1章-⑨ 決着の夕刻、歪みの押し合い
「……あの日とおなじ色合いだ」
夕刻、屋上。
篠原と昼食を共にした日の放課後、オレは校舎の屋上に居た。フェンスにもたれて束の間、人を待ちながら。
待ち人が来るまで適当にスマホを弄っていた折、何気なく顔を上げた先に目を焼くほどの灯りを見た。半熟の黄身がどろりと垂れるような、視界に入れているだけで腹が減りそうになる、夕焼けを。
まだ数日前か。この夕焼けと共にあの少女と過ごしたのは。
そしてなんたる幸運か。敢えて「あの日」に近しい状況を再現しようと策は幾つか講じていたものの、よもや天候まで味方するとは想像だにしなかった。
さながら思い出の映画の再上映を見ているような気分だ。
さて、感傷に浸っていた時間もやがて終わる。
挿し込む夕日からオレが目を逸らした──ギイ、と扉の開く音が聞こえた時だった。
「──やっぱり、呼び出してきたのはキミだったかぁ」
振り返る。
視線の先に少女が一人、曖昧な表情で立っていた。困ったような、観念したような顔だった。
屋上と階段の間にある扉を後ろ手に閉めると、オレの方へと歩を進めてきた。
(再上映とは、ちょいと違うかな。これでは立場が逆だから)
やがてオレのすぐ傍まで少女が着いて、足を止めた。少女はやれやれと言いたげに肩を竦めると、どこからか紙片を取り出した。
四つに折り畳まれた紙片の正体は、手紙である。確認するまでもない。
なぜなら──差出人は他ならぬオレ自身なのだから。
篠原冬香に宛てて書き留めた、果たし状だ。
「フッ、よく来たな篠原ァ。臆病風に吹かれてなくて良かったゼェ」
「……あのー? 似合ってない喋り方は止めてくれる?」
「いやーー辛抱したよ。お前に来てくれなきゃあ、始まらないからなァ。ヘッヘヘヘ」
「……だから止めろって言ってるでしょう。相手してる私の身にもなってみろ、ってんだ。まったく──」
耳たぶをポリポリ掻き、呆れた様子の篠原はフゥと短く息を吐く。
一度閉じ、再びまぶたを開くと──その時、既に目の色が変わっていた。
「これ以上、その変な喋り方続けるようなら、私はもう帰るからね?」
「すみませんでしたッ……!」
篠原が「これ以上──」と言った時点で、オレはとっくに土下座姿勢を取っていた。故に、彼女がどんな顔でその後の言葉を発したのか、正直なところ聞こえていなかった。
急ぎ跪いたのも要因だが、それ以上のワケがある。
今までになく、篠原の目つきが本気だったからだ。
※※※
この一件、その一部始終を語るにつけて、話を数十分前に遡る必要がある。
何を隠そう。オレが篠原の下駄箱に手紙──もとい果たし状を仕込んでやった時節が、まさにそれだ。
……断じて、恋文などではない。断じてな。
篠原を呼び出すためにオレは手紙を書き、それを彼女の目に付く領域に仕込んだ。
えらく古典的な手だが、確実だし風情がある。下校時には必ず確認する場所である上に、且つその手法が何らかの告白前段階にあることは、万人に伝わることだろう。
良くも悪くも雰囲気作りの一助にはなる。
気に入らない点があるとすれば、それは数十分も待たされたということだ。
折角作ってやったムードを台無しにするみたく、篠原はたっぷり時間をかけてから来やがったのだ。既にオレ以外の誰かに呼び出されていたか、または手紙に気づかず帰ってしまったかと──そうオレが危惧した頃合いに漸く、篠原が現着したのだから。
……まあ、別に良いのだ。オレも気持ちの整理をつけたかった。
「いやホント、名前くらい書いてから投函してくれないと困るんだから。流石の私でも、差出人不明の手紙には身の危険を覚えたんだからね?」
「それは、悪かった。……でもよ、結局は来てくれただろ。それに、「やっぱり」って言ってたじゃあないか。うっすら察しは付いてたんだな」
「……まぁ、こんな馬鹿なコト考えるヤツは一人くらいだから」
「だろう?」
