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第四章 まもりたい③


 池の外には芝生と常緑樹の庭園がある。丸く形を整えられた木が、計ったように整然と植えられ、間には様々な形の置き石が置かれていた。

 決して狭いわけではないのだが、ティーガたちと戯れるには窮屈な気もする。

 ヴィントの白いティーガとローエンの白縞のティーガは、二頭仲良く池の傍で寝そべっていた。池の周りは芝生が生えていて凹凸がない。うまく場所を確保して、二頭は大きな体を寄り添い合わせていた。

 二頭の体をなでながら、小夜は暗鬱なため息をついた。

 ローエンが怪我に倒れてから、数日が経過した。ローエンは順調に回復し、ようやく体を起こせるまでになった。

 あれから、誰も結界の話をしない。『世界の最果て』に行けとも言わない。

 ローエンの怪我が治って移動できるようになれば、小夜を元の世界に戻すため、最初に訪れた神殿に連れて行ってくれるというのだ。

(本当にこれでいいのかな?)

 うれしいはずなのに、素直に喜べなかった。

 ゴミは未だにヤーレスツァイトに降り続いている。先日はヴィンター王国の東側で降ったという。そのたびに、エルデやゼーンが兵士を引き連れて出動しているのだ。

 負傷者が出たかもしれない。自然が壊されたかもしれない。想像すると、やりきれなくなる。結界を張らない限り、惨劇が永遠に繰り返されるのだ。

 小夜が元の世界に戻って、ゴミを無くせば丸く収まるのかもしれないが、一番不可能に近い気がした。これからゴミを無くす努力はきっとできるだろう。しかし、すでに投げ捨てられたゴミはどうするのか。全部回収するなど、現実に考えて不可能に等しい。

 ゴミが現代の地上に残っている限り、ヤーレスツァイトに降り注ぎ続けるのだ。長年蓄積してきた罪は、そう簡単にはぬぐえない。

「結局、私は何もできないのかな……」

 だからって、命を投げ出す勇気などない。

 みんなと一緒にいたいし、ローエンの傍にもいたい。

 家族にも会いたいし、友達にも会いたい。

 わがままなのだろうか。傲慢なのだろうか。

 何もできない自分は、本当に嫌な奴だ。

 小夜は再びため息をついた。

「ため息をつくと寿命が縮みますよ」

 背後から声がして、小夜は慌てて振り向いた。

 立っていたのは、柔和な笑みを浮かべたゼーンだ。隣にはエルデもいた。

「ゼーン、どうしたの?」

「ローエンのお見舞いに」

 そう言って、腕に抱えていた花束と果物の入ったかごを見せた。

「エルデも一緒に?」

 最近、よく二人でいるところを見かける。仲直りができたようで、小夜はうれしく思った。

「監視ですよ。この国では、私は要注意人物ですからね」

「またそんなこと言って」

 素直ではないゼーンに、小夜は苦笑する。

「エルデも何か言ってやりなよ」

「監視だ」

「あ、そう」

 まさかの返答に、小夜は目をパチクリさせた。

「まぁ、そう簡単に国同士の関係は変わりませんよ。ですが、国の事情と個人の心は同じとは限りませんからね」

 エルデに目配せしながら、ゼーンは話す。

 目に見えない絆が、確かに二人の間には戻っていた。

「我々のことより、あなたはどうなのですか?」

「え?」

「心ここにあらずと言った感じですね」

「そんなこと……」

 視線を落として、小夜は口ごもる。

「正直に述懐しますと、私は今でも結界を張ってほしいと思っています」

 ゼーンの言葉に、小夜は顔を上げた。

「決して、あなたの命を軽んじて言っているわけではありませんよ。私は一国の王子として、民の暮らしを思えばこそ、結界は張るべきだと考えています。ですが同時に、結界を張らなくて良い方法があるなら、それに尽力したいとも思っています」

「相互に協力し合ってできることはないか模索中だ」

 エルデが横から付け加えた。

「ここの責任者が頑固すぎて、話がいっこうに進みませんがね」

「おまえが挑発するようなことを口走るからだろう」

「いいえ、あちらの態度が傲慢なのです」

 と、ゼーンはきっぱり言う。

 女王の性格を思い起こして、小夜はどっちもどっちだと苦笑した。

「とにかく。失いたくない気持ちは皆同じです。ですが、そのために大切なものを見失っては、何の意味もなさない。そう教えてくれたのはローエンとあなたです。あまり考えすぎないように。あなたは我々の心を変えました。それだけでも、十分に意味があると思いますよ」

