第一章 救世主②
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気がつくと、小夜は床の上に寝ていた。冷たくて硬い感触が背中に伝わってくる。
(川で溺れたはずなのに……)
誰かが助けてくれたのかもしれない。友達もいたし、人通りもあった。
ゆっくり起き上がって、小夜は自分のいるところが地上であることを確認した。でこぼこで硬い手触りから、石畳の床であるとすぐにわかった。
床には白線で文字のような記号のようなものが描かれている。目でたどっていくと、一周してしまった。どうやら円形に描かれているらしい。
(何これ?)
首を傾げてから、小夜はハッとして立ち上がった。白い粉がついていないか、まんべんなくブラウスやスカートを見回す。どうやら汚れてはないようだ。
(あれ? でも……)
川で溺れたはずなのに、制服が濡れていないのはおかしくないだろうか。制服だけではない。髪も鞄も携帯電話も……。あ、と思って、小夜はすぐさま携帯電話が壊れていないか確かめた。なんとか正常に機能しているが、電波は圏外だった。
(ていうか、ここどこ?)
ふと周りを見渡して、小夜は小首を傾げた。両脇に等間隔で円筒の柱が建ち並び、松明がくくりつけられて盛んに燃えている。炎は橙色の光を生み出して、部屋の中をぼんやりと照らしていた。見る限り殺風景な空間には、松明が燃える音しか聞こえない。
小夜は手掛かりを探した。正面の壁が目に入る。壁を縦断する大きな絵が飾ってあった。絵の筆づかいが西洋絵画を思わせる。白い尖った石に向かって、女性が黄金に光った丸い球を差し出している。何かの儀式を表しているようだが、小夜には見当もつかなかった。
「成功じゃ!」
突然後ろで声がして、小夜は心臓が飛び出るほど驚いた。背後で人の息づかいが聞こえる。いつの間に現れたのだろうか。小夜は恐る恐る振り返った。
「ギャ――ッ!!」
目に飛び込んできたのは、ひどく醜い老婆の顔だ。しわで垂れ下がった頬に、突き出したかぎ鼻。乱れた白髪は腰まで長く、布を何重にも重ねた衣装を身にまとっていた。
「妖怪!」
「誰が妖怪じゃ」
「鬼婆!」
「鬼婆でもない。どうやら言葉は通じるようじゃな。わしは魔導師じゃ」
「は? 言葉? まどうし? 意味わかんないんだけど」
小夜はますます顔をしかめる。
「おまえをこの世界に呼び寄せたのじゃ」
ぐっと小夜に顔を近づけて、魔導師はにやりと笑った。小夜の血の気が引いていく。
「キャ――ッ! 来ないで変態! 人さらい!」
鞄を魔導師の顔面に思い切りぶつけると、小夜は逃げた。圏外だということも忘れて、携帯電話の「110」を押し続ける。あまりにも画面に集中していた小夜は、目の前に人がいることに気づかずに、体ごと突っ込んだ。
「キャッ!」
ぶつかって、激しく尻もちをつく。あまりの痛さに小夜は顔をゆがめた。
「ギャーギャーうるせぇんだよ、さっきから」
ぶつかった相手が、そう凄んだ。男の声だった。
恐る恐る見上げると、小夜より少し年上と思しき青年が立っている。百七十センチ後半を思わせる長身で、燃えるような鮮やかな赤髪に、ルビーのように澄んだ赤い瞳。一瞬見惚れてしまうほど凛々しく端正な顔立ちは、小夜の乙女心をささやかながら揺らした。
「王子様……」
と、ついそう口にしてしまったのは、彼の格好がとてもきらびやかで、どこぞの王族のようだったからだ。頭には深紅の宝石がついた白いターバンを巻き、なびかせた白いマントの下からは、装飾性豊かな剣がのぞいている。
(外国人……? でも普通に日本語しゃべってるし……。あ、そういえば言葉がどうとかって……)
小夜が恍惚と眺めていると、目の前の麗しき青年は、鋭い目つきで睨みつけてきた。
「なに、じろじろ見てやがる?」
「み、見るに決まってるでしょ! 変な格好してるんだから! それってコスプレ?」
「なんだと? 変な格好なのは、てめぇのほうじゃねぇか!」
「なっ」
(ムカつく~っ!)
