興寺(後世の大阪府八尾市教興寺)に陣を敷いた。北の飯盛城と、南の高屋城の、ちょうど中間に位置する。

「河内守は、さぞ驚いておりましょうな」

 斜め向かいに席を取った久秀が、意地の悪い目つきをした。目尻に、得意気な笑みを浮かべている。笑うと、老人のように皺が寄る。

 本堂に張られた陣幕の中で、諸将が集まっていた。しとしとと、雨が境内を濡らす音が聞こえている。

 昼間だが、本堂内は暗かった。急ぎ用意された行灯が数個、点在しているのみだ。

「敵は、退路を断たれた格好となる。此方の狙いを読まれずに陣を敷けたのは、確かに上々だ」

 長逸が、不機嫌そうに応じた。策を提案したのが久秀であったので、あまり認めたくないからだ。

「問題は、いつ仕掛けるか、だ。陣を敷いただけで、勝ち誇って貰うては困る」

 康長も、長逸を援護するように、得意げな久秀を抑えようとした。

   26

「各々方、仕掛ける時機につきましても、儂に策がござるぞ。まずは、お聞きくだされ。宜しゅうございまするな、筑前守様」

 久秀が諸将を見渡しながら、ゆっくりと立ち上がった。上座の義興に確認を取ったところを見ると、義興には策を提案していたのだろう。

「此処に、筑前守様がお書きになった文がござる。宛名は、左近と新次郎」

 久秀が掲げた文には、義興の直筆の署名があった。父の長慶に似て、達筆だ。

 義興は、父・長慶の才の多くを、受け継いでいた、行く末が、本当に楽しみな武将であった。

「今更、左近らに投降を勧めるのか。果たして、応じましょうや」

 康長が、不満の声を鳴らした。久秀の策は気に食わぬが、賛同したと思われる義興を批判するわけにはいかぬので、語尾が弱弱しい。

「さにあらず。寝返りなど、もちろん期待しませぬよ。この文を河内守の陣に送り、左近らとの離間を図るのでござる」

 久秀が、皮肉な笑みを浮かべ、康長に視線を投げた。まるで康長を、鼻で笑っているような表情である。

「河内守も、馬鹿ではないわ! そのような子供騙しの策に、おめおめ掛かるものか。あっ、いや……」

 朱を浮かべた康長が、ハッと、義興の表情を窺った。すっかり、久秀の挑発に載せられている。

 義興は、泰然自若としていた。居合わせた諸将が皆、正しく大将の器だ、と思ったであろう。

「儂も弾正少弼より具申があった時、そう簡単にはいかぬ、と思った。が、やってみる価値は、あるのではないか。左近と河内守は、一度は袂を分かっておる。挟撃を受ける可能性が高まり、敵陣営に疑心暗鬼が生ずる可能性は、十分にあろう」

