船幽霊
『夏のホラー2026』参加作品です。
じわりと汗が滲む。
むっとした潮の不快な臭いが鼻腔をつく。
雲一つない晴天。
最近ではこんなねっとりした猛暑日にわざわざ海に出る人間もいない。
観光客は整備された別の海水浴場に足を運ぶが、ここは少し歩けば岩場にぶつかる砂浜。
ましてや今はお盆期間中だ。
この世とあの世の境目が曖昧になるのだと、地元の人も漁には出たがらない。
そしてお盆が過ぎれば海月が大量発生する。
結局この海岸は残された夏の間も賑わうことがないのだろう。
━━ただ、遠くから船の汽笛の音だけが鳴り響く。
そんな人気のない砂浜を、私は歩いていた。
特に理由があるわけではなく。
サンダルの間から砂が入り込むのを気持ち悪く思いながらも歩く。
その先に、人の姿があるのを見て私は一瞬自分の目を疑った。
大きな流木の上に、子どもが一人座っていた。
こんな日に、帽子も身に付けていない。
「……暑くない?」
心配になって私は声をかけた。
ずっと海を見続けていた子どもは、私の方に顔を向けた。
━━少年だった。
髪は少し長く、真っ黒な大きい瞳は人形のようにも見えたけど。
白いシャツに短いパンツ姿は少年らしい、健康的な身なりだ。
なのに服から伸びた細い手足は、不気味なほど青白い。
「……きみは暑いの?」
「え?」
こんなに照り返しも強いのに、暑くないはずがない。
違和感のある少年の返事に戸惑っていると、彼は隣に座れと流木を叩いた。
どうしたものかと迷ったが、断る理由もない。
黙って私は少年の隣に座った。
流木は随分痛んでいるようだった。
しかし、私が腰掛けても砕ける様子もなかったので、意外と丈夫なのかもしれない。
「……ねぇ、一人?誰か大人の人は近くにいないの?」
「きみも子どもなのに一人だよね?」
「え?……まぁ」
やはり素直には答えてくれなかった。
「ここで何やってるの?」
「待ってた。ずっと」
何が、なのだろう。
しばらく黙っていたが、それを答えてくれそうにはなかった。
「……熱中症なるよ?帰らないの?」
諦めて、私は別の話題を振った。
少年は首を横に振る。
「まだ」
少年は呟いた。
「まだ待ってる」
そうして顔を上げて、また海に目を向けていた。
誰も喋らない海には、ただ波の打ち寄せる音だけが耳に届くだけだった。
*
部屋の窓から外を眺めていた。
レースカーテンがひらめいている。
庭の雑草だけが青々と生い茂っているのが見えた。
日も沈みかけ、風も出てきて、若干過ごしやすくはなってきている。
それでも、部屋には昼間の熱がまだ残っているようだった。
私は部屋に貼られたポスターを見た。
強い日差しを浴びてきたせいか、すっかり色褪せてしまっていた。
外したら日焼け跡があるかもしれないのだと考えていると、ドアをノックする音が聞こえる。
入って来たのは祖母だった。
祖母は入るなり、部屋を隅から隅まで見渡していた。
「……この部屋も片付けないとね」
「そう?けっこう片付いてるように見えるけど」
私がそう言うも、祖母はただ溜息をつくばかりだった。
そうして黙って窓を閉めて出て行ってしまった。
なんだろう、そんなにがっかりするようなことを言ってしまったのだろうか。
きっとこの部屋の片付け具合は、綺麗好きな祖母の基準には満たなかったのだろう。
しかしながら、どことなく元気のない祖母の姿に少し胸が痛んだ。
外からまた汽笛の音がする。
今日はやたらこの音を聞くな、と思っていた。
*
皆でお墓参りに行くことにした。
親戚も一緒だ。
他の家からも花束を持って出てくる人が増え始めていた。
少しでも過ごしやすい時間にお参りしたいと思っていたのだろう。
皆、考えることは同じだ。
うちのお墓に着いて、祖母はお供えの花を交換し、親戚は掃除をし始める。
「……こっちのお墓に入れてもらえるとは思ってなかったよ」
箒で木の葉を集めながら親戚が話し出した。
「まぁね。でもあの子もずっとこっちの墓に入りたいって言ってたし。それにもう親戚もいないようなものだし、良いのよ。死人に口無しってね!」
「ばぁちゃん、それお墓で言うの不謹慎過ぎるよ」
