ラスボスの嫁
1
ここは、ファダー帝国の宮殿にある皇太子バドル殿下の部屋。
寝台に座ったわたし、帝国の属国マズナブ王国王女メシュメシュは、目の前の旦那さまに見惚れていた。
異国から連れてこられた奴隷だったという母君譲りの銀髪は、窓の外から差し込む月光を浴びて煌めいている。風に踊る髪がくすぐるのは、鼻筋の通った端正な顔だ。
激しい砂漠の太陽を浴びた褐色の肌。
はだけた服から覗く胸板は厚く、腹は六つに割れている。
長い手足は逞しく、筋肉が浮き出ていた。
わたしの父さまのような筋骨隆々な大男ではなく、しなやかな肉食獣の体だ。
白地に施された青と銀糸の刺しゅうは、花と幾何学模様が組み合わされている。
この帝国では、たとえ皇族であろうとも獣の姿を模様として扱うことは許されていない。
昼間の派手な婚礼衣装より、今のくだけた格好のほうが彼の魅力を引き立てている。
やはり母君譲りと思われる青玉色の切れ長な瞳がわたしを映す。
部屋にはほかにだれもいない。護衛の兵士は扉の外だ。
ある程度の年齢まで奴隷として育った旦那さまは、私室に使用人がいると落ち着かないという。
薄い唇が開いて、艶めく低い声が耳朶をくすぐった。
「お前も不運な女だな。父親の気まぐれで、こんな男に嫁がされて」
奴隷の母君を持つ彼に、後ろ盾はない。
強いていうなら、わたしの父さまくらいだろうか。
もっともマズナブ王国国王である父アルドは、彼の兄君である現皇帝派。
バドル殿下とのつき合いも陛下に頼まれてのことだと噂されている。
でも父さまは武闘派だから、本当は単に逞しい旦那さまを気に入っているだけかもしれない。案外地下闘技場で戦ったことがあるんだったりして……え?
頭に浮かんだ不思議な単語に、首を傾げた。
地下闘技場ってなに?
ただの闘技場なら知っているのだけれど。
毎年父さまが楽しみにしてる、武術大会を開催するところだ。
演劇や音楽の祭典の会場にもなる、帝都の観光名所。そのうち行ってみたい。
でも地下闘技場は知らなかった。
今日の昼、婚礼で旦那さまにお会いしてから、ときどき不思議な言葉が頭をよぎる。
旦那さまを最初に見たときも、妙なことを思ってしまった。
……3Dモデルとは違う、だなんて。
3Dモデルなんて、生まれてからこれまで、一度も聞いたことがない。
バドル殿下が怪訝そうな顔になる。
いけない。せっかくのお話中に、変な考えに耽ってしまっていた。
『できそこない』のわたしを正妃に迎えてくださった、大切な方なのに。
いつまでも聞いていたくなる、魅力的な低い声が言葉を続ける。
「熊王殿も変わりものだ。慈しんで育てた大事な娘を、徴税局の長官になったのをいいことに、腐敗した徴税役人に賄賂を要求して私腹を肥やすような男の花嫁に……」
「でも賄賂として受け取ったお金は、徴税役人たちが勝手に重税を巻き上げた地域の産業に投資していらっしゃるのでしょう? 人は、既得権益を奪われると抵抗する。だから以前から徴税人として雇っていたものたちを徴税局に組み込み、これまでどおりの利益を与えているように見せかけて、少しずつ権限を奪っていっているのですよね」
食い気味で話してしまったわたしを、旦那さまは不思議そうに見つめる。
というか……食い気味? ってなに?
「だ、だが、俺は徴税役人たちからの賄賂で奴隷女を買い込み、ハーレムに囲っているんだぞ。そんな男でいいのか?」
「囲っていると言っても、妾にされているわけではありませんよね? 殿下は買い込んだ奴隷のうち、奴隷商人にさらわれてきたものは故郷へ戻し、ハーレムには親に売られたなどで帰る場所のない女性たちを置いていらっしゃいます。いつかひとりでも生きていけるように、彼女たちの適性に合わせた教育を与えているのでしょう?」
バドル殿下が溜息をついた。
おかしな返答をしてしまったのかしら。
というか……わたし、どうしてこんなことを知っているの?
「鍛練と勝負にしか興味のない男かと思っていたら、大したものだな熊王殿は。いや、当たり前か。そうでなければ、豊かなマズナブ王国を守り通せるはずがない。……てか、俺の気持ちなど十年前からお見通しだったってことか?」
月光を紡いだような銀の前髪をかき上げて、彼が笑う。
わたしよりひとつ上、十七歳という年齢に相応しい少年の笑顔だ。
二十七歳の彼は、こんな無邪気な笑みは見せてくれなかった。
酸いも甘いも噛み分けて、清濁を併せ呑んだ大人の表情で……って、さっきから、わたしはなにを考えているの?
だけど……わたしは知っていた。
目の前で笑っている少年の十年後の姿を。
病弱な現皇帝の死後即位し、お忍びで街へ出て地下闘技場で戦ったり、ふらっと砂漠の魔獣退治に参加して部下に怒られたりする――
「……アサド・ラフマー・アーテファ・ザイール・バドル・フェッダ・イムベラートール……」
わたしは、彼が成人の儀で偉大なる神に与えられた、神獣の姿になるものにしかない魂の名前をも知っていた。
これを知らないと、自己再生能力を持つラスボスの彼は絶対に倒せない。
……ラスボス?
