ヴァンパイア・レッスン(1)
誰にでも眠れない夜はある。
平凡な高校生、罟弖 叡司にとっては、今夜がまさにそれだった。
首都のやや西寄り、都心から少し外れた所にある、この住宅街には緑が多い。
換気のため少し開けていた窓を通して、初夏の野放図に繁る草木の濃密な匂いが、部屋へと入り込んでいる、そのせいかもしれなかった。
叡司は勉強机に向かい、参考書とノートを広げてはいたが、どうにも頭に入ってこない、妙な胸騒ぎめいた気持ちが収まらないせいだ。
叡司は机にシャープペンシルを転がし、言った。
「だめだ、今日はどうも集中できないな……とはいえまだそんなに眠くもないし」
窓際に立ち、大きく伸びをする。
と、閉じたカーテンを透かして、点滅する灯りが見えた。
朝は朝日を浴びて目覚めるべし、という両親の方針に従って、叡司の部屋のカーテンは、完全な遮光型のカーテンではなく、やや薄めのタイプだ。
そのカーテンを通して、家の前の通りの、おそらくは隣家の辺りに、点滅する黄色い灯りが見える。
(車のハザードランプかな……?)
思いながら、わずかにカーテンを開け、隙間から外の様子を見る。
叡司の家の隣、2階にある彼の部屋の窓から見える方には、広々とした敷地の中に建つ、古びた洋館があった。
高い塀に囲まれたその洋館には、今は誰も住んでおらず、館の壁にはツタが絡み合い、庭には様々な雑草が野放図に蔓延っていた。
その古びた洋館の門の前に、引っ越しのトラックと思われる車が止まっている。
案の定、点滅する灯りはそのトラックのハザードランプだった。
作業服の男たちが、無言で館の中に荷物を運び込んでいる。
トラックはいわゆるバンボディ、荷台が金属パネルの箱状になっているタイプだ。
だが、普通ならばそこに大きく描かれているはずの、引越会社の社名やマークなどは一切なく、鈍い銀色の無塗装のままだった。
「あの洋館に誰かが引っ越してきたのか……って、こんな夜更けに!?」
叡司は机からスマートフォンを取り、時間を確認する。
時刻はそろそろ今日から明日へ、日付けが変わろうかという頃合いだった。
程なくして、全ての荷を館の中へ運び入れ終えたトラックは走り去り、代わりに1台の車のが停まった。
黒塗りの、少し古風なデザインの黒い大型の乗用車、いわゆるリムジンなどと呼ばれる類の車だ。
叡司は、そのまま憑かれたように黒い車を見つめ続けた。
リムジンの運転席のドアが開き、執事風の黒服を着た男が降りてくる。
男はリムジンの後部座席のドアまで悠然と歩き、ドアを開けると恭しく一礼した。
後部座席から降りてきたのは、一人の少女だった。
長く黒い髪、漆黒の地に真紅の差し色が入った服を身に纏っている。靴も黒だ。
(僕と、同じくらいの歳か……いや、ちょっと歳下かな……)
顔はよく見えないが、おそらく可愛いんじゃないか、叡司はぼんやりとそんなことを思った。
恭しく頭を下げる男の前に降り立った少女は、古びた洋館を感慨深げにひとしきり眺め、呟いた。
「ここだけは、昔のままね……」
ようやく頭を上げた執事風の男が、少女に語りかけた。
「申し訳ございません、時間があれば草など刈り、いま少し見た目を整えておけたのですが」
「構わないわ、それは、ゆっくりで」
不意に少女は振り返ると、隣の家の、叡司が覗いているその窓を見つめた。
少女の瞳は、金色の光を帯びている。
(……こっちを見た!?)
叡司は思わずカーテンから手を離し、窓の影に隠れる。
(それに、ほんの一瞬だったけど、眼が光った……!?)
