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薄荷

薄荷


―――――今度という今度はマジで心がぽっきりだ。


つーか、アタシ何であんな男に付き纏ってんだろ。アホだろ。アホ。マジでないよ、あんなロクデナシ。




 行く当てもないというのに、ただ少しでもあの場所から離れたいがため、外灯がぼんやりと照らす暗がりの中をアタシはがむしゃらに走り続けた。どこをどう走ってるのかもさっぱりだ。足元なんて全く気にしないものだから、夕立の名残の水たまりを思い切り踏んづけて、飛び跳ねた水が容赦なくパンプスにかかる。こんちきしょう。まだ下ろして間もないお気に入りのパンプスだってのに。雨の馬鹿野郎。何で降ったりしたんだよ。


頭の中でこれでもかと罵倒の言葉を並べ立てていると、不意に目頭が熱くなってきた。畜生、泣いてたまるか。こんなとこで泣いて世間様に情けない面を晒すわけにゃいかんのだ。引っ込め、馬鹿。何勝手に泣こうとしてるんだ、この馬鹿野郎めが。そうして自分をも罵倒し倒して、必死になって。あぁどうしようもないなと頭の片隅ではそう思いながらも、それでも切れそうなくらいに唇を噛みしめ、込み上げる感情をどうにか抑え込む。


走れ、走れ。

どこでもいい。どこか一人になれるところまで。

そこにたどり着くまでは、絶対に泣くわけにはいかない。


泣くな。泣くな。

泣くなよ、アタシ。


そうやって念じて念じて念じまくる。




……しかしながら、運命とは時としてなかなかに残酷なもので。




***




 ふと滲む視界に捉えた人物の姿にアタシは大層慌てた。げっ、マジかよ! こんな時によりにもよって何でアイツに出くわしちゃうんだ。おまけにちょうど今走っているこの道は、無意識に人の目を避けていたのか、大して大きくもなく横に逸れる道もない。もちろんアタシの他に人っ子一人いやしない。せめて人っ子一人くらいいたっていいじゃないか! そうかと言って今更Uターンしたところでこの距離じゃ尻尾巻いて逃げたとしか思われない。そりゃアカン! 屈辱的すぎる! 


どうする。このまま全部無視してアイツの横を走り抜けるか。いや、それしかあるまいて。立ち止まって一体何をするっていう。和やかに一つご挨拶? ふざけるな。今のアタシは誰がどう見たって惨め過ぎる。アイツがそんなアタシをみすみす見逃すわけがない。飛んで火に入る夏の虫もいいとこだ。よし、幸いにもアイツは一人で何食わぬ顔して歩いてやがる。大丈夫、このまま走り抜けよう。アタシは瞬時にそう決意した。




 絶対にうまくいくと思った。けれども現実はあっさりとその期待を裏切ってくれた。なんとアイツの横を走り抜けようとした瞬間、アイツは恐ろしいほどの足の速さでもってアタシの後を追い、元々走り続けていたせいで削り取られていたスタミナのせいもあって実にあっさりと捕獲されてしまった。ホント、何この展開。


「俺の存在まるっと無視してくれちゃってさぁ。んなに急いでどこ行くんだか知らねぇけど、挨拶くらいしてくれたっていいんじゃねぇの? 俺とお前の仲だろ?」

「うざい! 鞄からさっさと手を離さんか、この馬鹿! こちとら今めっちゃ急いでんの。アンタに構ってる暇なんてこれっぽっちもないんだよ!」

「ふーん。何か面白そうだから俺もついてこうかな」

「はぁ?」


一体何とち狂ったことを言っているのかと、そんなことをほざく面をよく拝んでやろうと勢いよく振り返って即座に後悔した。……あぁ、イカン。コイツ、よく見りゃ嫌な感じの笑みを浮かべてらァ。


私の予想に反して、アイツはいつもの適当さマックスの顔なんてこれっぽっちもしてなかった。例えるなら、アレだ。諜報員が潜入先で極秘情報をゲットする一歩手前とか、ターゲットが今まさに偽装した婚姻届に印鑑を押さんとする瞬間を目にする結婚詐欺師とか。とにかくよくない。これはマズイ。非常にマズイ状況だ。確実に何かを嗅ぎつけてやがるぞ、コイツ。


