第二章 異文化の戦場と忍術の進化(1618–1635)一 ボヘミアの夜明け:火の理を知る
1619年、ボヘミア。戦火の匂いは、ヨーロッパの陰鬱な気候を象徴するように湿り気を帯び、霧の中に鉄と血と使い古された火薬の臭いが混ざっていた。
影丸は、丘の上、わずかに霧が晴れた場所から、対峙するヨーロッパの二つの戦線を遠望した。
整然と並ぶマスケット銃兵の列。重装の騎兵隊。そして、間欠的な轟音を立てる大砲。その動きは、人の感情を持たぬ**「機械の群れ」**のように見えた。
——日本の戦とは違う。
個の技、主君への忠誠心、一騎打ちの美学。それらはここでは無意味だ。あるのは、組織の圧力と、火薬の絶対的な破壊力。
「恐怖を制する者が、戦を制す。」
影丸は小さく呟いた。この戦場の波の底にあるものは、結局、故郷のそれと変わらない。人間の根源的な**『恐怖』**だ。
その背後、霧の中で鞍馬が火薬袋を担いでいた。
「火薬庫の調整、完了しました。湿気を抜いた**“新粉”**を使えます。」
影丸は頷き、手にした小袋を掲げた。
「これが“大友の火”だ。硫黄を三度、別府の地熱で乾かし、炭を焦がすように焼く。この粉は、ただの道具ではない。生きている。風にも、湿気にも、無知にも負けぬ。」
彼の言葉は、ポルトガル将校たちには難解な呪文のように聞こえた。
「東の国の錬金術か……」将校の一人が囁く。
「否。これは科学だ。」影丸は静かに、しかし断定的に言った。
「火の理を知る術——それが忍びの原点だ。故郷の山は我々に、その理を教えてくれた。」
その夜、試射が行われた。
影丸の火薬で満たされた砲弾は、これまでの鈍重な弾道とは異なり、まるで空を裂く雷鳴のように轟き、敵陣の弾薬庫を正確に貫いた。
火の柱が立ち、ボヘミアの夜空が赤く染まる。その炎は、日本の花火のように優雅ではなく、破壊の意思を持った赤だった。
ドミンゴスは祈りの手を止め、呆然と燃え盛る空を見上げた。
「……神の火を、異国の忍が操るとは。これは、果たして許されることか。」
影丸は煙の匂いを深く吸い込み、冷徹な声で呟いた。
「神の火ではない。**人の業**だ。そして、私はその業を終わらせるために、ここにいる。」
二 霞と毒の哲学(パリ、1625年)
フランス・パリ。
戦乱の陰鬱さとは対照的に、貴族の館は享楽的な香水と、隠しきれない腐敗の匂いが混ざり合っていた。カトリック派の貴族たちが、金と権力と陰謀を交わす、静かな戦場である。
その館の最も華やかな広間に、一人の女がいた。
真珠で飾られた白い仮面をつけ、黒いドレスを纏う。
その正体を知る者は、ポルトガル王室の最上層部と、影丸たち三人だけだった。
——霞。
大友忍軍ただ一人の女忍は、今、**「オリエントの貴婦人」**として、毒と愛嬌を使い分けていた。
彼女は銀の盆を手に、微笑みながらワインを注ぐ。その葡萄酒には、故郷の山で使われていた毒とは違う、南蛮経由で手に入れたトリカブトの精液が一滴。香水で匂いを隠し、甘い酒で味を消し、静かに命を終わらせる。
「……この戦も、毒と同じね。」
霞は心の中で呟いた。
「一滴の疑念、一人の将の死。それだけで、国が傾く。」
テーブルの向こう、プロテスタント側の密使が、突然、激しい咳に襲われる。
「う、ううっ……喉が焼けるようだ…!」
数秒後、男は音を立てて椅子から転げ落ち、そのまま動かなくなった。
