咎人
けれどもヨーフーイが人の姿をとれるようになったことは、俺の人生には関わらなかった。
「ヨーフーイ、俺はここから出られなさそうだ」
ここに落ちてからおそらく一月ほどが経過した。いよいよ俺の体は衰弱していた。もはや壁を登る気力もない。
「嫌だ、ニコライ」
その頃にはヨーフーイの言葉は妙に流暢になっていた。まるで今まで言葉を忘れていて、それを思い出したように。
「いいんだ。俺が死んだら君が食べてくれ。そうすればきっと、一緒にいられるから」
弟や家族と一緒にただの魂となって、ヨーフーイみたいに空を飛んでみたい。鳥の民なら一度は思ったことがあるだろう。鳥の王のように自由に空を飛んでみたい。けれどもこの話をすれば、ヨーフーイはいつも首を横に振る。
「嫌だ。果物を運んでくるから、食べて」
何度も壁を登ろうとした。けれども登れなかった。時には鷹になったヨーフーイに引っ張り上げてもらったりもしたけれど、とりつくところのまるでない壁を登るのは不可能だった。軽くなった俺の体でも、鷹の姿のヨーフーイが俺をこの墓所から持ち上げることはできなかった。この墓所では高い塀に遮られ、風が吹かない。無風では、風に乗ることができなかった。
ヨーフーイはそっと俺を抱きしめて、そして頬ずりする。その仕草は鳥のときも人のときも同じく暖かかった。最近空気の熱さがうまく感じ取れない。夜にならなくても世界が寒い。きっと死というものが近づいているのだろう。
「俺がジョサイアだったら。人の姿で空を飛べたら、ここから出られるのに」
ヨーフーイが本当に鳥人だったら……。
ヨーフーイは鳥か人の姿をとる。けれどヨーフーイは鳥人と言って一番に思い浮かぶ、羽の生えた人にはなれなかった。羽の生えた鳥人の姿なら、俺を抱えて飛べたかもしれない。けれどヨーフーイは鳥か人のどちらかだ。そうして人の姿のヨーフーイは、最初に見たときより痩せていた。俺はもう、死体とさほど変わらない。だからヨーフーイが近くにいなければ、他の鷹が襲ってくる。今はまだ追い払えるけれど、その時間はもはや長くないだろう。
「鳥人じゃなくても、きっと君が王様よ」
俺の中の鳥の王はヨーフーイだ。ヨーフーイはいつの間にか、俺の特別になっていた。この直径20メートルの閉じた世界のなかで、ヨーフーイだけが俺と一緒にいてくれる。
「ヨーフーイ、何故そこまでしてくれるんだ? 君にとって俺はここに落っこちてきただけのたくさんの人間のうちの一人だろう?」
「……違う」
ヨーフーイは僅かに首を振る。表情は未だ乏しいものの、その瞳は見上げた青空のように透き通っている。
「俺なんか放っておいてくれ。君まで弱ってしまう」
「駄目だ。それは絶対に、駄目だ」
ヨーフーイにとっても多分、俺は特別だった。でもそれは人の姿で話ができるのはきっと、今は俺だけだからだ。けれどヨーフーイは美しい。その気になれば俺以外の人間誰とだって話をすることはできるだろう。いくらでも。
最初見たときより、ヨーフーイの姿は痩せている。それはきっと、その時間の殆どを俺と一緒にいるからだ。俺のために果物を見つける他は、自分のための狩りもしていないのだろう。
「このままでは君も死んでしまう」
「でも……それは、嫌なんだ。一緒にいたい。胸の奥が、そう感じる」
そうしてヨーフーイは俺を抱きしめて、また頬ずりをした。その瞳は切実で、暖かかった。
「ニコライ、鳥の王の話をしてくれ」
「わかった。鳥の王の中でもジョサイアは特別だったんだ」
俺ができることは話をすることだけだった。ヨーフーイの運んでくる果物の水分を口にして、ようやく話をすることができた。ヨーフーイは何度も俺に鳥人の話を求めた。
鳥の王はたくさんの鳥人を従えていた。雲の上に大きな城を持っていて、そこには鳥人だけが入ることができた。ジョサイアは鳥人の歴史でもひときわ美しく、そして強大な力を持っていた。地上を愛し、時折地面に降り立った。ジョサイアが地上に姿を表した時は、全ての動物が従い、緑は生い茂った。
人の王はそんなジョサイアを恐れたのだろう。だからきっと、ジョサイアを殺そうとしてその双子の弟を人質に取ったのだ。ジョサイアは弟を助けるためにたった一人で大勢の人の軍勢を打ち据えた。けれども弟を失ったジョサイアはやがて力を失った。
だからジョサイアが敗れたのは卑怯な人の王に人質を取られたからだ。
「人質……」
「ジョサイアは大切な弟を奪われたんだ。人の王はジョサイアに降伏しなければ弟を殺すっ言って」
「弟はどうなったの?」
「さぁ……どうかな」
人に残る神話では人質に取られたのは人の王子だったから、人の国で幸せに暮らしたことになっている。たくさんの昔話の結末と同じ用に幸せに。けれど鳥の民の神話では、ジョサイアが敗れて鳥になったところでおしまいだ。だから弟がどうなったのかはわからない。
ヨーフーイの艷やかな髪を撫でれば、きっとその弟も美しかったのだろうなと思えた。
そうしてまた、夜が来る。
見上げた空は昼と姿を変えてその一面が星星で輝いている。全てが冷えていく荒野の夜の中で、俺を抱きしめるヨーフーイの腕だけが暖かかった。
その次の日、俺達は何かが投げ入れられる音で目を覚ました。