「いいじゃん、別に。心配しなくても邪魔なんかしねぇって」


そういう問題じゃないんだよ、この阿呆が! と叫びたいところだが、そうすると今度は「じゃあどういう問題なわけ?」とくるに違いない。いや、絶対そうくる。間違いない。ええい、心底面倒くさい奴にひっかかってしまった。厄日か、今日は厄日なのか。だからあんな現場に遭遇しちゃうのか。最早頭の中がコイツのせいでぐっしゃぐっしゃのデロデーロだ。自分で自分が何考えてんだか分かんなくなってきた。限界だよ。マジで泣きそうだ。


しかし、実際はそう思った時には既に泣いていたらしい。


「……何泣いてんの? お前の場合、泣き落としなんてしたってむしろマイナスだからやめといた方がいいと思うぜ?」


このクソ野郎が! 腐れ外道! 今この瞬間にはかなくなれ! そう叫んでやりたいのに、喉が圧迫されたみたいに何も言葉に出来ない。息もうまく吸えなくなって、代わりにしゃくりが出る。あぁ、もう駄目だ。もうおしまいだ。全部終わった。……くそ、かくなる上はコイツも道連れにしてやる! 


混乱したままの頭でどうしたことか最終的にそんな決断を下し、アタシは両腕でもって思い切り目の前にあるアイツの腰に抱きついた。


「あぁ? 何しくさってんの、お前。あーあー、鳥肌立ってきたし。つかお前でも鳥肌立つとか、他の女に対して失礼すぎるよな」


そういやコイツ、女に触られるとアレルギー反応が出るとか言ってたな。……何が失礼だ、このボケナスが。しかしなるほど、鳥肌か。いいぞ、いいぞ。せいぜい嫌がれ。そしてその隙にアタシは逃げるぜ。


溢れた涙をさり気なくアイツの服で拭いつつ、アタシは徐々に平静を取り戻しつつあった。






夜壱よいちさん」


 突然の第三者参入に思い切り驚いて、体が一瞬びくりとしてしまった。あぁ、今日はホント醜態のオンパレードだ。ここで一発手に持ってる鞄でコイツを殴ったら記憶全部吹っ飛んでくれるとかないかな、なんて考えた後でアタシははたと今の状況を思い出した。……今の声は一体誰ですか。何か割と若い男の子の声のような気がしたんだけど、その子がコイツの名前を呼んだ、んだよな? ……ん? もしかして、これはもしかしなくとも修羅場、ってやつなのか?


「んー? 今日は別に約束してなかったよな?」

「は、はい。そうなんですけど……その……そちらの方は?」


おっとー、おっとっとー。やっぱこれは修羅場なのか、そうなのか。どうする、コレ。めっさ他人の恋路に暗雲をもたらしちゃってるぞ、アタシ。待て、違うんだよ、そうじゃないんだよ。そんなキモイ誤解を招くのは心外すぎる。ヤメテヤメテ。つか、コイツもコイツでさっさと何か言わんかい。ほれ、お得意の毒舌でもってたんと貶すが良い。今回だけは特別に許す。


「あぁ、コイツのこと? コイツはねぇ……」


やや間があった後でアイツはやっと口を開いたかと思うと、何故かそこで言葉を止めてしまった。……オイ、何でそこで無駄に勿体振る。さっさと言えや、阿呆。お前は一体何を考えているのだとアイツの顔を見上げると、しっかりと視線が合ってしまった。そしてそこに浮かぶ意味ありげな笑みを見て、アタシは咄嗟に抱きついていた両腕を離してさっとアイツから数歩分距離を取ると、びしりと指差して宣言した。


「ふん。大嫌いな女に抱きつかれてさぞや不快だったでしょうね。いいザマ! でもこれだけで済むと思わないでよね。アタシの彼を取った恨みはこんなもんじゃないんだから。覚えてなさいよ!」


アタシはコイツに彼氏を取られたかわいそうな彼女。

抱きついてたのはあくまで復讐心からくる嫌がらせのための一つの手段。


我ながら即興で考えたにしてはなかなかイケてるシナリオだ。……まぁ、あながち真っ赤な嘘だとも言いきれないとこが悲しすぎるが。ともあれ見ろ。予想通りまだ十代っぽい少年がどこか安堵したような表情をしているではないか。そうだ、安心していいぞ少年よ。アタシはアイツの敵だけど、君の敵ではないんだよ。そこんとこよく分かってくれ。


