第四章 まもりたい①
最終章です。
第四章 まもりたい
1
城の最上階に、騒々しい足音が響く。
周囲の兵士が阻止するのも振り切って、足音は近づいてくる。
背後の襖が勢いよく開けられて、エルデは振り返った。
入ってきた者と目が合う。
水色の髪を振り乱し肩で息をしがら、眼鏡をかけた麗しい顔立ちの男は、場もわきまえず怒号した。
「サヨをどこへやったのです!」
「無礼じゃぞ、ゼーン王子」
御簾越しに、女王がたしなめた。
「ここをどこと思うておる? ぶをわきまえよ」
「これは、失礼をいたしました」
唇を噛みしめて、ゼーンは御簾の前に跪いた。
「して、サヨとは?」
女王が問い直した。
「救世主です。この国に入ったことは、調べがついています。エルデ、あなたが連れてきているはずです」
ゼーンの鋭い視線が向けられる。エルデは容易に受け流した。
「ああ、あの娘か」
白々しく声を上げたのは、女王だった。
「確かに、我が国におる。が、あちらから勝手についてきたのじゃ。しかも、しばらくこの国にいたいと申しておる。のう、エルデ?」
「は」
エルデは短く答えた。
「そのような方便をぬけぬけと……」
ゼーンの形相が険しくなる。
「エルデ、あなたはわかっているのですか! 自分が何をしているのかを」
「その言葉、そっくり返してくれようぞ、ゼーン王子」
反論したのは女王だった。
「そなた、自分の立場をおわかりか? これ以上、くだらぬ言いがかりをつけるのならば、エルツの供給を止めてもよいのじゃぞ? ホホホホ」
声に余裕の笑みが含まれている。
歯をむき出して憤りを露わにすると、ゼーンは懐から巻物を取り出した。細く何重にも巻かれた厚手の紙で、緑色の下地に金の模様が入っている。結びのひもも金糸を混ぜた良いひもを使っていた。書状であることは明白だ。
「あなた方がそういう態度ならば、こちらにも考えがあります」
巻物を傍にいた兵士に渡して、ゼーンは席を立った。
「私の後ろには、何万という兵が控えていることをお忘れなく」
吐き捨てるよう言うと、マントを翻して去っていく。
襖が閉められるとともに、女王の御前にある御簾が音もなく上がった。
「ヘルブスト王国の若造めが。どうもまだ我が国を下に見ておるようじゃな」
忌々しげに舌打ちをすると、女王は兵士から巻物を奪い取る。
解いて中の文書を確認した後、息を荒げて書状を床に投げつけた。
目が血走っている。
「どこまでもなめた小僧じゃ! 我が国を陽の昇らぬ国と称するとは」
北の果てにあるヴィンター王国は、日照時間が他の国に比べて短い。おそらくそのことを揶揄しているのだろう。
「救世主を解放せねば、武力の行使もいとわぬと書かれておる」
「戦……ですか」
「臆するでない! どうせはったりじゃ。あの国に軍を出すほどの余裕があるものか。星の被害に悲鳴を上げているような脆弱な国じゃ」
「しかし、彼の国はゾンマー王国と同盟を結んでおります。援軍を出されては……」
「そうじゃのう……」
口元に扇を当てながら、女王は考える素振りをした。妙案が浮かぶと、いつものように目を細めてほくそ笑む。
「いや、救世主の小娘を盾にとれば、あちらも動けまい。いっそ、こちらから揺さぶりをかけてくれるわ」
「母上……」
「全ては民のため。この国をここまで繁栄させてきた亡き王のためじゃ。エルデよ、情けは無用じゃ。我が国の栄光のために、いらぬ感情は全て捨てよ」
凄みのある女王の声が、エルデの脳裏に響く。
「はい」
覚悟を決めたかのように、エルデは深々と頭を下げた。
2
強い風が池の水面を波立たせた。
曇が空を覆い、ときどき低い唸りを轟かせる。
離れの家に通されてから、小夜は一歩も外に出ていない。出られないのだ。玄関は常に二名の兵士が見張っているし、食事のときも就寝のときも傍にエルデがついている。
ほとんど幽閉の状態だった。
そのほうがいいかもしれないと、縁側で池を眺めながら、小夜は思った。
エルデから聞いた一言が、頭を離れない。
(生贄……)
最初から、死ぬ運命だった。
(結界を張れば、元の世界に返すって言ったのも嘘……)
