『あ』 『く』 『は』 『き』
何時ごろから間違え始めたのかわからない。だが、もしかしたら生まれた瞬間から、何かを間違えていたのかもしれない。
だが、生まれた時から人生を間違えていたとしても、今、この目の前の選択を誤るわけにいかないのだろうと思える。
壁に書かれている文字は四つ。
四というだけでも不吉な印象をもたらしてくる。だというのに、それに加えて文字の色は、血だ。
なぜこの壁に、血で、文字が四つ描かれているのか。ちっともわからない。
周辺を見回したが、街灯がぼんやりと夜の街を映しているのが、不気味。人は一人も見当たらない。
猫はいた。真っ白な猫が一匹。やけに白い。それが夜闇の中でやけにはっきりと映るものだから、その猫に消えて欲しいと思った。
だが猫はずっと、ジッと、こっちを見ている。緑に輝くその両眼で、猫は俺を射抜く。ジッと、見ている。
急に、身体が重たくなるのを感じた。ただでさえ湿気が多い、夏の蒸し暑さが気だるいというのに。身体が重たい。猫を見れば見るほど重たくなっているような気分だ。
嫌になって、猫から目を離した。そして再び壁に気を向けた。
四つの赤い文字。
右から順に、
『あ』
『く』
『は』
『き』
じっと、眺めていたものだが、なんの統一性も見出せない。きくあは。はあくき。あくはき。くあはき。くあきは。……ダメだ、訳がわからない。
顎に手をあてて考え込んでいると、視界の隅に、さっきの真っ白な猫が映った。嫌な気持ちになりながら、しかし、もう猫は俺のことなど見ていないだろうと感じた。猫は気ままな動物なのだから、夜空とか街灯とか、とにかく違うものに興味を変えているだろう。俺はそんなに興味深い人間ではないのだから興味をそんな長くは持たれない。
俺はそういうことを脳裏で考えてから、チラ、と猫のほうに視線を向けた。しかし、、
真っ白な猫はこっちをみていた。
緑の両眼で、いまだに俺のことを見ていたのだ。射抜いているのだ。
慌てて視界を、再び壁に戻した。そして、驚かされたのである。
『あくまのしょぎょう』
『く』
『は』
『き』
汗が一気に吹き出るのがわかった。ぶわっと、全身の至る所から湿った液体が滲み出ている。…あくまのしょぎょう?
わけがわからないと思いながら、どうしたものだろう、と夜空を仰いだ。
気分転換のためだ。
星が夜空一面に広がっている。今日はやけに星が見える。いつもは数えるほどしか見えないのに。
『あくまのしょぎょう』
なんだろう、それ。と思った。宗教とかそういう関係だろうか、とも想像してみた。だが、そういうことに関する知識に疎いので『あくまのしょぎょう』など分かるはずも無い。そもそも平仮名で書かれているのだから、俺の想像している『あくまのしょぎょう』とは違う意味の『あくまのしょぎょう』なのかもしれない。例えば、『ああ、熊の所業』ということなのかもしれないじゃないか。なんというか、ちょっとひねって。
うむ。ギャグで心が温かくなるよね。こういうときには。
だが、再び壁に目を向ければ、
『あくまのしょぎょう』
『くりかえされる』
『は』
『き』
すぐに冷えた。
『あくまのしょぎょうくりかえされる』
理解が出来そうではある。単純に考えれば、『悪魔の所業繰り返される』という意味だろう。
だがそれが分かったところでなんだと言うのか。そんなことは誰にだって理解できる。きっと考えなければいけないのは、その先なのだ。
目の前になぜ壁があり、四つの文字が赤で描かれているのか。夜の中で、俺がなぜそのことを考えなければいけないのか。その答えを見つけなければ、……いったい、どうなってしまうのだろうか?どうにかなってしまうに違いない。
――ニャア。
急に声。肝が冷えた。何時の間に近づいていたというのだろうか、先ほどと変わらない真っ白な猫が、足元で俺を射抜いている。
数歩後ろに下がってから、しかし、気を取り直して、猫を抱きかかえようと手を伸ばした。だが、
「…痛ッ!」
鋭く噛まれた。人差し指だ。人差し指から血が溢れ出てくる。怒りで目の前が真っ白になるのを感じて、その次の瞬間には近くにあった石を拾い上げ、逃げようとした猫に、それを全力で投げつけていた。だが、石は猫にはあたらず、コンクリにはじかれ、闇に吸い込まれてしまった。逃げていく猫も、闇に消えていった。
「チッ」
舌打ちをしてから、再び文字の意味を考えようとしたが、考える暇もない、新たな文字が、壁に描かれていた。
『あくまのしょぎょう』
『くりかえされる』
『ははがあのふるう』
『き』
わけがわからない。『ははがあのふるう』?
