第二話 真実と現実②
3
けたたましく鐘の音が鳴り響き、小夜は慌ててベッドから飛び起きた。窓の外を見ると、まだ空は明るくなり始めたばかりだ。と同時に、おびただしい流星が雲の合間から走り落ちていくのが見えた。
(え、うそ!?)
急いで制服に着替えると、小夜は部屋を飛び出した。見張りについていたあの兵士がいない。嫌な胸騒ぎがして、螺旋階段を駆け降りた。
下は騒然となっていた。
兵士たちは小走りに廊下を行き交い、叫び合って情報を交換している。
「王子からの援軍要請だ! 西へ向かってくれ!」
「おい! 負傷者の手当てを頼む!」
「北でも降り始めた! 兵を回せるか?」
「救護班! 負傷者だ!」
下まで降りてきたものの、小夜は立ちすくんでしまった。何をしていいのかわからない。鳴り続ける警鐘に煽られて、気持ちだけが焦ってしまう。
王子たちはどうしているだろうか。ユラは?
重い足を動かして、小夜は兵士たちの間を縫うように廊下を走った。
途中で、「王子!」と誰かが叫んだ。声のした方へ駆けつけると、ローエンの姿が見えた。知った顔にやっと会えて、小夜は内心ホッとした。
「ローエン!」
宮殿に入ってきたローエンは、二人の兵士に抱えられていた。歯を食いしばり、痛みに耐えているような表情をしている。
怪我をしているのではないかと、小夜は咄嗟に察した。
「ローエン、大丈夫なの!?」
駆け寄った小夜に、ローエンは何も答えなかった。左腕を抑えて、苦痛に顔を歪めている。引き裂かれた左袖の隙間から、紫色に変色した肌が見えた。
小夜の脳裏に、昨日目にしたユラの傷跡が浮かぶ。体を汚染された状態。
すぐに兵士の一人が、瓶を持ってきた。唐草模様が描かれた白いひょうたん型の瓶だ。兵士は瓶の蓋をはずすと、ローエンの左袖を引きちぎり、露わになった肌に瓶の中の液体をかけた。白く濁った液体だった。
「うっ」
液体をかけられたローエンは、小さくうめいた。肌から湯気が噴き出している。厚い鉄板に水を落としたように蒸気が上がり、紫色の腕は徐々に元の肌の色を取り戻していった。
「これは……?」
「エルツの粉末を溶かした水です」
と、兵士が答えた。
「王子は運が良かった。あと少し処置が遅れていたら、腕が使い物にならなくなるところでした」
小夜は言葉も出なかった。怪物との戦いは、まさに命がけなのだと痛感させられた。
腕の痛みが治まると、ローエンはまたすぐに宮殿を出ようとする。小夜は咄嗟にローエンの腕を掴んでしまった。
「離せよ。おまえにかまってる暇はねぇんだ」
「無茶だよ。怪我したばっかりじゃない」
「うるせぇ!」
小夜の手を振り払って、ローエンは怒鳴った。
「俺がいかないでどうする? みんな命がけで戦ってるんだよ!」
ローエンの背中が遠退いていく。
取り残された小夜は、一人立ち尽くしていた。
みんな命がけで戦っている。たくさんの人が傷つき運ばれてくる。自分は何もしないままでいいのか。全ての元凶は自分にあるのに、このまま黙って見ているだけでいいのか。
「あの!」
小夜は近くにいた兵士の腕を掴んだ。
「私にも何か手伝わせてください!」
「しかし、救世主様……」
「何でもします! 手伝わせてください!」
小夜が頭を下げると、兵士は戸惑いながらも救護という仕事を与えてくれた。
宮殿内の広大な一室を治療用スペースとして、次々と負傷者が運ばれてくる。ほとんどが兵士だが、中には一般住民の姿もあった。
簡易の毛布が敷かれた上に、負傷した人たちが寝かされている。何十人といる負傷者たちを、たった十人で介抱して回るのだ。