ラスボスは、ああ、そうだ。
その言葉の意味を思い出した瞬間、知識が濁流のように頭の中に流れ込んできた。
青玉の瞳がわたしを見つめて驚いている。
「お前……なぜ、それを……」
自分の中に蘇った記憶に呆然とするわたしの前で、魂の名前を呼ばれた旦那さまは、銀色に輝く鬣を持つ、白い獅子に姿を変えた。
野生の獅子よりひと回り大きい。
白銀の魔力が彼を包んで光り輝いている。
涙が出た。
十年後の旦那さま、SRPG『レルアバド・ニハーヤ~永遠の終わり~』のラスボス『死せる白銀の獅子皇帝』は、不死者によってさまざまな獣と合体させられた、腐りかけの死体の化け物と化していた。
本来の獅子の、生きた神獣としての姿を見るのは、前世も現世も初めてだ。
――そう、わたしメシュメシュは、転生者だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2
「『げぇむ』? この世界は、お前が前世遊んだ『げぇむ』と同じだと言うのか」
旦那さまの言葉に、わたしは首肯した。
「ふうん。お前が妙なことを知っていたのは、前世『げぇむ』で俺と会っていたからなのか」
「……納得なさるんですか?」
「納得せざるを得ないだろう。そんな理由でもなければ、俺と神しか知らない魂の名前を知るはずがない」
「で、でもそれって、この世界が作りものだってことなのですよ?」
「お前の前世では、だろ? 偉大なる神が治めるのは、この世界ひとつではないとされている。お前の前世も、神が治めるべつの世界では作りものだったのかもしれないぞ?」
旦那さまの柔軟な考えに惚れ直してしまう。
あ、いえ、これは前世の感情に引きずられているだけで……とはいえ、政略結婚した以上バドル殿下をお慕いするのは当然のことで。
「その『げぇむ』では、俺は『ラスボス』……諸悪の根源だったのか」
わたしは、膝の上にある旦那さまの鬣を撫でながら首を横に振る。
彼はまだ獅子の姿だ。
一度神獣に変身すると、しばらく戻れないのだという。
神獣の間は無敵だが、人間の姿に戻るとそれまでのダメージが一気に来る。
変身しているだけで疲労が蓄積されていくので、戻った後は眠ってしまうだろうとも教えてくれた。
「旦那さまのせいではありません。『操りの虫』を生みつけられてしまったのです」
「てことは、黒幕は『美しき蠅の女王』か」
『美しき蠅の女王』は邪悪な三人の不死者のひとり、この世界の獣人族に呪いをかけた探究者たちの成れの果てだ。
――今、砂に覆われているこの大陸は、以前は緑の大地だった。
そのころ、大地の支配者は悪賢い探究者たちで、不老不死の秘法を追い求めた彼らは、その研究の一端として、ほかの人間に呪いをかけて奴隷にした。
獣と人間が混ざった姿、獣人になる呪いだ。
獣人は研究の材料になる鉱物を掘り起こす怪力と作業に必要な強い魔力を持つ。
もっとも獣人は、ほかの人間のような魔法は使えない。
強い魔力を体の動きに乗せて放出するだけだ。もちろんそれだけで強い攻撃になるし、探究者は道具に過ぎない獣人に魔力を操る技術は求めていなかった。
混ざった獣の性質に押し潰されて暴走して自滅したり、研究の実験台にされたり、そうでなくても怪力と強い魔力は生命力を消費するため、獣人の寿命は短かった。
虐げられながら数世代を重ねたあるとき、救いを求める獣人たちの声が、ついに神へと届いた。老いて死ぬ運命でありながら、不老不死を求める不遜な探究者たちに、神の怒りが頂点に達したからだともいわれている。
しかし神といえども万能ではない。神にも獣人の呪いは解けなかった。
神にできたのは呪いを制御する力を与えること、そして種族ごとの指導者に魂の名前を与えることだけだ。
でもそれで十分だった。
魂の名前を知ることで神獣の姿を取れるようになった指導者たちは、同胞とともに探究者を打ち破り、大陸の覇権を奪い取った。
研究の余波で大地はもう今と同じ砂漠に覆われていたけれど、獣人と人間の姿を使い分けることで、人々は逞しく生き抜いた。
奴隷の獣人に頼り切っていた探究者たちは本拠地を追われて力を失い、三人の不死者以外は滅んでしまったといわれている。
不死者といっても、探究者たちが追い求めていた不老不死の秘法は完成されていない。
正確にいえば彼らは不死ではなく、死んでも動き続けているだけなのだ。
『美しき蠅の女王』は体内で無数の蠅を飼い、その子である蛆、『操りの虫』をしもべに生みつけて操る。
しもべたちを合体させて化け物にし、多くの人間を屠らせて血肉を食らうために。
動く死者である不死者たちが満たされることはない。
永遠の飢餓に突き動かされて、ただひたすら食らい続けるのだ。
「なんだって俺は、不死者のしもべになったんだろうな」
旦那さまの問いに、わたしは首を傾げた。
『美しき蠅の女王』は、しもべ以外に『操りの虫』を生みつけることはできない。
そして、相手が望まない限りしもべにはできない。
前世、三回『レルアバド・ニハーヤ』をクリアしたけれど、旦那さまがしもべになった理由は出てこなかった。
