第三章 裏切り②
3
「この先を行けば、関所に着く。そこからヘルブスト王国を出られるよ」
二日ほどお世話になった民家のおばさんが教えてくれた。
笑うと頬にえくぼができる気さくな女性だ。長い髪を後ろでおさげにした髪型が良く似合っている。 この国の人々は、男女ともに髪が長くて、みんな一様に三つ編みに結っていた。
小夜がおばさんに出会ったのは、ヘルブスト王国の街を当てもなくティーガで駆け抜けていたときだ。宮殿から飛び出したものの、大した準備もなく出てきてしまったので、食べる物もままならなければ、泊るところもない。
鞄の中にあった食べかけのグミで、空腹を一時的に満たしながら放浪しているうちに、ティーガの上で眠りこけてしまったのだ。気がつけば、ある民家の布団で寝ていたのである。どうやらティーガが運んでくれたらしかった。
「玄関で物音がするから何かと思ったら、王家の聖獣様が戸を叩いているじゃないか。しかもよく見ると、背中に気を失った女の子が乗っていたんだからたまげたよ」
豪快に笑って、おばさんはそう話してくれた。まさか疲れて熟睡していましたとは、恥ずかしくて言えなかった。
小夜が泊めてもらった民家は、エルツを混ぜた瓦屋根の長屋で、壁は木材を敷き詰めた簡素な建物だった。見てくれは古びているが、エルツを使った屋根の家に住めることは、とても贅沢なのだという。
「この国はね、領土が広い分、あちこちで星の被害が相次いでね。畑を耕しても家畜を育てても、すぐ星にやられてしまう。住む家だってそうさ。最近では、ヴィンター王国がエルツの輸出を制限しているからって、建物にエルツを使えなくなってきているのさ」
と、おばさんは嘆いた。
「この家だって、順番待ちでやっと手に入れたんだけど、エルツの純度は低いから気休め程度だね。でもないよりはましさ。病人や怪我人、年寄りや子供がいると、住むところについては、国がある程度優遇してくれるからね。うちはそれで何とかやっていってる」
小さな家には、おばさんと旦那さん、そして十歳になる女の子が暮らしていた。女の子は片足が不自由だ。星に見舞われたときに、左足を汚染されてしまったという。
その話を聞かされたとき、小夜は胸が痛んだ。ここにもまた、無神経な現代人が捨てたゴミの犠牲になった人がいる。
少女の笑顔を見るたびに、小夜は何度も涙しそうになった。
太い枝を加工して作られたお手製の杖をつきながら、庭先で少女がよくティーガとじゃれ合っているのを見かけた。長屋はロの字型に建っていて、中央に共同の庭があるのだ。共同の井戸があったり洗濯所があったり、庭は住民の交流の場になっていた。
「救世主様がうちに来てくださるなんて、これは何かの予兆かねぇ」
おばさんはえくぼを見せて、うれしそうに笑ってくれた。
「足がああなってからあまり笑わなかったあの子が、あんなに楽しそうに笑って」
「私にできることがあったら、何でも言ってください」
お世話になっている間、小夜は洗濯やら食事の支度やら、手伝えることは何でもした。たまに少女と遊んで、絆創膏のおまじないも教えてあげた。とても喜んでくれたので、小夜もまた胸が温かくなった。
「関所を越えたら、荒野が続くからね。気をつけるんだよ」
旅立つ間際に、おばさんがそう言いながら、何日か分の食料を持たせてくれた。野菜を漬けたものや、魚や果物を干したものなど、ほとんどが保存食だったが有難かった。
関所の場所も丁寧に教えてくれた。
何から何までしてもらって、小夜は本当に胸を打たれた。
「お姉ちゃん」
別れ際に、少女が杖をつきながらやってきた。
「おまじないありがとう。私、病気に負けずに頑張るから、お姉ちゃんも頑張ってね」
絆創膏の巻かれた右手の小指を見せながら、少女はにっこりと笑った。
小夜も左手の小指を見せて、笑顔で頷き返した。そして、改めて心に誓う。
(何としても結界を張らなくちゃ!)