 少年の誤解が解けたのを一瞥して確認した後、アタシは素早く二人に背を向けると再び走り出した。全く、とんだところで時間を食ってしまった。涙もすっかり引っ込んでしまったし、雰囲気ぶち壊しだ。まぁ、いい。傷心者らしくどこかのバーのカウンターにでも座って、マスター相手に絡み酒をしようではないか。


夜はまだまだこれからだ。




***




 マスター。アタシ、これからどうしたらいいと思う? このまんまだと体にもガタが来るのは時間の問題だし、そうなるとさ、もうこの世知辛い世の中だからアタシみたいな小娘の代わりなんていくらでもいるとか何とか言って即座にぽーいだよ。ぽーい。つまりハロー、ニートってわけ。そうなるとさ、今住んでるアパートも解約することになるだろうし。あーあって感じだよ、全く。


んー? 今の職場、労働基準法ってなぁに? って感じだけど給料は今時にしては割と良い方なんだよね。だからこそ余計働いちゃうというか。だってお金になるんだよ? まぁ、それで体壊して挙句ぽっくりなんて確かに冗談じゃないけど。命あってのお金ってのは分かってますよ、ちゃんと。


……あー、ハイハイ。馬鹿ですよ、馬鹿です。


それでどうするって言われてもなぁ。多分ギリギリまで働いちゃうんじゃないかなぁ……って痛い。ちょっと、マスター! アタシこれでもお客よ、お客! どこのマスターがお客の頭小突くって言うの。


……あぁ、まぁそうだね。別に一人くらいいたっていいけど。


ふわぁー、なーんか眠いわー。眠い眠い。寝るなって言われてもこれは生理現象の一つであって、だからつまり……致し方ないってやつで。って、あぁもうだからお客に対してまた乱暴な真似を。頭がぐらぐらするから思い切り揺さぶるのヤメテー。ヤメテヤメテ。分かった、聞くよ、話。聞くから、ヤメテって。


……三食昼寝付き? 


いいねぇ、夢だねぇ。文句なんてあるわけないじゃないですか。でも良い話には必ず裏があるもんだよね、フツー。そうじゃなきゃこの世界成り立たなくなっちゃうし。冷めてるって言われてもそれが世の理なんだからしょうがないじゃん? 郷に入っては郷に従えってやつですよ。


んん? 何かちょっと意味違わないかって? 


要はニュアンスだよ、ニュアンス。何となく伝わったんならそれでいいじゃん。それでその三食昼寝付きがどしたの?


……え、アタシに? アタシにその条件で働かないかって?


住み込みの家政婦ねぇ。つまりはそういうことでしょ? え、違うの? 


へぇ、雇い主ってほとんど家空けてる人なの。ふーん。


うーん、そう言われると若干心惹かれるものがあるねぇ。ん? 何この紙っきれ。申込書? にしては何だかちょっと書くとこ多くない? 


……ってあぁ何だ、ここに名前を書けば良いだけなんだ。

ん? ハンコも必要?


ハンコなら持ってるよ。別にいつも持ち歩いてるわけじゃないんだけど、今日はたまたまってやつ。ちょっと別件で使う用事があってそれを入れっぱなしにしちゃってただけっていうよくある話。はい、ちゃんと押しましたよ。これでいいんだね? って何、あと二枚もあるの? 多いなー。予備にしたって用心深いにも程があると思わない? まぁ、いいけど。所詮雇い主様の言う通りー、だし。……はい、二枚目ー、三枚、目ーっと。出来た出来た。はい、どーぞ。


……もう、寝てもいい? ていうか寝る。もう無理。限界。


おやすみ、マスター。




***




 目覚めると、アタシはいつの間にかベッドの中に入ってたみたいで。でもこのベッドはアタシのベッドじゃないわけで。ついでにもっと言えば、ここって間違っても絶対アタシんちじゃないわけで。……こんなリッチ感漂うお部屋、見覚えなんてあるわけない。

 


ハロー、現実。っていうかコレってホントに現実なの? マジ昨夜のアタシに何があった。というかアタシ何を仕出かした、……が正しいのか? マジ怖いマジ怖い。どうしよ。一体どこに連れ込まれてるんだよ、アタシ。




「あー、やっと起きたか。んったく昼過ぎまで寝るたぁ、いい生活してんな」


 完全なる不意打ちに、心臓がどくどくと激しく反応する。いつの間にかアタシ一人だけだと思っていたこの空間にもう一人別の人間が存在した。そしてその人物を認識した瞬間、アタシは目を見開いた。


……フリーズ。頭ん中がフリーズ状態です。


え、何? 何がどうしてコイツが現れる? まさかお前が諸悪の根源か、そうなのか。いいか、アタシを誘拐したとこで一銭たりとも期待できんぞ。アタシ自らが自信を持って保障する。というか、つまりだ。ここはコイツんちということでいいの、か?