 義興の落ち着いた物言いに、誰もが口をつぐんだ。成長した義興の存在感が、家中で日に日に大きくなっている。

 ――案外、将来の三好家は、義興様が重しとなり、久秀の好きにはできぬやもしれぬ。

 齢二十の頼もしい若武者の横顔は、精気に溢れていた。

 ふっと、久秀に視線を向けた。久秀は、苦虫を噛み潰したような顔つきになっている。

 ――とても、主君の嫡子に向ける顔には見えぬ。

 冬康の視線に気づいたのか、久秀の鋭い一瞥が飛んで来た。すぐに、頬を緩ませている。

 なぜ、久秀が笑ったのかわからぬ。が、冬康には、不気味な感情を包み隠しているように見えた。

   27

 時の勢いに乗った者は、何をやっても上手く行く。久秀の策が、当たったようだ。

 義興の文を、わざと高政陣営の手に入るように仕向けた。が、しばらく高政陣営に動きはなかった。

 見破られたのだろう、と思っていたところ、突如、高政旗下の丹下ら諸将が、飯盛城包囲を放棄して、南下を始めた。

 仔細はわからぬ。が、動きのなかった高政の軍勢も、後に続き出した。包囲の一角が崩れた状況で、留まっても挟み撃ちを食うだけである。

 紀州勢が撤退して、根来衆だけが残る訳にはいかぬ。当然、高政の尻を追っかけてきている。

 皐月は十八日の深夜であった。続々と、物見からの報告が入っている。

 教興寺の陣内は、俄かに慌しくなっていた。南下を始めた紀州・根来衆らを、待ち伏せする手筈を整えていた。恐らくは、明け方頃には遭遇する。

 義興の本陣を背後に、久秀、冬康、長逸、康長の軍勢が翼を広げるように布陣していた。冬康らの軍勢は、街道の脇の繁みを楯にして展開している。

 久秀の兵はそこかしこに伏せ、敵の意表を突き、攪乱させる手筈になっていた。

「五郎右衛門。皆に兵糧を使わせよ。十分に、体を休めておくように申してな。決戦は、明朝、寅の刻頃になろう。実休様の無念を、今こそ晴らすのじゃ」

「ははっ、仰せのままに」

 景直が、陣中に冬康の指示を伝えて回った。

 真暗な闇空から、絶え間なく小雨が降り続いていた。具足が水を含んで重くなっている。

 しかし、根来衆の鉄砲の威力を半減させて戦える状況は大きい。此処でも、久秀の狙いが的中していた。

 ――認めぬ訳にはいかぬ。

 久秀の指揮官としての技量を、である。有能なだけに、何とも失うのが惜しい気もした。

 が、もはや之正は止められぬ。

 冬康は、これだけ好条件の揃った今は、戦への勝利を疑っていなかった。頭の大部分を占めているのは、之正が事を成し遂げられるか、である。

 どこか、後ろめたさも引き摺っていた。冬康だけでなく、康長や長逸も、同じ気持ちで闇を見詰めているに違いなかった。

   28

 薄暗い闇が微かに白み始めた頃、右翼に展開していた長逸の陣で、銃声が起こった。続いて、戦闘の開始を知らせる法螺貝が鳴り響く。

 それを契機として、続々と、喊声が波のように沸き起こり始めた。

「先に、銃声が起こりましたな」

 景直が、隣で呟いた。未だ視界が晴れぬ右の方角を、窺っている。

「出合い頭に遭遇したのであろう。たまたま敵とばったりと遭い、互いに驚いて撃ち合ったのやもしれぬ。大方、服部川から立ち昇る靄で、前が見え難かったに違いあるまい」

 霧のような小雨も、戦場の空を覆っていた。

「儂らも、そろそろ敵とぶつかるぞ! 皆の者、油断するでない」

 声を張り上げた冬康に、「おう」と、安宅衆が答えた。

「前方に、敵が現れました。侍と僧兵の混合でござる」

 物見の報告が終わらぬうちに、銃声が飛んできた。敵が、先手を取って発砲を撃ち始めている。

「敵を、なるべく引きつけてから撃て! 弓は、鉄砲隊の背後から、ひたすら射続けよ。くれぐれも、楯や物陰からは出ぬようにな」

 射撃の技量は遥かに敵が優る。故に、敵より短い距離で撃つしかなかった。

 時が経つに連れて、空が明るくなってきた。小雨もいつの間にやら止み、敵味方の姿が、戦場に浮かび上がっている。

 轟音や矢が風を切る音が、間断なく続いていた。もはや右翼と冬康の陣だけでなく、周囲に展開している軍勢全てが、臨戦状態に入っている。

「前の敵は、湯川勢と雑賀衆にござる。やはり、射撃の腕は、敵が上です」

 敵の正確な射撃が、味方の楯を鳴らしていた。鉄砲足軽たちが、亀のように縮こまっている。

 弓隊が気勢を上げて頑張ってはいた。が、前面の掛け合いは、明らかに劣勢である。

 じりじりと、敵が圧してくる。頼みの雨も、止んだままであった。

 と、その時、一際ぐんと大きい喊声が、敵の背後で上がった。

 敵の陣形が崩れ始めた。背後から攻め込まれている。

 久秀の伏兵であった。教興寺周辺には、小さな湖沼が点在している。久秀は上手に、兵を隠して配していた。

「今だ、それ、押し返せ!」 

 冬康は、采を奮いつつ、己の槍を探した。

「殿、お控えくだされ。総介様より、きつく、申し付られておりまする」

 景直が膝を着き、首を横に振った。見上げ、向けられた瞳に、気の強さを感じる。

「十分に気を付けて、出るつもりだ」

「いけませぬ。実休様の例もあります故、どこから流れ弾が飛んで来ぬとも限りません。殿に万が一があれば、味方が総崩れになりますぞ」

 景直は、槍で突いても動かぬ態だ。

 景直の言はもっともであった。わかってはいたが、冬康の心は逸っている。

 双方が遠くから撃ち合っているだけでは、駄目だと思っていた。乱戦に持ち込み、戦場に歪みを作らねば、之正の出番は一切ないだろう。

 景直には、話せぬ内容であった。冬康は槍に伸ばした手を引き、床几に戻っている。

   29 

 久秀の伏兵が功を奏し、一旦は三好勢が押し気味になった。が、敵はすぐに息を吹き返し、猛攻に出ている。

 またもや、防戦一方になり掛けていた。

 敵は遮二無二、前に進んでくる。畿内中の火薬を使い切るのではあるまいか、と思わんばかりの射撃であった。靄は消えたが、硝煙が、戦場を覆うようになっている。

 敵の猛攻には、理由があった。背後から、飯盛城から追撃してきた長慶軍が迫っている。

 今頃は、高野街道をひた走っておる手筈であった。

 昼を過ぎていた。明るんでいた空に黒雲が棚引いたかと思うと、再び雨が降り出している。

 劣勢を跳ね返すべく、讃岐・阿波勢が敵の側面を突きに掛かった。

 ぬかるんだ土を具足に撥ねながら、敵味方が入り混じった。飛び道具をかなぐり捨て、各々が槍などの獲物を手にして、目前の敵に躍り掛かっている。

 当然に、安宅勢にも突撃を命じていた。冬康は、護衛に守られながら、馬上を前に進んでいる。

 長逸と康長の軍勢も、流れるように戦場を疾駆していた。

 血飛沫が雨に混じり、いくつもの血溜りを作っていた。倒れた兵の体を踏み越えながらの乱戦が、続いている。

 四半刻くらい経った頃、久秀・義興の軍も前面に押し出した。頃合良しと見て、勝負を懸けたのだ。久秀の采配は、確かに冴えている。

 敵の防壁を、一気に剥がしに懸かっていた。が、敵も、退けば全滅する状況をよく理解している。必死の抵抗を試みていた。

 紀州勢や僧兵たちは、味方の亡骸さえも盾にした。とても、御仏に仕える者とは思えぬ。

 しかし、背後で上がった鬨の声がした時に、敵の気力を根こそぎ断ち切った。飯盛からの援軍が、ついに到着した。

 どのような強兵であろうとも、挟撃を受け、味方が目の前でバタバタ倒れる様を見れば、冷静さを失う。畿内を震え上がらせる根来の僧兵たちも、算を乱した壊走を始めた。

「進め、進め! 河内守の首級を取れば、恩賞は思うがままじゃ」

 義賢の仇討ちであった。冬康も、逃げ去る敵の背中を、槍を持って追い掛けていく。傍らには、景直が護衛を引き連れて、ぴったりと離れぬ。

 敵勢は、山や繁みを目指して、駆けていた。味方の兵が手柄を競い、背後から槍を投げ、首を掻き切っていく。

 味方が通り過ぎた後の地には、多くの亡骸が残された。大将然とした具足の死骸は、決まって首から上がなかった。

 一方、味方の亡骸も、数多く戦場に横たわっていた。正しく、激戦である。

 戦は、完全なる追撃戦となっていた。目前を、手柄を追い掛けている、血走った味方が埋めている。

 と、久秀の大和勢が大和方面に向かっていた。軍勢は伸び切っており、最後尾から久秀が供を連れて、馬を駆けさせている。

 ――之正が動くなら、追撃戦の間しかない。

 長く伸び切った軍勢ならば、大将首を狙いやすい。

   30

「お味方の大勝利でござります。只今は逃げる敵を追撃中でござるが、日暮れには、一旦、兵を収める手筈となっておりまする」

 続々と、戦の報告が入っていた。居並んだ諸将の表情が、次第に明るくなっている。

 飯盛城の本丸の居間で、長慶は報告を聞いていた。本丸に来たのは、久しぶりである。

 義賢の敵討ちである旨を考えると、自ら出陣すべきであった。が、やはり気が乗らず、飯盛に残っている。

 その代わりと言えるかどうかわからぬが、飯盛にある鉄砲や火薬の多くを、軍勢に持たせた。根来僧に討たれた義賢を弔うため、ありったけの火力を、敵に喰らわす。

 久秀の策が、悉く当たったと聞く。久秀に指揮を執らせるのは、家中の批判が起こると予想していた。事実、久秀の指揮報告に、不満げな様子の武将もいる。が、長慶の見る目に狂いはなかった。

 義興が長慶の後を継げるほどの器量になるまで、久秀は良き補佐役となってくれるであろう。

 ――儂が第一線を離れられる日も、近いかもしれぬ。 

 嫡子の義興の器量に、疑いは持っていなかった。後は、良き方向に伸ばし、一人前の武将に育ててやるだけだ。

 畿内九か国を任せるに不足ない後継者を得られた状況は、真に幸運であった。

「戦が終われば、戦勝祝じゃ。皆の者、長らくの籠城、ご苦労であった。今宵は、ゆっくりと酒を酌み交わそうぞ」

 長慶は、上機嫌であった。鬱陶しい気分の日々が続いていたが、今夜は珍しく、家臣たちと酒を飲みたい、と思った。長らく家臣たちと語らおうとしなかったので、皆が、驚きの表情を浮かべている。

「民部少輔を始め、畠山譜代衆を五百以上、根来・紀伊勢も千は討ち取りましてござる。敵は、もはや軍勢の態をなさず、散り散りになって逃げ去りました」

 酒宴が始まっていた。小雨が降ったり止んだりの空模様であったが、居間は賑やかになっている。女房たちが、諸将に酌をして回っていた。

 高政の重臣である湯川直光の首級は、夜更けには届くようだ。ますます宴は盛り上がるであろう。

 日は、とっぷりと暮れ落ち、周囲には篝火が闇に浮かんでいた。酔い覚ましに窓の外を見渡せば、山全体に浮かび上がった篝火が、幻想的に目に映る。

「殿。此度の大勝利、真におめでとうございまする」

 富美が、長慶の盃に酒を注いだ。久しぶりに本丸に出た長慶を見て、ほっ、と安心している様子だ。

 富美には、心配を掛け続けていた。長慶が気鬱になってから、目尻の皺は増え、心なしか、頭に白い物も目立ってきたと思う。

「富美。あまり、顔色が冴えぬようだな。無理をせずに、早う休め」

「いいえ、勿体ない。久方ぶりに、こうして殿にお酌をして差し上げられるのですから。妾も、頂きまする」

 富美は上目遣いに微笑み、長慶が干した盃に、手を差し出した。笑みを浮かべてはいるが、頬は乾燥し、疲れているように見える。

 長慶は、富美の盃に酒を落とす。

「……ほどほどにして、奥に引っ込むがよい。それにしても、越水や芥川城におる頃は、よくこうやって、二人で酒を飲んだものよ」

 夫婦になった頃から、よく二人は語り合った。畿内に号令する長慶にとって、唯一、気の置けない友、と言ってよいかもしれぬ。

    31

「申し上げます。民部少輔の首級が届いてござる。それから……」

 直光の首級到着の一報に、広間全体が沸いた。直に刃を交えておらぬ居残りの将たちにとって、首検分だけが、血生臭い戦場の雰囲気を味わえる瞬間である。

 具足姿の使者が広間中央に進み出て、首桶を前に置いた。直光の首が、晒される。

 手を合わせる者、じっと、瞼を閉じた敗軍の将を見詰める者、皆の反応はいろいろだ。いつ、己が同じ目に遭わぬとも限らぬ。故に、首級を間近にして、嘲け、罵る者などおらぬ。

「場がざわめいたため、改めて申し上げます。弾正少弼様が巣山付近で鉄砲に撃たれ、負傷しましてござる」

 戦勝気分で緩んでいた諸将の表情が、一瞬にして止まった。皆が、長慶に視線を向けている。

「……詳しく、申せ」

 長慶が盃を置くと、諸将も倣った。膳部が、一斉に鳴っている。

「勝ち戦となり、全軍が追撃に移って、半刻後くらい経ってからでした。弾正少弼様の軍勢が巣山の林を抜けようとしたところ、背後で銃声が起きてござる」

「林に入る前に、物見が気づかなんだのか」

 影道が、咎めるように声を投げた。勝ち戦に、驕ったのではないか、と感じているのか。

「当然に。敵は、木の上から射撃して来ましたので、発見できませなんだ。逃げ去る際にも、足音を消していたようです」

「足音を消して……。忍の仕業か。とすれば、弾正少弼を狙っておったとも考えられる」

 足音をさせぬ、と聞いて思い浮かぶのは、忍であった。

「いえ、白頭巾の僧形であったと、聞いておりまする。根来衆の可能性が高いかと」

「根来の僧兵は、忍の術も心得おるのか。いやはや、仏道はどこへやら」

 影道が、呆れた表情で、首を振った。仏に仕える身で、戦などをすべきではない、と思っている。実直な男だ。

「して、傷の具合は如何なのじゃ。深いのか」

「何とも申せませぬ。儂が遣わされましたる時は、撃たれた直後にございました故。ですが、すぐさま手当てに入った模様です」

 使者は、頭を垂れた。これ以上は知らぬだろう。

「不可解な点は多い。が、後の報告で、徐々に明らかになるであろう。宴を、再開せよ」

 せっかく籠城から解放された皆を、労うために再開を命じた。

 長慶は一人、盃を口に含んだ。頭には、久秀の言葉が浮かんでいた。

『儂の命を狙う輩が、家中に多くいるためでござる。今まで幾度となく命を狙われ、時には手傷を負わされた機会もございました』 

   32

 水無月は一日になった。

「一人、心が逸り、面目次第もございませぬ」

 之正が深く頭を垂れていた。巨躯を折り曲げて、肩を震わせている。

 岸和田城の居間であった。教興寺での戦いで勝利した後、冬康は岸和田城の守りを命じられている。

 三好軍は、義興を総大将にして、河内・大和の完全制圧に乗り出していた。

 一方、京の戦線では、六角義賢が近江に退却して、長慶に和を請うている。

 教興寺で紀伊・根来衆を三好方が壊滅させた今となっては、近江勢など、敵ではなかった。直に、和睦が成立する見通しである。

 これで晴れて、三好家の危難は去った。が、冬康は、まだ落ち着けぬ。

 久秀は、思ったよりも軽傷であった。銃弾の一発が肩先を抉ったのみで、命には別状はない。

 それは、仕方がない。事が成るかどうかは、時の運だと考えている。

 それよりも、久秀の銃撃は味方の仕業である、と家中に噂が流れ出していた。

「いつまでも、気に病まずともよい。弾正少弼の運が勝っていただけだ。それよりも、よくぞ無事に戻った」

 之正たちは、慎重に時機を見極め、射撃に及んだ。が、一度目を仕損じた後が、続かなかった。

 二度目の射撃を試みていたら、久秀は討てたかもしれぬ。が、取り囲まれて、捕えられるか、殺されていたであろう。そうなれば、冬康や長逸らが背後におる状況が露見する恐れがあった。故に、之正の判断は間違っておらぬ。