言ってやったぞ、とオレが溜飲を下げる一方で、篠原はムリヤリ泥水を飲まされたような辛気臭いツラを貼り付けていた。
苛立ちを隠す気配なし、いわば不機嫌な訳だが、しかしオレにとっては天使の微笑みにも感じられた。
そこにはオレが彼女へ抱く恋愛感情も理由の一つとして含まれているが、それだけではない。
(……完璧、これで場面が整った)
大物ぶって首をゴキゴキ鳴らしつつ、こっそりズボンのポケットに手を突っ込んだ。次いで、その中身──盗聴器の感触を確かめる。
電池切れや動作不良の心配はない。使用前の点検は基本だからな。
抜かりなく、これから実行に移す計画のマストアイテムを蔑ろにはしないさ。
昨晩の睡眠時間を二十分まで圧縮することで捻出できた、渾身の奇策。
篠原の記憶を取り戻す計画だ。
その為に、オレは──彼女を一度傷つけなければならない。
録音してある音声は一本限り。
それは篠原と仲良くなった切っ掛けの音声だ──彼女が虐められていた当時に、このオレが録音して今まで持っていたものだ。
──このオレ、十文字陽一郎は篠原サンの虐め問題をどうにかすることを誓います!
(……この小っ恥ずかしい台詞を、まさか人生で二度も聞くとは思わなかったけどな)
兎角、あの音声を流してみせて、そのショックで記憶を呼び起こす。
成功確率は恐らく五分もないだろう。
だがそうせざるを得ない。他に方法は無いのだから。
「誰かに手紙を書いたのは初めてだ。……貰うのはともかく」
「いや、小学生の頃授業で書いた事あるでしょ。国語の授業いっしょに受けてたじゃんか」
「ノーカン! あの時は教科書の題材に従って書いただけだから!!」
「……そんなに否定するところかなぁ……?」
「読む相手を意識して書いたのは、これが初めての機会だって言ってんだよ。必要なことを過不足無く網羅しているか、言い回しが誤っていないか──他にも色々、投函直前まで悩み抜いたとも」
「……ハハ、冗談ばっかり。それじゃあまるで──」
「まるで、ラブレターみたいだって?」
「…………」
「気にするな。まるで、どころかそのつもりで書いたのだからな。いやあ、緊張したけど存外すっきりするな。クセになりそうだ」
「……私、帰るね」
そう言った篠原の目は愕然と開かれていて、わなわなと肩を震わせていた。
気分でも悪いのか。血の気が引いた真っ青な顔で、今にも踵を返そうとしている。
「オイオイ………もう帰るのかよ。ゆっくりしていったらどうだ」
「……急いでいるから」
「そうか、時間とって悪かったな。じゃあ、最後に一つ確認しよう。コレに見覚えは?」
「しつこいな。もう帰るって──えっ」
途中まで言いかけた篠原の口は、そこで閉ざされる。目は見開かれ、眼前の証拠品に釘付けとなった。
取り出したブツを彼女の目線に合わせ、オレは訊ねる。
「コレに見覚え……いや、録音した覚えはあるか?」
「……い、いやレコーダーなんて。そんな、でも……」
「うむ。答えは聞くまでもなさそうだな。……ンな真っ白い面ァ見りゃあ、一目瞭然ってヤツだよ。このオレでなくとも」
「…………馬鹿なことを──ッ」
試しに再生ボタンに指をかけてみると、篠原は冷汗を流すついでに息を呑んだ。苦悶の表情を浮かべる少女の目は、恐怖と焦燥から迷い猫のように揺れていた。
恐怖の元凶たる音声は再生されていないのに、瞳の揺らぎは全身に伝播していくのだ。分かりやすいったらありゃしない。
心当たりがありますよ、と自白するようなものだ。
「恐らく記憶はないが、直感のようなものか。あるいはデジャブかな? ま、どっちでもいいがな」
「……な、何のことか分からない。本当に、分からない……のに……」
「思い出せないなら一緒に聞くか? オレとしては小っ恥ずかしいけど、言うなればそれだけだしよ」
「やめて! いわないで」
篠原は両手で顔を覆い隠す。
しかし「やめてくれ」とはな。
これ以上は聞きたくないような言い草に聞こえるが──なら、両目を隠すのは何故だろう。普通は耳なんじゃあないの?