いろいろ通り越して腹が立つ。ここがどこなのか。目の前の男は誰なのか。ただでさえ頭が混乱しそうなのに、なんの説明もなく頭ごなしに怒鳴られるなんて。
「やめなさい、ローエン」
穏やかで澄んだ声が響いたかと思うと、コツコツと足音が聞こえてきた。
一人だけではない。何人かの足音が連なっている。一人、二人、三人だ。
足音は小夜の前で止まり、その正体が明らかになる。
これもまた、どこかの王族を思わせる三人の美しい男だった。二十歳前後の青年と、同い年くらいの少年である。
青年の一人が、小夜に手を差し伸べた。透き通るような水色のセミロングの髪と中華風の衣装が印象的だ。身長は赤髪の青年よりさらに高い。眼鏡の奥の優しそうな瞳は、吸い込まれそうな紺碧色だった。
赤髪の青年といい、この青年といい、常人離れした風貌だが、驚くほど似合っている。ということは、ここはコスプレ喫茶とかそういうたぐいの店なのだろうか。
「不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。救世主様」
「は? きゅうせい……?」
「まさかこんな可愛らしい方に、我々の世界を救っていただけるとは……」
「やだ、可愛いだなんて。よく言われますけど……。て、え?」
喜んでいる場合ではないことに気づいて、小夜は首を捻った。
(世界を救う? 何それ。なんかのゲーム? まさか、これって何かの勧誘? 溺れていたところを助けたお礼に金銭を要求してくるとか! やっぱアヤシイお店なんじゃ……)
「そんなお金持ってません!」
「は?」
「私はごく普通の女子高生です! 実はお嬢様ですなんて、おいしいオチはありませんから!」
強気な態度で言い放つと、小夜は青年を押しのけて建物の出口を探した。
薄暗い中を松明の明かりだけを頼りに歩いていく。松明が途切れる先に、どうやら出口があるようだ。山高になった扉を見つけた。
助かったとばかりに走り寄ろうとしたが、眼鏡の青年に腕を掴まれた。
「離してください」
「いいえ。私の話を聞いてくださるまでは離しません」
その瞳は、真剣そのものだ。このまま帰してくれそうにもない。
「聞くだけなら……。言っときますけど、お金は払いませんからね。千円しか持ってないし」
「感謝いたします」
青年は柔和な笑みを浮かべた。思わずキュンとなるような笑顔だ。イケメンはずるい。
「私は、ヘルブスト王国王子、ゼーンと申します」
「王子? っていう設定ですか?」
「は?」
「いいです。続けてください」
ここは彼の話に合わせておいたほうが無難だ。
ゼーンは気を取り直すように、咳払いする。
「彼は、ヴィンター王国王子、エルデ」
と、ゼーンはもう一人の青年を指した。漆黒の長髪を後ろで束ねた秀麗な顔立ちの男だ。一番の長身で、黒い羽織に裾の詰まった袴をはいて、まるでどこかの武将のようにも見える。闇に吸い込まれそうな黒褐色の瞳は、一度も小夜に向けられなかった。
「そして、彼がフリューリング王国王子、ヴィント」
「よろしく」
人懐こい笑みを浮かべて握手を求めてきたのは、弓矢を背負った小柄な少年だった。小夜とは五センチほどしか身長が変わらない。小夜は百六十センチもないくらいなので、同年代の少年にしては、背が低い方だと思う。
小夜がとりあえず握手に答えると、眩しいほどの笑顔を返された。
「最後に、ゾンマー王国王子、ローエンです」
紹介されたローエンというのは、先程小夜とぶつかった青年だった。終始仏頂面のまま、ルビー色の瞳で小夜を睨んでくる。小夜も負けじと睨みかえした。
一通り紹介し終えると、ゼーンは深刻な表情を浮かべる。
「私たちの世界は今、大変な危機にさらされています」
「危機?」
(倒産しそうだとか?)
と、喉元まで出かかったが、言うのをやめた。
「はい。実は……」
ゼーンが言葉を続けようとした時、突然騒々しく扉が開かれた。眩しい光が差し込んで、小夜は目を細める。
逆光の中に現れたのは、兵士風の男だった。腰に剣をさし、中世騎士を思わせる鎧を身につけている。慌てて走ってきたのか、髪を汗でぐっしょり濡らして、肩で息をしながら男は声を枯らして叫んだ。
「王子! 星が降ってきました! 我々だけでは対処しきれません!」
王子たちの表情が凍りつく。
「くそ。降ってきやがったか! 行くぞ!」
ローエンの言葉に、みんなが颯爽と続いた。
「ちょ、ちょっと!」
状況が呑み込めない小夜は、ただ呆然と立ち尽くすしかない。
(星? え、何? 何が降ってきたの? どういうこと?)