「……奴の狙いは何かが、問題だ」

 噂の出所を突き止めようとして、忍を放った。忍からの報告では、噂は、久秀自身が流している。

 梅雨は明けたのか、晴間続きであった。暑さは、日に日に増している。

 西の海岸線は陽を浴びて、黄金色の波頭が垣間見えていた。戦が止んだからか、船の往来も盛んである。

   33

 水無月半ば、朝餉を済ませると同時に、飯盛城からの使者が到着した。すぐに、居間に通している。

 使者は、肩衣に半袴といった形であった。ドタドタと廊下を鳴らし、開け放たれた障子戸から顔を出した。

「……摂津守殿、上意にござる」

 使者の視線が、冬康の座している上座に向いた。懐手から、書状を取り出している。

 ハッ、とした冬康は、上座を使者に譲り、己は対面の下座に腰を降ろした。神妙な面持ちで、平伏する。

 使者は立ったまま胸を張り、長慶の書状を、一言一句違わずに読み始めた。

「教興寺の戦の際、弾正少弼への銃撃につき、不審な点あり。故に、旗下の者全てを早急に取り調べて、飯盛に報告せよ」  

「承ってござる。御屋形様に、宜しくお伝えくだされ」

 長慶からの命を、素直に受けた。少々、面を食らっているが、久秀の流した噂が長慶の耳に入っていたら、考えられる次第である。

 それにしても、いきなり上意での物言いとは、穏やかではない。

 ――飯盛で、何かあったか。 

 数日を掛けて、之正の物見が、飯盛付近を探ってきた。

「殿。どうやら、嫌疑が掛かっておる様子。日向守様や笑岩様が極秘に呼び出され、詮議を受ける手筈になっており申す」

 もちろん、久秀銃撃について、であった。申し訳なさげに伏目になった之正が、ぼつぼつと切り出した。

 表情に、無念が滲み出ている。

「御屋形様が、何か掴んだと申すか。と申しても、何も証拠などなかろう……」

 之正以下の全員が戻っていた。誰一人として口を割る者などおらぬ。また、冬康の配下にまで、長慶直々の詮議は及んでいなかった。

「切っ掛けは、弾正少弼の讒言かと思われまする。が、火薬の匂いが、根来衆が使うていたものより、味方が使用している物に近い、と噂を流されております。それについては、事実でございますれば」

 敵味方の使用する黒色火薬の配合に、微妙な違いがあったやもしれぬ。硝煙の匂いにも影響するのだろう。

「噂だけでは、証拠になるまい。嫌疑など、直に晴らせる」

 ハッ、と居間の天井を眺めた。

 冬康は今まで長慶に対して、決定的な証拠なしに、久秀の処罰を求めてきた。己の場合にのみ、証拠がない、と申し開きができようか。

   34

 長慶から、飯盛城への呼び出しの命を受けた。文月に入って、すぐの頃だ。

 用向きは、表立っては知らされておらぬ。が、久秀銃撃の詮議が理由なのは、間違いなかった。

 長逸と康長の二人は、堅く口を閉ざし切っていた。故に、事が露見する恐れは、何もない。

「戦勝の祝賀に呼ばれなんだ理由は、嫌疑が晴れておらんかったからじゃ。御前できっちりと、兄者の憂いを晴らしてこよう」

 皆を安心させようと、声を張り上げた。

 文月の九日に冬康が飯盛に出発すると聞いて、重臣たちが城に集まってきた。飯盛に行けば、久秀がどのような罠を仕掛けておるやもしれぬ、と心配している。

 日の本に誇れる、忠臣たちであった。

「殿。やはり、儂も連れて行ってくだされ。この通り、お頼み申す」 

 之正が、床に頭を擦り付けた。己のせいで招いた状況だと、責を感じ続けている。

「大丈夫だ。何も、案ずるような罠など、ない。弟が、兄に会いに行くだけである。それに、儂が留守の間に、お主には、しっかり此の城を守ってもらわねばならぬ」

 冬康に万が一の事態があれば、之正に安宅勢の指揮を任せていた。二人の子らの行く末も、託している。

 之正は何度も従いて行くと言い張ったが、冬康は許さなかった。

 皆に留守を預け、明日は飯盛への旅路に就く晩であった。

「早馬にござる。殿に、火急のご報告あり」

 寝床から這い出て、使者を謁見した。肩で息をしており、尋常な様子ではない。冬康は、目で先を促した。

「左近が、国境で軍勢を募っております。恐らくは、攻め寄せてくるかと」

「そは、真か。とても、勝算があっての出陣とは思えぬ」

 皐月に敗れた直政が、再び攻めて来ようとしていた。先の戦で、完全に畿内を三好勢が掌握していた。恐らくは、後詰など望めぬであろう。

「殿。どちらでも、宜しいではありませぬか。飯盛城に行けぬ理由が、できたのでございますから」

 之正が、笑みを浮かべていた。

「いずれにしろ、一度は行かねばならぬぞ。が、すぐに御屋形様に早馬を出せ。敵が攻め寄せたため、応戦します。飯盛城へは、戦が終り次第に参上致しまする、とな。総介、戦の間に、弾正少弼の動きを探っておけ」

「御意。左近、様様でござる」

 之正が、胸を張って出ていった。足取りが、軽くなっている。

   35

 秋の終りを迎える頃であったが、猛烈な残暑の日々が続いていた。長月は七日である。

 富美が、数日前に倒れた。突然、屋敷の玄関先で意識が朦朧としたらしく、式台の上にしゃがみこんだ。幸いにも、すぐに女房が発見し、床に就かせている。

 長慶は二六時中、富美の床の傍に座していた。再び下屋敷に籠もり切りとなり、政務の一切を、家臣たちに任せている。

 以来、意識は戻っていたが、起き上がれぬ状態になった。幾人かの医師に見せはしたが、確かな診立てはなく、皆が首を振るばかりである。が、どうも良くないらしい。

 今年に入った頃から、少し痩せ、肌の具合が良くないようには思っていたが、まさか倒れるまでとは、思っていなかった。

 常人でさえ茹だるような暑気が、富美の体力を、日に日に奪っていた。

 見上げた空には、雲一つ掛かっていない太陽が佇んでいた。輝く陽を、こんなにも恨めしく感じたことはない。

「殿。本日は、気分もかなり良くなっております。一度、本丸へお出でになされませ。皆が、困っておりましょう」

 落ち窪んだ目をした富美が、薄く微笑んだ。長慶に心配を掛けぬ心積もりであろうが、弱弱しい。

「気にするな。儂が出張らずとも、有能な家臣たちがおる。それに、今は領国もよく治まり、何も心配事はない。それより、暑さは応えぬか」

 開け放った窓から見える庭の土石が、じりじりと陽に焼かれていた。地面から湧き上がった熱気が風となり、居間に入ってくる。

「フフ、天候には逆らえませぬ。文句を言って、どうなるものでもありませんから」

 少し言葉を発して疲れたのか、富美が目を閉じた。これくらいの会話でも、今の富美には大儀なのだ。

 長慶は息を一つ吐き、窓の外を眺めた。照り返された陽が眩しく、目を閉じる。

 ――この上、富美まで喪いたくはない。

 大切な者たちが去っていくのは、もうたくさんであった。

「……摂津守殿の件は、如何になりました」

 長慶が目を閉じて気鬱になったからか、富美が口を開いた。目は、閉じられたままだ。

「戦の件か。それならば、摂津守は、すぐに左近を追い払っておる」

「いえ、飯盛城にお呼びになられた件です」

 冬康詮議の件は、直政が兵を挙げたせいで、一旦は雲散霧消していた。久秀からは催促の使者が来ていた。が、富美が倒れた状況では、それどころではなかった。

「其方がこれでは、摂津守の詮議どころではあるまい。いずれにせよ、落ち着いてからだ」

「では、妾は快方せずに、床に就いたままのほうが宜しゅうございますな。兄弟仲良くできるのであれば、それも本望」

「何を申すか、それとこれとは別の話だ。其方は、早く病を治すことだけを考えておれ」

「嫌にございます。もう、詮議はお止めなされ。詮議に及べば、取り返しがつかぬ仕儀と、なりかねませぬ。左近の戦を契機に、全て水に流してしまいましょう。殿。妾の最期のお願いと思うて、お聞き届け下され」

 富美の目が開き、じっと見詰めてきた。

「最期などと、不吉な言を吐くな。言霊は存在する、と申すではないか。早う、元気になれ。儂も、兄弟仲良うに心掛ける故」

 久秀暗殺の背後に、冬康ら親族衆が絡んでおる、と噂があった。が、まずは、富美の心を安らかにさせたい。

「必ず、お約束致しましたぞ。妾がおらぬようになっても、摂津守殿とは仲睦まじくなさって下さい」

 言い置いてしばらくすると、富美は寝息を立て始めた。

   36

 富美が、再び意識を失った。先日、冬康の話をしてから二日後の昨夜、九日の夜半からである。今も、意識は戻らぬままだ。

 富美は、昨日も一日中、変わらずに床に就いて過ごしていた。が、夕刻頃に眠りに入ってから、寝息が荒くなった。急いで医師の道順を呼んで傍に付かせたが、どうにもできぬ、と肩を落とされた。

「御屋形様。真に申し上げ難い事柄ながら、もはや、お覚悟が必要な時期かと存じまする」

 道順が、深く頭を下げた。

「たわけめ! 覚悟などできぬ。必ず、元通りに富美の意識を取り戻せ。金子は、いくら掛かってもよい。畿内中から医師・薬師を呼び集め、とにかく、何とかせよ。それから、京中の高僧たちに、祈祷するように指示を出せ。よいな、厳命であるぞ」

