第一章 救世主①
公表する機会を失ったので、投稿します。今後の参考になりますので、感想をいただけると嬉しいです。
第一章 救世主
1
箱の中身を空けて、小夜はがっくりと肩を落とした。やりたくもないお手伝いを必死にして手に入れたお小遣いで、おもちゃ付きお菓子を買ったのはいいが、中を開けたらお目当てのものではなかったのだ。
「え~、ネコリーヌがほしかったのにぃ~」
太ったクマのマスコットキーチェーンを眺めて、小夜はぼやいた。
クマビッチは、ランドセルにすでにぶら下がっている。団子を二つ並べたような丸い体型に、コサック帽をかぶったクマ。こんなクマが二つあっても仕方ない。だから持っていないネコリーヌを期待していたのに。
川べりを歩きながら、小夜はため息をついた。左側には細長い川が流れている。土手には草木が生い茂り、そこにゴミが引っかかって溜まっている。
川には橋がかかっていて、それを通らなければ家に帰れない。車が一台通れるくらいの幅で、古くてぼろい。どこもかしこも錆びだらけのうえに、車が通ると妙に揺れる。重さに耐えかねて壊れるのではないかと思うほどだ。
「三百円もしたのになぁ……」
橋を少し渡ったところで、小夜は未練がましく立ち止まった。
小学三年生にしたら、三百円はなかなかの大金だ。ジュースが二本買えるし、消しゴムだっていっぱい買える。
首に下げた小銭入れを確認してみる。猫の顔の形をした可愛い小銭入れだ。耳についた二つの赤いリボン。キラキラした目は、どこか澄ました感じがして、高貴なお嬢様みたいだ。ネコリーヌという名前がよく似合っている。
小銭を中から取り出して、小夜は掌に並べた。三百円はなかった。それはそうだ。もらったお小遣いは五百円なのだから。
(はぁ~。あり得ないよ、あんなに頑張ったのに)
洗濯物をたたんだり、食器を洗ったり、面倒くさいことをいっぱいして手に入れたのに、中身を開けたらいらないものでした、なんて……。
(どうしよっかな、これ……)
正直、いらない。百歩譲って、ウサノスケだったら体操服袋にでもつけただろうけど、クマビッチは本当にいらない。さらに言えば、この箱と付属のラムネも、何の価値もないただのゴミだ。
家に帰って捨てようか。
(お母さんに怒られちゃうよね、きっと)
こんないらないものに三百円も使ったのかと怒られたあげく、もうお小遣いはあげないなんて言われたら、ネコリーヌもウサノスケも集められない。
小夜は、横に流れる川を一瞥した。狭いけれど長い川だ。深くはないだろうが、水が茶色く濁っていて底が全く見えなかった。もしかしたら、案外深いのかもしれないと想像する。川はずっと先まで続いていて、確か途中からかなり大きくなるはずだ。
小夜は辺りを見回した。箱の中にクマビッチをつめなおす。それから、もう一度川を覗き込んだ。しばらく覗き込んでいると、橋が揺れた。車が来たのだ。
振り返って、車が橋を通るのを見送っていると、車の窓から何かが飛んできた。中の人が何かを投げたのだ。空き缶だった。缶はきれいな弧を描いて、ポチャンと川に落ちた。
それをまねて、小夜も放り投げた。クマビッチが入った箱を。
箱は弧を描くことなく、真っ逆さまに川に落ちていった。水面にしばらくぷかぷか浮いていた後、沈んで見えなくなった。
視界から消えたのを確認して、小夜は川から離れた。急ぎ足で橋を渡る。渡り切る前で、見なければよかったものを目にしてしまった。
『川をきれいに! ゴミでたくさんの魚が死んでいます!』
橋にかかる看板を目にした時、心臓の音が大きく鳴った。太鼓をドンと力いっぱい叩いたかのように。それから連続的にドドドドと鳴って、体中を駆けめぐる。
『たくさんの魚が死んでいます!』
(ごめんなさい……)
小夜は心の中で呟いた。
『魚たちが死んだのは、おまえのせいだ!』
誰かがそう叫んだような気がして、小夜は振り返った。橋の上には誰もいない。辺りを見回して。小夜はハッとした。
川の水がどんどん山なりに膨れ上がっていく。見上げるほど高く突き出た泥水には、やがて目ができ口ができる。粘り気のある茶色い水を滴らせて、川の怪物は小夜に目玉を向けた。なまなましく光る目は、小夜の背筋を凍らせる。