「うん。どうしても聞きたくないってンなら、別にそれでも良いんだけどさ」
「もう、何なのさっきから! いい加減にしてよ、変なレコーダー見せて訳知り顔で物言って!! 結局、何がしたいの!?」
「結論? あぁ……確かにな。言わなきゃあ分からないよな、悪かった」
深呼吸して、目を閉じる。
これを彼女に言うつもりはないのだが、オレは一度──彼女に忘れられてもいいと、思い込もうとした。
いや、諦めようとしたのだ。
受け入れようとしたといえば聞こえはいいが、要するに臆病風に吹かれた訳である。
篠原を母と呼び、彼女を個人として慕い、いつかこの呪いが解けるまでオレは口をつぐむ。
たとえ数週数カ月、数年。あるいはそれ以上長い期間になろうとも、全ては篠原の為になればと。
……ふざけるな。
「簡単な話さ。お前に思い出してほしいだけだ、オレのことを」
何が篠原の為だ。
やらない言い訳を探すのは、そんなに気持ち良かったのか?
自分を悲劇的だと錯覚すれば、楽に生きていけるとでも思ったか?
ンな訳にいくか。誰でもなく、このオレ自身が許さん。
挑戦すらせずに幕引きなんて、言語道断だ。
「ヨー君が何を言いたいのか、私には分からないよ。理解できない」
「そうか? これ以上ない程に分かりやすく説明してみたつもりだが……ま、とにかく。オレの意思は「あの時」と同じだよ」
「あの時」
「オレはお前が好きだ」
「…………………は?」
今でこそ目の前で突拍子もないような間抜け面をかましていている篠原だが、そんな彼女のことをオレは無性に愛おしく感じている。
この世界の誰よりもだ。
当然そこに不満はある。
彼女に直接的な原因がないとはいえ、五年あまり積み重ねてきた記憶をある日を境に綺麗さっぱりと忘れ去った上で、全く身に覚えのない事実を捏造してくるのだ。
惚れた弱みでもなければ、千年呪っても足りようものか。
だからこそ、オレはこの「理不尽を大人しく享受してやる」訳にはいかないのだ。
絶対許してなるものか。
どんな手段使ってもトーカの寝ぼけた頭を叩き起こして、記憶の栓を抜いてやる。
「文脈で分かると思うが、今の『好き』はライクって意味じゃあないし、家族として好き、じゃあないからな。ラブの方だ」
「……え、ちょ。ハァ!? は、はあ!?」
「………………お、女として見てる」
「何でそこは照れるんだよ! そこで照れられると、二重で気色悪いだろうがあ!! 私の顔、多分まっかっかだよ!!?」
「う、うるせーなぁ! ほっとけ!!」
篠原は恐らく忘れているのだろうが、此方は日常的に好き好き言い慣れていた側の人種なのだ。彼女への好意の押し売りは呼吸に等しい好意だ。もっともしつこく言い過ぎたせいで、何年も本気だと思われなかったみたいだがな!
……改めてみると、少なくとも半分はオレに非があるのでは?