「ほんとだよ」
祖母がケラケラ笑うと、親戚や私は苦笑いして彼女を諌めようとしていた。
「でもね、あの子がこっちのお墓に入りたがってたの意外だったのよね」
「……育った場所が良いってなったんじゃないの?」
「それなんだけどね、ほら、私が離婚してあの子連れてこっちに出戻って来たじゃない。あの子、あんまり馴染めてなかったみたいだったから……」
祖母はお墓に目を向けながらも、どこか遠くを見ているようだった。
そして、お墓に手を合わせてお祈りをする。
「……何にしても、親より先に子どもが逝くものじゃないのだけれどね、ねぇ」
私の名前を祖母が呼んだ。
だけど、祖母は私を見ていない。
墓に手を合わせたままだ。
「えっ?」
親戚が、墓石の前に和菓子をお供えした。
「たくさん持ってきたよ。好きなだけ食べてね」
悲しげな笑みを浮かべながら、親戚は手を合わせた。
私の好きな和菓子だった。
……私が闘病中に食べたいと何度も言っては見舞いに来た人を困らせていた和菓子だ。
額に冷や汗が滲む。
ふと、先祖の名前が彫られている石に視線を向けた。
━━その一番最後、まだ彫られたばかりの文字は、確かに私の名前だった。
汽笛がまた鳴っている。
その瞬間に、忘れてしまっていたことが湧き上がって、息が詰まりそうになった。
……祖母だと思っていたのは『母』だった。
親戚は……『娘』だ。
━━待ってる。
そして、流木に座る少年の姿が頭の中にありありと浮かび上がった。
……ずっと、彼は待っていたのだ。
気が付くと、私は走り出していた。
*
走りながら、今までの記憶がフラッシュバックしていた。
つい数ヶ月前、自分が死んだこと。
娘が生まれた時のこと。
義家族と上手くいかなかったこと。
職場の同僚に交際を申し込まれて結婚したこと。
高校を卒業して、すぐに育った町を出て就職したこと。
━━そして中学生の時に両親が離婚して、母の故郷であるこの町に来たこと。
何故、忘れてしまっていたのだろう。
新しい学校に馴染めず、ただふらふらと歩いて到着した海辺で、私はあの少年と出会っていたのだ。
少年は今日のように、ただずっと海を眺め続けていた。
彼がこの世の者ではないことは、すぐに分かった。
それに構わず独り言のように話しかけたのは、若さゆえの物怖じのなさと、単純に寂しさが勝ったからだろう。
毎日のように海に来ては隣に座り、少年に話しかける日々を送るようになっていた。
「……お父さんは若い女の人と逃げてったの」
気が付けば、そんなことを口にするまでになっていた。
「誰も私にそれを言わない。だけど、皆それを知ってる。……多分、クラスの子達も知ってる。田舎って怖いね」
当事者が話さなくても、夫を連れず田舎に戻ってきた母と私は小さなコミュニティの中で浮いてしまう。
そうして、噂はあっという間に広まっていく。
例え悪意がなかったとしても、それが人を傷付けるとも知らずに。
クラスメイトは度々私を指差して何か話していた。
それが視界に映る度に、心が擦り減っていた。
「お父さんは私より女の人が大切なのかな。……ずっと一緒にいるって約束してたのに」
私にとって、父は悪い父親ではなかった。
いつも明るくユーモアのある話をしてくれる人だった。
母もそんな父を愛していたのだと思う。
だからこそ、街中で若い女の人と腕を組んで楽しんでいる姿を見てしまった時に、吐き気をもよおすほどの衝撃を受けた。
私を世界一大切だと言い放ったその口で、どこの誰とも知らぬ女の人に愛を語っていたのかと思うと、虫酸が走った。
それを全て吐き出した時に、珍しく少年が反応を見せた。
「……ぼくは」
そうして私の横顔に手を伸ばして、垂れた髪を耳に掛けた。
耳に当たった指がひやりとしている。
私は、少年の方へ顔を向けた。
「きみを一人にはしない。ずっと一緒にいる」
少年の感情は読み取れない。
本能が、これは良くないものだと訴えていた。
それでも、彼の言葉に私は揺れ動かされていた。
━━しかしそれ以降、私は彼に会うことはなかった。
「この子は良くないものに魅入られている」