王子たちが出て行ってしまい、薄暗い部屋に残されたのは、小夜とあの怪しげな魔導師だけだ。さっきからぶつぶつと怪しい言葉を呟いていて、尋常ではない。
(も~、キモイんだけど)
今更ながら泣きそうだ。
「星が降ってきた……。星が降ってきた……。星が降ってきた……。恐ろしや……。恐ろしや……」
呪詛のように何度も繰り返し呟きながら、魔導師はこちらににじり寄ってくる。
「手遅れになる前に……、手遅れになる前に鎮めなければ……。世界が滅びてしまう!!」
「きゃっ!」
狂気じみた大声を発し、魔導師は小夜の手にしがみついてきた。
「世界が滅びてしまう! 世界が滅びてしまうのじゃ! 早く、早く鎮めるのじゃ!」
「ちょ、やだ! 離してよ!」
小夜は魔導師の手を振り払った。逃げるなら今しかない。
唯一の出口を開けて、小夜は部屋から飛び出した。明るい光がいっきに集まってきて、一瞬目がくらむ。
視覚が正常に戻るのに、そう時間はかからなかった。扉の外の世界が明らかになって、小夜は愕然とした。
「何よ、これ? 何なの?」
目に映ったのは、広大な海だった。小夜の立つ数十メートル先から続いている。風に乗って磯の香りが漂ってくる、まぎれもない本物の海だ。
小夜はさらに周りを見渡した。自分が立っているところは、四方が見渡せてしまうほどの狭い陸地だ。ところどころに草が生えているが、木は立っていない。目立ってあるものは、小夜が今出てきた建物くらいである。
白い石で造られた四角い建物は、まるで神殿のようだった。前面は円筒の柱が等間隔に横に並んで屋根を支え、側面は白いレンガが敷き詰められて壁になっている。
目眩がした。見たこともない場所。ここはいったいどこなのか。
どこからか、吠えるような、悲痛な叫び声が聞こえてくる。どうやら建物の裏側からのようだが……。
壁に沿って裏へと回り、陰からそっと様子をうかがって、小夜は目を見張った。
「な、何、あれ……?」
あまりの恐怖に、小夜の足が震えた。
「ば、化け物……」
紫色の粘液を噴き出している物体が、王子たちや兵士たちに襲いかかっていたのだ。形はまるでカブトムシの幼虫のようで、人の倍以上ある大きいものもいれば、腰辺りまでの小さいものもいる。その数はざっと十。対して、王子四人と兵士が三人で抗戦していた。
得体のしれない幼虫もどきたちは、芋虫のように体をうねらせて地面をあちこち這いまわり、人を呑み込もうとする。
それらが通った跡は、酸をかけられたように地面が溶けてくぼんでいた。
兵士の一人が足を取られた。怪物から体を離そうと必死にもがく。両足が呑み込まれ、腰、胸と徐々に引きずり込まれ、兵士は断末魔の叫び声を上げた。
小夜は思わず目をつぶり、耳をふさぐ。立っていられないほど、体の力がどっと抜けた。
(何なの、あれ! わけがわかんないよ! ……そうだ、夢よ。きっとまた悪い夢を見てるんだわ。じゃなきゃ、こんなことあり得ないもん。あんな化け物、この世にいるわけないし。そうよ、夢よ! 夢なのよ!)
胸の前で手を握り、小夜は祈るように目を閉じた。夢なら早く覚めてくださいと。
「危ない!」
誰かの叫ぶ声に、小夜はハッと顔を上げた。車ほどある巨大な幼虫もどきが、小夜に向かって猛進してくる。
「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
食べられてしまう。そう思った時だった。何かを斬り裂く音が響いた。
続いて怪物から蒸気が噴き出す。卵が腐ったような異様な臭いを充満させて、怪物は悶えながら消えていった。
(た、助かった……)
助けてくれたのは、ローエンだった。剣を携えた彼は、怪物が消え去るのを見届けて、小夜に近寄った。
「あ、ありがと……」
「てめぇ、なんでここにいる? 邪魔だ。建物の中に入ってろ!」
第一声がこれだった。小夜に手を差し伸べるわけでもなく、ただ小夜を睨みつける。
怖い思いをしてまで、なぜ睨まれなければならないのか。小夜の目から涙が一気に噴き出した。ローエンの服に掴みかかって、小夜は泣きじゃくった。
「何なのよ、あれ! ここはどこなのよ! なんでこんなことになってるのよ! わけがわかんないわよ! 何なのよ、もう!」
「自分の胸に聞いてみろ」
冷やかな一言を放つと、ローエンは小夜を振り払った。ルビー色の瞳に、光はなかった。