体の一部を汚染された人は、エルツの粉末を溶かした水をかければ、なんとか回復に至った。しかし、大部分を汚染された人は、治療の施しようがない。徐々に広がっていく体内汚染を食い止めるために、エルツを調合した薬を飲ませるのが精いっぱいだ。汚染の進行を止められても、体から消えるわけでない。
全身が紫色に変色してしまった人は、どんな手を尽くしても助からなかった。体中がただれ、もがき苦しみながら最後に息を引き取るのだ。
最期を看取るのは、吐き気をもよおすほど辛かった。
それでも泣いてなどいられない。患者はひっきりなしに運び込まれるのだ。小夜が手を止めれば、救える命を救えなくなる。
「大丈夫ですから、大丈夫ですからね!」
苦痛に悶える患者を前に、小夜は必死で励ました。
自分にできることはちっぽけだ。だけど、それが一人でも多くの人のためになるなら、ちっぽけなことを全力でやろう。
どれだけ時間が経っただろうか。気がつけば、窓から紅い夕日が差し込んでいた。
騒然としていた宮殿内は落ち着きを取り戻し、運ばれてきた負傷者の数も徐々に減っていった。
壁にもたれかかって、小夜はふうと息つく。ひと段落すると、どっと疲れが体を襲った。
「王子!」
兵士の一人が叫んだので、小夜は顔を上げた。目の前に、ローエンが立っていた。
「ローエン、無事でよかった」
安堵のあまりつい腕を掴んでしまった後で、小夜は後悔した。また怒鳴られると思ったのだ。全ての人を救うことはできなかった。目の前で息絶えた人もいた。〝星〟という名のゴミが降ったせいで。
「ごめん……なさい」
小夜はゆっくりと手を離した。謝ってもどうしようもないことはわかっている。
「なんで謝る?」
意外な言葉が返ってきて、小夜は面食らった。
「だって、いっぱい人が傷ついて……」
「確かに、多くの犠牲者が出た。予想以上に大量の星が降ってきやがったからな」
小夜の胸が痛んだ。
「けど、おまえがいなければ、もっと多くの死者が出ただろう。おまえの看護に救われたと、兵士たちが感謝していた」
「え……」
「一国の王子として礼を言う。ありがとな」
そう言うと、ローエンは微かに笑った。笑ってくれたのだ。
初めて見たかもしれない。ローエンが自分に笑ってくれたところを。
「今、笑った……」
「は?」
「もう一回……」
「な、なんだよ?」
「もう一回笑って」
「はぁ? なんで俺がおまえに笑わなきゃなんねぇんだよ」
「でも、今笑ってくれたじゃん」
「笑ってねぇよ」
「笑った」
「笑ってねぇ」
「笑ったってば」
「笑ってねぇったら笑ってねぇ」
なぜか「笑った」「笑ってない」の言い合いになった。
ヴィントが来て止めるまで、数分くらいやっていた気がする。
「なんか、二人とも仲良くなった?」
ヴィントに言われて、小夜はローエンの顔色をうかがった。目と目が合って、思わずそらしてしまう。
「ばっ、んなわけねぇだろ」
先に言葉を発したのは、ローエンだった。ヴィントの頭にげんこつを一発食らわせる。
「いたっ。なんで殴るのさ?」
「変なこと言い出すからだろ! つぅか、おまえは何しに来たんだよ?」
「ようやくひと段落ついたから、夕食にしようって。みんな待ってるよ」
「そういうことは早く言え。こちとらひと仕事して腹ペコなんだよ」
と、ローエンはさっさと歩いていく。ヴィントも後を追いかけた。
たわいもない会話をしながら歩いて行く二人を、小夜は呆然と眺めていた。ついて行っていいのか迷ったのだ。自分は数に入れてもらっているのだろうかと。
ローエンが立ち止まって、振り返った。
「何、ボーっとしてやがる? さっさと行くぞ、サヨ」
「え、あ、うん」
小夜は慌てて駆け寄る。
(あれ? 今……、名前呼んでくれた?)