当然と言えば、当然かもしれない。
世界を苦しめているのは、小夜の世界で捨てられたゴミなのだ。当然の報いだと言われてしまったら、返す言葉がない。
(必要だったのは、私の力じゃなくて、私の命)
ぽっかりと穴が開いたように、虚しさが心に漂っている。
何も考えたくなかった。頭によぎろうとする負の感情を、かき消すので精いっぱいだった。
結界を張らなければいけないと、心の底から思っていた。
自分ができる唯一の償いだと思った。
今もそう思っている。だが、あまりにも重すぎる。
友達になりたいと言ったとき、ヴィントの流した涙の理由がようやくわかった。
最後には死ぬのだから、友達になどなれるわけがない。
胸が苦しくなった。
彼らに対する気持ちが、空に渦巻く雷雲のように黒く歪んでいくのが怖い。
(みんなの気持ちが知りたいよ……)
涙が一粒頬を伝ったところで、背後から襖の開く音がした。
振り向くと、エルデが立っていた。
「何をしていた?」
「何も……」
手で涙をぬぐいながら、小夜は答えた。
エルデは相変わらず無表情のまま、小夜の隣に座る。
「ゼーンに会った」
「え? ゼーンに?」
「俺たちはもう、元には戻れない」
「どういうこと? 何があったの?」
「戦が始まる」
空が激しく吠える。
小夜は耳を疑った。
「戦って……ゼーンと殺し合うの?」
エルデは静かに頷いた。
「ダメよ、そんなの絶対ダメ。なんで? なんでそんなことしなくちゃなんないの? 親友なんでしょ」
「国を守るためだ。迷いはない」
稲光が照らしたエルデの横顔は、愁いを帯びていた。
「うそ……。迷いはないなんて、嘘よ。迷ってないなら、私にそんなこと言わないでしょ?」
エルデは小夜の目を一度として見ようとはしなかった。
口を閉ざしたまま立ち上がる。
「エルデ!」
呼び止めても、反応はなかった。
能面のように表情を殺したエルデは、背中を向けて去っていく。
「待って!」
手を伸ばそうとしたが、耳をつんざくような雷鳴に遮られた。
短い悲鳴を上げて、小夜は刹那にかがんでしまう。
運命の神は、いたずらに二人を戦わせたいのだろうか。
鳴り止んだと顔を上げたとき、エルデの姿はもうどこにもなかった。
†
「行かないで、エルデ様……」
苦しそうに息をしながら、ユラがベッドから手を伸ばした。
ローエンは、強く握る。
ゾンマー王国に戻ったローエンに知らされたのは、ユラの病状悪化だった。
数日前から発作が続き、ずっとエルデの名前を呼びながらうなされている。
「エルデ様……」
ユラの瞳から雫が一滴、シーツにこぼれ落ちた。
柔らかな素材で仕立てられた薄紅色の生地が、濃い紅色に変わっていく。
意匠を凝らした美しい家具が並ぶ部屋で、可憐な少女が病と闘っている。
汚染の進行は、悪くなる一方だった。
左胸で留まっていた紫色の痣は、首筋まで広がっている。
額に大粒の汗をかいて、ユラはときおり体をよじらせて苦しそうにもがいた。
できることは、傍にいて手を握ってやることだけだ。
ガーゼで汗をぬぐってやりながら、ローエンは何度もユラに呼びかけた。
「ユラ……、ユラ……」
ローエンの体は恐怖に震えていた。
もしユラまで失ってしまったらと思うと、怖くてたまらない。
以前にもこんな恐怖を味わったことがある。
ローエンは十年前の厄日を思い出した。ユラが怪物に襲われ、体を汚染された日。
ゼーンやエルデ、ヴィントやユラとともに、隠れん坊をしているときだった。宮殿の周りに星が降ってきたのだ。たまたま庭園に隠れていたユラが、被害にあってしまったのである。
誰の責任でもなかったが、ローエンは守ってやれなかった自分を責めた。
ユラにもしものことがあったらと思うと、怖くてたまらなかった。体は震え、涙が止まらなかった。 柱や壁に怒りをぶつけて、自分を傷つけることもあった。
そんなとき、支えてくれたのはゼーンたちだ。
壊れそうになる心を、つきっきりで励ましてくれたのだ。
ローエンにとって、それはどれほど心強かったことか。だが、今は一人だ。
「頼む。生きてくれ」
握ったユラの手に、ローエンは祈りを込める。
「お兄様……」
「ユラ!」