 熱り立った長慶の怒声が、屋敷中に響いた。屋敷内は、ひっそりと静まり返っている。

 富美を寝かせた居間とは別室に来ていたが、富美の床まで声は届いたであろう。聞こえてくれれば嬉しいが、恐らくは叶わぬ。

 ――富美まで、儂を置いて、先に逝くのか。

 長慶は、居ても立ってもおられず、富美の様子を見ては、廊下や庭を忙しく歩き回っていた。

 側近たちは、長慶の勘気に触れるのを恐れていた。長慶の顔色を伺いながら、屋敷内を忙しく動き回り、富美の看病を行っている。

「御屋形様。真に申し訳ありませぬが、本丸にお越しくだされ。火急の用件で、弾正少弼殿が城に向かっており申す」

 影道が、下屋敷まで駆けてきた。長慶の怒りを被る状況など、微塵も恐れておらぬ。役目を、命掛けで果たす男だ。

「何事じゃ。弾正少弼に、今がどのような時か伝えたか」

「はっ。使者には伝え申した。が、先程、再度の使者が参り、それでも伺う旨を、具申してきております。余程の事情かと、推測されまするが」

「……やむを得まい。弾正少弼が到着次第、知らせよ」

 富美の容態以上の大事が、あろうとも思えなかった。が、事情を理解した故での用件であれば、無下にもできぬ。

「御屋形様。お富美の方様のご容態が心配な時に、相済みませぬ。後で、儂もお見舞いに伺わせて頂きたく」

「よい、何事じゃ。用件を、先に申せ」

 長慶は政の話を早く済ませ、下屋敷に戻りたかった。富美の容態は、いつ急変しても、おかしくはない。

「はっ、それでは。伊勢守親子が、幕府奉公衆を幾人か募り、叛きましてござる。京の船岡山(後世の京都市北区)に、既に陣を敷き申した。公方様より、直に追討要請が下ると思われます」

   37

「伊勢守が……。職を解かれたのが、不満であったか」

 伊勢貞孝は、長慶が初めて京を手中に収めた際に、幕府方でありながら、すぐに旗下に馳せ参じた。以来、三好家の京での政を、ほぼ一手に引き受けてきていた。長慶の信頼も厚い。

 が、六角勢が弥生に京を占拠した際に、平然と京に残って政務を執った。主が代わっても、平然と従う心根に怒り、一時的に職を解いていた。

 長慶は、反省を促すつもりであった。それなりに時間が経過し、貞孝が詫びを入れてくれば、いずれは再度、職に戻す心積もりであった。京の政に関しての能力は、認めていたからだ。

「それもございましょう。予てより、伊勢守殿には政を専横しようとしている、と他の評定衆などから不平が出ておりました。御屋形様の権威を笠に、多額の賂を懐にしていた、との噂もござる。いずれは事が露見し、処罰を受けるかもしれぬと思い、愚挙に及んだやもしれませぬ」

 久秀が、突き放すように吐き捨てた。

「愚挙か……。確かに、そうであるの。伊勢守とは、長年の好もある。一度は、降伏を勧めてみるか」

 長慶は、呟いた。三好家が今日のように巨大になった理由には、貞孝の働きもあった。故に、ある程度は情がある。

「それでは、甘過ぎましょう。他の者たちへの示しが、つき申さぬ。話は変わりますが、摂津守様らの詮議も、未だではありませぬか。甘き仕置きは、家中の緩みを生じさせますぞ」

 久秀が、挑むような眼差しを向けてきた。が、すぐに顔を伏せている。

「摂津守の詮議は、仔細があって、保留じゃ。お主から何度も催促は貰っておるが、儂から切り出すまでは、二度と申すな。よいな、弾正少弼」

「それは、あまりにもひどうござる。儂は、命を喪う状況だったのですぞ」

 久秀が、声を強めた。眉間に皺を寄せている。

「二度と申すな、と申したばかりだ。仔細は、儂の胸の内だけにある」

 久秀が俯き、肩を震わせた。言葉が出ぬのか、沈黙したままだ。

「御屋形様。失礼仕ります」

 影道の声が、障子の向こう側から聞こえた。声が低い。只ならぬ雰囲気に、憚っておるのか。

 長慶の頭に、不吉な予感が走った。

「どうした、申せ」

「はっ。お富美ノ方様のご様子が……。お話しが済み次第、至急、下屋敷にお出で下さりませ」

「真か! すぐに行く」 

 長慶は、返事と同時に立ち上がった。謁見の間を出て行こうと、戸に目を向ける。

「御屋形様、お待ち下さりませ。摂津守様の件は、わかり申した。ですが、せめて伊勢守の件は、儂にお任せを。すぐに、鎮圧に向かいまする故。何卒、ご下命をお願い申し上げます」

 久秀が這い蹲るようにして、額を床に擦り付けた。従四位下の男とは、とても思えぬ振る舞いである。

「……わかった。伊勢守が件は、全て任せる。早急に、事を収めよ。が、兵を向ける前に、一度は降伏を促してやれ。長年、三好家のために働いてきた者だからのう」

 従四位下の者が、捨てられた子犬のように縋りついてきた。許さぬ訳にはいかぬ。

「仰せのままに。承ってございます」

 久秀は、言い置くと、瞬く間に座を下がった。床に張り付いていたのが、嘘のようである。

 長慶は、急いで本丸に向かった。が、ふと足を止めた。疑問が一つ、浮かんでいる。

 ――久秀は、なぜ儂より先に、貞孝の謀反を掴んだのか。

 気にはなった。が、今の長慶にとっては、そのような疑問は些事に過ぎぬ。一旦は止めた足を、再び踏み出している。

   38

 冬康は、行灯の灯りに照らした文を読み終え、兄の悲嘆ぶりは如何ほどか、と案じた。

 長月十二日に、お富美ノ方が身罷った。夕刻頃に到着した使者が、報告と共に、長慶からの文を差し出している。

 長月は二十日であった。長慶は、数日してから筆を執る気になった、と述べている。それまでは、何も手に着かず、眠れなかったようだ。

 ――二人の兄弟たちに続き、最愛の妻まで……。不運とは、此処まで重なるものか。

 冬康の詮議を止め、兄弟が仲良くするように、とお富美ノ方は遺言してくれた。それ故に、冬康の詮議は、取り止めとなっている。長慶は、今まで通りに支えて欲しい、と書いていた。

 お富美ノ方の心遣いに、感謝していた。お富美ノ方の遺言がなければ、冬康は何らかの処罰を受けていたやもしれぬし、今後の長慶との関係に、影を落とした可能性もあった。

 お富美ノ方なりに、最近の長慶と、兄弟や親族衆たちとの関係を、案じてくれていたのだろう。

 むろん、改めて言われずとも、冬康は命懸けで、長慶と三好家を、今まで通りに支えていく所存であった。こうしている瞬間でも、傍で兄を支えてやれぬのは、非常に歯痒い。

 秋から冬への移り変わりを、ひんやりとした隙間風が教えていた。屋敷外で焚かれた篝火が、時折、影を揺らめかせている。

「殿。少し、宜しゅうございますか」

 障子を隔てた廊下に、人影が浮かんだ。之正の声であった。

「構わぬ、入れ」

 開かれた隙間から、六尺近い之正が顔を出した。大きな影が、そろり、と蠢く。

「伊勢守殿の謀反の件にござる。京からの知らせで、どうやら弾正少弼が、一枚噛んでおる疑いがあり申す」

「何か掴んだようじゃな。続けよ」

 傍らの小姓に、酒の仕度を命じた。今宵は、どうも飲みたい気分である。お富美ノ方の、追悼の意味合いもあった。

 之正は、冬康の気持ちが読めるのか、口を挟まずに続けた。

「残念ながら、またもや確証を掴んではおり申さぬ。弾正少弼は元々、伊勢守殿が京の仕置きを任されておる状況を、不快に思っておりました。代わりに、己が京の政に参入したい、との野心もあったのですな。故に、伊勢守殿を、徐々に追い詰めるように仕向けた。具体的には、他の奉公衆に金子をばら蒔き、悉く伊勢守殿の邪魔をするようにした様子。また、春に六角勢が京を抑えた際、伊勢守殿に役目を続けさせるようにしたのも、恐らくは、弾正少弼」

「わざと、御屋形様が怒りになるようにした、と申すか」

「あくまでも、状況証拠と噂のみにはございますが。儂は、弾正少弼の策謀、と確信してござる」

   39

 伊勢貞孝の謀反は、数日で鎮圧された。貞孝と子の貞良は戦死し、伊勢一族は幕府内から姿を消した。

「伊勢守殿を生かして捕えれば、或いは、弾正少弼の策謀の一旦を、解明できたやもしれませぬが……」

 之正が、惜しげに訴えた。

「弾正少弼の考えだ。口を封じるため、大方、追討軍を引き受けたのであろう。御屋形様に直談判して、役目を得たらしいからの」

 元常も、苦々しげに吐き捨てる。

 本丸の石垣の前にいた。夕陽が、西の水平線に沈み掛かっているのが見える。

 神無月は十日を過ぎていた。季節は冬であったが、暖かい風が、耳元を通り過ぎていく。穏やかな朱色の陽射しが、水堀の水面を温めていた。

 元常が、淡路から訪れていた。冬康が岸和田城に入るようになってから、国元の守りは、主に元常に任せている。が、定期的に岸和田と繋ぎを取り、淡路の状況も掴んでいる。 

「弾正少弼は、全て計算づくであろうよ。飯盛の重臣たちが、もう少し御屋形様の傍にいてくれれば、あ奴の計算も狂おうものを」

 冬康は、飯盛城の側近たちが、命懸けで長慶を諌めるべきだと思っていた。でなければ、久秀は長慶を隠れ蓑にして、己の力を増大させようとする。久秀の動きは、だんだんと露骨になってきた。

「殿。それは酷にございましょう。御屋形様は、めったに本丸に姿を見せぬ、と聞き及んでおり申す。お富美ノ方を亡くされてからは、お部屋からも、なかなか出ようとされぬとか。側近たちも、お諫めの仕様がないと思われます」

「……御屋形様に、早く立ち直って頂きたいものだな。して、京の仕置きは、どうなっておる?」

 貞孝の後を、久秀が引き継ぐのなら、長慶に物を申さねばなるまい。

「筑前守様にお任せになり、弾正少弼を補佐役に就け申した。御屋形様も、弾正少弼では危ない、とお考えだったのでしょうか。さすがの弾正少弼も、筑前守様を重石にされて、好きにはできますまい」

