第四章 まもりたい③
5
池の外には芝生と常緑樹の庭園がある。丸く形を整えられた木が、計ったように整然と植えられ、間には様々な形の置き石が置かれていた。
決して狭いわけではないのだが、ティーガたちと戯れるには窮屈な気もする。
ヴィントの白いティーガとローエンの白縞のティーガは、二頭仲良く池の傍で寝そべっていた。池の周りは芝生が生えていて凹凸がない。うまく場所を確保して、二頭は大きな体を寄り添い合わせていた。
二頭の体をなでながら、小夜は暗鬱なため息をついた。
ローエンが怪我に倒れてから、数日が経過した。ローエンは順調に回復し、ようやく体を起こせるまでになった。
あれから、誰も結界の話をしない。『世界の最果て』に行けとも言わない。
ローエンの怪我が治って移動できるようになれば、小夜を元の世界に戻すため、最初に訪れた神殿に連れて行ってくれるというのだ。
(本当にこれでいいのかな?)
うれしいはずなのに、素直に喜べなかった。
ゴミは未だにヤーレスツァイトに降り続いている。先日はヴィンター王国の東側で降ったという。そのたびに、エルデやゼーンが兵士を引き連れて出動しているのだ。
負傷者が出たかもしれない。自然が壊されたかもしれない。想像すると、やりきれなくなる。結界を張らない限り、惨劇が永遠に繰り返されるのだ。
小夜が元の世界に戻って、ゴミを無くせば丸く収まるのかもしれないが、一番不可能に近い気がした。これからゴミを無くす努力はきっとできるだろう。しかし、すでに投げ捨てられたゴミはどうするのか。全部回収するなど、現実に考えて不可能に等しい。
ゴミが現代の地上に残っている限り、ヤーレスツァイトに降り注ぎ続けるのだ。長年蓄積してきた罪は、そう簡単にはぬぐえない。
「結局、私は何もできないのかな……」
だからって、命を投げ出す勇気などない。
みんなと一緒にいたいし、ローエンの傍にもいたい。
家族にも会いたいし、友達にも会いたい。
わがままなのだろうか。傲慢なのだろうか。
何もできない自分は、本当に嫌な奴だ。
小夜は再びため息をついた。
「ため息をつくと寿命が縮みますよ」
背後から声がして、小夜は慌てて振り向いた。
立っていたのは、柔和な笑みを浮かべたゼーンだ。隣にはエルデもいた。
「ゼーン、どうしたの?」
「ローエンのお見舞いに」
そう言って、腕に抱えていた花束と果物の入ったかごを見せた。
「エルデも一緒に?」
最近、よく二人でいるところを見かける。仲直りができたようで、小夜はうれしく思った。
「監視ですよ。この国では、私は要注意人物ですからね」
「またそんなこと言って」
素直ではないゼーンに、小夜は苦笑する。
「エルデも何か言ってやりなよ」
「監視だ」
「あ、そう」
まさかの返答に、小夜は目をパチクリさせた。
「まぁ、そう簡単に国同士の関係は変わりませんよ。ですが、国の事情と個人の心は同じとは限りませんからね」
エルデに目配せしながら、ゼーンは話す。
目に見えない絆が、確かに二人の間には戻っていた。
「我々のことより、あなたはどうなのですか?」
「え?」
「心ここにあらずと言った感じですね」
「そんなこと……」
視線を落として、小夜は口ごもる。
「正直に述懐しますと、私は今でも結界を張ってほしいと思っています」
ゼーンの言葉に、小夜は顔を上げた。
「決して、あなたの命を軽んじて言っているわけではありませんよ。私は一国の王子として、民の暮らしを思えばこそ、結界は張るべきだと考えています。ですが同時に、結界を張らなくて良い方法があるなら、それに尽力したいとも思っています」
「相互に協力し合ってできることはないか模索中だ」
エルデが横から付け加えた。
「ここの責任者が頑固すぎて、話がいっこうに進みませんがね」
「おまえが挑発するようなことを口走るからだろう」
「いいえ、あちらの態度が傲慢なのです」
と、ゼーンはきっぱり言う。
女王の性格を思い起こして、小夜はどっちもどっちだと苦笑した。
「とにかく。失いたくない気持ちは皆同じです。ですが、そのために大切なものを見失っては、何の意味もなさない。そう教えてくれたのはローエンとあなたです。あまり考えすぎないように。あなたは我々の心を変えました。それだけでも、十分に意味があると思いますよ」
