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第四章 まもりたい④


 ヴィンター王国の国境は山に面している。高く険しい山は、ティーガがいなければとてもじゃないが登れなかっただろう。ようやく山頂にたどり着いたとき、小夜の眼前に広がっていたのは、果てしなく続く山脈だった。

 標高の高い山々は、白一色に染まっている。さすが北の果てだ。白く見えているのは全て地表を覆った雪だった。打ちつける風の冷たさは、カーディガンをはおっただけでは防ぎきれない。出発直前に渡された毛皮のマントで体をくるんでもなお、手がかじかみ、体の震えが止まらなかった。

 見渡す限り真っ白の空間に、稜線に沿って伸びる人工的な一本の道が見えた。石垣で道が整備されていたから、雪に埋もれずに済んだのだろう。

 女王の話では、眼前に続く道を進んでいけば、『世界の最果て』と呼ばれるところにつくという。何キロメートルあるのかはわからない。ただ言えることは、終わりが見えないということだ。地平線まで、山は途切れることなく続いている。

 迷っている暇はない。突き進むしかないのだから。

 小夜はティーガを走らせた。道はティーガが通っても十分余裕があるほど幅のあるものだった。表面にはうっすらと雪が積もっている。ティーガが走るたびに、雪を踏みつける音が聞こえてきた。

 石垣は小夜の身長とほぼ同じ高さだろうか。ティーガに跨っていると、頭一つ分くらい塀から出る。右も左も雄大な山脈で、進んでも進んでも景色が変わった気がしなかった。

(この道であってるよね?)

 不安になるのを抑えて、小夜はひたすら前に進み続けた。

 太陽の明かりが、少しずつ山の陰に隠れていく。

 夜になったら、きっと今よりも温度が下がるだろう。さらに視界も悪くなって、『世界の最果て』に着いたかどうかもわからなくなるのでは。

 先のことを考えれば考えるほど不安で仕方がなかった。

 尾根に隠れて太陽が見えなくなった頃、ようやく道の先が見え始めた。

 山の頂上に神殿のような建物が確認できる。

 白い石を積み上げた建物で、丸い柱が平たい屋根を支えているのが印象的だ。

(もしかしてあれが……?)

 希望の光がやっと見えて、安堵したときだった。

 何かが頭上から落ちてきたのである。

(まさか!)

 小夜の不安は的中した。落ちてきたのは、ペットボトルなどのゴミだ。比較的細かいものだった。まるで小夜を嘲笑うかのように降り注ぐ。

 山肌に落ちたものは、怪物と変化した後、山を転げるように下っていき、道の後ろに落ちたものは石垣を溶かしながら小夜を追いかけてくる。

「こんなときに!」

 後もう少しなのだ。後もう少しで全てが終わるのに。

 神殿が目前に迫ったところで、捕まってしまった。

 ティーガが背後から怪物に足を取られ、横になぎ倒される。同時に小夜も横に放り出された。石垣に左肩をぶつけて、激痛にもがく。

 体が冷え切っているところに、強い打撃を受けて、しびれるような痛さが全身に回った。

 立ち上がろうとしたが、力が入らない。

 ティーガの鋭い咆哮が空気を震わせる。小夜を叱咤激励しているようにも聞こえる。

 迫りくる紫色の物体と向き合って、ティーガは研ぎ澄まされた爪で必死の抵抗を見せた。爪でひっかかれた怪物は、蒸気を上げなら外郭をいびつに変形させ耐えしのいでいる。

 爪の力だけでは、完全に浄化させることはできないようだった。

 ティーガは再び咆哮を轟かせた。

 小夜の体をかばいながら、怪物を退けようと果敢に向かっていく。

 『行け』と言っている。小夜はそう思った。

『ここは僕に任せて!』

 一瞬、ヴィントの声が聞こえた気がした。

(私は、負けられない……!)