「あ……あ……」
小夜の唇がガタガタ震えた。食べられてしまうと思った。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
心の中で念仏のように唱えた。
怪物の影が視界を覆う。震える足は動かない。押し寄せる波のごとく、怪物が迫ってきた。
「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げながら、森野小夜は飛び起きた。
(ゆ、夢……)
パジャマを着て、ベッドに入っている。ついでに小学生ではなく、ちゃんと高校生の体だ。ということは、夢。
(なんであんな昔の夢を……)
そう思って、小夜は机を見やった。充電中の携帯電話には、クマビッチのマスコットキーチェーンがついていた。たまたま部屋を掃除した時に、ひょっこり出てきたのだ。懐かしくてつけた矢先に、こんな夢を見てしまうとは。
(クマビッチの呪いだわ)
布団をめくり上げるなり、小夜は携帯電話からマスコットをはずした。
制服に着替えて、胸にかかる髪をとかす。鏡に映った髪は、先月よりもさらに色が落ちて明るくなっていた。
「そろそろ切った方がいいかなぁ。毛先がマジでヤバイ」
これでも欠かさずトリートメントをしているのにと、髪を二つに結びながら小夜はため息をついた。つぶらな瞳を凝らして、金色にまで脱色した毛先を見つめる。
「小夜、早くしないと遅刻するよ!」
下から母親の急かす声がして、小夜は慌てて鞄を持った。
ボストンバッグっぽい紺色の学校指定の鞄なのだが、小夜はいつもそれをリュックサックのように背中に担ぐ。その方が手に持つより軽く感じられる上に、両手もあく。が、これは建前で、本音を言うとその持ち方が流行っているからだ。
流行りには敏感で、何でも取り入れるし、逆に自分が流行らせたものだってある。
家を出ると、朝にもかかわらず外は薄暗かった。太陽を遮る黒雲からは、時折唸るような雷鳴が聞こえる。初夏特有の生暖かい風に乗って、嫌な臭いが鼻をついた。原因はわかっている。あの川だ。
家から数メートルのところにある古びた神社を通り過ぎて、少し坂を登ると川が見えてきた。夢に出てきた苦い出来事を思い出す。
地域を横断するように流れる河川は、雑草にからまったペットボトルや空き缶も一緒に運んでいく。通学路でもある一段高くなった両脇の道路は、堤防の役目も果たしていた。
「森野!」
不意に声を掛けられて、小夜は振り返った。声をかけてきたのは、クラスの男子だった。比較的よく話す男友達の一人で、背が高くて顔も悪くない。
薄紅色の唇を横に広げて、小夜はとびきりの笑顔を向ける。
「おはよ」
「おはよ。あれ、傘は? 今日は雨降るぞ」
「私、折りたたみ派だから。大きい傘だと荷物になるでしょ」
「こんなに曇ってるのに。絶対後悔するって」
「じゃあ、大雨になったときは入れて。ねっ」
「しょうがねぇなぁ」
少し照れくさそうに言う彼の姿を見て、小夜はにわかに期待を寄せてしまう。二人の距離がぐっと縮まりそうなところで、出し抜けに後方から呼びかけられた。
「小夜ちゃ~ん」
すり寄るような猫なで声に、小夜はやれやれと振り返った。ほくそ笑んだ数人の女友達たちが、手招きしている。
「おはよ」
「おはよ。ごめんね、いいとこ邪魔して」
「別に。そんなんじゃないよ」
と、口では言っておく。
「おまじないの効果、あったんじゃない?」
にやにやしながら、友達は小夜の左手に視線を落とした。小指に巻いた絆創膏をこれ見よがしに触ってくる。大小の星がちりばめられた可愛いデザインのものだった。
左手の小指に巻くと素敵なラブハプニングが起きるというおまじない。小夜は数日前からやり始めた。ちなみに右手の小指に巻くと幸せが訪れるという。
「まだないよ。始めたばっかりだし」
「でもさっき、いい雰囲気だったじゃん?」
「そうかなぁ」
と、口では気づかないふりをする。
(てか、そう思うならなんで邪魔したのよ)
もうちょっとで〝ラブハプ〟が起きたかもしれないのに。