 義興ならば、久秀の言い成りにはならぬであろう。

 むしろ、今後の京の政において、義興が重きを成して行ける。将軍義輝との関係も、良好だと聞いていた。次期当主が京の政に長けておれば、三好家にとって、この上ない。

 ふと、教興寺の戦の軍議の際に、久秀が義興に向けた視線を思い出した。主君の嫡子を憎悪するような、鋭い眼差しを送っていた……。

「総介。弾正少弼の動きから、今後はより一層、目を離してはならぬ。考え過ぎであればよいが、あ奴は、筑前守様を罠に嵌めようとするかもしれぬ」

 之正が、ハッ、と目を見開いた。頬を、引き締めている。

「儂としたことが、迂闊。弾正少弼であれば、その恐れもございましょうな。まさか主君の嫡子を、と考えており申した。己の考えの及ぶ範囲だけでは、あ奴を掴み切れませぬ」

「お主を攻めている訳ではない。が、ひょっとすると、弾正少弼の動きが活発になってきたは、教興寺でのしくじりが引き金やもしれぬ。殺らねば、殺られる、とな」

 家中で争いたくはなかった。が、冬康の想いとは別に、三好家を守るためには、久秀の動きを抑えなければならぬ。

   40

 永禄六年(一五六三年)の年が明けた。岸和田城の辺りでも、雪がチラついている。

 が、畿内は再び、騒がしくなっていた。

 和泉と大和で、反三好の兵が挙がった。和泉は根来衆が主力で、大和は多武峯宗徒らが重きを成しての仕儀である。

 年明け早々から、和泉は冬康、大和は久秀が、対応に追われていた。

 冬康はすぐさま兵を募り、先陣に影直を出していた。

「今のところ、敵は国境で様子を見ており申す。此方が近づけば、確実に射撃を受ける状況」

 景直からの使者が、城に報告に来ていた。

 冬康以下、城内の兵も全て武装していた。和泉・大和から、戦線が拡大する恐れもある。咄嗟の際に動ける準備は、整えておく。 

 具足姿の男たちが、城内を闊歩していた。とても、正月気分を味わえるものではない。

「五郎右衛門に伝えよ。敵が攻め入るまでは、睨み合いを続けよ。無駄な犠牲を出さぬように、と」

 使者は、冬康の言を口内で復唱し、すぐに退出した。

「敵は、様子見に来ておるな。恐らくは、大和と連携しておろう」

「御意」

 居並んだ諸将も皆、同じ意見であった。

 様子見とは、三好家がどれほど弱体化しているか、だ。

 一存、義賢と、武勇に優れた将を相次いでなくし、昨年は伊勢貞孝親子も処罰した。その上、三好家、いや畿内の頂点に君臨する長慶は、屋敷に籠り切って姿を見せぬ。   

 今までは三好軍の武威を恐れ、鳴りを潜めていた敵対勢力たちが、暗躍し始めても、決しておかしくはなかった。

 冬康の目から見ても、一存と義賢のおらぬ今の三好軍は、以前と比べれば、明らかに弱くなっていた。

 代わりに久秀が、ぐんぐん台頭し、嫡子の義興も才を発揮し始めてはいた。が、どちらも武勇より、謀略や政の才のほうが際立っている。敵の立場にすれば、攻めるには今が好機、と考えても不思議はなかった。

「此処で我らが踏ん張らねば、他の反三好の勢力も立ち上がる恐れがある。敵が国境を越えたら、何が何でも追い返せ。よいな!」

 実のところ、冬康は疲れていた。いや、悩んでいる。己を奮い立たせるために、皆に檄を飛ばした。

 三好家を再び強くするためには、総大将である長慶こそ、奮い立つべきであった。

 長慶が以前のように睨みを利かせておれば、そうそう兵など挙げられぬ。周囲の皆が、理解していた。が、長慶に具申する機会を、躊躇っている。

 具申して、勘気を被るだけなら、まだマシであった。だが、何らかの処罰を受ける可能性すらあった。

 ――いつの間に、兄者は人の意見が聞けぬようになったか。

 帰結として、お富美ノ方がおらぬ今、長慶に具申でき得る者として、冬康に白刃の矢が立った。長逸や康長たちからも、催促の使者が来ている。

   41

 和泉・大和の戦線は小競り合いがしばらく続き、敵が退却した。が、退却したかと思えば、再び敵は攻め寄せてくる状況が繰り返された。敵の意図が掴めぬまま、春から夏に変わっている。

 弥生になって、京で幽閉されていた細川晴元が没した。冬康にとっては、さほどの感慨も浮かばす、むしろ、せいせいした気分であった。

が、長慶はずっと主君と仰いできている。飯盛城の屋敷で、物思いに耽っておるだろうか。

 そのせいもあってか、京北部で、晴元の残党と思われる挙兵が起きていた。失意の内に没した晴元の、弔いのつもりだろう。義興が芥川城から兵を出し、対応に当たっている。

 今や、それぞれは小粒ながら、三好軍は、四方に敵を持っていた。強者が少しでも隙を見せると、牙を剥く輩が、雨後の筍の如く出る見本のようなものだ。

 戦線が長引いたせいで、冬康は、なかなか和泉を空けられなかった。今も、南部への出陣を終え、紀州街道を北を目指して馬上に揺られている。

 皐月の初めになっていた。見渡す田畑では、百姓たちが額に汗して働いている。

 西の貝塚港から、潮風の匂いが漂ってきていた。岸和田城は、海辺の炬口城に環境が似ているからか、大分、慣れてきている。

 が、和泉の民に比べ、淡路衆は皆が大らかであった。心が和むとでもいおうか。やはり、自分は淡路が性に合っている、と冬康は思っていた。 

 前方に屹立している岸和田城が見えてきた。本丸、二ノ丸の周囲に植わった木々の緑が、青々としている。

 城に入ると、意外な使者が訪ねてきていた。

「お初に御目通り致しまする。儂は、医師・道順の一番弟子で、道案と申します」

 医師であるから、髷を結わず、垂髪であった。濃紺の羽織に、薄茶色の着物と袴である。清潔で、清々しい印象の若者だ。

「して、道順の弟子が、儂に何用じゃ。御屋形様の命ではないのじゃな」

 道順は、飯盛城の長慶お抱えの医師であった。何度か顔を見た程度で、冬康は、直接に話す機会はなかった。

「はい。この文を、師から預かって参りました。決して摂津守様以外には見せず、直接にお届けするように、と。まずは、ご覧くだされ」

 文を受け取った冬康は、静かに目を通した。居間に同席しているのは、之正、景直と小姓のみである。皆の視線が、冬康に向けられていた。

 読み進める内に、冬康の額には汗が滲んだ。

「道案。命掛けで、此処まで参ったか」

「ははっ。摂津を抜けるまでは乞食に身を窶し、気を抜けませなんだ」

「道順は、よく儂に知らせてくれた」

 文の内容は、長慶は気鬱から心を病んでいる、という知らせであった。

 気性の波が一日のうちで激しく変化し、時折は記憶もなくしていた。今のうちに養生するなり治療に専念しなければ、病はどんどん進み、廃人にさえ成りかねぬ、とある。

 道順も、医師なりに三好家の現在を憂いていた。

 飯盛城内には、久秀はもちろん、誰の息が掛かった者が跋扈しているかわからぬ。故に、長慶がこれまで最も信を置き、家中の人望も厚い冬康に、意の一番に知らせてきた。

 道案は、岸和田城までの道中、誰に狙われても不思議はなかった。

「側近衆の方々と、先般に御屋形様に御目通りされた弾正少弼様は、恐らくはお気づきです。御屋形様自身が、人に会われるのを嫌がってもおります。が、今では、露見せぬように、傍の者らが御目通りを制限しており申す。御傍衆の中には、弾正少弼様に媚びている輩もおるとか」

 要の長慶が病だと知れ渡ると、反三好の波は、ますます大きくなる。周囲がひた隠しにするは、当然であった。

「殿。となれば、弾正少弼は御屋形様の状況を知って、先を見越した動きをしておるやもしれませぬ」

 之正が、口を挟んだ。之正は多くの忍を放ち、久秀の動きを注意深く見張っている。

「三好家のためもある。が、兄者のお体のためにも、早々に筑前守様に家督をお譲り頂き、家中を固めねばならぬ」

「筑前守様はもちろん、主だった諸将の方々と、繋ぎをつけまするか」

 景直が両手を床に着き、済んだ目を向けてきた。御家の危機に、役に立ちたいのだろう。

「弾正少弼が何を考えておるかわからぬ以上、急がねばならぬ。道案。城に戻れば、道順に、くれぐれも兄者を頼む、と伝えよ。お主の心遣いを、無駄にはせぬ、と」

   42

「御屋形様。突然訪れてしまい、申し訳ありませぬ」

 柴垣の向こうから、肩衣姿の久秀が顔を出した。

「誰にも目通りは許さぬ、と申しておいたはずだ。誰が通した!」

 庭じゅうに、長慶の怒声が響き渡った。小姓どもが、脅えた目をしている。

「儂が、どうしても、と無理に通り申した。責めは全て、儂にございます」

 柴垣を迂回して、久秀が庭先に入ってきた。よく陽に焼け、頬から首筋に掛けて黒々としている。

 長慶は、苛立っていた。主人に無断で面会を求めるなど、有り得べき次第ではない。が、大人気なく小姓に声を荒げたため、再び怒鳴るのは憚られた。

 最近、些細な出来事で無性に腹が立つ時があった。以前なら、周囲に怒鳴る機会など、ほとんどなかった。だが、怒りが上手く抑えきれぬ。気づけば、無意識の内に、怒りが頭頂にまで達していた。

「大和は、大丈夫なのか。戦が続いておる、と聞いているぞ」

 長慶は、不機嫌な声を久秀にぶつけた。

 和泉・大和では時折、小競り合いが起こっていた。長慶は報告を受けるのみで何一つ、指示は出しておらぬ。故に、少し後ろめたい気持ちもある。 

 長慶も、今の状況では不味い、と思っていた。当主がこのような状況では、御家は成り立たぬ。戦乱の世を生き抜き、畿内の覇者になった長慶には、わかり過ぎるほど、よくわかっていた。

