第一章 契約と海を渡る影(1600–1617)一 大友宗麟の残光
大友宗麟の忍者 サイドストーリー
大友宗麟の忍者がヨーロッパに渡り忍術を駆使して戦う
影丸は鼻先でわずかに空気を吸い込んだ。
それは冷笑でも侮りでもなく、心の奥底で自らの存在価値を問い、自らを嘲るような、諦観にも似た笑みだった。
「平和な職、ですか。我らの技は、人を殺すことしか知らぬ。人を守るには、人を殺すしかない。その技に、職などあるものか。」
「否!その技こそが、今、必要とされている!」
ドミンゴスの声は、谷の岩壁を震わせた。彼は手を広げ、影丸の全身を指し示す。
「ポルトガル王室は、情報と防衛と攪乱の専門家を求めている。ヨーロッパは今、三十年戦争という名の地獄の窯だ。神の敵を討つため、貴殿らの影の技が必要なのだ。」
秋の風は、鶴見岳の谷を、ただの風として吹き抜けてはいかなかった。それは、時代の終わりを告げる、凍てついた風だった。
硫黄の匂いを含んだ湯気が、深い霧となって山肌を重く覆い隠す。その奥——外界から隔絶された集落、乙原の里は、もはや時が止まったように静まり返っていた。
忍びの里であった。だが、戦乱の終結は、彼らにとって平和ではなく、**「死」**を意味した。徳川の天下が固まるにつれ、「忍び」という存在は、不要な、そして危険極まりない影と見なされ始めた。
影丸は、谷の底、湧き立つ温泉の縁に立ち尽くしていた。岩壁に染みついた硫黄の残香が、遠い戦の日々を、火薬の轟音と血の鉄臭さとともに脳裏に蘇らせる。
すべては終わった。
大友は滅び、主家は無い。
だが、里の者たちの命は、終わってはいない。その責を、彼は背負っていた。
「……山は我々を守ってくれた。地の利は尽くした。だが、もう山に頼る時代ではない。」
彼の声は静かだったが、その確かな意志は、温泉の底から湧き上がる地熱のように、谷全体に響く力を帯びていた。
灰色の空の下、黒衣を纏った一人の影が、ゆっくりと湯気の向こうから歩み寄る。ドミンゴス・ロドリゲス。ポルトガルの宣教師であり、大友宗麟の代から続く**「南蛮との血の契約」**を担う唯一の生証人であった。
ドミンゴスの手のひらには、雨風に晒されながらも文字が消えずに残る、古びた羊皮紙があった。宗麟の署名と、十字架にも似た朱色の印章が、今も鮮烈に残っている。
「見ての通り、私は宗麟公との最後の誓いを守っている。」
ドミンゴスは、日本の僧とは異なる、深く静かな眼差しで影丸の目をまっすぐに見つめた。
「あなた方の里の者たちが、この太平の世にあって、平和な職を得る道がある。」
影丸は鼻先でわずかに空気を吸い込んだ。
それは冷笑でも侮りでもなく、心の奥底で自らの存在価値を問い、自らを嘲るような、諦観にも似た笑みだった。
「平和な職、ですか。我らの技は、人を殺すことしか知らぬ。人を守るには、人を殺すしかない。その技に、職などあるものか。」
「否!その技こそが、今、必要とされている!」
ドミンゴスの声は、谷の岩壁を震わせた。彼は手を広げ、影丸の全身を指し示す。
「ポルトガル王室は、情報と防衛と攪乱の専門家を求めている。ヨーロッパは今、三十年戦争という名の地獄の窯だ。神の敵を討つため、貴殿らの影の技が必要なのだ。」
沈黙が二人を包んだ。温泉の湯気が二人の間に膜を張り、世界から隔絶する。乙原の滝の音が、時を刻む音のように聞こえた。
やがて影丸は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。体内に充満する硫黄の匂いが、彼の決断を促す。
「……里の全員は連れて行けぬ。精鋭三名。これが限界だ。その三名の命と引き換えに、残された者たちをこの地で守ると、二度と裏切らぬと、約束していただきたい。」