「ええい、兎に角! オレはお前のことが好きだが、お前はどうなんだ。オレのことを好いてるのか、そうじゃあないのか。はっきりしろい!!」
「逆ギレしやがった……!!」
気づけば、聞くつもりが微塵も無かった質問を口にしていた。
完全に勢い任せだと後悔しつつも、オレはもう一歩踏み込む気でいた。この数日で溜め込み、抑圧していた感情を今この瞬間、堰を切ったように吐き出さんとしていたのだから。
しかし、オレが覚悟を決めるよりも、彼女が開口するのが僅かに早かった。
「好きかどうかって、そんなの私。母親なのに、いやでも──」
当然、そんな莫大な情報の波に押し流され、ただの少女が受け止めきれるハズもない。
篠原は口をパクパク開閉させていたが、屋上に一際強い春風が吹くと同時に──パンクした。
「そ、そんなの知る訳ないでしょうッッ!!」
篠原が身を翻し、オレに背を向ける光景がスローモーションに見える中、オレは自身の失態を痛感した。
台無しにしてしまった、と。
ただし、僅かにホッと肩をなで下ろして──これで良かったのだとも自分に言い聞かせていた。
(背中を押してくれた郡山には悪いけどよ。一度破綻した関係なんだ。どの道、元の関係に戻ることはできない。遅かれ早かれこうなっていた……ハズだ)
少女の手がドアノブにかかるのを遠目に、オレは立ち尽くしていた。やりたいようにやっておいて、どう始末を付けるかをまるで考えていなかった。そのツケだ。
伸ばした手の行方を失った。膝が震えて、力が抜ける。
やがて篠原の背が完全にドアの奥に消えるまで、全く動けずにいた。しかもその上、彼女が去った後の屋上でオレが最初に気に掛けたのは、篠原その人の機微ですらなく。
まず考えたのは、この場にいない第三者のことだった。
(折角相談乗ってくれたのに、悪かったな。郡山)
笑顔で背を押してくれた郡山。
……笑顔、笑顔? いや、アレはただの笑顔ではなかった。
裏があったハズだ。
「…………そうだった」
瞬間、オレは自分の頬を手で打っていた。
これはまだ──「取り返しのつく」ミスだ。
「何を冷静ぶっている。今のが見えなかったのか、追えよ。あいつ、泣いてたんだぞ。追え、追うんだ」
ゲンコで膝を叩く。二、三回叩いた頃、膝の震えは無くなっていた。
地を蹴り、オレは篠原が降りていった昇降階段へと跳び込む。
「うぉおおおおあおおおおおっぉおおおおおおお!!」
下り、跳び、下り、接地。
全体重をかけるように数段を一気に降りる機会なんて、そうそうない。十段分の高さから飛び降りるのは、実に小学生以来だった。
落下の衝撃が足先から脳天まで、瞬時に伝う。
あの女は腐っても元陸上部。徒競走でオレが勝利した試しはただの一度すらない。
篠原に置いていかれるのは当然の事で、そのイメージを崩そうと思った事も無い。
だからこそ、オレは今日初めてあいつを抜き去らねばならんのだ。
「──おおおおおおお! 待てぇい!!」
「えぇ、ヨー君!?」
やがて少女が見え、瞬く間にその背中は正面へと成り代わる。
追いついた篠原の進路に立ち塞がるように、オレは両腕を開き抱擁の構えを取った。
想定外にも進路上にオレが立ったことで、篠原は苛立たしそうに表情を歪めながら歩みを止める。
「……話ならもう終わったでしょ。それとも、まだ何かあった?」
「あ、あー……そ、そうだ。悪いが…………まだ、時間をもらう…………ぞ……」
「分かったから。一旦、落ち着いたら?」
全力疾走で息を切らしたオレに、さしもの篠原も情けをかけた。
彼女のくれた僅かな時間、オレは息を整えながら脳ミソをフル回転させていた。
(どうすんだ。追いかけてくるまでは良いが、その後のコトを何も考えてねーぞ。身体が勝手に動いちまったよ、チクショウ!!)