一回目はしもべになる前の気さくな皇帝陛下と蛆にたかられた忌まわしいラスボス姿のギャップにショックを受けて、二回目はラスボスになる前に救えるのではないかといろいろ試して、攻略本やネットの噂から救う道はないと知った後の三回目は、モブとの会話を繰り返して彼の情報を集めた。
病気で死ななければ、四回目も五回目もプレイしただろう。
『レルアバド・ニハーヤ』は、病気で入院したわたしに、友達が携帯ゲーム機と一緒にプレゼントしてくれたゲームだった。
その友達も、前世の家族も、自分自身のものでさえ、顔も名前も思い出せない。
思い出せたのは旦那さまに関することと、断片的な日常の風景だけだ。
一度死んで転生した以上、それで良いのだろう。
ゲームと同じ世界でも、ここは現世のわたしが生きる世界なのだから。
「……メシュメシュ」
「ふぁっ!」
不意に名前で呼ばれて、わたしは変な声を出してしまった。
ゲームで聞いたときよりも若々しいけれど、低い声は艶っぽくてドキドキしてしまう。
わたしはあまり詳しくなかったが、ゲームをくれた友達が人気声優だと言っていたっけ。
その声を今、わたしがひとり占めしてる。
「お前は?」
「は、はいっ?」
「俺が『ラスボス』だったとき、お前はどうしてた?」
「……いませんでした」
「『ラスボス』になる前は? 『げぇむ』の中でも少しはマトモな時期があったんだろ?」
「旦那さまは独身の皇帝陛下でした」
「そうか。じゃあ俺は、復活させるためしもべになったんだな」
「どなたをですか?」
「……」
復活させるといっても、不死者にできるのは死体を自分たちと同じ、動く死者にすることだけだ。
旦那さまは教えてくださらなかったけれど、復活させたいと思ってらっしゃったのは兄君の現皇帝陛下かもしれない。
現皇帝陛下は先代さまの死後、奴隷だったバドル殿下に獣化の能力があることを見出して、ご自分の養子にして太子の地位まで与えた方なのだもの。
――探究者を追い出した後、獣人たちはそれぞれの種族に別れて王国を築いた。
けれど獣人といえど人間、人間の欲望は深い。
やがて王国同士が争い始めた。
血で血を洗う戦いの日々の中で、ひとりの青年が神に願う。
どうか平和をもたらしてください、と。
慈悲深き神はこれに応えた。
獣化の能力を持たない『できそこない』だった彼に魂の名前を与え、これまで獣人にいなかった獅子の神獣に変身させたのだ。
百獣の王と呼ばれる獅子の咆哮はすべての種族をひれ伏させ、青年はファダー帝国の初代皇帝となった。
さまざまな種族の築いた王国の集合体である帝国の歴史が始まって、早数百年。
代を重ねるごとに、獣化の能力を持つものは減っていった。
今では王侯貴族の家を継ぐのは獣化できるものだけとの不文律が生まれている。
当主に生まれた『できそこない』の子どもが、認知されず奴隷にされることも珍しくない。『できそこない』からは『できそこない』が生まれることが多いからだ。
旦那さまは獣化の能力を見出されるまで、母君と一緒に奴隷として暮らしていた。
わたしはマズナブ王国が豊かで余裕のある国だったので、ある程度大きくなるまでは自分が『できそこない』であることを意識していなかった。
年ごろになって、不意に気づいたのだ。
『できそこない』の子どもを産む確率の高い『できそこない』のわたしを、花嫁にしたいという獣人男性はいない、ということに。
だから、バドル殿下との政略結婚の話が来たときは、とても嬉しかった。
悪い噂も聞いていたけれど、少しも気にならなかった。
もしかしたらあのときはもう、前世の記憶が戻りかけていたのだろうか。
今と同じ年ごろで、恋を知る前に病気になってしまった前世のわたしは、ゲームの中のラスボスに恋をした。その気持ちは現世もはっきり思い出せる。
ともあれ、皇太子殿下との結婚は育んでくれた家族とマズナブ王国への恩返しにもなるのだし。だけど――
「よろしかったのですか?」
「なにがだ?」
「わたしのような、その……『できそこない』を花嫁に迎えて」
「俺も昔はそうだったぞ。てかお前、俺が神獣になれるってことは秘密にしろよ」
「ほかの方はご存じないのですか?」
「ああ。……神獣のことを知られたら、兄上を退位させて俺を帝位につけようなんてバカが出てくるかもしれないからな。いや、退位ならまだいい。てっとり早く殺そうなんてバカが現れたら、兄上に申し訳ない」
「わかりました」
獅子の獣人の現皇帝陛下は、神獣になる力はお持ちでない。
ゲームの旦那さまが不死者のしもべになったのは、これからお亡くなりになる病弱な兄君を復活させたいと願ったからだろう。
そういえば、わたし……十年後にはわたしがいなかった。
さっき旦那さまに聞かれるまで考えてもみなかった。
まあ、前世を思い出したのもついさっきだ。
数年で飽きられて、実家に戻されてしまうのかもしれない。
皇太子の正妃なら大丈夫でも、皇帝の妃は務まらないと思われたのかも。
バドル殿下は、独身の現皇帝陛下がご結婚されて跡取りを得るまでのつなぎの太子とされている。だから『できそこない』相手の結婚が許されたに違いない。
ゲームの主人公がマズナブ王国に行ったときも出てこなかったわたしは、城の奥にでも引きこもっていたのかしら。
バドル殿下なら、わたしを実家へ戻すとしても、冤罪を着せたりマズナブ王国を不当に扱ったりはしないと思うのだけど。