「ありがとう」

 肩の荷がすっと下りたような気がした。

 ローエンを見舞うため、ゼーンたちは細い石橋を渡ろうとする。そこで、一人の兵士が駆け入ってきた。

「エルデ様、星が降ってまいりました!」

 二人は足を止め、顔を曇らせる。

「場所は?」

 エルデが静かに尋ねた。

「北と南、両地区です。すでに兵の一部を向かわせております」

「わかった。ゼーン、北の指揮を頼めるか?」

「ええ、もちろんです。急ぎ参りましょう」

 ゼーンたちは颯爽と出陣に向かう。

 屋敷の敷地を出るところで、抱えていたものに気づいたのか、ゼーンが足を止めた。

 持ってきた見舞いの品を、小夜に渡す。

「サヨ、これをローエンに。星のことは内密にしておいてください。彼の性格だと、傷をおしても来ると言いそうですからね」

「うん、わかった。気をつけてね」

 小夜は大きく頷いた。

 柔和な笑みを残して、ゼーンは去っていった。


 ゼーンたちの背中を見送って、小夜は見舞品を届けるために屋敷に入った。

 襖を開けると、ローエンが寝息を立てていた。寝相が悪いのか、布団がめくれている。横向きになった上半身が出てしまっていた。

 花束と果物のかごをひとまず床に置いて、小夜はローエンの布団をかけ直した。

赤い髪の間から、長いまつ毛がのぞいている。見惚れるほどきれいな横顔だ。

 そっと髪に触れてみる。細くて柔らかい髪が、さらりと横に流れた。

(ローエン……)

 胸が詰まりそうだった。長いまつ毛の下から、一筋の涙が頬を伝っていたのだ。

「ヴィント……」

 寝返りを打ちながら、ローエンはこぼした。

 小夜は、目頭が熱くなるのを感じた。息が詰まるほどに苦しくなって、我慢できずに立ち上がる。部屋を出ていこうとしたところで、ローエンに声をかけられた。

「サヨ?」

 眠そうな声が飛んでくる。高鳴る心臓の音を抑えながら、小夜は振り返った。

「ごめん、起こした?」

「いや。なんか目が覚めた。変な夢見たせいだな」

「変な夢?」

「ん。まぁ、昔のな」

 曖昧に答えてから、ローエンはゆっくりと体を起こした。藍色の一重の着物がはだけて、包帯がのぞいている。まだ痛みは残っているようだ。脇腹を押えて、ローエンは歯を噛んだ。