「はっ。有能な家臣たちが育っておりますれば。それよりも、御屋形様、今日はちと、お耳に入れたき儀がございましてな」

 久秀が長慶の傍らに進んで来て、声を潜めた。小姓たちが気遣い、二人との距離を取っている。

 水無月は五日になった。激しい梅雨が続いていたが、ここ数日は、晴れたり、曇ったりの天候が続いている。

 飯盛は山城なので、平地よりも、余計に天気の移り変わりが早かった。今朝はパラパラと、井戸から組み上げた釣瓶の残り水のような雨が落ちていたかと思うと、今は、うっすらとだが晴間が垣間見える。

 庭園を見渡せば、滴の乗った枝葉と陽の当たって渇いた地面とが混在していた。陽と影が、庭に色彩を醸し出している。正に、季節の変わり目という奴であろう。

「手短に申せ。長い話は、嫌いだ」

 長話に、集中できなくなっていた。内容も時に、忘れていることがある。富美を亡くしてから、毎日を無気力に過ごしているからであろう。

 もう、屋敷に一人いる長慶を、心配そうに見つめる大きな黒目には会えぬ。膨らんだ頬を揺らし、コロコロと笑う富美の声を、二度と耳にはできなかった。

 長慶は気がつくと、富美との思い出が多く残っている場所に行き、佇む機会が多くなっていた。

「摂津守様の動きにござる。ご存知でありましょうや」

 久秀の両目が、射すように向かってきた。

長身の久秀ではあるが、長慶の前では腰を折り、見上げるような姿勢を取る。出会った頃から変わらぬ、久秀の敬意の表し方であった。

   43

 冬康とは、長らく会うておらぬ。久秀暗殺の詮議のため、飯盛に呼び出そうとしたが、富美の遺言で許す、と決めた。その後も、和泉の情勢が不穏のため、なかなか会う機会がない。

 二人の兄弟と富美まで亡くした今、唯一残った弟と共に、故人を偲びたい気持ちはあった。

「摂津守が、どうした? 長らく、会うてはおらぬが」

 詮議の件は申すな、と久秀には厳しく伝えていた。とすれば、それ以外の話か。

「また、お叱りを受けるやもしれませぬが、申しておきましょう。摂津守様に謀反の恐れがありまする」

「馬鹿を申すな。摂津が、儂に叛く訳があるまい。お主は、そのような他愛のない話をしに、わざわざ参ったのか」

「そう申されると思っておりました。が、摂津守様は現在、盛んに家中の有力武将に繋ぎをつけております。特に、筑前守様へは、何度も使者を出しておる様子」

 久秀が、目を細めた。陽が、久秀の顔に落ちている。

 長慶は縁側まで歩き、草履を脱いだ。居間まで歩を進め、上座に腰を下ろす。

 久秀は、無言で後に従いてきた。長慶が聞く気になった、と考えたのだろう。

「筑前と攝津が仲良くするに、何の遠慮が要ろう。甥と叔父ではないか」

「確かに、表面上は問題ございませぬ。が、内容が問題。穏やかならぬ内容、と探りに入った忍からの報告を受けており申す」

「謀りを申すと、お主とて容赦はせぬぞ。続けよ」

 少し、久秀に腹が立っていた。せっかく平穏な日々を過ごそうと屋敷に籠もっておるというに、波風を立てにくる。脇息を、手荒に引き寄せた。

「謀りなど、申すはずもございませぬ。どうやら、摂津守様は筑前守様を煽り、御屋形様から家督を奪おうと画策しております。複数の筋からの情報で、まず間違いはござりませぬ。宜しければ、いずれ証人を連れて参りましょう」

「家督を……、筑前に」

 長慶も、無気力な己の状況を鑑みれば、以前から考えぬではなかった。むしろ、自ら譲りたい、と思うている。

 しかし、下克上とは訳が違う。

「俄には、信じられぬ話だ。真に、何らかの証拠を掴んでから、儂に報告せよ」

 有り得ぬ、と思っていた。が、久秀が証人まで連れてくる、と自信が有り気な顔をしている。

「儂も、事の真偽をきちんと確かめたい、と思うており申す。そのために御屋形様、筑前守様の下に、儂をしばらく、遣わしてくだされ。名目は、何でも構いませぬ故。筑前守様の心根をしっかり見極め、もし、変な企みが匂うような状況であれば、儂が命懸けで、筑前守様をお諌め申しまする。三好家の行く末のために、何卒、お願い申し上げます」

 久秀が、深く頭を下げた。

 少し話しが長引き、面倒になった気分もある。が、以前から久秀に、義興の右腕になって貰いたかった。

 長慶は、久秀の申し出を了承した。

44

「筑前守様に、くれぐれもお気を付けなさるようにと、再度の使者を出そう。儂も、御屋形様に御目通りを願い出てみる」

 冬康の言は、焦りのあまり、語尾が震えていた。噛み締めた上下の顎に、自然と力が入っている。首筋に怖気が立ち、うっすらと汗が滲んでいた。

 之正の報告に、盂蘭盆を過ぎたというに、居間中が凍りついていた。

 暑さを忘れようと、身近な近習のみで酒宴をする算段であった。が、一転して重苦しい雰囲気が漂っている。

 久秀が京の屋敷に滞在して、芥川城の義興を頻繁に訪ねていた。反対に、義興を屋敷に招き、公家などを呼んで宴会なども開いている。

 之正は、久秀の動きを掴み、すぐさま義興に注意を促した。が、久秀の動きは、長慶の命で行われている。

「御屋形様の命では、筑前守様も断れぬでしょう。それも、弾正少弼の思惑通りでありましょうや」

 景直が、一旦持ち上げた銚子を置き、悔しげに吐き捨てた。

「恐らくは……。だとすれば、我らは後手に回っておりまする」

 之正も沈痛の面持ちであった。

 静まり返った五間四方の居間の隅々には、仄かに行灯が灯り、蚊除けの香が焚かれていた。時折、小姓が、ぺちん、と蚊を叩く音がしている。

 長慶が気鬱の病と知ってから、冬康は主だった親族衆に誘い掛けて、長慶から義興への家督譲り渡しを進めようとしていた。最終的には冬康が長慶と二人で会い、直に談判する手筈である。

 事を極秘裏に進め、長慶には決断のみを仰ぎ、後は治療に専念してもらおうと思っていた。が、今の久秀の動きは、明らかに冬康の動きに勘付いたものと考えるべきである。

 ――恐るべき男だ。

 皆が凍りついた理由に、自分たちの動きは悟られず、久秀に先んじていると思っていた驕りがあった。が、事実は全くの逆である。先んじていたどころか、先の先を読まれていた。

 しかも、久秀の意図は、皆目わからなかった。義興の命を狙うなら、とうに隙は見出せたはずである。冬康は、義興に注意を促しつつも、何に気を付けて貰えばよいのかわかっておらぬ。