「そろそろ寝るぞ。『げぇむ』について思い出したことがあったら明日また聞かせてくれ。お前の知識は役に立ちそうだ」
膝から頭を降ろして、銀の鬣を持つ白い獅子が寝台に横たわる。
青い瞳に促されて、わたしも隣に寄り添った。
眠りながら人間の姿に戻るのが、楽だし蓄積疲労の回復も速いそうだ。
旦那さまがわたしと結婚なさったのは、豊かなマズナブ王国の援助が目当てなのだろう。
それでも白い毛並みはすべすべで、しなやかな体は温かくて、わたしはいずれ実家に戻されるのだとしても、バドル殿下がラスボスになることだけは防いでおこうと思いながら眠りに就いた。
騒がしい胸の動悸が、前世の記憶によるものなのか、メシュメシュ王女のものなのかは、よくわからない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
3
バドル殿下は海辺の土地を所有している。
そこには廃鉱になった金山があった。
婚礼の翌日、わたしたちは宮殿から近いその場所へ馬を走らせた。
馬にはわたしと旦那さまのふたり乗り。
わたし、本当は馬に乗れるのだけど、一緒に乗っていたほうが護りやすいと言われて。
皇太子とその正妃なのだから、安全には気を配らなくてはね。
ひとりだけの護衛は後ろを追ってきて、ある程度以上は近づいてこない。
新婚だから、ではなく、旦那さまがお強いからだろう。
毎年の武術大会は理由をつけて欠席されているが――興奮して、無意識に神獣となるのを恐れていらっしゃるのかも――秘密裏に開催されている、地下闘技場の賭け試合では強敵だった。
それも前世、ゲームでの記憶だ。
馬を降りて、ふたりで海岸を歩く。
海岸は白い石に覆われていた。黄金を産出する土地に多い石英だ。
探究者たちは黄金を完全な金属、不老不死の象徴として尊んでいた。
不老不死の秘法を完成させるため、ほかの金属を黄金に変える研究をおこなっていて、その前段階として本物の黄金も研究していたという。
潮の香りが鼻をくすぐる。
わたしは海へと目を向けた。
この大陸を照らす太陽はいつも激しいけれど、湿気を含んだ風が熱気を和らげてくれる。
打ち寄せる波の音が体を包み、まだ見ぬ前世への不安を鎮めていく。
なんとはなしに、わたしは口を開いた。
「ありがとうございます、旦那さま。子どものころから、海に憧れていたんです」
「そうか」
前世のわたしは海に来たことがあっただろうか。
現世のわたしは初めてだ。
故郷のマズナブ王国は大陸の中央にある。砂漠のど真ん中のオアシス都市だ。
「亡くなったおばあさまにいただいた、海の絵本がお気に入りで」
「……そうか。どんな話だ?」
それは、海を舞台にした恋の物語。
生物から作り出される鉱物、真珠を研究する探究者の奴隷だった蛇の獣人少女が、真珠を採りに海へ潜るときの監視につけられた狼の獣人に恋をする。
獣人本人が変身を制御できない時代。モフモフでない、鱗だらけの自分の姿に少女は思い悩み――最後はハッピーエンド。
はっきり気づいたのは年ごろになってからだったものの、わたしも周囲と異なる自分に悩んでいた。物語の少女に、自分を重ねていたのかもしれない。
そんな自分の気持ちを伏せて絵本の内容を説明すると、旦那さまは優しく微笑んだ。
わたしの心臓が加速する。
顔が熱い。真っ赤になったりしていないだろうか。
前世の自分に引きずられているとしても、バドル殿下を好きになるのは悪いことではない。たとえ数年後に捨てられても、それまでは夫婦なのだから。
でも……あんまり見え見えだと恥ずかしいのだもの。
「メシュメシュ」
「ふぁ、はい!」
その艶やかで低い声に名前を呼ばれると、なんだか体が痺れてしまう。
ゲームの声と同じはずなのに、今の声のほうが好きな気がする。
比べられないから、わからないけれど。
「その絵本はどうした? 俺も読んでみたい」
「も、申し訳ありません。今は持っていないのです。人にあげてしまって」
「祖母殿からいただいた大切な絵本を、人にやったのか?」
「……はい。大事な人、生まれて初めてのお友達に差し上げたのです」
「そうか……」
ひどく甘い声に、わたしは旦那さまを見つめた。
青い瞳と視線がぶつかる。潮風になびく、銀色の髪。
なんだかとても幸せそうな表情だ。
わたしは言葉をつけ足した。
「旦那さまと同じ、銀の髪の持ち主でした」
「そうか」
「父さまがつけてくださった子どもの護衛で、わたしはその子が大好きでした。……名前も覚えていないのですが」
「そうか。……あー、もしかしてソイツがお前の初恋の相手か?」
「まさか! それはありません。だって、その子は女の子でしたもの」
「……はあ? ってお前、ソイツの裸見たことあるのか? なんで女だと思った」
「奴隷だったので言葉は汚かったですけど、とっても綺麗な子でしたから」
「いやお前、顔だけで判断するなよ」
「旦那さま?」
「あー……なんでもない」
旦那さまは溜息をついた。
なにかご機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのだろうか。
あ、そうだ!