「ありがとう」
肩の荷がすっと下りたような気がした。
ローエンを見舞うため、ゼーンたちは細い石橋を渡ろうとする。そこで、一人の兵士が駆け入ってきた。
「エルデ様、星が降ってまいりました!」
二人は足を止め、顔を曇らせる。
「場所は?」
エルデが静かに尋ねた。
「北と南、両地区です。すでに兵の一部を向かわせております」
「わかった。ゼーン、北の指揮を頼めるか?」
「ええ、もちろんです。急ぎ参りましょう」
ゼーンたちは颯爽と出陣に向かう。
屋敷の敷地を出るところで、抱えていたものに気づいたのか、ゼーンが足を止めた。
持ってきた見舞いの品を、小夜に渡す。
「サヨ、これをローエンに。星のことは内密にしておいてください。彼の性格だと、傷をおしても来ると言いそうですからね」
「うん、わかった。気をつけてね」
小夜は大きく頷いた。
柔和な笑みを残して、ゼーンは去っていった。
ゼーンたちの背中を見送って、小夜は見舞品を届けるために屋敷に入った。
襖を開けると、ローエンが寝息を立てていた。寝相が悪いのか、布団がめくれている。横向きになった上半身が出てしまっていた。
花束と果物のかごをひとまず床に置いて、小夜はローエンの布団をかけ直した。
赤い髪の間から、長いまつ毛がのぞいている。見惚れるほどきれいな横顔だ。
そっと髪に触れてみる。細くて柔らかい髪が、さらりと横に流れた。
(ローエン……)
胸が詰まりそうだった。長いまつ毛の下から、一筋の涙が頬を伝っていたのだ。
「ヴィント……」
寝返りを打ちながら、ローエンはこぼした。
小夜は、目頭が熱くなるのを感じた。息が詰まるほどに苦しくなって、我慢できずに立ち上がる。部屋を出ていこうとしたところで、ローエンに声をかけられた。
「サヨ?」
眠そうな声が飛んでくる。高鳴る心臓の音を抑えながら、小夜は振り返った。
「ごめん、起こした?」
「いや。なんか目が覚めた。変な夢見たせいだな」
「変な夢?」
「ん。まぁ、昔のな」
曖昧に答えてから、ローエンはゆっくりと体を起こした。藍色の一重の着物がはだけて、包帯がのぞいている。まだ痛みは残っているようだ。脇腹を押えて、ローエンは歯を噛んだ。
小夜は慌てて駆け寄る。
「大丈夫?」
「ああ。動かすと痛むけどな。体そのものはピンピンしてんだぜ」
と、腕や肩を回して見せる。
「誰か見舞いに来たのか?」
「あ、うん。ゼーンとエルデが」
「なんだよ、声かけて行けよな」
「寝てたから、起こしちゃ悪いと思ったんじゃない?」
星が降ったせいで、部屋まで来られなかったことは内緒だ。
「おまえ、何かあったのか?」
急に顔を覗き込まれて、小夜は戸惑った。
「え? なんで?」
「目が赤い」
確信を突かれて、小夜はさらに慌てふためいた。
「ビタミン不足かな。疲れてるのかも」
「ちゃんと食って寝てねぇのか? 俺の次に倒れたらどうすんだよ」
「大丈夫よ。こう見えも体力には自信あるんだから」
「船酔いしてたやつがよく言うぜ」
額をこつんと小突かれた。
フッと笑みがこぼれ、それから互いに見つめ合う。
優しくて力強い深紅の瞳が、小夜の不安に満ちた心を一瞬にして包み込んでくれた。
髪に触れ、頬に触れる手が温かい。
小夜は、その手に自分の手を重ね合わせた。見つめ合う距離がぐっと近くなる。
互いの息が唇にかかるほど近く……。
「ローエン王子」
不意に襖の外で声がして、小夜はビクッと肩を震わせた。
何をしようとしていたのかと、慌ててローエンから顔を離す。急に体中が熱くなってきて、血液が沸騰しそうだった。あのまま声がかからなかったら、どうなっていただろう。
小夜はローエンを一瞥した。
完全に顔を背けてしまっていて、反応は見えなかったが、心なしか耳が赤くなっているような気がした。
ローエンは大仰に一つ咳をして、襖に向かって答えた。
「なんだ?」
「お休みのところ申し訳ございません。ご報告が」
襖がすっと開く。一人の兵士が片膝をついて、恭しく頭を下げていた。
「どうした?」
「エルデ様が負傷されました」
「何? 負傷?」
ローエンは眉をひそめて、小夜に目をやった。どういうことかと尋ねるように。