どのくらいティーガを走らせただろうか。真上にあった太陽が、遠くに見える山の尾根に重なりそうになっている。空は赤と青が混ざって、不気味な紫色に染まりつつあった。
吹きつける風は冷たさを増している気がする。北に向かっているせいだろうか。
民家を抜けて、田畑を抜けて、林道に出た。
赤や黄色に色づいた木々が、風に揺られて囁き合っている。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、夕日に照らされて、宝石のようにきらきらと輝いていた。
「もしや救世主様では?」
林道の先に立派な門があり、そこで兵士風の男に声をかけられた。
黄色い瓦屋根に、三十メートルはある石の壁。赤・青・緑の色で塗られた壁に、赤褐色の巨大な木の門が口を開けて構えていた。門の前には二人の兵士が槍を携えて立っている。
兵士は、門を通ろうとする小夜の前に跪いた。
「ゼーン王子より、この先は通すなと仰せつかっております」
「ゼーンから……」
小夜は狼狽した。通るなと言われたからといって、このまま引き下がるわけにもいかない。
「おかしいなぁ」
小夜は困った顔をして見せた。
「ローエンにお使い頼まれただけなのに」
「は?」
「ローエン、国に帰っちゃうから、ゼーンには内緒でどうしてもって頼まれたのに」
「そう言われましても……」
「国にかかわる大事なことって言ってたんだけどなぁ」
と、小夜はうそぶく。
兵士たちは顔を見合わせて、互いに小声で相談し始めた。
ティーガの背中で、二人の兵士を見下ろしていた小夜は、そっとティーガに耳打ちする。
「突破するよ」
頷く代わりに、ティーガは咆哮を轟かせた。
兵士たちが驚いて耳をふさぎながら飛びのいた。今の隙にとティーガが走り出す。
「ごめんなさい!」
通り過ぎる際に、小夜は叫んだ。
呆気にとられて、腰をついている兵士たちの顔が目に浮かぶ。
(あの二人、きっとゼーンから大目玉を食らうんだろうな……)
想像すると不憫に思えたが、小夜だって覚悟を決めてやったことだ。
(ゼーンが私を探してる。でも……)
今、会うことはできない。
『世界の最果て』までは独りで行く。もう誰も傷つけないためにも――。
小夜は、担いでいた弓を強く握りしめた。
関所を越えると、おばさんが教えてくれた通り、荒野がずっと続いていた。
草木は枯れ果て、土はタールのように黒くぬかるんでいる。進んでいくと、表皮が崩れかかった灰色の木が目に付いた。枝で羽を休めていた数羽の黒い鳥が、沈みゆく太陽に向かって不気味な声で鳴く。
小夜は身震いした。
(ここも、星が降った後なのかな?)
生気のない静寂な荒野は、どんよりとした重たい空気を運んでくる。
小夜は早く抜け出したくてたまらなかった。
暗い闇に溶けていく山脈の影を追って、ティーガは休むことなく駆ける。
「どうしよう、夜になっちゃった」
星が空に瞬くと、小夜の不安は一気に高まった。
もし星が降ってきたら……。
自然と弓を握る手に力が入る。
(ヴィント……)
心細くてたまらない。自分一人で星に対応できるのか、野宿ができるのか。ティーガが傍についているとはいえ、王子たちと旅をしていた頃とは勝手が違うのだ。
勝手に飛び出してきたことへの後悔が頭をよぎって、小夜はかぶりを振った。
「弱気になっちゃダメ! しっかりしなきゃ」
ティーガの背中で揺られながら、そう自分に言い聞かせる。
とにかく、こんな荒野のど真ん中で野宿するのはごめんだ。
小夜は山のふもとまでティーガを走らせた。なだらかな斜面にさしかかり、山に入ったのだと感じた。
いったい今は何時なのだろうか。辺りは足元も見えないほどの暗がりで、木がうっそうと生えているような影だけが認識できる。体に当たるひんやりと冷たい空気は湿気を帯び、視界をいっそう曇らせていた。
(霧……?)