「旦那さま」
「なんだ?」
「ゲームのこと、少し思い出しました」
わたしは海の向こうを指差した。
あそこには、帝国やその属国と貿易関係がある数多の島が浮かんでいる。
「ゲームの主人公は帝国に属さない、島王国の王子でした。最初は国王の跡取りとして帝都の大学に留学してきて……」
「大学?」
「えっと……知識や技術を学ぶ施設です。そうでした。旦那さまがお造りになります。そのころの生徒は王侯貴族と富裕層だけでしたが、今にすべての人民、国も種族も関係なく学べるようにすると、おっしゃっていました」
ゲームの主人公は小国の王子なので、留学したくらいでは皇帝陛下に会えない。
小遣い稼ぎの地下闘技場で何度か対戦した後、大学の学長としての皇帝陛下に会って驚いているときに、聞かされた話だ。
ちなみに、奴隷制こそあるものの、ファダー帝国における男女の差は少ない。
性別よりも獣人に変身できるかどうかのほうが重んじられるし、種族によっては女性のほうが強い獣もいるからだ。
父と同じように熊の獣人に変身できる妹は、マズナブ王国中から期待されている。
「……あ!」
「どうした?」
「わたしの妹、ヒロイン候補のひとりでした!」
「は?」
「えっと、そのゲームの物語は一本道で終わりは変わりません。……どんなことをしても、旦那さまがラスボスでした。でも途中の事件の結末やちょっとした展開は変えることができたんです。ヒロインというのは主人公の恋人で、それはプレイヤー、ゲームをしていたわたしが選ぶことができました」
でもわたしは、ヒロイン候補の好感度を上げるためのフリータイムで、モブに情報を聞いたり建物の落書きを調べたりして、旦那さまをラスボスにしない方法ばかり探していた。
初回はラスボスと知らなかったから、仲間にするための情報を集めていた。
フリータイムにしか見つけられない仲間専用武具を探したりもしていたので、三回のプレイで一度たりとも、主人公に恋人ができたことはない。
ごめんなさい、妹。
主人公もすいませんでした。
そういえば主人公はなんて名前だっただろう。
最初のまま変更していなかったのだけれど、周囲がみんな『王子』とか『殿下』とか呼んでたから思い出せない。
「熊の獣人で同い年の妹と、帝国大学で知り合う年下の虎の獣人少女、年上の幼なじみのメイドの三人が、ヒロイン候補だったんです」
「そうか」
旦那さまの青い瞳が海を映して、いつもとは少し違う光を放つ。
「つまり将来俺を殺す予定の『主人公』とやらはお前の妹と同い年で、どこかの島王国の王子なんだな」
「旦那さま?」
「安心しろ。危害を加えるつもりはない。『操りの虫』を生みつけられた俺に国を滅ぼされたのだろう? それに俺は『美しき蠅の女王』によって動き続ける死体の化け物になっていたのだから、むしろ退治されたことを感謝する必要があるかもしれない」
ここへ来るまでの間に、わたしは思い出すままにゲームの内容を語っていた。
地下闘技場の謎の闘士で帝国大学の初代学長で、魔獣退治の好きな気さくな独身皇帝陛下二十七歳は、あるときから変化した。
属国や友好国に絶対的な服従を強要し、逆らったものは攻め滅ぼした。
主人公が亡国の王子だったということだけは、さっきもう思い出していた。
絶対的な服従は攻め込むための大義名分だ。
でもマズナブ王国だけは自治権を保っていて、のん気な妹は復讐に向かう主人公の気持ちがわからなくて、無神経な発言をして言い争いになってしまう。
それがふたりの始まりだった。
……わたしのせいで、それ以上に発展したことはない。
妹の物理系パラメータが、いつも主人公の倍以上あったことも覚えている。
職業はバーサーカーだったっけ。……妹よ。
「メシュメシュ」
「は、はい?」
うー。旦那さまの声で名前を呼ばれると、どうしても緊張してしまう。
胸のドキドキが激しくなる。
「大丈夫だ、未来は変わる。俺が変えてみせる。一生奴隷として虐げられて生きていくのだと思っていた俺が、兄上のおかげで今は皇太子殿下なくらいだからな」
やっぱり現皇帝陛下は、旦那さまにとってとても大切な方のようだ。
旦那さまをラスボスにしないためには、兄君を助けるのが一番なのかもしれない。
ゲーム開始時にはもう亡くなられていたから、本編では運命を変えられなかったのだろう。せっかく十年も前に記憶が戻ったのだし、できる限り頑張ってみよう。
「そろそろ帰るか」
「はい」
「体調が大丈夫だったら、帰りながら『大学』のことを教えてくれ。覚えているか?」
「ゲームの中の大学は決まったイベントさえクリアしたら時間が進んだので、詳しいことはわかりません。でも前世の世界での大学という施設のことなら、少しはお話しできると思います」
前世のわたしは大学生ではなかった。
そうなる前に死んでしまったのだ。
たぶん現世のわたしと同じくらいの年齢で、入院していなければ高校という施設に通っていた。
高校を終了すると大学に行く。
友達が持ってきてくれた大学のパンフレットを、一緒に眺めていた記憶があった。
確か入るためには試験に合格する必要がある。
それと……
記憶を探るわたしを、旦那さまが抱き上げた。
「だ、旦那さま?」
「岩場を歩くのは疲れただろう。馬のところまで俺が抱いていってやる」
「あ、ありがとうございます」
「疲れには甘味が一番だ。干し杏を持ってきたから、後で食べるといい。……俺も食べよう、メシュメシュ(杏)を、な」
からかうように耳元で囁かれて、わたしの頭から大学のことが抜けてしまった。