「そんなことより、小夜に見せたいものがあって」
別の友達が話に割り込んできた。
「何?」
彼女が小夜に見せてきたのは、絵入りの絆創膏だ。黒地にピンクのハートが散らばっていて、シールのところにはラインストーンまでついている。
最近、可愛い絆創膏を持ち歩くのが流行っている。頻繁に怪我をするからというわけではない。どちらかというとファッション感覚で、なんでもない指に巻いたり携帯電話に貼ったりするのだ。
ちなみに携帯電話に貼りだしたのは、小夜だった。もともと絵入りの絆創膏を集めることにハマっていた小夜は、ふとした瞬間に携帯電話の裏に貼ってみたのだ。それが可愛いと評判になり、周りの友達も絵入りの絆創膏を集め出して、携帯電話に貼ったりノートに貼ったりするようになったのである。
「これ、可愛くない? ラインストーン入り」
「可愛いじゃん」
「でしょ。でさ、小夜が持ってるリボン付きのと交換しよ」
自慢じゃないが、小夜が持っている絆創膏の種類は三十を超える。こうやってトレードするのも流行りなのだ。
小夜は、鞄の中から小さなポーチを取り出した。丸みを帯びた猫の顔は、集めた絆創膏でパンパンに膨れ上がっている。
リボン付きの絆創膏を出して、小夜は友達に渡した。白地に赤やピンクのリボンの柄が入っていて、綿のところに小さい立体的なリボンがついている。
嬉しそうに受け取ると、友達はさっそく絆創膏を携帯電話に貼った。もともと貼ってあった古い絆創膏は、片手でくしゃくしゃと丸めて川に投げ捨てる。
(あ……)
小夜は、音もなく落ちていくゴミを目で追いかけたが、すぐに見失ってしまった。
「小夜も、私があげたやつケータイに貼ってよ」
「あ、うん」
ゴミのことは頭から追い出して、小夜はスカートのポケットから顔を出しているストラップを引っ張った。
「あ!」
ポケットの端に引っ掛かった本体を無理矢理引っこ抜いたせいだ。携帯電話は小夜の手をするりと抜けたと思うと、地面を勢いよく滑っていく。表面を削る嫌な音をさせて、そのまま川へと一直線に向かっていったのだ。
「ああ――っ!」
小夜は、慌てて川を見下ろした。幸い、携帯電話は生い茂った草に引っかかって、流されも沈みもしていない。
すぐさま土手を下りて、小夜は携帯電話に手を伸ばした。
「小夜、やめなよ!」
友達が叫ぶ。が、やめるつもりはなかった。携帯電話は命の次に大事だ。なんせみんなのアドレスが入っている。日記も入っている。予定も入っている。とにかく、メモリーだけでも救出せねば。
川に近づくと、悪臭が小夜の鼻をついた。片手で鼻を覆いながら、ぎりぎりまで携帯電話に手を伸ばす。指先が届きそうで届かない。あと数センチ手が長ければ。
(あともうちょっと……)
小夜は辺りを見回した。何か棒のようなものがあれば届くのに。
捨てられていたビニール傘が目に入って、咄嗟に掴んだ。ヌルっとした感触に、小夜は思わず手を放す。
(げ。気持ち悪い……)
落ちているビニール傘はダメだ。触れない。うーんと唸ってから、小夜は思いついたように鞄の中から折りたたみの傘を出した。柄を伸ばして、もう一度試みる。
草が風に揺れ始めた。次第に雷の音もせわしなくなる。
「小夜、雨が降ってきたよ!」
「わかってる!」
ポツポツと冷たいものを感じる。傘は携帯電話に簡単に届いた。だが、ここからが勝負だ。うまく草にひっかかっているから、上手に手繰り寄せて掴まなければならない。慎重に、慎重に携帯電話を引き寄せる。
そのときだ。耳をつんざくような雷鳴が轟いたのは。
居合わせた全員が悲鳴をあげた。
「きゃっ!」
小夜も思わず叫び声をあげた。同時に、ぬかるんだ土に足を滑らせて、上半身から水の中にはまってしまった。前のめりの姿勢が災いして、踏みとどまれなかったのだ。
「小夜!」
川は思いのほか深かった。吸い込まれるように沈んでいく。もがけばもがくほど呑みこまれていくのだ。まるで何かに引っ張られるように。
激しく波打つ川に、小夜は必死で抗った。水の跳ね返る音がだんだん遠くに感じられる。
(溺れる!)
小夜は全力で手を伸ばした。はるか上に見える水面に向かって。