さすがにこれ以上進むのは危険か。
「この辺りで休もっか」
呼びかけると、ティーガは足を止めた。
ティーガから降りて、小夜はおばさんからもらった食料を鞄の中から出した。風呂敷の包みから魚の干物を出して、ティーガの口元にさし出す。小魚の開いたものだった。ティーガは丸ごとぺろりと食べてしまった。
「これだけじゃ、おまえは足りなさそうだね」
もう一つ干物を出して、頭からかぶりつきながら、小夜は苦笑した。
まだまだ旅は続くのだから、今ある食料を全部あげるわけにはいかない。
確か、ティーガは二、三日飲まず食わずでも平気だと前に聞いたことがある。今日は干物一つで我慢してもらおう。
食料と一緒にもらった水筒の水を一口飲む。木でできたひょうたんの形をしたものだった。
掌に注いで、ティーガにも飲ませる。すずめの涙程度しかあげられなくて、小夜はため息をついた。
「巻き込んでごめんね……」
首元をなでながら、小夜は呟いた。ティーガは気持ち良さそうに目を細めた後、小夜の頬を大きな舌でなめて返す。くすぐったくてたまらない。
寝そべったティーガに寄り添って、小夜はうとうとし始めた。ティーガの毛並みは毛布のように温かくて柔らかい。
意識がすっと眠りに入っていこうとしたそのとき、ティーガが突然唸り出して、小夜は目を開けた。
「どうしたの?」
研ぎ澄まされた長い牙をむき出しながら、ティーガは空を睨み据えている。
嫌な予感がして、小夜も空を見上げた。
星が強く光った。
気付いた時にはもう遅い。大量の星が、小夜の頭上に降り注ぎ始めたのだ。
空き缶やペットボトルが、音もなく真っ暗な天井から落ちてくる。
「うそでしょ!」
小夜は慌ててティーガに跨った。
ティーガは小夜が乗ったことを確認すると、暗闇の中を全速力で走り出す。
小夜はかがみながらしっかりと手綱を掴んだ。ジグザグに急な斜面を駆け上がっていくのがわかる。
空気を斬る音が耳をかすめ、同時に張り出した木の枝が折れる音もした。
星は山全体に降っているようだ。どこまで行っても止まない。
行く手に冷蔵庫が降ってきて、ティーガは急停止を余儀なくされた。
「どうしよう……」
まるでウジがわくように、紫色の粘液がざわざわと音を立てて、冷蔵庫から噴き出してくる。怪物へと変化しようとしているのだ。
小夜は抱えていた弓を構えた。弦を引いて、矢を放つ。
当たってもびくともしなかった。矢の威力だけでは、怪物を浄化できないのか。
冷蔵庫は原形を留めないほどの変化を遂げると、芋虫のごとく体をうねらせて小夜たちに向かってきた。トラックが突っ込んでくるような迫力がある。
「きゃぁぁぁぁっ!!」
ティーガはいっきに山を下り始める。手綱にしがみついて、小夜は伏せた。絶叫マシンに乗っている気分だ。
後ろからは、追ってくる怪物の気配がする。潮騒に似た音が近づいてくる。
(誰か助けて!)
急にティーガが悲鳴に近い雄叫びをあげて、体を左右に悶えさせた。
どこかやられたらしい。
暴れた衝撃に耐えられなくて、小夜は振り落とされた。
「きゃっ!」
体が斜面を勢いよく転がっていく。木の幹に背中をぶつけて、ようやく止まった。
「う……」
あまりの激痛に、小夜は顔を歪めた。体中が痛い。
斜面の上では、ティーガが怪物と戦っている。
(ティーガ……)
ヴィントが大事にしていたティーガだ。失うわけにはいかない。
(助けなきゃ……)
体を起こそうとするが、力が入らなかった。逆にどんどん力が抜けていく気がする。
ティーガの吠える声が、遠くなっていくようだった。
「いや……」
小夜の瞳に涙がにじむ。
視界が徐々に白んで、気を失いそうになるのが悔しかった。
もう失いたくない。なのに、また自分は何もできないのか。
「助けて……」
小夜の脳裏に浮かんだのは、凛々しく剣を構える赤毛の青年だった。
遠退く意識の中で、まぶたに映る彼に向かって手を伸ばす。
人肌が指先に触れたように思えた。
「ローエン……」
彼の名前を呼んで、小夜は意識を失った。
4
頬をなでる温かい感触。労わるような優しさが伝わってくる。