ううう。でも、まだ十年あるから大丈夫、よね?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その夜、わたしは熱を出した――
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
4
……冷たい。
額になにか冷たいものが載せられる。
濡れた布を置いて離れる前に、硬い指先が頬をなぞっていく。
「旦那さま?」
「すまない、起こしてしまったか?」
「大丈夫です。むしろ眠りすぎで疲れています」
渋々、という様子で、旦那さまはわたしが体を起こすのを手伝ってくれた。
窓の外は暗い。
せっかくの新婚三日目を、わたしは寝て過ごしてしまった。
蜜月の間、皇太子の仕事を休んでくださっている旦那さまに申し訳ない。
「昨日は悪かった。潮風は体に良くない。婚礼の翌日に、疲れているお前を海岸に連れて行くなど、するべきではなかったんだ」
「そんなことありません。ただの熱射病ですわ」
「っ! 熱射病で死ぬこともあるんだぞ!」
「……ご、ごめんなさい」
旦那さまの怒りはもっともだった。
激しい太陽を空に持つこの国で、日光を侮るのは死を呼び込むことだ。
バドル殿下は泣きそうな顔をして、銀の髪をかき上げる。
「熊王殿にも気をつけろと言われていたのに、俺は……バカだ」
「そんなに体は弱くないですよ? 熊獣人の父さまとは比べものになりませんし、武術を極めているわけでもありませんが、どちらかといえば丈夫なほうです」
神獣に変身するのとは違い、獣と人間が混ざった獣人の姿になるのに体力的なマイナスはない。怪我した状態で獣人になり、超回復してから人間に戻れば傷も癒えている。
だが精神的な問題があった。
ゲーム風にいうと、毎ターン精神力のパラメータが落ちていき、混乱・魅了・即死にかかりやすくなるのだ。獣人の状態で精神力がひとケタになると、敵味方なく攻撃する暴走状態に陥る。
いわゆるバーサーカー。
妹はコマンドで暴走状態になれた。
まあ、元から精神力のパラメータも低い。姉としては少し心配。
旦那さまは優しく微笑んで、冷えたレモン水を渡してくれる。
器ごとわたしの手を支えてくれる、大きな手が嬉しい。
「無理をするな。これからはちゃんと気をつける」
……甘い。
糖蜜入りのレモン水で渇いた喉を潤して、わたしは口を開いた。
「本当に大丈夫です。自分で獲物は取りませんでしたが、父の狩りにも同行していました。昨日熱射病になったのは……ごめんなさい」
「お前が謝ることなど、なにもない」
「そうじゃないんです。わたし、昨日はいつも使っている分厚い頭布でなく、薄布をかぶっていたから、それで熱射病になってしまったのです」
婚礼の贈答品として旦那さまにいただいたものだったから、どうしても身につけたかったのだ。でもこうして心配をかけるくらいなら、宮殿に戻るまで我慢してから使えば良かった。
そのことを正直に告げて謝ると、旦那さまは困惑したような笑みを浮かべる。
「それは気をつけてほしいが、本当に無理をするな。そもそもお前の体が弱くなったのは、もとはといえば俺のせいなのだから」
「え?」
旦那さまは寝台横から離れ、なにかを手にして戻ってきた。
渡されたのは古びた絵本。
昨日の海岸で話した、おばあさまにいただいた絵本だ。
わたしと同じ『できそこない』だったおばあさまを、周囲の反対を退けて娶ったおじいさまが、彼女のために一流絵師を呼んで作らせた、この世にただ一冊の絵本。
この世界にも本はあるけれど、学術書が主だ。
娯楽のための本は少なく、絵本はさらに少ない。これだけかもしれない。
「どうして旦那さまがこれを……あ! もしかしてあの子、旦那さまのハーレムにいるのですか? 元気にしていますか?」
幼いわたしの護衛をしてくれていた奴隷の子どもは、ある日突然いなくなった。
父さまは親の元へ帰ったと言っていたけれど、旦那さまのハーレムの女性たちと同じように、親に売られた奴隷も多い。
旦那さまは肩を落として溜息をつく。
「……俺だよ」
「はい?」
「なんでお前が女だったって思い込んでるのか知らないが、この絵本をもらったのは俺! 十年前お前を護衛してたのも俺!……お前の体を弱くしてしまったのも俺だ」
旦那さまがあの子だと言われても、全然実感がない。
あの子は月光で作られた人形のように美しかった。……旦那さまも美しいけれど。
それに、ある日突然体が弱くなった覚えもない。
首を傾げるわたしに、旦那さまが形の良い眉を吊り上げる。
「お前、信じてないな」
「ごめんなさい。この絵本がある以上、旦那さまがあの子だというのは真実だと思うのですが、体を弱くされたというのは……神獣のお力ですか?」
前世ラスボスと戦ったとき、状態異常攻撃をしかけてきたのは、旦那さまの獅子頭ではなく合体させられた蛇頭だった。毒霧を吐いてきたのだ。
後、周りを飛んでいる蠅にパラメータを一ずつ下げられるのも地味に効いた。
でも旦那さまの咆哮は動きを止めるだけで、付随効果はなかったと思う。
魂の名前を手に入れてから、ラストバトルに臨んでいたからだろうか。
「違う。あのころのお前の前で神獣に変身したことはない。成人の儀をしたのは十五歳のときだ。……まあ、獣人にはなれたがな」
「え……?」
獣化の能力を持っているかどうかは、生まれたときにわかる。
角、鬣、尻尾など、明らかな特徴を持って生まれてくるからだ。
ただごく稀に、命の危機に際して獣化の能力が発現することもある。
旦那さまの場合は、その例だと思っていたのだけれど。
「『できそこない』は俺じゃない。先代の皇帝だ」