「いかがなされました、お嬢様?」
不意に振り返ったまま、一点を見つめ、動かない少女に執事の男が声をかける。
少女は執事の男の方へ向き直り、微笑を浮かべ、言った。
「いえ、なんでもありません、入りましょう、懐かしき我が棲家へ」
叡司は意を決し、再び窓から隣の洋館の方を覗き込む。
しかし、少女も執事風の男も既に姿を消していた。「なんなんだ、あの人……普通じゃない、絶対に……」
「おい大丈夫か?すんげークマできてるぞ、目のとこ」
翌日、授業前の朝の教室で叡司に話しかけてきたのは、友人の岡だった。
二人は入学時からなんとなく話が合い、現在は同じ同好会にも所属している。
「実はさ……」
と、叡司は昨夜の出来事をかいつまんで話した。
「夜中に引っ越し!?隣の洋館に!?謎の美少女が!?」
「そう、で、気になって、ほとんど眠れなかった」
「ほんと、お前もめんどくさい性格してるよな、死ぬほど怖がりのくせに、一度気になった事は何事も自分の目で確かめなきゃ気がすまないなんて」
などと言いつつも、岡の方も興味津々といった顔をしている。
「もしかして、ほら、噂の吸血鬼とかだったりしてな」
「まさか、そんな……」
吸血鬼がうろついている、それは数日前から生徒たちの間で流れている不穏な噂話だった。
曰く、夕暮れ時に怪しい叫び声や悲鳴を聞いた。
曰く、血を抜かれて干からびた犬や猫の死体を見た。
曰く、路地裏で血溜まりのような赤黒い水溜りを見た。
そんな噂話が、叡司の通う高校や、近隣の小中学校などでも盛んに流れていた。
予鈴が鳴り、クラスの担任の佐藤が教室へと入って来て、二人の会話は中断された。
「は〜い、皆さん席について〜」
その日の夕刻、隣の洋館の門の前に叡司の姿があった。
あれこれと悩んだ挙げ句に結局、直接訪ねて確かめてみることにしたのだ。
(怖い……怖いけど、確かめずにはいられない、か、我ながら本当にめんどくさい性格だよな……)
意を決し、豪壮な造りの門に取り付けられたインターフォンのボタンを押す。
インターフォンからの反応は無い。
少し待って、もう一度ボタンを押す。
やはりインターフォンからの反応は無い。
その代わり、豪壮な門の、重厚な両開きの扉がゆっくりと開いた。
(入って来い……ってこと?)
門から館の玄関まで、白い御影石で舗装されたアプローチを通り、叡司は玄関の前に立った。
分厚い天然木で作られたドアには、おそらくは鋳鉄製の、古風なデザインのドアノッカーが付けられている。
叡司はドアノッカーを使ってニ回、ドアをノックした。
招き入れるかのように、洋館の扉が軋みながらひとりでに開く。
「こんにちは……誰かいますか……?」
声をかけてみたが、中からの反応は無かった。
「こんにちはー!」
叡司はさらに呼びかけながら、ゆっくりと中へ踏み込んでいく。
玄関のドアを抜けると、そこは広々としたホールになっていた。
「こんにちはー……」
「いらっしゃい、待っていたわ」
不意に背後から声がして、驚きとともに叡司は振り向く。
そこには昨夜見た少女が立っていた。
少女は右手を上げ、手のひらを叡司に向ける。
少女の瞳が幽かに金色の光を帯びた。
叡司の全身が硬直し、身動きができなくなる。
少女は右手を上げたまま、叡司に近づく。
動くことのできない叡司の頬に、少女の右手が当てられた。
その手はひどく冷たかった。
「この匂いには……覚えがある……叡司郎の縁の者か……」
と、遠い記憶を手繰り寄せているような表情で少女はつぶやく。
少女の唇の間から覗く犬歯は、八重歯と言うには少し大きすぎる気がした。
少女は叡司の目を見つめ、笑みを浮かべ、問いかけてくる。
「あなた、お名前は?」
叡司は改めて少女の顔を間近で見た。
大きな黒い瞳、控えめながら低すぎず高すぎない鼻、品良く整った口元、艷やかな長い黒髪。
細く白い首には、黒いチョーカーが巻かれている事に、初めて気がついた。
(……ああ、やっぱり思った通り、可愛いな……すごく可愛い……いや、綺麗と言うべきかな?)