小夜は慌てて駆け寄る。

「大丈夫?」

「ああ。動かすと痛むけどな。体そのものはピンピンしてんだぜ」

 と、腕や肩を回して見せる。

「誰か見舞いに来たのか?」

「あ、うん。ゼーンとエルデが」

「なんだよ、声かけて行けよな」

「寝てたから、起こしちゃ悪いと思ったんじゃない?」

 星が降ったせいで、部屋まで来られなかったことは内緒だ。

「おまえ、何かあったのか?」

 急に顔を覗き込まれて、小夜は戸惑った。

「え? なんで?」

「目が赤い」

 確信を突かれて、小夜はさらに慌てふためいた。

「ビタミン不足かな。疲れてるのかも」

「ちゃんと食って寝てねぇのか? 俺の次に倒れたらどうすんだよ」

「大丈夫よ。こう見えも体力には自信あるんだから」

「船酔いしてたやつがよく言うぜ」

 額をこつんと小突かれた。

 フッと笑みがこぼれ、それから互いに見つめ合う。

 優しくて力強い深紅の瞳が、小夜の不安に満ちた心を一瞬にして包み込んでくれた。

 髪に触れ、頬に触れる手が温かい。

 小夜は、その手に自分の手を重ね合わせた。見つめ合う距離がぐっと近くなる。

 互いの息が唇にかかるほど近く……。

「ローエン王子」

 不意に襖の外で声がして、小夜はビクッと肩を震わせた。

 何をしようとしていたのかと、慌ててローエンから顔を離す。急に体中が熱くなってきて、血液が沸騰しそうだった。あのまま声がかからなかったら、どうなっていただろう。

 小夜はローエンを一瞥した。

 完全に顔を背けてしまっていて、反応は見えなかったが、心なしか耳が赤くなっているような気がした。

 ローエンは大仰に一つ咳をして、襖に向かって答えた。

「なんだ?」

「お休みのところ申し訳ございません。ご報告が」

 襖がすっと開く。一人の兵士が片膝をついて、恭しく頭を下げていた。

「どうした?」

「エルデ様が負傷されました」

「何? 負傷?」

 ローエンは眉をひそめて、小夜に目をやった。どういうことかと尋ねるように。

 小夜は思わず目をそらしてしまった。体が小刻みに震えるのがわかる。

 兵士が報告を続ける。

「左目を負傷し重傷とのことです。南はまだ星が降り続いています。星はかなり大きく、戦況が芳しくありません」

「どういうことだ? 星が降って来てたのか? ゼーンは?」

「北地区で指揮をとられております。あちらもかなり苦戦している模様です」

「ローエン様!」

 また一人兵士が駆け込んできた。息を荒げて、倒れんばかりの勢いだ。

「西でも星が……! このままでは街が壊滅状態になります! どうかお力をお貸しください!」

「落ちつけ。女王陛下は?」

「ローエン様の指示を仰ぐようにと」

「相変わらずだな、あのおばさん」

 呆れたようにこぼすと、ローエンは立ち上がった。傷のせいで足元がふらついている。

「わかった。残りの兵の数は?」

「およそ千です」

「よし。二百ずつは北と南に援軍として向かえ。百は城の警護。残り五百は俺についてこい。西へ向かう」

「はっ」

 指示を受けた二人の兵士は、素早く全軍に知らせに行く。

「ローエン、無茶よ!」

 小夜はローエンの腕を掴んだ。

 立っているのもやっとのはずなのに、戦場に行くなどもってのほかだ。

 だが、ローエンの瞳はゆるぎなかった。怪我をしていることなど理由にならないと目が言っている。

 着物を脱ぎ棄てて普段着に着替えると、ローエンは壁に立てかけてあった剣に手をかけようとした。 咄嗟に、小夜は剣を奪い取った。

「ダメよ、ダメ! そんな体で行くなんて!」

「サヨ……。心配してくれるのはうれしい。けどな、俺は決めたんだ。失わないために、全力で守るって」

「でも……」

「サヨ、わかってくれ。俺が行かねぇと、兵が動けない。民を助けられねぇんだ!」

「わかってるよ。でも、ローエンは怪我人なんだよ。まだ歩くのだって、ふらふらじゃない」

「怪我してようが関係ねぇ! 兵たちの前に立って、民を守るのが王子の役目だ。それがどこの国の民であろうと、関係ねぇんだ!」

 王子としてやるべきことをやる。

 精悍な顔つきからは、民の命を背負う覚悟がうかがい知れる。

 唇を噛みしめて、小夜はうなだれた。

 行かせたくない。だけど、無責任に行かないでとも言えない。ローエンを引き留めてしまったら、助けを求める人たちの希望を奪うことになるのだから。

 観念して、小夜は剣をローエンに渡す。

 両手で持ってやっとのずっしりとくる重みは、背負っているものの重さのようにも感じた。