 何もできないままなんて、もう嫌だ。みんなのために戦うと決めた。ここで立ち止まってなどいられない。

 小夜は痛む体を踏ん張って起こした。

 歩いてもすぐの場所に神殿はある。本当にもう目の前だ。

 左肩を手でかばいながら、小夜は塀に沿ってふらふらと歩いた。痛みを通り越して感覚が麻痺してきている。肩は一ミリも上がりそうにない。骨が折れたかもしれないと思ったが、考えないようにした。 今は前に進むことだけに集中しよう。塀が途切れて、雪だけの平地になった。神殿の先は大地が見えない。急な斜面になっているか、崖になっているかだろうが、小夜の位置からは下を確認することはできなかった。

 雪を踏みしめて、小夜は一歩ずつ確実に前に進んでいく。深く積もっていないことが幸いだった。もう足が上がらなくなってきている。

 息も絶え絶えに、ようやく神殿の床にたどり着いた。

 低い段になっていることに気づかなくて、小夜はそのまま前方に転んだ。

 石畳の硬い床が、小夜の肌を傷つける。膝をすりむいて、血がにじんでいた。

 痛いのを必死で堪えて、小夜は起き上がった。

 暗くて柱だけが見える空間の先に、淡い光が立ち上っている。

「あれは?」

 小夜が近づこうとすると、横から人影がぬっと出てきた。

「よくぞ来たな」

 現れたのは、背の低い老婆だった。しわでくぼんだ目に長い鉤鼻、腰まである長い白髪を振り乱した老婆はどこかで見たことがある。

「あのときの魔導師!?」

 小夜を召喚した魔導師だ。まさか再び出会うとは思わなかった。

 しかし、魔導師がいたのは、フリューリング王国よりさらに南の果て。ここまで一人で移動してきたのだろうか。

「おまえさんを召喚したのは、わしの双子の妹じゃ」

 魔導師は、奇怪な笑みを浮かべながら言った。

「我ら魔道を司る者は、神殿から外には一歩も出られぬ運命。その役割を果たすときまで、ここで何十年、何百年と待ち続けるのじゃ」

「役割……。そうだ、私、結界を張りに来たの」

 意外な人物の登場に、あやうく目的を見失うところだった。

 魔導師は長い鼻をさすりながら、不気味に笑った。

「覚悟はできておるのか? おまえ、命はないぞ?」

 小夜は静かに頷く。

「ついてこい」

 魔導師についていくと、一面水が張られた場所に着いた。浅いプールのようになっていて、中央に丸い足場がある。人工的に造られているが、水は地下水が湧き出たものだろう。プールの四隅には、先の尖った白い石柱が一本ずつ立っていた。

「儀式の間じゃ。結界には、わしの魔力とおまえの魂の力を使う」

「魂の力?」

「人の体に宿る神秘の力じゃ。生命力とも呼ぶ」

 そう言うと、魔導師は中央の足場を指さした。

「あそこに立て」

 小夜は頷いた。

 足場に行くには、水の中を歩いていかなければならない。小夜は足を入れる。冷たい水は、膝の傷にちょうど染みて、忘れていた痛みを思い出した。

「本当に覚悟はできているのじゃな?」

 魔導師から念を押されて、小夜は足を止めた。

 本当は震えている。怖くないと言えば嘘になる。

「やめるのなら今のうちじゃ。あそこに立てば、もう引き返すことはできん」

 魔導師の言葉は、小夜の心に深く響いた。

 足が前に進まない。迷っているのか。ここまで来て、怖気づいたのか。

 小夜は唇を噛みしめた。

 そんなとき、外からティーガの吠える声が聞こえてきた。

 今もなお戦っているのだ。ぼろぼろになりながら、小夜を守るために。

「みんな戦ってる。守りたいもののために、必死で戦ってる。私も戦うって決めたの」

 左手の小指に巻かれた絵入りの絆創膏を見つめて、小夜は一人の青年を思い浮かべた。

 失わないために全力で守ると、傷を追いながらも戦いに赴いていく後ろ姿。

 それが最後に見た彼の姿だ。

 もっと早くこうしていれば、彼を危険な目に合わせなくて済んだかもしれないのに。

「私は、みんなを守る」

 小夜は水の中を歩いていく。

 足場までたどり着いて、上に乗った。岩を切り出して造られた足場は、意外にも広かった。直径一メートルくらいだろうか。表面には文字とも記号ともつかないものが、渦を描くように刻まれている。まるで魔法陣の中にいる気分だ。