小夜は思わず目をそらしてしまった。体が小刻みに震えるのがわかる。
兵士が報告を続ける。
「左目を負傷し重傷とのことです。南はまだ星が降り続いています。星はかなり大きく、戦況が芳しくありません」
「どういうことだ? 星が降って来てたのか? ゼーンは?」
「北地区で指揮をとられております。あちらもかなり苦戦している模様です」
「ローエン様!」
また一人兵士が駆け込んできた。息を荒げて、倒れんばかりの勢いだ。
「西でも星が……! このままでは街が壊滅状態になります! どうかお力をお貸しください!」
「落ちつけ。女王陛下は?」
「ローエン様の指示を仰ぐようにと」
「相変わらずだな、あのおばさん」
呆れたようにこぼすと、ローエンは立ち上がった。傷のせいで足元がふらついている。
「わかった。残りの兵の数は?」
「およそ千です」
「よし。二百ずつは北と南に援軍として向かえ。百は城の警護。残り五百は俺についてこい。西へ向かう」
「はっ」
指示を受けた二人の兵士は、素早く全軍に知らせに行く。
「ローエン、無茶よ!」
小夜はローエンの腕を掴んだ。
立っているのもやっとのはずなのに、戦場に行くなどもってのほかだ。
だが、ローエンの瞳はゆるぎなかった。怪我をしていることなど理由にならないと目が言っている。
着物を脱ぎ棄てて普段着に着替えると、ローエンは壁に立てかけてあった剣に手をかけようとした。 咄嗟に、小夜は剣を奪い取った。
「ダメよ、ダメ! そんな体で行くなんて!」
「サヨ……。心配してくれるのはうれしい。けどな、俺は決めたんだ。失わないために、全力で守るって」
「でも……」
「サヨ、わかってくれ。俺が行かねぇと、兵が動けない。民を助けられねぇんだ!」
「わかってるよ。でも、ローエンは怪我人なんだよ。まだ歩くのだって、ふらふらじゃない」
「怪我してようが関係ねぇ! 兵たちの前に立って、民を守るのが王子の役目だ。それがどこの国の民であろうと、関係ねぇんだ!」
王子としてやるべきことをやる。
精悍な顔つきからは、民の命を背負う覚悟がうかがい知れる。
唇を噛みしめて、小夜はうなだれた。
行かせたくない。だけど、無責任に行かないでとも言えない。ローエンを引き留めてしまったら、助けを求める人たちの希望を奪うことになるのだから。
観念して、小夜は剣をローエンに渡す。
両手で持ってやっとのずっしりとくる重みは、背負っているものの重さのようにも感じた。
「ありがとな」
優しく微笑んで、ローエンは剣を受け取った。重みをしっかりと確かめてから腰にさし、布団の横に畳み置かれたマントをはおる。
「心配するな。すぐに帰ってくる」
「待って!」
背中を向けるローエンに、小夜は駆け寄った。
鞄から絵入りの絆創膏を取り出して、ローエンの小指にそっと巻く。小指に巻かれた絆創膏を不思議そうに眺めて、ローエンは尋ねた。
「これは?」
「おまじない。絶対に帰ってくるって約束して」
ローエンの小指に、小夜は自分の小指を絡める。
「ああ。約束する」
ローエンは小夜を強く抱きしめると、頬にそっとキスをした。ほんの一瞬だった。
刹那の柔らかさが、小夜の心に確信を与える。
目の前にいる人は、自分にとって誰よりも大切な人なのだと。
「いや……」
かすれた声は、ローエンには届かない。
脇腹の痛みをかばいながら、大切な人は行ってしまう。
手を伸ばしても、立ち止りはしない。
ローエンの背中が見えなくなって、小夜は崩れるように膝を床についた。
星が降り続ける限り、悲しみは永遠に繰り返される。
わかっていたはずなのに……。
6
ローエンが去ってしばらくした後、屋敷の周りは急に騒がしくなった。兵士たちの声があちらこちらから飛び交い、目まぐるしいようだった。
庭で寝そべっていたティーガも、落ちつかないのか池の周りをうろついている。
小夜は玄関に駆け寄った。
じっとしていられなかったのだ。何かしていないと、ローエンのことばかり考えて、気が滅入りそうになる。
玄関には二人の兵士が常駐している。兵士たちを通してしか、小夜は屋敷を出入りできないのである。
「何かあったんですか?」
塀の外はうかがい知ることはできない。様子は門番に尋ねるしかなかった。