私を一目見るなり、とある親戚が訴え、海の近くに足を踏み入れることを固く禁じられた。
後から聞いたところによると、その親戚は拝み屋をするような人だったらしい。
実際、親戚の訴えは当たっていた。
だけどそれを認めるわけにはいかなかった。
隙あらば海に向かおうとする私を最終的に諦めさせたのは、母だった。
「……あなたまでいなくなってしまったら、私はどうしたら良いの?」
泣きながら抱き締める母に、何も言えなくなってしまった。
母は最大の被害者だ。
子どもながらもそれは理解していた。
私がここでいなくなってはいけないのだ、とも。
そうして諦めざるを得なくなり、いつしか海のことさえ忘れ去って、月日だけが過ぎていった。
*
私は砂浜を走っていた。
サンダルに入り込む砂を気にすることもなくなっていた。
そもそもが、不快と感じる感覚も、緊張も、全て失ってしまったものかもしれない。
月明かりが海を照らす。
海は静かだ。
その静けさを破る汽笛の音がする。
船が近い。
海岸に乗り上げるかもしれないのに止まらない。
しばらくしたところで、やっと止まったかと思うと、船の可動橋が降りてきた。
そして、そのまま橋の先を海の中へと浸からせた。
私は言葉を失った。
どこからともなく、砂浜の上に無数の人影が現れていた。
それらは海に向かい、降ろされた橋から船へと乗り上げていく。
ひたり、ひたりと。
ぞろぞろと、無言のまま、列をなして。
この世のものとは思えないその光景を前に、身動きすることができなかった。
「来たんだ」
ふと、声を掛けられ、振り向いた先には昼間の流木に座ったままの少年がいた。
彼は立ち上がり、私の目の前まで近寄る。
「……それじゃあ、行こうか」
「どこに?」
「ずっと待ってた」
「待ってたの?ずっと」
「約束したじゃないか」
少年はじっと、私の顔を覗き込んでいた。
「ずっと一緒にいるって」
その瞳は、あの日と同じ深い闇の色をしていた。
「来てくれたんだね」
「……何でだろうね」
私は目を伏せた。
自分でも、死んだ後にわざわざここに来た理由が分からない。
「ねぇ、あの船に乗ったらどこへ行くの?」
きっと、良い場所へは行かないだろう、と思いながら私は訊ねた。
「私達はどうなるの?」
しばらく黙った後で、ぽつりと少年は言った。
「こういう時しか陸に戻れないかもね」
少年の言葉には嘘が混じっていないようだった。
「でも、ずっと一緒にいられる」
━━もう、二人を分かつものはないのだと。
それが全てなのだと彼は言った。
私は少し、考え込んでいた。
「……ねぇ、あれは?」
私は未だに船に乗り続ける影を指さした。
「正気を失った人間の魂」
全身の血の気が引いていくようだった。
震えそうになる手を押さえて、顔を伏せる。
「そっか」
しばらく言葉が出なかった。
自分の行く末はきっと……と、頭に恐怖が過ぎって、しかしながら、答えはもう決まっていた。
深く息を吸って、私は顔を上げた。
「わかった。……行くよ」
「うん」
あの日、私は母を選んだ。
なのに、彼はずっと待っていた。
私が生を全うするまで。
なら今度こそ、彼を選びたい。
少年は手を差し出した。
それを私は握り締める。
体温を感じない。
……それは、私も同じなのだろう。
海の中に足を踏み入れる。
水面に映る月明かりが揺れる。
水面の下には海月が揺れている。
漂う海月に刺されることはない。
私達は水の抵抗を感じずに橋を登った。
「もう、離さない」
少年が柔らかく囁くと、可動橋がゆっくりと上がり、船の入り口は閉じた。
僅かな隙間から月明かりが照らす。
もう、私は戻れないのだろう。
心もとない光の中で、少年の瞳がはっきりと目に映っていた。
その黒を見て思い出す。
私は確かに彼に『会いたかった』のだ。
━━汽笛が鳴った。
身体を底から揺さぶる轟音を感じる。
手を握る感覚だけを感じながら、私は瞼を閉じた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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