 下賤の身から成り上がった久秀を、どこかで侮っていたのか。冬康の瞼の奥には、久秀の浅黒い顔が、今更ながら、まざまざと浮かんでいた。

「総介。お許しは出ておらぬが、儂は明日、飯盛へ向けて発つ所存だ。こうなれば、御屋形様に一刻も早く御目通りするが肝心。さすれば、弾正少弼の目論見も見えてこよう」

 冬康は盃を呷り、荒々しく膳部に置いた。己の甘さに、腹が立っている。

「御屋形様は、お会いくださりましょうや。今や、誰にもお会いになられぬ、と申しますぞ。反対に、御不興を蒙りはしませぬか」

「御不興を蒙るを、恐れておる場合ではあるまい。お叱りなら、いくらでも受けよう」

 城の堀からか、蛙の鳴き声が聞こえていた。一匹が鳴き出すと、無数の声が木霊している。

 今宵は、いつもは気にもせぬ蛙までが、憎らしかった。

   45

 冬康は文月の半ば過ぎからずっと、長慶に目通りを願い出ていた。が、案の定と言おうか、飯盛からの許しは得られなかった。

一時は無理矢理にでも出発しようと急いたが、飯盛からは和泉を堅守せよと、何度も使者が来た。

 どうやら様子が変だと之正が探って来たところ、長慶の側近の多くに、既に久秀の手が及んでいた。故に、強行軍で、飯盛城に辿り着いている。

 葉月に入っていた。

 飯盛城下に入った直後に、城に使者を飛ばした。が、何らの返事も、迎えもなかった。

 待っていても仕方がないため、本曲輪内にある長慶の下屋敷門前まで登ってきた。

 未の刻を回った頃である。

周囲のそこらじゅうで蝉が鳴いており、野鳥たちが木陰に涼を求めていた。頭上から降る陽光が、地面に門柱の影を落としている。

 門番の一人が、潜り戸から出てきた。屋敷内に冬康の到着を知らせて、戻っている。

「和泉に、お戻り下され。お許しが出ませなんだ」

 小柄だが、鋭い目付きの男であった。盛り上がった肩が、武術の修練の跡を窺わせる。

「摂津守が来たと、重ねて御屋形様に申せ。儂は門前で、明日の朝まででも、お待ち申し上げる所存じゃ」

 冬康は、悲痛な叫びを上げた。明らかに身分の低い門番に、縋るような視線を向けている。

 冬康が到着しても、長慶の側近すら出て来ず、門番に追い返される始末であった。冬康は、非常な屈辱を感じている。

「いかに摂津守様とは申せ、御通しできかねまする。御屋形様より、誰にも会わぬ、と、きつく申し付られておりますれば」

 二人の門番は、露骨に嫌悪感を表情に表していた。長慶が元気な折に訪ねた際には、冬康に平身低頭していた男たちである。

「殿。もはや儂には許せませぬ」

 いきり立った景直が、刀に手を掛けた。両足を開き、しっかりと草鞋を地面に吸い付けている。門番を斬って、己は腹を切るつもりだ。

「待て、五郎右衛門。お主は断固、このような所で命を落としてはならぬ」

 景直を手で制し、二人をもう一度、見渡した。

大柄で、馬のように長い顔をした男の目に、脅えが見てとれる。冬康の視線から、どこか避けようと目を泳がせていた。

「……お主ら、弾正少弼に脅されておるな。大方、儂を御屋形様に会わせば、命を貰う、とでも言われておるのであろう」

 冬康は、はっきりと久秀の名を出した。二人の反応を、確かめようと思うた。

 二人は、黙り込んだ。互いを伺うようにし、顔中に汗を噴き出していた。

「摂津守様。無駄にござる。そ奴らは、既に弾正少弼の手下に成り下がっております」

 気づくと、門柱の脇から、道案が近づいてきていた。門を潜り、冬康の前で頭を下げる。

「道案。お主が、御屋形様に取り次いでくれ。この者たちでは、埒が明かぬ」

 道案は、無言で目配せをした。一先ず門前を離れよう、との意図であろう。

 冬康一行と道案は、門前から数間離れた、石垣の傍まで歩いた。木陰に入り、階段上になった一番高所の石に、冬康は腰掛ける。

 道案は、冬康の真向かいに立ち、改めて深く頭を下げた。

 眼下には、先ほど通ってきた無数の曲輪が、山の緑の中に点在していた。

「あ奴らが弾正少弼の手下なのは、間違いありませぬ。が、御屋形様がお会いになられぬ、と申されておるのも、また事実でござる」

 見上げた道案の両目は、悔しそうに歪んでいた。 

   46

「御屋形様は病が進み、どんどん猜疑心が強うなっております。今の御屋形様が耳を傾けるのは、弾正少弼と我が師・道順のみ。摂津守様については……、言葉は憚られますが、ここ数日は憎悪しておる様子。弾正少弼はもちろん、弾正少弼が息の掛かった屋敷内の者たちが、御屋形様に良からぬ噂を吹き込んでおり申す。証拠は掴めませぬのが、悔しいところですが。しかし、お心が晴れやかな時には、やはり摂津守様に一番の信頼を置かれています。師が申すには、御屋形様の病は、気鬱がひどくなると、深く信頼した身近な者ほど激しい憎悪の対象となります。そこを、上手く弾正少弼に利用されておりますな」

 道案は、大きく息を吸い込み、辺りを見渡した。

 先ほどの門番たちが、動かずにじっと、冬康たちの様子を見ていた。

「……それでも良い。何とかして、会えぬだろうか。儂と面と向かい合えば、御屋形様の心も、正気に戻るやもしれぬ」

 冬康の目には、涙が込み上げそうであった。己が疎まれ、憎まれている事実より、あれほど毅然としていた長慶の心が、壊れていく。

「行けませぬ。今ここで無理をすれば、摂津守様が罰を受けます。下手をすれば、お命に関わる状況も考えられまする。そうなれば、三好家は、どうなりましょう。それこそ、三好家が乗っ取られてしまいかねませぬ。師は幸い、御屋形様から頼りにされ、弾正少弼も手出しができぬ状況でござる。師が申すには、必ずや御屋形様の御心を多少なりともご快復せしめ、近いうちに、お二方の対面の機会を進言する、と申しておりました。それまで、短慮はお控えくだされ、と」

 道案が、じっと視線を向けてきた。師を、信頼し切っている目だ。

 この若者が、さほどまでに信頼する道順だ。冬康も、信じて待とう、と決めた。

「わかった。道順殿に、良しなにお伝えくだされ。儂は一旦、和泉に戻る」

 冬康は、頭を垂れた。

本来ならば、頭を下げられはしても、下げるような相手ではなかったが、二人の協力には心底感謝している。飯盛城内では、唯一の協力者と言ってもよかった。

「必ずや、近々、また此処でお会いしましょうぞ。師には必ず、申し伝えます」

 道案が、初めて笑みを溢した。笑うと、清清しい男ぶりである。

「二人とも、己の身も案じられよ。敵は、どのような手段を用いるやもしれぬ」

 久秀は、正しく敵であった。真っ向から『敵』と、認識している。

 遅きに失している感は、拭えなかった。此れまでの久秀の動きは、端から冬康を敵視し、行動を起こしていたからだ。

 いや、一存の死の際頃からであったやもしれぬ。或いは、さらに前からか。重ね重ね、己の甘さを呪った。

 ――今が、踏ん張りどころだ。

 この機に義興を中心に結束すれば、三好家は、再び強くなれる。冬康は、信じて疑わなかった。

   47

 いつの間にか、庭の花と、山の木々を眺めるのが、長慶の日課となっていた。たいていは、晴れていれば、午後は庭に出ている。

 朝は、いつも気分が優れぬ。道順に問えば、朝は気鬱になり、昼頃からだんだんと気分が高揚する病がある、と聞く。

 薬湯を日に三度、飲まされていた。京に入った頃に知り合ってから、道順とも長い付き合いになったものだ。

 葉月は末になった。

 薄桃色の芙蓉の花弁を愛でながら、駆け足で去っていこうとする秋の陽射しを浴びていた。

 芙蓉は、久秀が送ってきた。長慶が日々、花で心を慰んでいると聞きつけたようだ。

「ご気分が、良さ気ですな。御顔の色が、此処数日は冴えておる様子」

 振り向くと、道順が近づいてきていた。銀色に染まった垂れ髪が、風に靡いている。

 毎日のように病人を診ておるはずだが、矍鑠たる体躯には張りがあり、眼光には強い力が漲っていた。

 元気な頃の長慶は、医師というより、武士のような気概を持つ道順を好み、お抱え医師とした。

 が、今では、道順の体から溢れる生気を感じると、己までが元気になれるような気持ちになった。

道順の気は、人を圧するものではなく、癒す。さすがに、医師だ。むろん、朝で気鬱がひどい時などは、道順の生気すら鬱陶しいが。

「お主の薬湯が効いておるようじゃ。今日は朝も、いつもよりマシであった。さて、覚えてはおらぬが、診立ての日であったか」

 道順の診察は、月に三度、と決められていた。事前に知らされているはずであったが、日取りを忘れる機会が増えている。

 以前は毎日のように、気楽に道順が訪れてきていた。が、久秀に止められている。

 医師が頻繁に屋敷に出入りをすると、長慶が重病と看做され、家中の動揺を招き、ひいては畿内に動乱を招く。

「ははっ。ですが、診立てはようござる。御顔を拝見して、即座に終了致しました。それよりも御屋形様、ご気分の良い時機に一度、摂津守様をお召しになられませ。積もるお話も、ござりましょう」

「おおっ、よくぞ申してくれた。しばしの気鬱で、摂津と語り合おうと思うていた件、すっかり忘れてしもうておった。今日、明日にも、使者を出そうぞ」

 長慶はすぐに小姓を呼びつけ、母衣衆の一人を和泉に出すように命じた。

「久方ぶりに摂津と、ゆるりと酒でも酌み交わそうと思う。さすれば、気鬱など吹っ飛ぶであろう」

「ごもっとも。御兄弟の絆、儂なぞにはうらやましゅうござる。儂の兄弟は、合わせて五人はおり申すが、てんでバラバラ。此処十数年は、顔も合わせており申さず。摂津守様のような立派な弟御をお持ちの御屋形様は、真にお幸せです」

 道順の髪がふわりと風に揺れたと思うと、芙蓉の香が鼻を通り過ぎた。

   48

 最近、すこぶる調子が良かった。故に、久しぶりに、道順を呼んで曲輪内を散歩している。

 並んだ木々の葉影が、地面で揺れていた。葉色が、真夏の猛々しいほどの緑から、少し黄色が混じっているものも出始めている。

人間五十年に例えれば、四十を過ぎた今の長慶くらいかもしれぬ。いや、自分はきっと、紅葉を迎えておろう。調子が持ち直しておるとはいえ、散る日も、そうは遠くあるまい。

「御屋形様。弾正少弼様が御城に向かっており申す。至急、本丸にお越しくだされ」

 急ぎ走りで来た小姓の一人が、長慶の前で膝を着いた。

「あ奴は、いつも物々しいな。主をわざわざ呼びつけるなど、よほどの用事なのであろうな」

 せっかく気分良く歩いているところを邪魔され、不機嫌な声を発した。小姓に当たってもどうにもならないが、苛立ちを抑えられぬ。

「御屋形様が出向くまでもないでしょう。それほどの用事なら、弾正少弼様からお越しになられます。仰る通り、主を呼びつけるなど、臣下の有りようではございませぬ」

 道順が頬を歪め、吐き捨てた。道順も、昔から久秀を嫌っている。

「今日は朝から、気分が良かった。体にも、力が漲るようじゃ。本丸に出向き、弾正少弼を叱りつけてやろうぞ。道順も、従いて参れ」

 長慶が病で覇気をなくし、義興と久秀に政を任せていた。

 後継者の義興は当然であるが、久秀に対する不満は、多くの者が感じていた。気鬱がひどい時には何も考える気力が湧かぬが、今なら、義興にしっかりと政を引き継ぐ準備ができそうに思う。

