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1章-⑥ 恋人からの逃避行

「ハァ……ハァ……ハァ」


 後ろ手に空き教室のドアを閉め、背中を預ける。

 額の汗を拭うそばから、脂汗が噴き出していく。

 腰を抜かして座り込むと、遅れて口腔内がカラカラに乾き出す。湧き出る唾液からは鉄のニオイが生じていた。


「ハァハァ……ハァ…………ここまで逃げれば一安心か」


 すりガラス越しに周囲を覗き見やる。

 追っ手に発見されない為にと片目だけになるが暫く経った頃、少女の姿はしかとこの目に映される。

 注意深く周囲を探り、しかし目標がこの場に居ないと分かるや否や俊敏に身を翻す──赤みがかった茶髪の少女を。

 少女の唇は微かに動いていた。


『今度は何処に逃げたのかな、あのバカ息子は。見つけたらぎったんぎったんのぐっちゃぐちゃに──」


 オレは一身上の都合から、直ぐさま覗き見を止めた。

 ……何やら物騒な事をのたまっていた気がするが、素人の読心術だからな。読み違えた可能性も大いにある。むしろそうあってくれ。

 額に青筋立てて拳をわなわなと震わせているように見えたのも、オレの見間違い……。

 …………うん。見間違い勘違いの類なら良かったんだがな。


 だが残念なことに、あの少女は篠原冬香で間違いない。

 トーカが追っていた人物もこのオレ、十文字陽一郎である。これも正しい。

 相違あるのはそこから先、二人の認識と世界のあり方。そこだけだった。


「どうしてこうなったチクショウ……」


 弱音なんて吐くものではない。

 誰にも聞かれないぐらいか細い声だとしても、自分にだけは聞こえてしまうのだから。

 案の定、閉め切ったカビ臭い理科準備室に蹲っていると、湿っぽい嘆きはよく響いた。


 ※※※


 ──私のおっぱいを飲んでもらいます。


 トーカにそう言われて早二日。

 以来、オレは彼女から逃げ惑っていた。

 ある時は授業開始ギリギリまで粘ってから教室に入り、休憩時間は即刻トイレに引っ込み、昼休みは隠れ処をコロコロ変える。中庭、空き教室、屋上、グラウンド、自転車置き場、先生らの喫煙所など。

 

 それでも日中は割とどうにでもなる。校舎は隠れ場には事欠かないので。

 問題は夜間から早朝にかけてだ。オレの家はあの女に知れている為、寝泊まりには向かない。望月の家に厄介になっていた。というか、そうせざるを得なかったのである。

 ……何回もワケを訊ねられたのに、適当に誤魔化してしまった点は本当に申し訳ないと思っている。夕飯も馳走になってしまって、ご馳走様です。


 兎角、危うい場面こそ何度もあったが、オレはこの二日間を何とか乗り越えた次第である。

 なんだ。オレって意外と逃走劇もそつなくこなせるんだな、やるじゃあないか。これから先、ほとぼり冷めるまで数日あるいは数週間? なんにせよ大した問題では──。


 ……。

 …………。

 ………………ハイ。

 そんな風に余裕ぶっこいていたせいでしょうね。トーカがなりふり構わなくなったのは。

 オレに避けられていると彼女が自覚したかどうかが、逃走の成功率に大きく寄与するのは自明だったハズなのに。


 『手段を選ばなくなった』トーカがその後何をしたのか。

 例えば朝。オレが家出先の望月家から登校する時間帯。

 オレが望月家に世話になっているという事実は、オレの狭い交友関係さえ頭に入っていれば自ずと知れることだった。突き止めるのに、手間賃はそう掛からない。

 故に望月家から高校までの通学路──可能性として最もあり得る道を、彼女は知った。


 朝の3時から。

 トーカは執念だけで、路傍に張り込んでいた。

 

 本人から直接聞いたのだから、間違いない。

 あれが嘘なら彼女は今頃令和の顔として、女優の道で大成していただろうから。


 そして、オレは確信した。

 彼女からは決して逃げられないと。如何に工夫しようとも、いずれ捕まると。

 残念なことにオレに勝ち目はない。現役の陸上部として心身を鍛え抜いた彼女が本気を出すと決めた以上、早いか遅いかの違いでしかない。

 呆気なく捕まるか、みっともなく敗北するかの二者択一だ。

 