 冷たい風が上から流れ込んでくる。天井が吹きさらしになっていた。円形に切り取られた天井からは、きれいな満月がのぞいている。

「では、儀式を始める」

 魔導師はしゃがれた声で言うと、何やら呪文を唱え始めた。

 小刻みに地面が震え、水面が波打つ。

 だんだんと揺れは激しくなり、小夜はしゃがみこんだ。

 足場に彫られた魔法陣が、淡い光を放ち出す。

 心臓が尋常ではない速さで脈打ち始めた。

 今更ながらに恐怖心が込み上げてくる。

 水が足場を中心に渦を巻く。同時に、ひどい脱力感が小夜を襲った。貧血に近い感覚だった。血液が下に溜まって、下半身が重くなっていく気がする。

 生命力を吸われているのだろうか。

 魔導師の呪詛が、激しい轟音にかき消されていく。渦を巻いていた水が竜巻のように立ち上り始めた。

 いつの間にか小夜の周りは水の壁に覆われ、魔導師の姿さえ捉えられなくなってしまった。

 意識が朦朧とする。

 周囲の状況が激動する中、小夜は魔法陣に吸い寄せられるかのように地面に倒れ込んだ。

 横目に見える満月が、異様な光を放っている。いや、月ではない。月に重なって、小さい光の球が黄色く発光しているのだ。

 生命力の結晶だろうか。

(みんな……)

 薄れていく意識の中で、思い浮かんだのは王子たちのことだった。

 みんなは大丈夫だろうか。

 まだ星と戦っているのだろうか。

 ローエンは無事だろうか。

 怪我が悪化していないだろうか。

 もうすぐ終わる。それまで無事でいてほしい。

 あと少しで、人々が待ち望んだ世界がやってくる。みんなが笑って暮らせる世界が……。

 次第に体が軽くなって、小夜はゆっくりと目を閉じた。

 