「ありがとな」

 優しく微笑んで、ローエンは剣を受け取った。重みをしっかりと確かめてから腰にさし、布団の横に畳み置かれたマントをはおる。

「心配するな。すぐに帰ってくる」

「待って!」

 背中を向けるローエンに、小夜は駆け寄った。

 鞄から絵入りの絆創膏を取り出して、ローエンの小指にそっと巻く。小指に巻かれた絆創膏を不思議そうに眺めて、ローエンは尋ねた。

「これは?」

「おまじない。絶対に帰ってくるって約束して」

 ローエンの小指に、小夜は自分の小指を絡める。

「ああ。約束する」

 ローエンは小夜を強く抱きしめると、頬にそっとキスをした。ほんの一瞬だった。

 刹那の柔らかさが、小夜の心に確信を与える。

 目の前にいる人は、自分にとって誰よりも大切な人なのだと。

「いや……」

 かすれた声は、ローエンには届かない。

 脇腹の痛みをかばいながら、大切な人は行ってしまう。

 手を伸ばしても、立ち止りはしない。

 ローエンの背中が見えなくなって、小夜は崩れるように膝を床についた。

 星が降り続ける限り、悲しみは永遠に繰り返される。

 わかっていたはずなのに……。



 ローエンが去ってしばらくした後、屋敷の周りは急に騒がしくなった。兵士たちの声があちらこちらから飛び交い、目まぐるしいようだった。

 庭で寝そべっていたティーガも、落ちつかないのか池の周りをうろついている。

 小夜は玄関に駆け寄った。

 じっとしていられなかったのだ。何かしていないと、ローエンのことばかり考えて、気が滅入りそうになる。

 玄関には二人の兵士が常駐している。兵士たちを通してしか、小夜は屋敷を出入りできないのである。

「何かあったんですか?」

 塀の外はうかがい知ることはできない。様子は門番に尋ねるしかなかった。

「お騒がせして申し訳ありません。怪我人が続々と運ばれてきておりますので」

 外から兵士が答えた。

「私に、みなさんの怪我の手当てをさせてください」

「しかし、それは……」

「何か少しでもお役に立ちたいんです。お願いします!」

「……わかりました」

 返答とともに、門の錠を開ける音がした。

「どうぞ」

 扉に備えついた蝶つがいをきしませながら、門は開いた。

 お礼を言って小夜は出る。庭にいたティーガに「おいで」と言って、ついてこさせた。

 門の一歩外は、壮絶な景色が広がっていた。

 城へ繋がる道には砂利が敷かれているのだが、そこにござを敷いて兵士たちを寝かせているのだ。どの兵士も、目を背けたくなるほどひどい状態だった。足先から顔に至るまで紫色に変色し、息をしているかさえわからない。

 城へ続く広い敷地は、横たわった犠牲者で埋め尽くされつつあった。

 運ばれてくるたびに仕分けされ、助かる見込みのあるものは奥の城内へ、手遅れのもはござの上で野ざらしにされる。そうでもしなければ、追いつかないというのだ。

 あまりの惨さに、小夜は思わず口を押さえた。

「救世主様、こちらへ」

 案内された場所も、外とあまり状況的に大差はなかった。城の一階に位置する襖を全てはずした大広間に、敷布団がずらりと並べられ、負傷者たちが寝かされている。

 手当てに奮闘しているのは、割ぽう着に似た服を着て、白い布で鼻口を覆った女性と男性数人だった。騒然とした室内で、彼らは大声で怒鳴りながらやり取りしている。苦痛にもがく絶叫や恐怖にとり乱す悲鳴が蔓延し、叫ばなければ声が聞き取れないのだった。

 見たところ薬はたくさんあるようだ。しかし、次々と運ばれてくる患者に、診る人間が追いついていない。

 ティーガに怪我人を運ぶ手伝いをするよう言いつけた小夜は、自分も手当てに回った。

 制服の上から渡された割ぽう着のような服を着て、鼻と口を覆うように布を当てて、マスク代わりにする。治療の際の衛生面のためと、エルツの水溶液をかけたときに出る悪臭に耐えるためだという。すでに部屋は異臭を放ち、マスクをする前から小夜の鼻は麻痺していた。

 運ばれてくる兵士は後を絶たない。ほとんどが重症で、体を動かすのは困難な状態だった。

 ゾンマー王国で体験したときよりも状況が悪い。それだけ大量のゴミが降っているということだろうか。長く降れば、さらに城内は地獄と化すだろう。

 今はできることを精いっぱいやるしかない。薬の瓶を持って、小夜は運ばれてくる兵士たちと向き合った。痛みに苦しんでいる者や死の恐怖に怯える者、できる限り寄り添って、小夜は何度も励ましの言葉をかけ続けた。