「お騒がせして申し訳ありません。怪我人が続々と運ばれてきておりますので」
外から兵士が答えた。
「私に、みなさんの怪我の手当てをさせてください」
「しかし、それは……」
「何か少しでもお役に立ちたいんです。お願いします!」
「……わかりました」
返答とともに、門の錠を開ける音がした。
「どうぞ」
扉に備えついた蝶つがいをきしませながら、門は開いた。
お礼を言って小夜は出る。庭にいたティーガに「おいで」と言って、ついてこさせた。
門の一歩外は、壮絶な景色が広がっていた。
城へ繋がる道には砂利が敷かれているのだが、そこにござを敷いて兵士たちを寝かせているのだ。どの兵士も、目を背けたくなるほどひどい状態だった。足先から顔に至るまで紫色に変色し、息をしているかさえわからない。
城へ続く広い敷地は、横たわった犠牲者で埋め尽くされつつあった。
運ばれてくるたびに仕分けされ、助かる見込みのあるものは奥の城内へ、手遅れのもはござの上で野ざらしにされる。そうでもしなければ、追いつかないというのだ。
あまりの惨さに、小夜は思わず口を押さえた。
「救世主様、こちらへ」
案内された場所も、外とあまり状況的に大差はなかった。城の一階に位置する襖を全てはずした大広間に、敷布団がずらりと並べられ、負傷者たちが寝かされている。
手当てに奮闘しているのは、割ぽう着に似た服を着て、白い布で鼻口を覆った女性と男性数人だった。騒然とした室内で、彼らは大声で怒鳴りながらやり取りしている。苦痛にもがく絶叫や恐怖にとり乱す悲鳴が蔓延し、叫ばなければ声が聞き取れないのだった。
見たところ薬はたくさんあるようだ。しかし、次々と運ばれてくる患者に、診る人間が追いついていない。
ティーガに怪我人を運ぶ手伝いをするよう言いつけた小夜は、自分も手当てに回った。
制服の上から渡された割ぽう着のような服を着て、鼻と口を覆うように布を当てて、マスク代わりにする。治療の際の衛生面のためと、エルツの水溶液をかけたときに出る悪臭に耐えるためだという。すでに部屋は異臭を放ち、マスクをする前から小夜の鼻は麻痺していた。
運ばれてくる兵士は後を絶たない。ほとんどが重症で、体を動かすのは困難な状態だった。
ゾンマー王国で体験したときよりも状況が悪い。それだけ大量のゴミが降っているということだろうか。長く降れば、さらに城内は地獄と化すだろう。
今はできることを精いっぱいやるしかない。薬の瓶を持って、小夜は運ばれてくる兵士たちと向き合った。痛みに苦しんでいる者や死の恐怖に怯える者、できる限り寄り添って、小夜は何度も励ましの言葉をかけ続けた。
心が苦しくて、何度もめまいに襲われた。
兵士たちの介抱をしながら、本当にこれでいいのかと、頭の端で自問自答を繰り返す。
そんなとき、室内がざわめき立った。
治療にあたっていた女性たちが、突然手を止めて、今まさに運ばれてきた人物に駆け寄る。
エルデだった。黒いティーガの背中でだらりとうつむけになり、ぴくりともしない。
「エルデ様!」
すぐに別室に運ばれ、数人の女性たちが後に続く。さらに初老の男性も入っていった。ローエンを診てくれた医者だった。
小夜もまた心配になって駆けつける。
美しい絵柄の襖と意匠の凝らした欄間に囲まれた部屋に、エルデは寝かされた。
治療にあたる医師や助手の女性たちで、広いはずの部屋が狭く感じる。
邪魔にならないよう、部屋の隅で治療の一部始終を、小夜は息を凝らして見守っていた。
エルデは左目を負傷していた。白い布が押し当てられていて、どうなっているかまでは確認できない。だが、布をはいだときの医者の表情は、相当に険しいものだった。
ガーゼに薬の液体を浸し、左目に持っていく。
医者は女性たちに、四肢をしっかり押さえておくよう指示して、ガーゼをエルデの目に当てた。皮膚が焼けるような音が、部屋に生々しく響く。
小夜は耳をふさぎたい気分だった。
ガーゼが押し当てられた瞬間に、気絶していたはずのエルデが、体を左右によじりながら苦痛の叫びを上げた。
いったん収まると、医者は目に当てたガーゼを取り換え、再び押し当てる。同じようにエルデは悶絶し、それが二度三度と繰り返された。
小夜は怖くなった。
エルデは大丈夫なのだろうか。あんなふうにもがく姿は初めて見る。