 迫りくる怪物たちを斬り倒して、ローエンは脇腹を押えた。激しい動きに、傷口が開いてしまったようだ。血がにじんで、白い服の腹部が赤く染まり始めている。

 状況は思った以上に悪かった。星は止む気配なく降り続き、紫色の怪物は次から次へと現れる。負傷した兵は増える一方で、さすがのローエンも気が滅入りそうだった。

「ローエン!」

 頼りになる声がどこからともなく聞こえて、ローエンは振り返った。

 ティーガに跨ったゼーンの姿が目に入る。

「ゼーン……」

 ホッとして気が緩んだのか、ローエンはその場でよろめいた。ティーガから飛び降りたゼーンが、慌ててローエンを支える。

「大丈夫ですか?」

「ああ。悪い、ちょっと気が抜けちまった。それよりおまえ、北は大丈夫なのか?」

「ええ、ひとまずは落ち着きました。兵を順にこちらに回しています」

「そうか。こっちは見ての通りだ。おまけに傷も開いてきやがった」

 そう言って、ローエンは苦笑した。押さえた脇腹は、ぬるりと湿っている。

 心配そうな顔つきで、ゼーンは傷を見やった。

「傷も癒えぬまま戦いになど赴くからです。とにかく手当てをしましょう」

 ゼーンに肩を借りて、ローエンは近くの民家に身を寄せた。

 狭く簡素な一軒家だったが、屋根も壁も白いエルツでできているから一応の安全は確保されている。部屋にある小さな木製の窓も閉め切って、中は薄暗かった。

 王子が二人も入って来たと、住民はたいそう委縮していたが、薬や包帯など必要なものは快く提供してくれた。

 木の床に薄い布団が敷かれ、ローエンはそこに腰かけた。

 服を脱いで血に染まった包帯を解くと、薬を塗り、新しい包帯を巻いていく。自分で巻くとどうもいびつになり、結局は見かねたゼーンに巻いてもらったのだった。

「まったく。無茶にもほどがありますよ、ローエン。あなたにもしものことがあったら、どうするのですか。もっと自分の体を大事になさいといつも言っているでしょう」

「言われなくても、わかってんだよ。絶対帰るって、サヨと約束したしな」

 と、ローエンは小指に巻かれた小夜のおまじないを見つめた。

「サヨ……。そう、ティーガに乗って走っていくサヨを見かけましたよ」

「は? どこで?」

「北地区です。何度か声をかけたのですが、気づかない様子でした。追いかけようと思ったのですが、怪物たちに囲まれて、相手をしているうちに見失ってしまいました」

「まさか、あいつ!」

 嫌な予感がして、ローエンは立ち上がった。急に動いたせいで脇腹が激しく痛み、倒れそうになったところを、ゼーンが素早く受け止める。

「もっと自覚してください。怪我人なんですよ、あなたは」

「悪い。けど、俺、行かねぇと」

「気持ちはわかりますが、そんな状態で……」

 途中まで言いかけて、ゼーンは言葉を止めた。ローエンの顔をじっと見据えてから、やれやれと息を吐く。

「何を言っても無駄のようですね」

「悪いな、ゼーン。後のことは頼めるか?」

「ええ。ここは任せてください」

 その言葉に頷いて、ローエンは家を後にしようと玄関に向かう。扉に手をかけたとき、ゼーンに呼び止められた。

「ローエン。もし、サヨが何もかも受け入れて、覚悟の上で結界を張りに行くのだとしたら……」

「だったら、なんだってんだよ?」

 扉に視線を向けたまま、ローエンは答えた。拳を力強く握りしめる。

「止めるなって言いてぇのか?」

「いえ、そういうわけでは……」

「確かに、俺は一国の王子として間違った選択をしてるのかもしれねぇ。けど……」

 小夜のことを思い浮かべながら、おまじないの巻かれた小指を、ローエンは優しくなぞる。

「それでもあいつに生きててほしいんだ。今まで辛い思いをさせた分、ずっと傍にいて抱きしめていてやりてぇ。王子失格だな、俺」

「いいえ。間違ってなどいませんよ、ローエン。愛しい姫君を救いに行くのは、王子の務めですからね」

 そう言うと、ゼーンは柔和な笑みを浮かべた。

「さ。後は私に任せて、急いで後を追ってください」

 ローエンは民家を出ると、指笛を鳴らした。どこからともなくティーガが駆けてきて、ローエンの前に現れる。ティーガに跨ると、ローエンは北に向けて急ぎ走らせた。

(サヨ! 早まるんじゃねぇぞ! 帰った先におまえがいないんじゃ、何の意味もねぇんだからな!)

 小夜への強い想いを胸に、ローエンは『世界の最果て』へと急いだ。


「サヨ!」

 ローエンが『世界の最果て』にたどり着いたとき、神殿の前で白いティーガが怪物と戦っているところだった。

 小夜が中にいる。怪物を剣で斬り倒し、ローエンは確信した。

 一抹の不安がローエンの胸によぎる。手遅れにならなければいいがと、急いで神殿の中へ駆け入った。

 そこで見たものは、天井へ高く立ち昇った水柱だった。

「サヨ!」

「お待ちくだされ、王子!」

 水柱が上がる中、足を踏み入れようとして、ローエンは魔導師に止められた。

「儀式の最中ですぞ!」

 竜巻のごとく立ち上っている水柱の頂には、光の球が浮いていた。

 貯水槽の四つ角に立つ石柱の先端からそれぞれ閃光が放たれ、球を大きく成長させていく。

 魔法陣から吸い取った魂の力を、水を経由してエルツ製の石柱に送り込み、エルツの聖なる力も交わらせて結界の源を創り出しているのだ。

 球はこぶしよりも大きく成長しつつあった。ローエンは躊躇なく水の中に入る。

「王子! せっかく張れる結界を台無しにされるおつもりか!」

 魔導師の声も無視して、ローエンは水柱の中に飛び込む。そこには、異世界の少女が倒れていた。

「サヨ!」

 抱き起こして揺すってみるものの、反応がない。息はしているが、すでに相当の力を吸われてしまっているようだ。

小夜の体からは体温が奪われ、生気が微弱にしか感じられなかった。

「サヨ! サヨ!」

 何度呼びかけても、目を覚ます気配がない。

 ローエンは小夜を抱きかかえた。この場から抜け出そうと水の壁に触れたら、強い力ではね返された。幾度か試したが無駄だった。無理をすると逆に小夜の体を傷つけてしまう。どうやら儀式が終わるまで、魔法陣からは出られないようだ。