「御意。久方ぶりに、気力の出てきた御屋形様を見られて、道順は嬉しゅうござる」

 道順が、目頭を熱くしていた。老いても精悍な顔つきが、クシャと、絞った手拭のように歪んでいる。

「そうじゃ。摂津守も、長月早々には到着する手筈だ。お主が勧めてくれたおかげで、儂も滅法、楽しみにしておる。さっ、本丸に参ろう」

 大広間には、重臣が勢揃いしていた。長慶は指示しておらぬが、誰かが気を利かせたと見える。

 ――いや、それほどの重大事なのか。

 久しぶりに居並ぶ顔たちが、どうも浮かない。ざわめく様子もなく、静寂が広間を包んでいた。

 長慶は怪訝な心もちながら、昂然たる態度で上座に向かった。目の端に、中央でぽつねんと平伏している久秀が、見えている。

 道順は付き添いとして、末席に座した。長慶の具合が悪くなれば、すぐに動く役目である。

「弾正少弼! 此度の無礼は、如何なる仕儀じゃ。いかにお主でも、目通りの許可なしには会わぬ、と申しておるはずだ。申し開きがあるならば、申してみよ!」

 開口一番に、久秀の禿げ頭を叱咤した。思い上がりがあるならば、正してやらねばいかん。

 諸将らは浮かない表情のまま、成り行きを見守っていた。道順だけが、満足気な眼差しである。

   49

 久秀は一旦は頭を垂れて恐れ入った態を見せ、ゆっくりと面を上げた。感情を窺わせない両目を、長慶に向ける。

 が、不意に久秀の両目から涙が溢れ出した。滴が畳を濡らし、久秀の体が突っ伏す。静寂を破るように、久秀の嗚咽が、広間中に響きわたった。

「弾正少弼様。泣くのは、御見苦しゅうござるぞ。きちんと、御屋形様に申し開きなされませ」

 末席から、道順の声が飛んだ。太く、鋭い声音である。

「……これは、道順殿。確かに、御屋形様の御前で、御見苦しい姿を見せてしもうた」

 見間違いか。横を向いた久秀が一瞬、道順に向かって笑みを浮かべたように見えた。

 久秀がすうっと、無表情な目に戻り、長慶を見詰めてきた。

「儂が泣いた理由は、きちんとあり申す。あまりの事の大きさに、この弾正少弼、大人気なく取り乱してしまいましてござる。が、御屋形様のご心痛を考えますと……」

 再び、久秀がしゃくり上げようとした。

「構わぬから、早く申せ。不本意ながら、心痛続きで、少々の事では驚かぬ故」

 久秀のもったいぶった態度に、腹が立っていた。病が完全に癒えておらぬため、自分でも、怒りっぽいと思う。

「されば、お気を確かに、お聞きくだされ。去る二十五日に、芥川城にて筑前守様がご逝去されましてござる」

「なっ……」「えっ」などの呻きが聞こえた。その中には、長慶の声も含まれていたやもしれぬ。

 何が何だかわからず、長慶はぽかんと、久秀を見詰めた。いや、視点は定まらずに、宙を漂っている感覚がしている。

「夕餉の後、急に血を吐いて倒れられて、意識を失い申した。そのまま意識は戻らず、一刻も保ちませなんだ。原因を調べておりますが、特に毒を盛られた証拠もなかった、と聞いております。御屋形様より筑前守様の補佐を仰せつかっており申したのに……。真に残念でならず、代われるものなら、儂の身を投げ出したい!」

 久秀が、無言の長慶に構わず、続けた。時折、洟を啜っている。

「まっ、ああー」

 真か、本当か、と問い質そうとしたが、言葉にならなかった。

 後継者として将来を嘱望し、その才器が花開くのを楽しみにしていた義興。

「親の儂より先に、身罷ったと申すか! 筑前、孫次郎、孫次郎……」

 幼き頃からの、義興の姿が、ありありと頭に蘇ってきた。富美も出てきている。義興と血は繋がっておらぬが、二人は仲が良かったと思う。

 目前の久秀が、さらに言葉を続けていた。口が、動いている。

 しかし、もはや長慶の頭には、誰の言葉も入ってこなかった。己の意識が、深い闇に沈み込むような感覚が襲ってくる。だんだんと目の前が真っ暗になり、ついには意識が途絶えた。

 意識が闇に呑み込まれる前に、道順に呼ばれたような気がした。

   50

 岸和田城の冬康に義興死亡の知らせが届いたのは、葉月二十八日であった。

 前日に、飯盛城に久秀が来て、皆に報告していた。即座に城から、主だった家中に使者が飛んでいる。

 冬康は義興の死を悼み、悲嘆に暮れた。長慶の調子が良好で、長月には面会を控えて、楽しみにしていた矢先である。

 義興の死を聞いた長慶は、広間で卒倒して意識を失った。今は道順が付き添っている。意識は戻ったが、床に着いたままで、虚ろな目をして天井を眺めている、と聞く。ぶつぶつと、何かを口の中で呟いてもいた。

 冬康は、此度の面会で義興への家督譲渡を、具申する予定であった。道順の報告でも、倒れる前の長慶ならば、冬康の意見に耳を傾けるであろう、と聞いていた。

 むろん、面会は延期になった。今年中にできるかも、覚束ないだろう。

 それにも増して、長慶は義興の葬儀への参列も、危うい状況であった。

 当主であり、父親でもある長慶が葬儀に出なかったと噂が流れれば、諸大名に、何らかの不審を抱かせる仕儀となる。故に、葬儀は密葬にする算段が、重臣間で打ち合わせられていた。

 悲しみと無念の気持ちが、一旦は落ち着いた頃、冬康の胸に去来したのは、義興の死に対する不審であった。

 ――久秀による、暗殺に違いない。

 間違いなく、気を付けていた。が、長慶の命で大手を振って義興に近づく久秀を、防ぐ手立ては見つからなかった。

 義興自身も、そうであっただろう。

 もっとも、人懐こく、親しみを込めて久秀が近づいて来ると、気を付けてはいても、どこかで心を許してしまったか。

 久秀は、妙に人の懐に入り込むのが上手い。冬康や一存・義賢も過去にそう思った機会はあったし、長慶に至っては、久秀の外観とは似つかぬ一面を好んでいた。

「此度も、証拠は挙がらぬだろうな」

 本丸の北の窓から、芥川城に思いを馳せていた。義興の切れ長の目、筋の通った鼻が、思い出される。

 美丈夫なだけではなく、理路騒然とした語り口、物怖じしない性格は、次代の三好家を背負うに相応しい器量であったし、まだまだ武将としての伸び代を残していた。

 冬康は、真に義興の将来に期待していた。それだけに落胆が大きく、今後の三好家への不安が大きくなっている。

「芥川・京周辺にて、弾正少弼の忍が多く動いておる状況は掴んでおりますが、なかなかに……」

 背後の之正が、悔しげに呟いた。ひどく、肩を落としている。己の責任だと、感じておるのだろう。

「讃岐守の時もそうであったが、弾正少弼は余程の忍群を使うておるようだな。やはり、あ奴に大和を与えたは、大きな過ちであったやもしれぬ……」

 久秀の勢いが増した切っ掛けは、大和を手に入れてからだ。大和の諸豪族を平らげ、多くの忍を召抱えて力を付けた。恐らくは、自信も生まれたであろう。

 獅子身中の虫に、大きな餌を与えてしまった。虫はどんどん肥え太り、主家を凌駕する勢いを見せている。

「殿。今後は、日向守様、笑岩様らと、ますます連携を深める必要がございますな」

 之正が、声を張った。

 確かに、肩を落としている場合ではなかった。義興の死は痛恨事だが、病とは申せ長慶は健在、冬康、長逸、康長など、三好家の屋台骨は、未だ、しっかりと立っている。

   51

 義興の葬儀がしめやかに行われた後、三好家の後継者を誰にするかが、問題となった。

 長慶は、相変わらず病に臥せっていた。そのため、重臣たちの喧々諤々の議論の末、今は亡き一存の子が、長慶の養子と決まった。名を、三好義継と改めている。

 長慶の後継者を決めるにあたり、冬康は親族衆や重臣たちと結束した。長逸、康長、石成友通、篠原長房など、家中の実力者たちを味方にして、一存の子をひた押した。

 さすがに久秀、長頼の松永兄弟を始め、他の誰もが反対できなかった。長慶には、道順が付き添いの下で、長逸が報告して了承を得た。

 義興の死から数ヶ月は、まずまず、三好家は安泰であった。もっとも、長慶の病は、憎悪と小康状態を繰り返しているが。

 永禄七年(一五六四年)の年が明けていた。

 年末が閏月であったせいか、正月早々、厳しい寒さが続いていた。三日を空けず、くすんだ雲から、雪が降り注いでいる。

 悪天候にも拘わらず、来客があった。

「今後の三好家を支えるのは、家中の信望が厚い、其許しかおらぬ。さすがの弾正少弼も、固く結束した我らには、手出しできまい。摂津守殿、くれぐれも刺客などには気をつけられるよう」

 康長であった。久秀に口を挟ませずに義継を後継に定めた次第に、かなり満足している。

「それについては、ご心配には及びませぬ。二六時中、儂の配下の忍に、殿をお守りさせておりますれば」

 之正が、塩を塗しただけの焼魚を、箸で摘んだ。すぐさま、空いたほうの手で、酒を呷る。

 正月なので、話をするにも酒と肴が付いた。

 義興が身罷り、長慶に継ぐ家中の実力者は、冬康を置いて他にはなかった。義興の喪が明けてから、岸和田城に繋ぎを付けてくる豪族も増えている。

 冬康の力が大きくなる状況を、久秀が快く思うはずがなかった。一存や義興の轍を踏まぬためにも、己の身の回りには気を配っている。

 また、之正の配下の忍には、隙あらば、いつでも久秀を仕留めてもよい、と命じていた。が、それもなかなか、難しい。

「総介の言で、安心したわい。摂津守殿に万が一があらば、家中で松永兄弟に対抗できる力を持つ者は、おらぬ」

 康長が半笑いで歪めた唇のまま、眼差しだけは真剣になった。

「微力ながら、叔父後の御期待に添えるように努めまする。それはそうと、御屋形様の様子が気に懸かり申す」

 道順からの年始の挨拶状には、長慶の症状が思わしくない旨が記されていた。寒くて、過ごし難い季節は、病も増悪する傾向にあるらしい。

 一刻ほど話し込み、辺りが薄暗くなってきた。小姓の一人が立ち上がり、女房に行灯の用意を申し付けている。

 すると、之正の家中の者が場に現れ、主人に耳打ちした。冬康と康長にも一礼して、すぐさま立ち去る。

「と、殿……。一大事にござる。道順殿と道案殿が、御屋形様から死を賜ったようです」

 之正の、酔うて朱色掛かった表情が、見るみる白くなっていた。 


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