「意味わかんねんだよっ!」
地団駄を踏んでから壁に蹴りを入れた。だが、壁は何も物語ってはくれない。いや、語ってはくれているのか。相手に伝える意欲をこの壁が持ち合わせていないのだ。『ははがあのふるう』なんて、まあ何かの暗号なのかもしれないが普通は読めないだろこんな暗号。
『悪魔の所業繰り返されるははがあのふるう』
この三つめの『ははがあのふるう』のおかげで、ちっともわからなくなってしまった。いや、『はは』は『母』辺りが妥当であろう。だがそう仮定したとしても、『悪魔の所業繰り返される母があのふるう』……わからない。
俺は星空を仰ぐしかなかった。というのは、さっさと続きを示して欲しかったのだ、この目の前の壁に。余所見をすれば次の文面を示してくれるということは、さすがにわかった。だったら、こうやって余所見をしてやるのだからさっさと答えを掲示して欲しい。そもそも、何で俺はここにいるんだ。壁なんかと対峙して、気味の悪い血の色の壁で謎解きなんかしてるんだ。
首を空に向けてから目をゆっくりと閉じた。深呼吸をする。息を大きく吸って、大きく吐く。次の文字を見た瞬間に、心臓発作を起こさないように、準備だ。
目を開ける。星々が夜空で、満遍なく光輝いている。空の広大さのおかげだろうか、俺の心はとっても落ち着いた。
俺は意気込みを入れて、「よしっ」と述べてから、視界を壁に戻した。
四つ目の文字『き』の続きは、このような内容だった。
『きみのうしろで』
「ねえ、こっちをむいて」
背後から突然の声。俺は慌てて後ろを振り向いた。そこにいたのは人。
「…なんで」
ぐしゃり。
俺の頭が、かち割られた。
◆
ある日の朝。小さな町の一角で事件が発生したということで、警察や野次馬などが数多くそこに押し寄せた。普段は人っ子一人通らないような静けさの、閑静な通りであるだけに、住み慣れている人からすれば、一生に一度あるかないかのお祭り騒ぎであった。非常に不謹慎な話ではあるが。
殺された男の遺体は、すでに運ばれている。だが、そこら中に散らばっている血痕が、生じた事件の凄まじさを、自然と物語っている。なにせ、通りのどこを見ても血が散らばっているのだ。血が付着している民家は、通りのほとんど家々である。とてもとても、人間一人の量とは思えないほどに多量の血液が、通り一帯を埋め尽くしているのである。異様としか、形容しようが無い。壁に文字が書かれていることも、人々の話題となるには十分すぎた。
野次馬のざわめきが騒がしい中で、刑事が二人、話し込んでいる。
傍らは新米の刑事。もう一人はハゲオヤジの、ベテラン刑事である。ハゲオヤジのベテラン刑事は、禿げているが腕は確かという評判の刑事だから、なんか可哀想なんだか凄いんだかよくわからない人物である。
そんなベテラン刑事に、まだ若々しくてフサフサの新米刑事が声を掛ける。
「とんでもない事件ですね。この血液の量も異常ですが、壁に書かれている文字も、これ、血で書かれてますよ。なんつうか、ほんと、憎しみを感じますよね。憎しみなんてもんじゃないか。もはや、憎悪っていうか」
ベテラン刑事が頷く。
「まったくだな。この、『悪魔の所業繰り返される』という意味はよくわからんが恐ろしい言葉だ。しかし後の二つは恐ろしいというよりは不思議な感じだな。この文字を見れば、誰が犯人なのかも凶器が何であるかもすぐにわかってしまう。犯人がなんでこんなことをしたのかはわからないが、まあ、犯人の逮捕後は、精神状態の鑑定も必要だろうな。家族の人間を殺せるってだけでも凄まじいことなのに、町の閑静な一角に血で文字だなんて。…こりゃさすがに、ベテランの俺でも驚けるよ。とんでもない事件だな」
新米刑事は眉を潜める。
「僕には犯人の気持ちが理解できません。……男の遺体も見ましたが、すさまじいものでした。とにかく、殺された男の身元もわかりましたし、私は犯人逮捕に向かいます。確保したら、連絡しますので」