「サヨ……」

 小夜の体を温めるように抱きしめて、ローエンは座り込んだ。

 無理するなと言っておきながら、とんでもない無理をさせてしまった。

 なぜ傍にいてやらなかったのだろう。

 何もかも投げ捨てて、小夜だけの傍になぜいてやらなかったのだろう。

「守るんじゃなかったのか……!」

 唇を噛んで、ローエンはこぼした。

「もうやめてくれ……」

 今もなお、魔法陣は小夜の力を吸い取ろうと、黄色い光を放ち続ける。

 上空に浮かぶ光の球が、かなりの速さで膨れ上がっていた。

 それは、満月を呑みこむほどに膨張し、今にも夜空へ舞い上がろうとしている。

 いよいよ終盤にさしかかっているのだろう。小夜の体が氷のように青白く冷たくなっていくとともに、柔らかい肌が弾力を失っていく。

「もうこれ以上、奪わないでくれ……」

 まだ柔らかい頬に、ローエンは自分の頬をすり寄せる。

 涙がとめどなくあふれてきた。

 失いたくない。ずっと一緒にいたい。くだらないことで笑い合ったり、何でもない口喧嘩をしたり、同じ時間をともに過ごして、いつまでも傍で抱きしめていたい。

 次から次へと流れ出る涙のごとく、小夜への感情があふれ出す。

「好きなんだ。いつの間にか、こんなにも……」

 小夜の冷たくなった唇に、ローエンは自分の唇を優しく重ねた。

 体温を伝えるように、強く深く押し当てる。

「だから、奪わないでくれ……。俺の命なら、いくらでもくれてやるから……!」

 重ねた唇に想いをこめて、ローエンは抱きしめた腕に力を込めた。

 そのときだ。小夜の頬に、ほんのわずかだが赤みがさしたのだ。

「サヨ!」

 反応はなかったが、確かに生気は戻って来ていた。しかし、唇を離すと、小夜の頬はまた青白く戻ってしまう。

 ローエンは再び唇を重ねた。

 同時に、言いようのない疲労感に襲われる。

 体の血液を一度に大量に抜かれたときに似ていた。脇腹に怪我を負ったときに味わった感覚だ。全身の力が抜け、体を起こしていることが辛くなる。

 重ね合わせた唇を通して、自分の生命力が吸収されているのだと、ローエンは咄嗟に悟った。

 激しく力が吸われて、唇を離さずにいるのがやっとだった。

「くっ」

 とうとう視界が白んできた。

(ここまでか……)

 意識が朦朧とする中で、ローエンは周りの水柱が徐々に収まっていくのに気づいた。だんだんと高さが落ちていき、対岸に座り込む魔導師の姿が見える。

「奇跡じゃ……」

 魔導師が、目を見開いて虚空を凝視している。

 ローエンは唇を離して、魔導師の視線を追った。

 頭上に浮いていた光の球が、ゆっくりと空へ舞い上がっていくのに、ローエンは気づいた。

 美しい光をまといながら、天に昇っていく。

 球が屋根を抜けたところで、体の限界はやってきた。まぶたが重くなり、もう目を開けていられない。

 ローエンは最後に小夜の状態を確認した。ずっと重ねていた唇は、艶やかな薄紅色を宿している。安堵のあまり、いっきに力が抜けた。

「サヨ……」

 腕の中にいる少女の微かな息づかいを確かめて、ローエンは静かに瞳を閉じた。



 唇に伝わる柔らかい感触。

 温かくて、力強くて、湿っていて……。

(ん? 湿ってる?)

 顔をしかめながら、小夜は目を開けた。

「うきゃ――っ!?」

 小夜の唇を奪っていたのは、白銀の獣だった。

(またこのオチ!)