遥か彼方にあった背中が、ぐっと近くなった気がした。
4
木々が風に揺られてざわめいた。
そのたびに大きく深呼吸をする。
夜の庭園で、ユラは一人ある人を待っていた。
心臓の音がうるさく鳴り響いている。周りの静けさが余計に音を大きくさせているような気がした。
小夜にかけてもらったおまじないを何度も見つめながら、ユラは長い時を待っていた。
背後に人の足音がして、ビクッと体を震わせたユラは、声をかけられる前に振り向く。
「エルデ様」
漆黒の長い髪を風になびかせた、眉目秀麗な男が立っていた。
夜のように深い色をした瞳でもって、ユラを見下ろしている。
「話とは何だ?」
楽器を奏でるような低く澄んだ声は、ユラの心を優しく包み込んでいく。
「あの……」
言いかけて、ユラは言葉に詰まった。
「あの……よい天気ですね」
全く意味のないことを口走ってしまう。
「今は夜だがな」
フッと、エルデの硬かった表情が緩んだ。
ユラは思わず口を開けたまま惚けてしまった。
ふとした瞬間に見せる穏やかな表情が好きだと思う。
「そうですわよね。今は夜ですもの。お天気なんて、わかりませんわよね」
まともに顔が見られなくて、ユラは伏し目がちになった。
二人の間に沈黙が流れる。
何か話さなくてはと思っても、言葉が浮かんでこなかった。
(ダメですわ、サヨ様。想いを告げるなんて、私……)
踏み出せないジレンマに、ユラは泣きそうになった。
胸が苦しい。立っているのも辛いほどに。
不意に目眩がして、ユラはよろめいた。
受け止めてくれたのは、エルデのたくましい腕だった。
「発作か?」
心配して、エルデが尋ねてくれる。
ユラの目に涙が浮かんだ。
胸に感じる鈍痛が、だんだん激しさを増してくる。発作だった。
体をむしばむ紫色の毒が、前触れもなく暴れ出したのだ。
「ユラ、すぐに部屋に……」
「待って、待ってください」
ユラは声を絞り出した。
「もう少しだけ……傍に居させてください……」
エルデの瞳を見つめる。見つめているだけで、心が安らぐ。
願わくは、ずっとこうしていたい。
だが、叶わぬ望みだったようだ。エルデは、ユラから視線をそらした。
わかっていたはずなのに、ユラの心は針で突かれたように痛んだ。
「俺は、おまえの傍にいる資格のない男だ」
予想もしなかった言葉に、ユラは目を見張った。
「自分の国のために、大切なものを捨てようとしている」
「え?」
何を言わんとしているのか、ユラにはわからなかった。
「ゼーンは、優秀な男だ。きっとおまえを幸せにしてくれるだろう」
「エルデ様?」
「おまえには、誰よりも幸せになってほしい」
エルデの手が、そっとユラの頬に伸びた。指先は流れるように頬を滑り、唇に触れる。
胸が激しく高鳴って、ユラはうまく息を吸えなくなった。
「だから、もう俺のことは忘れろ」
エルデの一言が、ユラの心に突き刺さった。涙にエルデの姿がにじんでいく。
胸が張り裂けるように痛い。
「どうしてそんな……。まるで、もうお会いできなくなってしまうようなこと……」
言いようもない不安が、ユラの体を駆け巡る。
「あなたにもしものことがあったら、私は幸せになどなれません……」
エルデの頬に、ユラは両手を伸ばした。ゆっくりと彼の顔を引き寄せる。唇が触れんばかりに近づいて、ほんの一瞬だけ重ね合った。
エルデの腕に力が入るのを感じた。抱き寄せられて、再び唇が触れ合う。そのとき。
「私の妻に触れるな!」
凛とした声が庭園に響いたかと思うと、ユラの前で鈍い音がした。
もう次の瞬間には、エルデが地面に腰をついて倒れていた。
「エルデ様!」
駆け寄ろうとしたユラは、男に腕を掴まれて引き戻された。ユラを見つめる紺碧の瞳には、エルデに対する侮蔑の光が宿っていた。
月明かりに照らされて、男の水色の髪がきらめきを放つ。
「ゼーン……」
男の名を呼んだのは、倒れたエルデだった。殴られた左頬を抑えて、目の前に立つ美麗な男を睨み据える。
「他人の婚約者に手を出すなど、何を考えているのです」
「ゼーン様、違います! これは私が……!」
「ユラ、可哀そうに」
ユラを抱き寄せて、ゼーンは強引に口づけた。エルデとのひとときをかき消すように。
「ゼーン様」
泣いてはいけないと、ユラは涙をこらえた。
エルデは黙って立ち上がり、背を向ける。
「逃げるのですか?」
闇に消え入ろうとする黒装束の背中に向かって、ゼーンは鋭く言った。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えばよいではないですか!」
エルデからの反応はない。
「ユラを愛しいと思うなら、はっきりそう口にすればいいでしょう!」
背を向けたまま、エルデは何も返そうとしない。
「あなたが正面から闘いを挑むなら、私はいつでも迎え討ちます」
「いずれそのときが来たらな」
静かにそう言うと、エルデは暗がりの中に去っていった。
不安な気持ちが晴れない。
(エルデ様、何をなさろうとしているの?)
ユラはエルデの去った方を見つめていた。ゼーンに抱き寄せられてもなお、エルデの面影を追っていたのである。