 心が苦しくて、何度もめまいに襲われた。

 兵士たちの介抱をしながら、本当にこれでいいのかと、頭の端で自問自答を繰り返す。

 そんなとき、室内がざわめき立った。

 治療にあたっていた女性たちが、突然手を止めて、今まさに運ばれてきた人物に駆け寄る。

 エルデだった。黒いティーガの背中でだらりとうつむけになり、ぴくりともしない。

「エルデ様!」

 すぐに別室に運ばれ、数人の女性たちが後に続く。さらに初老の男性も入っていった。ローエンを診てくれた医者だった。

 小夜もまた心配になって駆けつける。

 美しい絵柄の襖と意匠の凝らした欄間に囲まれた部屋に、エルデは寝かされた。

 治療にあたる医師や助手の女性たちで、広いはずの部屋が狭く感じる。

 邪魔にならないよう、部屋の隅で治療の一部始終を、小夜は息を凝らして見守っていた。

 エルデは左目を負傷していた。白い布が押し当てられていて、どうなっているかまでは確認できない。だが、布をはいだときの医者の表情は、相当に険しいものだった。

 ガーゼに薬の液体を浸し、左目に持っていく。

 医者は女性たちに、四肢をしっかり押さえておくよう指示して、ガーゼをエルデの目に当てた。皮膚が焼けるような音が、部屋に生々しく響く。

 小夜は耳をふさぎたい気分だった。

 ガーゼが押し当てられた瞬間に、気絶していたはずのエルデが、体を左右によじりながら苦痛の叫びを上げた。

 いったん収まると、医者は目に当てたガーゼを取り換え、再び押し当てる。同じようにエルデは悶絶し、それが二度三度と繰り返された。

 小夜は怖くなった。

 エルデは大丈夫なのだろうか。あんなふうにもがく姿は初めて見る。

 三度目の治療が終わったときだった。

 襖が騒々しく開いて、豪華な衣装に身を包んだ女王が、血相を変えて入ってきたのである。

「エルデ!」

 医師たちを押しのけて、女王はエルデの体にすがりついた。

「エルデ! エルデ!」

 泣き崩れる女王に、落ち着くようにと医師が言葉をかける。

「エルデの具合はどうなのじゃ!? エルデは助かるのであろうな!?」

「ご安心ください、今は意識を失っておられますが、命には別状ございません。しかし……」

 表情を曇らせて、医者は口ごもった。

 女王の血の気がみるみる引いていく。色白の肌は、字のごとく真っ青になった。

「母上……」

 布団からかすれた声が聞こえてきた。まぎれもなくエルデだった。意識を取り戻したのだ。

 小刻みに震えた手を、エルデはおもむろに伸ばす。

 左右に動かした手は、まるで女王を探しているようだった。

「エルデ、そなた……目が……」

 エルデの手を握り、女王は声を震わせた。

 左目を汚染した毒は、右目の視力までも奪ってしまったのだ。

「母上、戦況は?」

 天井に視線をやったまま、エルデはかすれた声で言った。

 女王は目に涙を浮かべながら答える。

「そんなものはよい。そなたは気にせずともよい」

「何をおっしゃるのです、母上。兵が傷ついているのです。俺は、寝てなどいられない」

 起き上がろうとするエルデを、医師たちが止めにかかる。

「馬鹿を申すな。目の見えぬ状態で、何ができると言うのじゃ。大人しく横になっておれ。北ではゼーン王子、西ではローエン王子が戦ってくれておる。案ずることはない、そなたは安静にしておれ」

「ローエン?」

 エルデが聞き直して、女王がしまったとばかりに目を伏せた。

「なぜローエンが? あいつは怪我をしている。行かせたのですか、母上?」

「仕方なかろう。国の一大事じゃ」

「あなたという人は……」

 再び起き上がろうとするエルデを、慌てて医師たちが止めに入る。しかし、エルデはそれを振り切って、身を起こした。

「俺は戻る」

 さらにエルデは立ち上がろうとする。

 女王は必死で止めた。

「待て、エルデ! 待つのじゃ!」

 なんとか体を押えこんで、女王は深く息を吐いた。

「救世主様」

 突然、女王が小夜の方を向く。

 部屋の隅で佇む小夜に、女王は手をついて頭を下げた。

「どうか結界を張ってくださりませ」

 まさかの女王の行動に、小夜は狼狽した。

エルデがたしなめてもなお、女王はひれ伏し続ける。

「母上、何を!」

「もうこれしかないのじゃ。国を守るには、愛しい息子を守るには、やはり星を止めるしかないのじゃ! どうか、救世主様!」

 小夜はたじろぐ。

「サヨ、気にするな! おまえは何もしなくていい」

「何を申すか、エルデ。何のための救世主じゃ。このために呼んだのであろう!」

「母上!」

「救世主様、ここから『世界の最果て』までは一日とかかりませぬ。どうか我が国を、いやこの世界を御救いくださいませ」

 頭を下げる女王の姿に、小夜は戸惑いを隠せなかった。

 矜持を捨ててまで、息子のために、国のために頼みこんでいる。

 頭の隅に埋もれていた問いかけが、再び小夜の脳裏に響いた。

 本当にこのままでいいのか。

 何もしないまま、何もできないまま、たくさんの人が傷つく姿を黙って見過ごすのか。

 大切な友達を苦しめ続けるのか。

 愛する人を戦いの渦へと巻き込み続けるのか。

「私……行きます」

 やっと口にした言葉に、周りが静まり返った。

「サヨ!」

 エルデの強い口調が返ってきた。しかし、彼の向いた方向は、小夜のいた場所とは違っていた。見えていないのだと、改めて痛感した。

「行かなくていい! 必要ない! 俺たちはそんなことなど望んでいない。ローエンもだ!」

「それでも行くよ。私だって、失いたくないもん。だから、全力で守りに行くの」

 なるべく明るい口調で、小夜は言った。

「私だって戦いたい」

 小夜は部屋を飛び出した。

 エルデの呼びとめる声が何度も聞こえたが、振り向かなかった。

 出した答えに、悔いはなかった。

 これで全てを終わりにできるなら、もう二度と失わずに済むのなら、大好きな人たちを守れるのなら――。


 救世主を乗せた白い聖獣は、疾風のごとくヴィンター王国を駆け抜けた。




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