異常な状況に置かれながら、叡司はぼんやりとそんなことを考えていた。
少女に見つめられ、頭の芯がじんわりと痺れるような心地良さを感じている。
「罟弖……罟弖……叡司……です」
少女は少しだけ驚いたように、大きな目を見開いた。
「なんと、かくも早々と出会えようとは……そなたも運命に導かれ、やって来たか……」
少女は叡司の顔を両手で押さえ、様々に角度を変えて眺める。
「よく見れば、あちこちに面影が残っている……特に目元は叡司郎にそっくり……」
少女は叡司に顔を近づけ、囁いた。
「百年前の盟約、果たしに来たぞ……」
少女の瞳が金色に光る。
叡司の意識は暗闇に飲み込まれた。
「……お前の名前はな、叡司、父さんの曾祖父、つまりお前の高祖父、要するにひいひいじいちゃんからもらったんだ……若くして亡くなったから、父さんも直接会ったことはないんだけど、すごい人だったんだぞ……」
いつの日のことだったか、父から聞かされた自分の名前の由来が、叡司の頭の中で繰り返し再生されていた。
閉じた瞼の上に、朝の光が感じられた。
叡司はベッドから跳ね起きる。
まだはっきりしない頭で周囲を見渡す、そこは自分の部屋だった。
「あれ?……夢?……いや、確かに……」
叡司は机の上の時計へと目をやる。
時計は遅刻ぎりぎりの時間を示していた。
「あーつ!」
制服の上着に袖を通しながら階段を駆け下りる叡司に、ダイニングテーブルから声がかかった。
「叡司、朝ごはんは?」
叡司の父、禅斗の声だ。
「ごめん!いらない!」
叡司は振り向かず、靴を履き、玄関を飛び出す。
制服のネクタイを結びつつ、学校へと向かう道を一目散に駆けて行った。
その日の放課後、叡司は生徒指導室にいた。
結局遅刻した上に、授業もほとんど上の空だった叡司は、クラスの担任教師、佐藤に呼び出されたのだ。
英語の授業も受け持っている佐藤瑛里子は二十代だが詳細な年齢は不詳、とはいえその美貌から憧れる生徒も多かった。
ついでに言えば、叡司とその友人・岡とその他数名の生徒達が立ち上げた同好会、都市伝説研究会の顧問もやっている。
机を挟んで叡司と向かい合う形で座った佐藤は、胸のポケットからボールペンを取り出し、自分の唇を軽く二度叩く、そして話を切り出した。
「……で、どういう訳なのかな、罟弖くん?優等生らしからぬ、今日のあなたの様子は」
佐藤の表情には、怒っているというよりも叡司を気遣う様子があった。
「えー、実は……」
叡司は一昨日の夜からの一連の出来事を手短に説明した。
「……それで直接、自分で訪ねてみたの?……危ない事を……もし、相手が噂の吸血鬼だったらどうするの?」
佐藤は眉毛を寄せ、叡司を叱る。
「はは、まさか先生まであの噂を……」
笑って誤魔化そうとする叡司を、佐藤はさらに叱る。
「あのね、私は教師なの、受け持っている生徒が、学校でも自宅でも、何事も無く無事に過ごせるよう、きちんと指導する義務があります」
「はい」
「先生だって吸血鬼が本当にいるなんて思ってません、けどね、罟弖くん、ペーター・キュルテンとかリチャード・チェイスとかって知ってる?」
「いいえ」
「どちらも実在の連続殺人鬼よ、彼らはどちらも普通の人間ではあったけど、人を殺して、殺害した相手の血を飲んだ、それで『吸血鬼』と呼ばれた」
「本当ですか!?」
「そう、確かに本物の吸血鬼なんて、実在するかどうかも怪しいわね、でも、狙った相手の血を抜き取って殺すとか、殺した相手の血を飲むとか、そんなタイプの快楽殺人者なら、いないとも限らないでしょ?」
「まあ、確かに……」
「今のところ、人が被害に会ったという話は聞かないけど、不審な死を遂げたペットの死体が発見されているというのは事実らしいわ、快楽殺人の犯人が、実際に犯行に及ぶ前段階として、動物を虐待したり殺したりするケースは珍しくないの」
「はい……」
「とにかく、『君子危うきに近寄らず』もうその館にも、女の子にも近づかないこと、良いわね?」
(佐藤先生にはもう近づくなって釘を刺されてしまったけど、そもそも家がすぐ隣なんだよな……どうしたもんかな……)
悩みつつ帰宅した叡司が玄関のドアを開けると、そこには家族のものではない靴があった。
見慣れない靴は二足。
一つはおそらく女性の靴だ。黒いエナメルのパンプス、ヒールは低く、大きさは叡司の足よりも一回りか二回り小さい。
もう一つは男物の革靴でやはり色は黒、ストレートチップと呼ばれる、つま先の革が切り替えになっていで、真横に一直線のラインが入っている靴だ、こちらは叡司の足より一回り大きかった。
きちんと揃えて置かれた二足の靴は、どちらも余計な飾り気はないが、手入れが行き届き、小さな汚れ一つ無い。ファッションにはそれほど詳しくない叡司の目にも、それらがえらく上質な物であることは見て取れた。
(お客さんかな……?)