周囲がざわめく中、霞は一歩も動かず、静かに盃を置いた。その動作には一切の焦りがない。
「……突然の病でしょう。今宵は冷えますもの。」
しかし、彼女の心は凍りついていた。
自分の手で命を絶つたびに、遠く乙原の滝の音が耳に響き、故郷の子供たちの顔が浮かぶ。
「守るために、殺す。」
「その矛盾の中で、人はどこへ行くのだろう。私は、いつまで影でいられるのだろう。」
館の暗い柱の影から、一人の男が霞を見つめていた。
ヴェネツィアの密偵。漆黒の衣装を纏う彼は、恐らく、このヨーロッパで最も多くの秘密を知る男だ。
「……東洋の影。あなた方のやり方は、我々より静かだ。まるで、死そのものが優雅な贈り物であるかのように。」
霞は、仮面の下で冷たい微笑みを返す。
「静かに殺す者ほど、深く愛を知っているものです。殺すことで、守るべきものを知る。それが、私たちの哲学。」
その夜、彼女は窓辺でひとり、月明かりに向かって祈った。
乙原の里の子どもたちが、今も無事であるように。影丸が、道を見失わぬように。
そして、自分の手がいつか再び、**“癒し”**のために動く日が来るように——。その願いが、彼女の唯一の正気だった。
三 鞍馬、沈黙の弓(ライン川戦線、1630年代)
ドイツ、ライン川戦線。
砲撃の音が絶えぬ夜、影の森に一人の忍が、息を殺して立っていた。
鞍馬。乙原随一の弓忍。
彼の放つ矢は、飛ぶ音すらしない。その異様な静寂さから、敵兵は彼を**「沈黙の死神」**と呼び始めた。
「……風が変わる。」
鞍馬は弦を撫でながら、月明かりに浮かぶ敵陣を見つめた。
ヨーロッパの弓は、重く、威力はあるが精密さを欠く。だが、鞍馬の弓は、竹と鉄の複合構造。乙原の山で鍛え、影丸の大友式黒火薬で焼き締めた特殊な素材で作られていた。
彼は呼吸を止め、極限まで集中する。
矢は夜を切り裂き、音もなく標的の喉を射抜く。
敵は何が起きたかも分からずに、静かに崩れ落ちた。
沈黙。
それが、彼にとっての戦場の真実であり、祈りだった。
やがて彼は、その沈黙の中で、影丸の言葉を反芻する。
「火薬とは、終わらせるための術。」
「ならば、この弓もまた、誰かの終わりではなく、誰かの**“始まり”**を射抜けるだろうか。」
その夜、鞍馬は一本の矢を地面に突き刺し、乙原の里の紋章を刻んだ。
“守の影”——彼らの理念を示す印。それは、異国で戦う忍びたちの、唯一の心の支えであった。
四 忍びの進化とドミンゴスの記録
三人の忍びは、ヨーロッパの各地で、それぞれの**「術」**を極めた。
影丸は火薬を科学として再定義し、兵器の進化を早めた。
霞は毒と哲学の境界で揺れ、情報の糸を操った。
鞍馬は沈黙の武士道を完成させ、戦場の士気を静かに削いだ。
ドミンゴスは、彼らの活動を、誰にも見せぬ日記に記録していた。
「彼らの戦は、もはや教義のためではない。彼らは、人間とは何か、平和とは何かを問うている。火薬も毒も弓も、すべては**『戦を終わらせるための道具』**とする。その思想こそ、東方の真なる叡智であろう。」
だが、戦争は終わらない。ヨーロッパ全土が炎に包まれ、宗教も王も、人の欲に溶けていく。
影丸は、その光景の中で静かに拳を握った。
「……もう一度、終わらせねばならぬ。火の理を、人の理に戻すために。」
そして、物語は最大の転換点へ。
1643年、ロクロワの戦い。
彼らは、ポルトガル王室の命令に背き、自らの大義のために、世界を変える瞬間に身を投じる——。