「うむ、いってこい」
こうして新米刑事はパトカーに乗り込み、サイレンを鳴らしながら走り去っていった。
そのパトカーを見送ってから、ベテラン刑事は、ため息をつく。
「なんで、こんなことになってしまったのか」
ベテラン刑事はスカスカの頭を擦りながら、天を仰ぎ見た。太陽が光を頭に注いでくるのをやかましく感じながら、ベテラン刑事は、このような事件が今後起こらないよう、心内で、ひたすらに願う。
太陽がどこまでもどこまでも、遠い。
◆
壁にはこう書かれていた。
『あくまのしょぎょう くりかえされる ははがおのふるう きみのうしろで』
つまり、
『悪魔の所業 繰り返される 母が斧振るう 君の後ろで』
ということであった。
『ははがあのふるう』では、わかるはずもない。
◆
男は、ゆっくりと、目を覚ました。男はなぜか、壁を見つめている。
男にはわからない。なぜいまは、夜なのか。星がこんなにたくさん輝いているのか。なぜ壁に文字が四つ描かれているのか。なぜ自分がここに立ち尽くしていて、文字について頭を悩ませているのか。
何もわかりはしない。だが、それでも、目の前の四文字について、男は答えを見つけ出そうとする。だが、いつも見つからない。『いつも』というのに一瞬、頭で何かが躓いたが、それでも文字についての答えは得られない。次の瞬間には、男は自分が『いつも』と頭で呟いたことでさえ、忘れてしまった。
そんな男を、白猫は見ていた。白猫は、何度も、何度も何度も、男が考えてもがき苦しんで、しかし結局母に斧で頭をかち割られる光景を、見届けてきた。
男が何回頭を、鋭利な斧で見事にかち割られたのか。白猫はもはや覚えていない。
白猫に出来ることは、毎回、せいぜい男の指を噛んでやることくらいだった。猫にはその程度の手助けしかできないのだ。
本当は男が『お』を『あ』と見間違えていることを指摘できれば良いのに、猫には言葉が無いからそれが出来ない。それどころか、指を噛まれて逆上した男に石を投げられてしまう始末だ。
猫は闇の奥で、繰り返される悪魔の所業を、今回も見届ける。見届けるしか他に無いのだ。
白猫の目の前で、女が斧を、勢いよく振り上げた。そして、男がハッとした表情をした後、女のほうへと身体を向ける。だが、遅い。
男の頭が、かち割られる。
白猫はため息をついた。血が通りに舞い散るのを見るのはこれで何度めだろうか。日に日に血の量が増えている。
男の頭がとんでもない様子になるのを眺めながら、白猫は欠伸を掻いて、のそのそどこかに立ち去ろうとした。もう、男の即死の様子を見るのに飽き始めていたのだ。助けられるものでもないことも、白猫にはもはや理解出来た。
だが、白猫が立ち去ろうとした時、背後から、声がかけられた。
「ねこちゃん。どこへいっちゃうの」
白猫は、背筋を固めた。振り返るべきか振り返らざるべきか。答えは簡単だと思えた。
白猫は逃げ出そうと思い、地を蹴る。だが、どうしたことだろう、その場から前に進むことが出来ない。走っているのに、走っているつもりなのに、その場から身体が移動しないのだ。
猫は、焦る。
「かわいいねこちゃん、にげないで」
猫は首根っこを掴まれ、持ち上げられた。
ゆっくりと猫は息を呑むが、彼女は躊躇しない。
フフと笑い。
「みられたら、殺さなくちゃいけないの」
にゃあ、と猫は叫んで抵抗したが斧は振り下ろされる。首めがけて一度ではなく、二度。
血が舞う。猫の頭が惨たらしく体からずり落ちる。
◆
閑静な住宅に飛び散る血。猫の亡骸はどこかに捨てられ、惨めな姿のまま闇に葬られる。
下水道に放り込まれ、どこまでもどこまでも漂っていく、猫の痛ましい姿。
繰り返されてきたのは男の死だけではなかった。
猫は、何度も何度も殺され続け、そして、誰からも遺体を慰められることもなく、下水の闇を漂い続けてきたのだ。
これまでずっと。そして、これからも。
あくまのしょぎょうは、くりかえされる。