彼女に録音機の現物を見せ、その音声を聞かせることで、記憶の矛盾を突く──それが本来の予定だった。けれども、実際のところ篠原は録音機を目にするだけで逃げ出す始末であり、恐らくそれ以上のことはできないだろう。
もう一度、録音機を目撃した場合もまた同じ顛末を辿るハズで──いや、それで済めばマシな可能性すらある。
逃走だけで終わらない可能性が大だ。
……一か八かのパンドラの箱を開けるのか。
全くもってノープラン。昨夜に練ってきた策はもう使えない。
絶体絶命、万事休すというヤツだった。
故にその瞬間、俺ですら理屈は分からなかった。
答えが頭に浮かぶ前に、身体は動作を終えていた。
ポケットから録音機を摘まむと、それを真横──給水用蛇口の真下にぶん投げていた。
「えっと……? 君、一体何を──」
「ああ、そうだな。篠原にはきっと意味が分からないだろう。でも、元よりこうするつもりだったんだよ。オレは」
「え、いやまって。やめてよ」
「ずっと考えていたんだ。この録音機の存在が頭によぎった時から、どのタイミングであの音声を消そうかってな。それが少し早まっただけさ」
返事を待たずして、オレはハンドルを回す。
瞬間、篠原が蛇口下へと手を出した。
「やめてってば!」
篠原が流れ落ちる水より速くそれを拾い上げるのを、オレは黙って眺めていた。
正直、その行動は予想外ではあったものの、心の奥底ではこの展開を望んでいたのだろう。自分のことなのに「だろう」というのは些か不自然であるのだが。
「壊れてない、よね……? ねえ、何でこんなことしたの。納得できる説明を頂戴」
「何でもなにも、逆に考えてみろ。ここでデータを壊さなければどうなるか。録音機を手放すタイミングを失い、これから先も保管し続ける事になる。オレは困らないが、お前にとっては頭の痛い話だろうて」
「意味分かんないんだけど。私が困るなんて──」
「オレは数年前の音声を持っていると主張するが、お前には心当たりがない。なればこの先、お前はオレと喋ったりふとした瞬間に、必ず録音機の存在を思い出すんじゃないか? 喉奥に小骨の引っ掛かる気分が、生涯付き纏うんだよ。……オレの言ってる意味が分かるな?」
「…………」
……どうやら、意図は汲んでもらえたようだ。
話はこれで終わりと、言葉を句切るついでオレは窓辺に寄る。
未だ、廊下から眺められるだけの空模様は茜色で──逃げ出したくなるこの足を、床上に縫い留めてくれる。
「オレはな篠原、今さえ楽しければそれで良いんだ。快楽主義? それとも刹那主義? ……いいや、どちらでもいっか」
「…………そうだね」
「だよなァ! だから、敢えて理由をでっち上げるとしたら、矢張りそういう事なのだよ。オレにとって優先されるべきは「今」で、それ以外は二の次。たとえそれが──……あの、何で怒ってんの?」
「別に怒ってない。ただ、呆れてるだけ」
篠原が嘘を吐いている事なんて事は、承知の上だ。呆れているだけ、なんてことはあり得ない。
腸から湧き出た筆舌に尽くしがたい激情を、オレが見逃すハズがないからだ。
「人生を謳歌するために、大切な思い出すら差し出そうなんて。私とキミの立場が逆だったら、絶対に止めていたクセに」
「当然。オレはいいけれど、お前はダメだからな」
「どういう理屈よソレ……ガキの頃のキミ自身でもダメなのかい?」
「そうだが?」
「なぁにが「そうだが?」だよ馬鹿野郎………はぁああああ」
オレが堂々と胸を張る一方で、篠原は今度こそ呆れたように嘆息した。
言い聞かせる気などサラサラ無かったが、説明の必要なく彼女は承知の上だった。
鋭く細められた眼差しを覗き返せば、その程度は馬鹿でも分かる。視線だけで体感温度を二℃は奪われたのだから。
さて、吐き得るだけの息を吐き切った後、篠原は冷たい視線をこちらに向けると。
「……………………」
「……お、おい何か喋ってくれよ。無言でにじり寄ってくんのは、マジ勘弁」
笑顔をキープしたまま、篠原女史は眉間に皺を濃く刻んでいた。器用なモンだ。
……それはともあれ、人相が違くないか?