「んー? 何お前もしかして昨日の晩の記憶が吹っ飛んでたりするわけ?」


昨日の晩っていうと、コイツとはあのアタシが自らのイケてるシナリオ演じた後別れたわけであって。思い出してみても、そこまでの過程で今の状況を説明できるような出来事は皆無なんだが。はて? しかしアタシはその後確か予定通り適当なバーに入って、これまた予定通りマスターに絡み酒をして。……妙だな。何か引っかかる、ような気がする。……マスター?


「ま、どうでもいいけど。それよりさっさと出かける支度しろ。今から10分後に出かけるからな」

「え! ちょ、10分後? 無茶言うなし。ていうか出かけるったって服とかあぶっ!」


この野郎、人の顔面にストレートで投げやがった。痛いわ、ド阿呆! まだ説明中でしょうが! つか一体何投げやがったって……服? 顔面に投げられた袋の中をちらりと覗くと、なかなか品があってかつ可愛らしいワンピースとボレロが入っていた。……うん。こりゃ、お高いに違いない。


「いいか、10分経ったら問答無用で引き摺ってくかんな」


ちんたらしてんじゃねぇぞ、と言い捨ててアイツは去って行った。そしてそれを止めることもできず、呆然と見送るしか出来なかったアタシ。……くそ、マジでムカつくわー。なんやねんなんやねん。つか、状況分かってないの気づいたんなら説明してけよ。不安だろうが。しかし、でもまぁ仕方ない。どうやらここはアイツの領域のようだし、奴はやると言ったらやる。悔しいがさっさと大人しく準備するのが賢明だ。


アタシは仕方なく、マッハで身支度を整えることにした。




***




 きっかり10分後に現れたアイツによってそのまま車の中へと押し込まれ、その後一体どこに連れて行かれたかというと、なんと店構えからしていかにも高級そうなジュエリーショップでした。え、何で? 何でここにアタシを連れてきた? いい加減にちょっとは説明してくれてもよくないか? なんてまさかお店に入ってからずかずかと聞けるわけもなく。


こっちはさっきからずっと必死に視線でもってアピールしてんのに、アイツは完全無視。……マジでいい根性してやがる。しかし場所が場所だけに怒るに怒れない。うひー、場違い過ぎてもうお家帰りたい。一人にされては困ると恥を忍んでアイツにひっついている中、アイツはというと先程からじっとショーケースに並んだ指輪を見ている。ちなみにアタシはそれらのあまりの輝きようにちょっと直視できない。根っからの庶民です、ハイ。


 そうこうしているうちにお目当ての物が決まったのか、ショーケース越しにアイツが一つの指輪を指差し、それをすかさずお店の人がささっとショーケースから取り出した。あ、何か全体的にやわらかい感じで可愛い。おー! 見る角度によって金色の唐草模様がさり気なく浮かび上がってくるんだ! すごーい。いいじゃんいいじゃん。アタシは好きよ。でもコレってよく見りゃ結婚指輪じゃん。


てっきり婚約指輪でも選んでいるものだと思っていたアタシはちょっと驚いた。でもまぁ所詮他人事だし、なんて思ってたらアイツが何の遠慮もなしにアタシの左手を取ってあろうことかその指輪を薬指にはめた。


……は?


「サイズはそちらでちょうどよろしいようですね」

「そうですね」


……お店の人とアイツのナチュラルな会話に割って入る勇気なんぞこれっぽちもない自分が恨めしい。


おーい。いくらアタシの手が大きめだっていってもさすがにそこらの男より指細いぞー、多分。そもそもちょうどいいというかぴったりすぎてむしろ抜けなくなるんじゃないかと不安になるくらいなんだけど、こんなんでいいわけホントに。もうちょっと余裕もたせてもいいんじゃない? あぁでも結婚指輪って日常的にするもんだからそうゆるゆるでも困るのか、なんてこっそり一人で考え込んでいるうちに商談が終わっていた。ちょ、早くない? 