「旦那さまのお父君……」
「あんなヤツ、父親なんかじゃないっ! 俺の父親は養子にしてくださった兄上と熊王殿、お前の父君だけだ」
――ほかに、いなかったのだ。
先代皇帝は血をつなぐ種馬として(獅子獣人なのに馬!)、『できそこない』であることを隠して育てられた。
当然、現皇帝陛下である旦那さまの兄君が生まれてからは不要になる。
現皇帝陛下は獅子獣人になれたから。
用無しの傀儡である鬱憤を、彼は奴隷たちに向けた。
同じ『できそこない』を貶めることで、自分だけは違うと思い込もうとしていたのだ。
先代皇帝と旦那さまの母君の間に愛はなかった。
あったのは一方的な暴力だけだ。
見下していた奴隷が獣人を生んだと知ったら、先代皇帝のプライドは粉々に砕け散るだろう。旦那さまの母君はそれを悟り、息子を『できそこない』として育てた。
「赤んぼのとき生えてた尻尾、切られたんだ。超回復で、また生えてきたけど。でも耳が獣型じゃなくて良かった。さすがに耳は生えてこないだろうからな」
現皇帝陛下の即位が近づくごとに、先代皇帝の鬱憤は増大していった。
彼は身近の奴隷たちを甚振り、傷つけ、殺した。
その手が母君に向けられたとき、旦那さまは母君を守るため獣人になった。
「あの男は俺が殺した、わけじゃない。見下していた奴隷に獣化の能力があったという衝撃に耐えきれなくて、頭に血が昇って自滅したんだ。そうなるとわかっていたら、もっと早く目の前で変身してやったんだがな。……お袋が死ぬ前に」
先代皇帝を止めに来た現皇帝陛下が、母君の死に呆然としていた旦那さまを保護した。
けれど皇帝即位直前に見つかった異母弟の存在は、災いしか生み出さない。
国が落ち着くまで公表はできなかった。
「それで父さまに……」
「ああ。武術の基礎は熊王殿に、読み書きはお前に教わった」
「わたしに?」
「思い出せないか?」
「いいえ、なんとなくは……そうでしたね。あの絵本は、文字を覚えたご褒美と復習のための教材として差し上げたのでした。でもお友達だから、というのも本当ですよ」
「わかってる、ありがとう」
「でも旦那さま」
「なんだ?」
「体を弱くというのは……?」
「……」
旦那さまの整った顔が、苦痛に歪む。
「……俺がバカだったんだ。どんなにせがまれても、お姫さま育ちのお前をあんな場所へ連れて行くべきではなかった。あんな……」
わたしは息を呑み、つぎの言葉を待った。
「あんな、ホコリだらけの書庫になど!」
「……はい?」
「お前はそのまま死んでしまいそうなほど咳をして、翌日は熱まで出した。俺はずっとついていたかったが、兄上の使いが迎えに来て」
「はあ」
「去年結婚を申し込んだとき、熊王殿に言われたよ。あのときのせいで、お前はいつ死ぬともわからぬ体になってしまった。それでも良ければ、と」
「ふうん……」
わたしは旦那さまに、ホコリを吸い込めば咳が出ることと、子どもはちょっとしたことで熱が出ることを話した。
十年前、わたしはまだ六歳だった。子どもにもほどがある。
「だが、俺は咳が出なかったぞ」
「ホコリだらけの本を漁ったり読んだりしていたのはわたしで、旦那さまはそんなわたしを見ていただけだからです。マズナブ王国へ来る前は、母君さまを手伝って掃除や洗濯をなさっていたんですよね? そのときに慣れていたのかもしれませんよ」
「熊王殿の言葉は……」
「どんな生き物も、いつ死ぬともわからない体です。どんなに強くても若くても」
ここはゲームの世界だけど、わたしが前世プレイしたときとは違う。
リセットはない。セーブ・ロードもない。蘇生の魔法もない。
精いっぱい生きて、いつか死ぬ。前世と同じ世界だ。
「イヤだっ!」
ものすごい力で、旦那さまがわたしを抱き寄せる。
「どんな理由だろうと、お前が死ぬのは許さないっ!……『ラスボス』の話を聞いたとき、お前がいなかったと知ってすぐわかった。俺がしもべになったのは、お前を復活させるためだ。お前のいない世界など耐えられない」
「旦那さま……どうして?」
「知らん」
「え?」
「瞳をキラキラと輝かせて、絵本を読んでくれたお前に俺は恋をした。お前は俺の視線を誤解して、字を覚えたら絵本をくれると言ったな。いつ恋したかは覚えている。だが、どうしてなのかは知らん。……好きだ。好きでたまらないだけだ」
「旦那さま……」
前世のゲームで初めて登場したときは、あまりいい印象はなかった。
地下闘技場の賭け試合で、育てた主人公をコテンパンにされたのだもの。
所持金をすべて自分に賭けていた、前世のわたしも悪いのだけど。
挑戦を繰り返すと少しずつ攻撃が効くようになって、やっとの思いで倒して、大学で再会して、あれ? もしかして仲間にならないかも、なんて思いつつも仲間になる方法を探して、主人公の国を滅ぼされて――
現世はどうだっただろう。
初めて会ったときのことは、ぼんやりとしか覚えてない。
綺麗だと思った。
ちょっぴり嫉妬した。
悲しそうな顔をしていると思った。
抱きしめたくなった――
前世と現世のわたしの境界線はわからない。
わかっているのは、ただひとつ。
わたしは旦那さまの背中に手を回した。
腕に力を込める。
ラスボスの姿に涙したわたしも、初対面の子どもを抱きしめたかったわたしも、
……この人が、好き。
それだけが真実。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5
ぽてん。
抱き合ったまま、寝台に押し倒された。
旦那さまが体を離す。
「……メシュメシュ」
「は、はいっ!」
「本当に、体は大丈夫なんだな?」