死。相対する人間にそれを連想させるプレッシャーに、本能的に腰が引けてしまう。
「暴力でも振るおうってのか? 現役のスポーツマンが、オレのような素人相手に」
「……………………」
「……ちょちょちょ、ちょっと待ってくれよ。まさか本当に殴ったりしないよな? お前が怒るのは理解できるけども。それはそうと暴力は反対だぞ!! 殴る方も、殴られる方も痛いんだからな!!」
「……………………」
「だから何か喋ろっての!? オレが悪かったんなら誤るから許してくれよぉ! いい加減に、拳を下ろし──」
「うん。許そう」
「…………へ?」
今、何と言った?
こいつは──信じ難い台詞を喋ったような。
「だから許すって言ってる。聞こえなかった?」
馬鹿にするな。そんなもの聞こえていたに決まってる。
聞いた上で、理解を拒んだだけだ。
「いや、そんなさぁ「突拍子もなく、急に何を言っちゃってくれてんのコイツ」みたいなリアクションとってくれてる所悪いんだけど、別にそんな大した理由じゃあないから。母親としてのカンだよ」
カン? カンって、直感とかいう類のものか?
困惑するオレを前に、篠原はご明察とでも言いたげに一瞬口角を上げ──直後、ストンと肩を落とすと言った。
「いや、むしろ──ごめんね」
「は?」
何故篠原が謝るのか? 一瞬、その言葉の意味を考えた。
見返した彼女の目尻は濡れ、謝辞を述べたハズの唇は不安そうに震えていた。先般までの圧はとっくに失せており、むしろ今にも泣き出しそうになっている子どものようでもあった。
情緒をジェットコースターに忘れてきたのだろうか。
「この三日間。君の様子がおかしいことには気づいてた。突然よそよそしくなったと思えば、私を見る目が、その……前と全然違う時もあった。勘違いだと、思ってたけど」
「……存外、よく見ているんだな」
「そりゃあね。私はキミの──いや、ごめん。こう言われるの嫌だったよね。気をつけるよ」
絞り出した空元気。
小首を傾げ、自身の望みを滝の下にオーバースローで投げ捨てたような笑みを貼り付けて。
……いや、こんなつれぇ顔をさせたかった訳じゃあねぇんだ。
けれども、オレがここで「別に嫌なんかじゃあないさ。好きに名乗りたまえよ、母親でもママでも。大歓迎!!」なんて慰めた所で意味はないだろう。
下手に気を遣えば、却って逆効果になる。
なにせ、否定したのは他ならぬオレ自身なのだから。
そう、だからこそ──オレが言わねばならんのだ。
「半分言いかけて止めるなよ。母親なんだろ、オレの」
「え…………」
驚かれても困る。その役割を一番信じていないのも、矢張りオレなんだ。
けれど、それで後悔はしない。
母親と呼ばれたあいつが頬をほころばせたのを、一瞬とはいえ目に入れてしまったからな。
※※※
「正直な所、トーカがオレをどう認識していたって構わなかったんだよ。……まぁ多少は凹むかもな。多少は」
「ほお。多少………」
「………だ、だから結局、こういうことだ。恋人だろうが母親だろうが、如何なる関係性でもオレはお前と一緒にいたい。それだけのことだ」
「へ、へぇ~~??」
トーカが珍しくにやけているので、数秒本気でその顔を撮影するべきか思案した。
それはそうと、篠原は話の主軸をいまいち察していないようだった。まだしっくりこないのかね。
はて、と小首を傾げる仕草は、いつかある時に見た光景と一致した。
十年前、オレが録音機を勝手に使用した時と同じ仕草。
思えばあの日、彼女の前で宣言した言葉の真意とやらは、全てそこに集約していたのかもしれん。
オレは内心自嘲すると、とっくに足を止めてこちらを振り返っていた少女の前で咳払いを一つ。
「篠原、オレにとってもお前は大切だ。分かったな?」
「分かったなって……真顔で変なことばっかり言う……」
やはり慣れていない。
トーカはしばらく頬を朱色に染めると、回復におよそ数分を費やした後、オレに言った。
「ありがとう。でも、ずっと知ってるよそれくらい」
口調と裏腹にくしゃりと破顔して、トーカは小さく笑い声を上げた。