ドミンゴスは、迷うことなく深く頭を下げた。修道服のフードが霧の中に消える。
「神と、宗麟公の誓いの下、私は約束しよう。」
その瞬間、大友宗麟の忍軍は、日本の歴史から姿を消し、ヨーロッパの戦場へと渡る、異国の影となる運命を受け入れた。
二 長崎の港、影の旅立ち
慶長十五年(1610年)初夏。
長崎の港は、曇り空の下で、重く黒い波を打っていた。
南蛮船《サンタ・カタリナ号》。鉄と油と潮の匂いが混じり合う、異国の匂い。
その船倉の奥、火薬樽と香料の木箱の影に、三つの影が潜んでいた。
影丸。そして、女忍・霞、弓と索敵の達人・鞍馬。大友忍軍から選ばれた、最も冷徹で、最も優秀な三人である。
船の軋む音が、まるで巨大な獣の嘆きのように響く。
霞は、身に着けている仕込み針の感触を確かめながら、静かに息を整えた。
「海は……広すぎる。日本の海とは違う、底知れぬ、異教徒の海だわ。」
その声には、恐怖よりも、未知への興味が滲んでいた。
鞍馬は、愛用の和弓の弦を張り直しながら、微笑んだ。
「この和弓が、彼らの甲冑、そして彼らの大砲に通じるか、試してみる価値はある。」
彼の瞳は、すでに遠い戦場を見据えていた。
影丸は、掌の中で、別府から持参した高純度硫黄の塊を握りしめていた。
「我々の戦場は、“影”だ。光の中で戦う騎士や、大砲を撃つ者ではない。我らは常に、敵の背後、あるいは敵の心の奥にいる。」
彼は、船倉の薄闇を見つめた。
「ヨーロッパの夜に、大友の火を灯すのだ。」
船が大きく軋み、錨が引き上げられる音が響く。いよいよ出航だ。
三人の忍びは、声に出さず、しかし心の中で、生まれ故郷の山——鶴見岳の方向を見つめた。
「乙原の火を……未来の平和のために、絶やすな。」
海は、黒い。彼らが踏み出すこの旅は、二度と戻れない、歴史の裏側の旅だった。
三 ボヘミアの夜霧
ヨーロッパ。1619年。
長い航海を経て、彼らが初めて立った戦場は、ボヘミアの湿地帯だった。
泥濘と濃い霧、そしてプロテスタント軍の野営地から漂う、腐敗した死臭と火薬の生臭さが、夜明けの風に混じっている。
ポルトガル軍の斥候部隊として潜入した影丸たちは、彼らの戦闘の様子を静かに観察した。
遠くで鳴るマスケット銃の連射。だが、その音は奇妙に鈍く、火薬が湿気ていることを示していた。
鞍馬が、鼻を鳴らして呟いた。
「火薬が、死んでいる。あの湿気では、連発できまい。」
影丸は、拾い上げた黒色火薬の袋を手のひらに開けた。湿った粉を指先でこすり、匂いを嗅ぐ。
「この硫黄は、純度が低い。日本の別府の地熱で精製された硫黄とは、燃焼速度が根本的に違う。これでは、火が走る前に湿気に負ける。」
ポルトガル将校が、影丸の背後から近づいてきた。彼は影丸を**「オリエントの錬金術師」**と呼んだ。
「お前たちの国の火薬は、湿気に強いと聞いた。このヨーロッパの湿地で、我らの武器を改良できぬか?」
影丸は、湿気た火薬と、自身の掌の中にある硫黄の塊を交互に見た。
「可能だ。日本の山で得た製法を試す。里の技術を異国の地で使うのは本意ではないが……。名を付けよう——**“大友式黒火薬”**だ。」
その夜、忍びたちは湿った洞窟にこもり、別府の山で培った硫薬の技を再現した。硫黄を精製し、炭を焼き、硝石を煮詰め、黒い粉を磨き上げる。
やがて試射の音が響く。
これまでの火薬とは比べ物にならない、鋭く、乾いた爆発音。砲弾は正確に飛び、着弾した瞬間に、濃い霧を切り裂くような閃光を発した。
ヨーロッパの戦場が、一瞬、東洋の炎で照らされた。
「火薬とは、殺すための道具ではない。戦を、終わらせるための術だ。」
影丸の言葉に、ドミンゴスは何も答えなかった。ただ、爆炎の残光の中、彼の背中を静かに見つめ続けていた。彼は、影丸の中に、宗麟の平和への願いにも似た、異様な大義を見始めていた。