 重要なのは事後処理の方だった。即刻謝罪からの悪あがきが鉄板であり、引き伸ばしを重ねるメリットは恐らく無い。

 けれども──オレはトーカからみっともなく尻尾を巻いて、時間稼ぎを図っていた。

 雪だるま式に後々のリスクを増大させつつ、それでもなお時間を稼ぎ続ける目的は、見当もつかなかった。

 それでも、そうするだけの理由はあったハズだと……いや、待て。

 

 ……そもそもの話、オレは何故──恋人から身を隠しているのだ?


 ※※※


「……あぁ、もうそろ帰るか」


 空き教室に逃げ込んでから早数十分。とっくに下校時刻だから良いものの、我ながら随分と念入りに隠れたものだ。

 あの女の執念を買い被るワケではないが、これだけ長時間経過したにも関わらず成果がなければ、流石にもう諦めるだろう。

 ……外履きとスクールバッグは放置するしかなく、それだけが残念で仕方ないところだ。回収に行けば、まず間違いなく捕まるからだ。


「……今日の宿はどうしようか」

「ふむ。大人しく自宅に帰るってのは?」

「そういう訳にいくか。だってお前が待ち構えているじゃあないか」

「そっかー。確かに、私に捕まっちゃいますからね-」

「あぁ、まったく本当にはた迷惑な──」


 数秒遅れて、オレは相づちを止めた。

 直後に史上最速で背後を振り向く。背後を見やろうというコンマ数秒の世界、それは未だかつて類がない程に研ぎ澄まされた静止の世界だった。

 経験はまだ無いが、きっと走馬灯に似ていた。


 静止の世界で、オレは察する。恐れていた事が起きたのだと。

 まるであの朝の焼き直しの様だった。

 二日前、トーストをちまちま齧っていた日と同様の状況を再現して、少女はまたしてもオレの背後に立っていた。


「と、冬香…………何でここに」


 声を震わせるオレへと、トーカはじっと据わった目を向けていた。

 電源プラグを引っこ抜いたテレビモニタらしい殺風景な表情で、開口するのだ。


「さぁ、どうしてでしょう。自分の胸に手を当てて考えてみたら?」

「……いや、けどもう下校時間だからな。下駄箱までの移動中、たまたまオレの姿を見て追いかけてきた──って所じゃあないのか?」


 オレは明後日の方角を見据え、急造の言い訳を練り上げる。

 無論、こんなもので彼女を騙せるとは考えちゃあいない。時間稼ぎにもならないだろう。

 だが、言わずにはいられなかった。

 トーカはそこまでお見通しだったらしい。


「この空き教室、旧校舎のものでしょ。帰宅ルートの逆方向だよ」

「そ、そうだっけ……」

「そうだよ」


 動悸が止まらない。

 トーカが一言一句発する度に手汗が湧き出る。ハンカチを持たない小学生男児のような気分だ。

 嫌という程、痛感させられる。

 精々二日ぶりだというのに、オレは眼前の少女に怖気づいていたらしい。


「どこかの誰かさんがこの頃、私を避けるから。おかげで彼方此方探し回るハメになったんだよ、私が」

「……………………すまん」

「何があったか知らないけど、話してくれないんじゃあ分からないままだよ。ほれ、どんな事でもいいから。口に出してみなさいな」


 先般までのじゃれつくような態度は何処へやら。まるで幼子の面倒を見る聖女のように、トーカは慈愛の表情でこちらを覗き込んだ。

 今抱えている悩みどころか、墓の下まで持っていくつもりの大罪まで告白したくなってしまう微笑みだった。

 人とは、これ程までに柔らかい笑顔をつくれるというのか。

 

「……………………………そう、だな」


 ……ここまでで、良いんじゃあないか。

 あの夕方の光景は全て夢で、トーカはオレの母親で、そう思えないのは記憶障害か何かで一時的に忘れてしまっただけだと。

 そう結論付けてしまえばオレは楽になれるだろうから。


 ──好きです! 付き合って下さい!