意識を朦朧とさせながら、ユラはローエンの手を握り返した。
か細い指が、ローエンの手の中で弱々しく動く。
「お兄様、エルデ様を守ってください」
「エルデを?」
「ゼーン様を守ってください」
「ユラ?」
「サヨ様を守ってください」
唇を震わせて、ユラは懸命に言葉を紡ごうとする。
「私は……大丈夫ですから……」
「ユラ、おまえ」
ユラの言わんとすることは、ローエンにはわかっていた。
使命を放り投げて、戻ってきたことを案じているのだ。
「俺は、おまえが思っているほど強くねぇ。俺は、怖いんだ。失うことが怖い……」
ユラの手を握り締めて、ローエンは声を絞り出した。
ヴィントのことで、失う怖さが身に染みた。体の一部を引きちぎられたように、痛くてたまらなかった。もうあんな思いは二度としたくない。
あのまま旅を続けていたら、もう一つ確実に失うことになる。
結界を張るために用意された生贄。彼女を目の前で失うことになる。
覚悟はできていたはずだった。それなのに、いつしか心が揺らいでいた。彼女を知れば知るほど、訪れる運命の重さに耐えきれなくなっていく。
「私も……怖い……。怖いから……守りたいんです……」
苦しそうに息をしながら、ユラは言った。
握った手と反対の手を、そっとローエンの頬に当てる。
冷えた頬に、火で焼かれるような熱を感じた。ユラの体をむしばむ毒が発する熱だ。
「だって……失ってからでは……遅いですもの……」
失ってからでは遅い。
心の中で、ユラの言葉が繰り返される。
ヴィントを失ったときに、自分のふがいなさを罵った。
どうして守ってやれなかったのだろうと。
(俺は逃げたんだ……)
失うことが怖くて逃げ出した。失わないために、守ろうとなぜ思わなかったのだろう。
もう二度と失わないために、傍にいて守ってやるべきだったのに。
「王子!」
突然、部屋のドアが開いて、兵士が慌てた様子でローエンのもとに駆け寄った。
ユラに聞こえないように、兵士は耳元で報告する。
「救世主をめぐって、ヘルブスト王国とヴィンター王国が……」
「何?」
ローエンは耳を疑った。
(ゼーンとエルデが戦う……?)
親友であるはずの二人が刃を交えることへ不安を募らせる一方で、ローエンは心の片隅で安堵している自分に気づいた。
小夜はまだ『世界の最果て』に着いていない。まだ生きているのだ。
(俺はどうしたいんだ?)
ローエンの心は揺れていた。
小夜を守るために、同盟国であるヘルブスト王国に反旗を翻すのか。それはつまり、ゼーンを裏切ることになる。
ローエンはかぶりを振った。
ゼーンを裏切ることなどできない。ならば、ゼーンとともにエルデを討ち、小夜に結界を張らせるのか。
(そんなことできるわけがねぇ! 俺はもう誰も失いたくねぇんだ!)
「お兄様」
か細い声でユラが呼んだ。
ローエンは口元に耳を近づける。
「行って……ください……」
「ユラ。こんな状態のおまえをおいて行けねぇよ」
「いいえ……。お兄様は……行かなくては……。大切な人を……守るために……」
ローエンの手を両手で固く握りしめて、ユラは真剣な眼差しを向けた。
手から伝わるユラの熱は、腕を通って心にまで届いてくる。
「今……行かなければ……きっと……後悔しますわ……」
強い意志を表情に込めて、ユラはじっとローエンを見つめる。
(ユラ……)
ローエンは心を決めた。
「俺は、もう誰も失いたくねぇ。ゼーンもエルデも、サヨのことも俺には大切だ。俺は全部守りたい」
「それでこそ……私の大好きな……お兄様です……」
そう言うと、ユラはフッと口元を緩めた。心配させまいと見せる笑顔は、ローエンの目頭を熱くさせた。
「ありがとな、ユラ。おまえには、いつも救われてばっかりだ」
「お兄様の支えになることこそ……妹の務めですもの……」
ユラは毅然と返事をした。そんな健気なユラの額に、ローエンは軽くキスをする。
「俺の愛しいユラ、どこにいても俺はおまえを想ってる。すぐに戻ってくるからな」
「はい。行ってらっしゃいませ、お兄様」
名残惜しくユラの髪をなでた後、ローエンは背を向けた。
守るために戦うと、胸に誓って。