それは頬を滑ると唇へ。柔らかくてしっとりとしたものが触れる。
(これは……)
小夜はゆっくりと目を開けた。にわかな期待を持って。
「うきゃーっ!?」
あまりの驚きに、小夜は変な悲鳴をあげてしまった。先程から小夜の唇に触れていたのは、ティーガの大きな舌だったのだ。
「おまえ、無事だったの? よかった」
銀の毛をくしゃくしゃとなでて、小夜はティーガを抱き寄せた。ティーガもはしゃぐように小夜の顔をなめまくる。
「くすぐったいよ……あれ?」
じゃれ合っていて、小夜は自分の手に包帯が巻かれていることに気がついた。腕にも脚にも怪我の手当てをした跡がある。
「誰が……?」
小夜は痛む体をゆっくりと起こして、辺りを見回した。
すぐ傍に、消えかけた焚火があった。薪が足りなくなったのだろう。紅い熱を帯びた炭から細い煙が天井に伸びていた。
天井はごつごつした岩だった。壁も床も、目に映るもの全て岩だ。冷たくて硬い。
洞窟だとすぐに気づいた。車が一台通れるほどの大きな入口を見やると、チカチカと光が瞬いているのが目に付いた。光の点滅に続いて、唸るようなおどろおどろしい音が響く。
雷鳴だ。
冷たい突風が入り込んで、不気味な雄叫びをあげながら奥へと駆けていく。奥は先も見えない暗闇だった。道があるのかも定かではなかったが、風が抜けていく音がしたので、どこかに続いているのだろう。
「私、どうしてこんなところに?」
怪物に襲われて、山の斜面を転げ落ちたところまでは覚えているのだが――。
記憶をたどっていくうちに、小夜の脳裏にあることが浮かんだ。助けてほしいと思ったとき、誰かが手を掴んでくれた気がしたのだ。
(まさか……)
淡い期待が胸によぎったとき、入口の方で人の気配がした。小夜はすかさず振り返る。
「ローエ……」
名前を呼び掛けて、小夜は慌てて口をつぐんだ。入口に立っていたのは、思っていた人物ではなかったのだ。
漆黒の長い髪を後ろで束ねた長身の男だった。見惚れるほどに眉目秀麗な男は、夜空のような深い漆黒の瞳で、小夜をじっと見下ろした。
「エルデ」
「気がついたか?」
黒いティーガを従えて、エルデは入ってきた。手には何本かの薪を持ち、消えかけた焚火に継ぎ足す。煙が勢いを取り戻し、火が燃え始めた。
「ありがとう。助けてくれて」
「正確には、そいつだ」
エルデは火を介した向かい側に腰を下ろすと、小夜の隣で寝そべる銀髪のティーガを一瞥した。
「助けを呼ぶために、天に咆哮を轟かせていた。それを俺が聞きつけた。ただそれだけだ」
「そっか。おまえが助けてくれたんだね。ありがとう」
小夜はティーガの背中を優しくなでた。
「どうして一人で行った?」
火を調節しながら、エルデは静かに言った。
「ごめんなさい。私のせいで、みんなの絆が壊れていくのが怖くて」
小夜は膝を抱え込んだ。
慰めるように、ティーガが脚に頬をすり寄せる。柔らかくて温かかった。
「みんなの力になりたいのに。やっぱり私一人じゃなにもできない」
「一人で背負える量はたかが知れている。背負いきれない分は、捨てるしかない」
「捨てるなんて……」
「ならば、一人で背負おうとするな」
エルデは、勢いを増した炎に視線を落とした。漆黒の瞳に炎の色が映る。
「自分だって、一人で背負おうとしてるじゃない」
虚をつかれたように、エルデが顔を上げた。
「ゾンマー王国を旅立つとき、ユラが心配してたよ。何か悩んでるみたいだって」
「ユラが?」
「好きな女の子を不安にさせちゃダメだよ」
「おまえには関係ない」
エルデは再び視線を炎に戻した。
「寝ておけ。今夜は嵐だ。山を下りるのは明日でいい」
「うん」
空気が重たくなって、小夜はため息をついた。
触れてはいけない部分だったのかもしれない。だけど、もどかしくて言わずにはいられなかった。エルデとユラは想い合っているのに――。
(ゼーンの婚約者だから身を引いてるのかな? ううん、きっとそれだけじゃない。何かがエルデを……)
柔らかいティーガの毛布にくるまって、小夜は静かに目を閉じた。