三度目の治療が終わったときだった。
襖が騒々しく開いて、豪華な衣装に身を包んだ女王が、血相を変えて入ってきたのである。
「エルデ!」
医師たちを押しのけて、女王はエルデの体にすがりついた。
「エルデ! エルデ!」
泣き崩れる女王に、落ち着くようにと医師が言葉をかける。
「エルデの具合はどうなのじゃ!? エルデは助かるのであろうな!?」
「ご安心ください、今は意識を失っておられますが、命には別状ございません。しかし……」
表情を曇らせて、医者は口ごもった。
女王の血の気がみるみる引いていく。色白の肌は、字のごとく真っ青になった。
「母上……」
布団からかすれた声が聞こえてきた。まぎれもなくエルデだった。意識を取り戻したのだ。
小刻みに震えた手を、エルデはおもむろに伸ばす。
左右に動かした手は、まるで女王を探しているようだった。
「エルデ、そなた……目が……」
エルデの手を握り、女王は声を震わせた。
左目を汚染した毒は、右目の視力までも奪ってしまったのだ。
「母上、戦況は?」
天井に視線をやったまま、エルデはかすれた声で言った。
女王は目に涙を浮かべながら答える。
「そんなものはよい。そなたは気にせずともよい」
「何をおっしゃるのです、母上。兵が傷ついているのです。俺は、寝てなどいられない」
起き上がろうとするエルデを、医師たちが止めにかかる。
「馬鹿を申すな。目の見えぬ状態で、何ができると言うのじゃ。大人しく横になっておれ。北ではゼーン王子、西ではローエン王子が戦ってくれておる。案ずることはない、そなたは安静にしておれ」
「ローエン?」
エルデが聞き直して、女王がしまったとばかりに目を伏せた。
「なぜローエンが? あいつは怪我をしている。行かせたのですか、母上?」
「仕方なかろう。国の一大事じゃ」
「あなたという人は……」
再び起き上がろうとするエルデを、慌てて医師たちが止めに入る。しかし、エルデはそれを振り切って、身を起こした。
「俺は戻る」
さらにエルデは立ち上がろうとする。
女王は必死で止めた。
「待て、エルデ! 待つのじゃ!」
なんとか体を押えこんで、女王は深く息を吐いた。
「救世主様」
突然、女王が小夜の方を向く。
部屋の隅で佇む小夜に、女王は手をついて頭を下げた。
「どうか結界を張ってくださりませ」
まさかの女王の行動に、小夜は狼狽した。
エルデがたしなめてもなお、女王はひれ伏し続ける。
「母上、何を!」
「もうこれしかないのじゃ。国を守るには、愛しい息子を守るには、やはり星を止めるしかないのじゃ! どうか、救世主様!」
小夜はたじろぐ。
「サヨ、気にするな! おまえは何もしなくていい」
「何を申すか、エルデ。何のための救世主じゃ。このために呼んだのであろう!」
「母上!」
「救世主様、ここから『世界の最果て』までは一日とかかりませぬ。どうか我が国を、いやこの世界を御救いくださいませ」
頭を下げる女王の姿に、小夜は戸惑いを隠せなかった。
矜持を捨ててまで、息子のために、国のために頼みこんでいる。
頭の隅に埋もれていた問いかけが、再び小夜の脳裏に響いた。
本当にこのままでいいのか。
何もしないまま、何もできないまま、たくさんの人が傷つく姿を黙って見過ごすのか。
大切な友達を苦しめ続けるのか。
愛する人を戦いの渦へと巻き込み続けるのか。
「私……行きます」
やっと口にした言葉に、周りが静まり返った。
「サヨ!」
エルデの強い口調が返ってきた。しかし、彼の向いた方向は、小夜のいた場所とは違っていた。見えていないのだと、改めて痛感した。
「行かなくていい! 必要ない! 俺たちはそんなことなど望んでいない。ローエンもだ!」
「それでも行くよ。私だって、失いたくないもん。だから、全力で守りに行くの」
なるべく明るい口調で、小夜は言った。
「私だって戦いたい」
小夜は部屋を飛び出した。
エルデの呼びとめる声が何度も聞こえたが、振り向かなかった。
出した答えに、悔いはなかった。
これで全てを終わりにできるなら、もう二度と失わずに済むのなら、大好きな人たちを守れるのなら――。
救世主を乗せた白い聖獣は、疾風のごとくヴィンター王国を駆け抜けた。