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1章-③ 母ですが

 始業数十分前の教室に、オレは見事一番乗りを果たしていた。無人の教室は冷たく澄んだ空気で満たされている。

 運動部の面々は未だ朝練中かつ望月も別のクラスということで、文字通り束の間の静寂。

 無論、アイツの姿もまだ無い。


「……告白されたんだもんな。返事も、したよな」


 自分の席に鞄を置きながら、オレは隣の席をじっと見る。教卓から最も離れた最後列左端──そこが、篠原冬香に割り当てられた席だった。

 オレにとって、これらは間違いなく特等の組み合わせに違いなかった。

 優等生で通っている彼女の珍しく抜けた箇所を覗き見ることができるのだから。

 まだ空っぽの席に収まる、常時の彼女を。

 

 赤みがかった茶髪をたなびかせる少女の横顔。文系科目を受講している間はともかく、理系科目になると僅かに精彩を欠く傾向にある。

 凛とした表情が多いトーカだが、そんな彼女がまれに見せる物憂げな──小さく欠伸を噛み殺す仕草。

 油断した姿をオレに晒してしまったと理解した直後、ちらと見返り、ハッと思い出したように羞恥から頬を染めるシチュエーションなんて、それはもう──


「早く来ねェかな」

「誰を待ってるの?」

「──えっ、うわぁああああああアああ!?」


 突如、背後から肩を叩かれたオレはみっともなく跳び上がった。咄嗟に振り向く。

 先にいたのはひとりの少女。

 つい今しがたまで想起していた少女。

 行き場の失った右手を浮かせたまま栗色の目を白黒させ、ソイツは心底呆れた顔をしていた。

 ……クッソ可愛いな。


「そんなに驚くコトないだろうに。おはよう」

「……お、驚いてなんかいねぇよ。決めつけんな……お、おはよう」

「ヘェ~……あんなに跳び上がっておいてよーく言えますよホント」


 苦笑交じり、トーカはオレの背後を通り過ぎると同時に机上に鞄を置いた。参考書を机にしまいつつ、こちらに笑いかけてくる。

 その微笑みからは昨日のような緊張感はまるで感じられない。至って普段通りで、無理をしている風には見えなかった。

 意識しているのは自分だけだと言われているようで、妙に居心地が悪い。


「なあトーカ。昨日のあれって──」

「あっ、そうだ。はい、忘れない内に渡しちゃうねコレ」

「え」


 此方の様子に気づいているのか否か。

 トーカは鞄の中からペンケース大の弁当箱を取り出すと、オレの眼前に押しつけてきた。

 これはもしかしなくても、彼女からの手作りというヤツなのでは。


「あ、ありがとう……」


 珍しいこともあるものだ。以前、冗談交じりに作ってくれないか頼んでみた時には、面倒だって断ってくれたというのに。気紛れだろうか。

 ……いや、ひょっとすると。

 仮に都合の良い妄想かもしれないが──意識してたのはオレだけじゃあないのでは……?


 昨日は告白されて、受け入れて、帰路を辿った。

 その間だけではなく、今に至るまでずっとオレは心の何処かで思っていた──アレは夢だったのではないかと。

 手前勝手な妄想に過ぎないのでは、と。


 だが、違った。

 トーカも意識してくれていた事が、逆説的に証明してくれたのだと、そう思うことに。オレは気持ちいいくらい腑に落ちて──。


「一体なにさ? 狐につままれたような顔をして──弁当ならいつも作っているでしょう。昨日だって唐揚げをリクエストされたと思うんだけど」

「…………昨日?」


 ……はて。なにを言ったのだ、こいつは。


「リクエストがあるなら前もって言ってくれないと。いつもの事ながら、急に「あ、これ食いたい」とか言われても困るから。作り手の苦労も知って頂きたいものですよ」

「……オレがそんな事を? え、いつ?」

「はぁ? 昨日の放課後じゃん」

「放課──放課後!?」

「好き勝手に人を振り回してばっかりいると、今に痛い目を見るんだからね!」


 鼻先に指と世迷い事を突きつけられる。

 信じられないことだが、オレは欠片も覚えのない罪で叱られていたのである。

 ……いや、そんな話はどうでも良い。今の台詞、どこか不自然だった。


「お、おいトーカ。お前何を言って──」

「コラ! 座りなさい!!」

「え、あぁ、うん」


 違和感を問いただそうとしたオレの出鼻は、しかし物の見事に挫かれる。

 シットダウンの命令は、間もなくオレを床に正座させた。

 それよりも気のせいか。トーカに向けて「おい」とか「お前」とか呼んだ声に被せる形で叱責されたような気がするんだが。


「人を「おい」とか「お前」とか呼びつけたらダメでしょ!」

「それはそうだ」


 ……成程気のせいではなかったか。こいつ、こんなオカンみたいな台詞を吐くヤツだったっけ。

 トーカは沈黙しているオレが不貞腐れているようにでも見えたらしい。 正座中のオレと同じ高さに合わせるように屈んでくると。


「分かった?」


 ──そう、窘める風に言ってのけたのである。

 自分のような人種に限ってあり得ない話だと思っていたが、吸い込まれると錯覚してしまう程に魅惑的な瞳に覗き込まれると、思わず顔を逸らしそうになる。

 そっぽ向きたくなるのを意思の力だけで抑え込むと、血反吐を堪える思いで、オレは言った。


「……分かりました。すみませんでした」


 これも惚れた弱みというヤツか。

 ガキの頃から勝手知ったる相手にやり込められて歯噛みしたくなる気持ちもあるが、それ以上に思ってしまう。

 悪くない、と。むしろ足りないくらいだと──。


「あ、そうだ。教員室行かねーと、呼び出し食らってたんだ」

「呼び出し? 朝イチで?」

「成績不振とかじゃあないから安心しとけ。ただの荷運びだよ」


 オレは努めて『何でもない』風を装って立ち上がった。

 正座に使っていた足が痺れを訴えていたが、断固無視の構えである。

 脈絡のない話題転換に、トーカは信用ならぬ面持ちでこちらを睨んでいた。


「……本当に?」

「……と、当然だとも。陽一郎、ウソ、つかない」

「そうかぁ。ウソつかないかぁ」


 このオレの感嘆たる役者ぶりに、トーカは呆気に取られているようだった。

 心なしか視線の硬度は失せた気もするが、その理由を尋ねるつもりはこれっぽちもない。

 ……墓穴を掘る予定はないからな。


「──と、いうワケでよろしくな! 授業始まるまでには戻ってくる予定だから!!」

「あっ……う、うん。わかっ──」


 最後まで聞くことなく、オレは教室を飛び出した。

 廊下を駆け、数多の無人教室を通り過ぎ、階段を駆け上がると。

 施錠されていたドアを蹴破り、開け放つ──!


 屋上。

 吹き込む風。肌を刺し、網膜に焼き付く陽光。

 鼻腔に入り込む空気を味わいつつ、昨日に続き花粉シーズンから外れていた事に安堵──その直後のこと。

 オレは早足気味にフェンスに駆け寄り、身をもたせ深呼吸。そののち、叫ぶ。


「──いや、オレがおかしいのか!? 誰目線だよアイツ!!」


 一人の慟哭が空しく響いた。

 青天井へのシャウトは、恐らく誰の耳にも入らなかったのだろう。

 そう願い、そうあるように行動したのなら、結果も自ずと予測できるというものだ。


 けれど、強突く張りと言われるかもしれないが。

 せめて共感のひとつ、答えのひとつ程度──誰か与えてくれても良かったんじゃあないのかな!?


「キャラが──違い過ぎるだろぉおおお!!」

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