 

 あの告白さえ、忘れてしまえば──。

 ……忘れることができれば。

 

「──冬香。お前とオレって、一体何なんだ?」


 気付けば、そう訊ねてしまっていた。

 聞かれた当人は目を点にして、呟く。


「……哲学? 質問の意味がちょっと分かんないんだけど……っていうか、何その呼び方……」


 聞き方を変えて──いや、これ以上の腹の探り合いは不毛だな。

 単刀直入にいこう。

 もっと、深く。本質を穿つんだ。


「オレを、テメェの息子だと思わされているだろう」

「………………え?」


 冬香の顔から表情が抜け落ちる。

 瓢箪から駒が出るとはこういう事をいうのか? 少し違うかな。

 とても理解が及ばないという表情で、冬香はこちらの真意を探ろうと何やら言いかけ──オレがそれを遮った。


「耳が遠くなったか? それとも頭が錆び付いたとか。どちらでも良いがな」


 この時のオレは、自分でも訳が分からないくらいブチ切れていた。されどもその動悸に、毛ほども見当がつかなかったのだ。

 下手な例になるが、燃料空っぽで走り続けるガソリン車のような不気味さがあった。

 衝動的で、しかしそれが正直な意見だったというぐらいの事しか知れずにいた。

 ただ一つ──忠告しておこうと思っただけだ。

 

「何が理由でこんな面白おかしな結果を編み出したかは知らねーし、興味もないが──これだけは覚えておけ。

 『アレ』を無かったことにされるぐらいなら、死んだ方がマシだってんだよ」

「……何の事か知らないけど、死んだ方がマシだなんて言い方──」

「それともうひとつ。最近分かった事なんだが」


「オレは、手前勝手に言動を忘れるやつが大っ嫌いみたいだ」

「手前……勝手…………」


 吐き捨てるように言いたい事だけぶつけて、オレは呆然とする冬香を抜き去った。

 大股で振り返らず、空き教室を後にする。

 得体の知れない燃料が失せてしまわない内に、その場からの可及的速やかな撤退を決定したのだった。


 ※※※


 逃走か、将又無目的な散策に過ぎなかったのか。

 冬香からの追走が無くなったことで晴れて自由を得たオレであるが、何たることか。目的地を決めていなかったのである。

 一人になれる場所を探し回っていたといえば聞こえは良いが、一匹狼を気取りたいワケではないのだ。

 むしろ対等な話し相手を欲していたのだ。


 だからこそ、普段なら縁遠い場所に迷い込んでしまった訳である。

 そう、美術室という場所に。


「──と、いう訳なんだ。しばらくここに身を置かせちゃくんない」

「…………断っても、どうせあれこれと因縁つけて居座ってくるでしょうに」


 こちらを肩越しに振り返るその女は、億劫そうに流し目を向けていた。

 椅子に腰掛け、キャンパスに毅然と立ち向かう姿は──やはり絵になるものだ。冗談ではなく。

 凜とした佇まいのよく似合う、冬香とは違うタイプの美人である。少なくとも外見だけは。


「お前と喋ってると、まるでオレが図太いみたいに聞こえるんだよ。クソ、人を何だと思っていやがる」

「……他の何に聞こえるのかしら。全く、出来のいい耳だこと」


 竹箒らしく無造作に下ろした黒髪を一撫で、その冷血系女子高生はそっぽを向いた。またキャンパスと睨み合いを始めたのだろう。

 愛想なく背を向けているせいであまり見えないが、疲労感で肩が凝ったような陰気な面持ちをしているに違いない。

 少女は三度筆を握り直すと、シメに一言。


「……………………最悪」


 口癖になっているのであろう。その呟きは本心に違いないだろうに、何故か本気にはみえなかった。


(……流石にガキの頃とは違うか。コレで丸くなったんだから意味分かんねぇよ、ホント)


 少女の名は郡山花蓮コオリヤマ カレン

 小学校時代の級友にして、当時の冬香を虐めていた張本人である。

 そう、比較したのは当時のコイツなのだ。

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