慌てたせいで指輪を外すのにちょっと手間取ってしまい、見かねたのか結局アイツが横からぐいっと力任せに抜き取った。……一瞬、そのまんま指も抜けるかと思った。全くこの乱暴者めが。






「……あのさ、ホントにあのサイズで良かったの? さすがにもうちょっと大きいサイズの方が良かったんじゃない?」


 ジュエリーショップから出た後、アタシの自宅近くまで送ってくれるというので(あまりの親切っぷりに「ヤダ、キモイ。偽物? どっかで本物の奴と入れ替わった?」と言ったら思い切り頭を叩かれた)、大人しく再び車の助手席に座りながら(なるべく借りは作るまいと)親切心からそう進言したというのにアイツはそれを鼻で笑いやがった。けっ。お前なんぞ指輪を渡す前にフラれてしまえばいい。




……とまぁ、そんな感じでその日は終わったわけだ。


(ちなみにワンピースとボレロはアイツが何も言ってこなかったので、ありがたくそのまんまくすねてきました。)




***




 それから数週間後のとある夜。アタシがいつものごとく残業終わりの半分死にかけの体で、会社を出てふらふらと最寄り駅に向かって歩くことちょっと。


―――――何かよく分からんうちに、車でアイツの家に拉致られてました。




 何がどうしてこうなった。現在、何故かアタシの左薬指に光り輝いているのは、何だかどこかで見た覚えのある結婚指輪。……何ですか、コレは。いやいや別にアンタのも見せなくていいから。そんなこれ見よがしに見せてこずともコレが結婚指輪だってことくらい分かっとるわ、たわけ。アタシが聞きたいのはそこじゃなくて、だな。


「お前、相変わらず寝ぼけた頭してんのな。お前がやるっつって書類にサインしただろうが」


そう言ってアイツがアタシの目の前に突き付けてきたのは一枚の紙っぴら。ぴーらぴーらとアイツの指につままれて揺れるそれは紛れもない、婚姻届という名の契約書。……ほ!? 婚姻届だと! うっそ、マジでアタシの名前ががっつり書いてあるじゃないか! 何で!?


「三食昼寝付きの仕事、お前やるっつって自分でサインしただろーが。覚えてねぇの? ……まぁ、別に忘れてようが関係ねぇけどな」


もう役所に提出してきちまったし、ってオイ、マジか。マジなのか。……つーか、三食昼寝付き? ちょいちょいちょいちょい! めっさ聞き覚えがあるぞ、それ! でもそれは確かマスターが……ってあれ? そもそもマスターってどんな人だっけ? ……マズイぞ。顔が全く思い出せん! 


半ば混乱した状態の頭でもって必死に記憶を遡りつつ、相も変わらず目の前でぴらぴらと憎たらしく揺れる婚姻届を凝視していると、アタシはふとあることに気がついた。


「……ていうか、この夫の欄に書いてある“寺崎朝次てらさきちょうじ”って誰?」

「馬鹿か、お前。俺以外に誰がいるっつーんだよ」


……何、だと? 貴様、夜壱ってのは偽名だったのか。なるほど、そーかそーか。つまりアタシは寺崎葉佳てらさきようかになるってわけ。へー。まぁ、字的にも音的にも別に悪くはないかな。……とでも言うと思ったかこの馬鹿たれが!


はぁあああ!? 


「アンタ、一体何考えてんの!? 結婚をこともあろうに三食昼寝付きの仕事、だと! 貴様、舐めてんのか!」

「……食いつくとこ、そこか?」


舐め切ってる。結婚を舐め切ってやがるぜ、コイツ。世の既婚の皆々様にこってり絞られるがいい。……つーか何でもいいけどめっさ眠い。溶けそうなくらい眠い。眠い眠い。


「お前はだからそうやってすぐ寝んな! オイ、起きやがれ!」


痛い痛い。残業で心身ともに疲れ果てた人間の体を容赦なく足蹴にするとは、何と血も涙もない冷血漢なんだ。お前なんぞに屈してなるものか。アタシは寝ると言ったら寝るんだ。邪魔すんな。




「うわーマジで寝やがった、コイツ。……面倒くせぇ。また運ばされんのかよ」


薄らぐ意識の外側でそんな風に毒づくアイツの言葉を最後に、アタシは完全に眠りの世界へと旅立った。




そうしてまたアタシが気づかぬうちに夜は更けていき。




―――――明くる日からアタシの生活はものの見事に一変するのであったが、今はまだ未来のお話。






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