「はい、元気です。熱射病からも回復しました」
「そうか。じゃあ……きちんと初夜を済ませるぞ?」
わたしは目を閉じて、頷いた。
旦那さまの唇が落ちてくる。
驚くほど熱い唇はやがて離れ、そして――
「旦那さま?」
瞳を開けると、わたしに覆いかぶさる銀の鬣を持つ白い獅子の姿があった。
白銀の魔力に包まれて光り輝く、野生の獅子よりひと回り大きな獣だ。
鋭い牙を覗かせて、情けない声を出す。
「あまり神獣に変身してないから、制御に慣れていないんだ。……興奮しすぎた」
この姿になると、しばらく元には戻れない。
戻った後は、蓄積された疲労で眠ってしまう。
つまり初夜はお預けだ。
白い獅子はわたしの上からどいて、隣に横たわった。
青玉色の切れ長な瞳が、恨めしそうな視線を向けてくる。
「情けない男だと呆れているか?」
「いいえ、ちょっとホッとしました」
「やっぱり体調が悪いのか? だったら無理は……」
「違います。体は元気ですし、旦那さまのことも大好きですが、そ、そういうのはまだ怖かったので。だから、あの、無理せずゆっくり夫婦になっていきましょう?」
獅子は背中を向けて、拗ねたような声を上げた。
「体が大丈夫なら、初夜は明日だ」
「でも、明日も神獣になっちゃうかもしれませんよ」
「そのときはそのときだ。変身を制御する訓練だと思えばいい」
「なるほど」
わたしは白い背中に寄り添った。
旦那さまがラスボスになるのを防ぐため、死なないように頑張ろう。
でも黒幕に操られてでなく、自分の意志で世界制覇がしたいと言われたら、前世のゲーム知識で協力してしまうかもしれない。そんな危険なわたしは――
ラスボスの嫁。
<おまけSS>
『ラスボスと嫁』
飾り立てられた広間に宮殿楽団の演奏が流れ、国内外の賓客たちのざわめきの中、舞姫が祝福の踊りを披露している。目の前の皿には、切り分けられた肉と新鮮な果物がうず高く積み上げられていた。
まあ、今のところ食う気力はないがな。
なにしろ今日は婚礼だ。
砂漠の帝国ファダーの皇太子である、この俺バドルと、帝国の属国マズナブ王国の王女メシュメシュの。
俺たちは幼いころ一緒に過ごしたことがあるのだが、コイツは覚えていないだろうな。
華やかな花嫁衣装を身に纏った俺の嫁は、緊張に体を硬くしている。
ときどき小さく揺れて、金銀宝石の装飾品を奏でていた。
シャラシャラと響く音は波音を思い起こさせる。
海辺の土地を所有する俺は何度も訪れているけれど、大陸中央のオアシス都市で暮らしていたコイツは、まだ海を見たこともないに違いない。
絵本に描かれた青い海を指差す、幼い指が頭をよぎる。
俺の視線に気づいたのか、嫁がこちらを向いてぎこちない笑みを浮かべた。
無理もない。
異母兄である皇帝陛下に跡取りができるまでのつなぎとはいえ、俺は皇太子。
『できそこない』の嫁を取るなど、本来は許されるものではなかった。
帝国でのマズナブ王国の影響力、彼女の父親である熊王殿の人望で、渋々認められたに過ぎない。いや、会議の席で見せた熊王殿の眼力のせいかな。なにしろ彼は、この十年、武術大会の首席を独占し続けてきた男なのだから。
本当は熊王殿が許してくれたことが一番の奇跡だ。
この婚礼を祝福するものは少ない。
彼女自身も歓迎してはいないだろう。
徴税局のこと、ハーレムの奴隷女たちのこと、俺の悪評は帝国中に広まっている。
それでも──
俺は目の前の皿から骨のついた肉をつかみ、頬張った。
それでも俺には彼女が必要だ。
口の中に肉汁があふれる。
緊張で味もわからないけれど、少しでも力を蓄えるために俺は肉を食らった。
自分自身が生き残るため。
兄上にご恩を返すため。
そしてなにより、嫁を守り共に生きるため。
俺の様子を見た彼女が、おずおずと果物を手に取り齧り始めた。
彼女は生の果物よりも干した果物のほうが好きらしい。
頬に果汁を飛ばしてうろたえている。
そっと手を伸ばし、俺はその果汁を拭き取ってやった。
海に行くときは干した果物を用意しておいてやろう。杏がいいかな。
彼女は体が弱いという。
どれだけ共に生きられるかはわからないが……指についた果汁は酸っぱかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──昨夜も変身してしまった。
理由は自覚している。興奮しすぎだ。
だって仕方がないじゃないか。十年間思い続けていた相手と結婚できたんだぞ?
神獣に変身した反動で、ゆっくり眠った後でも体が重い。
俺を見つめる彼女の視線を感じながらも、俺は瞼を上げられなかった。
細い指が、俺の顔に落ちた前髪を上げてくれる。
優しい気配に愛情を感じるのは俺の思い込み、ではないはずだ。
彼女の体温が遠ざかる。
俺が起きる前に、髪や服装を整えるつもりなのだろう。
体が弱いというのは熊王殿が大げさに言っていただけだとわかったが、それでも『できそこない』の嫁がか弱いことに変わりはない。
俺の厄介な事情のせいで、お姫さま育ちの彼女に侍女もいない暮らしをさせている。
気楽でいい、と彼女は笑うけれど。
彼女のために、俺はなにができるのだろう。
『ラスボス』にならないでくださいね、と嫁は言う。
だけど、もし彼女を失ってしまったら──
「……おはよう、メシュメシュ」
髪を梳かす嫁に後ろから抱きついて耳元で囁いたら、真っ赤になった彼女に叱られてしまった。
この時間がずっと続けばいい。
いや、まあ変身はちゃんと制御できるようになりたいが。そうしないと……うん、いろいろ困る。
俺は今夜の成功を祈りながら、嫁と目覚めのキスをした。