 飛び起きて、小夜は愕然とうなだれる。

「気がついたか、サヨ?」

「ローエン!」

 横にいた人物に、小夜は目を見張った。いつの間にか神殿の入口付近に寝かされていたようだ。しかも自分の起き上がった位置を認識して、ある事実を知った。

 ローエンの膝の横に背を向けて座っているということは、膝枕をしてもらっていたのだ。

 気を失っていたとはいえ、状況を想像すると、顔から湯気が上がりそうだった。

「なんで? ローエンが? 結界は? 私、生きてるの? それともここは天国? 地獄?」

 いったい何が起こったのか頭がパニックになって、小夜はしどろもどろになった。

「落ちつかんか」

 突然、小夜は腕を掴まれた。しわだらけの骨ばった手だ。

「ギャーッ! 妖怪!」

「誰が妖怪じゃ」

「鬼婆!」

「鬼婆でもないわ!」

 小夜の腕を掴んだのは、魔導師だった。

「結界は無事に張れたわい。おまえさんも生きておる」

「え?」

「奇跡としか言いようがない。助かる見込みはなかった。だが、王子が咄嗟の判断で唇を重ね、魂の力をおまえさんに注ぎこんだのじゃ。二人の愛の力がなければ、起らぬ奇跡じゃ」

 魔導師はそう言うと、にやりと笑った。

「え? 唇? 愛?」

 再び小夜の顔が熱くなった。たぶんもう蒸気が噴射されている。

 気を失っていた間、何が起こっていたのかわからなかったが、とてつもなく恥ずかしいことが起きていたことだけは容易に想像がつく。

「ま、何でもいいじゃねぇか。おまえは生きてる。それだけで俺は十分だ」

 ローエンがそっと小夜を抱きしめた。

「すっげぇ心配した」

「ごめんね」

「謝んな。おまえに重大な決断をさせてしまったのは、俺のふがいなさのせいだ。そうじゃなくて、俺自身が怖かったんだ。おまえがいなくなるんじゃねぇかって思ったら、すっげぇ怖かった」

 強く抱きしめて、ローエンは言った。温かくてたくましい腕は、気持ちを一瞬にして落ちつかせてくれる。

「だから、本当に無事で良かった。こうして俺の腕の中にいる。もう離さねぇからな」

 首筋に、そっと柔らかいものが触れる。唇だ。さらに頬に額に鼻の頭にと、ローエンは軽く唇を当てていく。

 くすぐったくて、小夜は身をよじった。

「ローエン、くすぐったい」

「悪い、つい」

 唇を離して、ローエンは反省したようにうなだれる。

 そういえば、以前ユラに対しても怒涛のごとくキスを浴びせていた。

「ローエンって、キス魔でしょ」

 意地悪っぽく言うと、耳まで真っ赤にしながら、ローエンは唇を尖らせた。

「悪かったな。しょうがねぇだろ、好きだと思ったら止まんねぇんだから」

「え?」

 今、ものすごく大事なことをさらっと言われたような気がする。

「結界見に行くか」

 ポカンと口を開けていた小夜に、ローエンが親指で外を指した。

 神殿の外では、もう一頭のティーガが、空を見上げて子供のようにはしゃいでいる。ローエンのティーガだ。

 ローエンはひょいと小夜を抱きかかえると、神殿の外に向かった。

 眩しい光とともに二人を迎えたのは、空にかかる光のカーテンだった。

暁の空色に、七色の美しい光がきらめいている。

「きれい……」

 すべてを包み込むような優しい輝きは、小夜の心を感動で満たしてくれる。

「これが結界……」

「この聖なる光が世界を包み込んでいる限り、二度と星は降らない」

「もう何も恐れなくていいんだよね?」

「ああ、そうだ」

「みんな幸せに暮らせるんだよね? 全てが終わったんだよね?」

「ああ。おまえは守ったんだ。この世界を。俺たちの未来を」

「そして、私の未来をローエンが守ってくれた。ありがとう」

 ローエンの首にそっと腕を回して、小夜は抱きついた。それから、じっと彼の瞳を見つめて、ずっと心に想っていたことを尋ねてみる。

「私、ローエンに認めてもらえる存在になれたかな?」

「当たり前だろ。そんなのとっくに認めてんだよ。おまえが、その……」

 言いかけて、ローエンは口ごもった。頬を朱に染めながら、言葉を探しているように目を泳がせたかと思うと、急に真剣な眼差しになった。

「俺にとって、愛しくてたまらない存在だってこと」

 七色のカーテンが彩る空の下で、ローエンの深い愛情を、小夜はめいっぱい感じていた。


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