鳥人の神話
奇妙な生活が始まった。
鷹は俺がこの墓所の肉を食べないと知れば、外からウサギやネズミを狩ってきた。
「ありがとう。でも人間は肉を生で食べられないんだ」
生で食べれば病になる。鷹にそう告げれば、不思議そうに俺をみつめるばかりで、鷹は食べ方をみせるようにそれらを食べた。それでも俺が食べなければ、鷹は朝晩果物を運び、俺はそれを食べるようになった。そうして毎日、壁に登ろうとした。けれども一向に登れはしなかった。
果物ばかりの生活で筋肉はしだいに衰えていく。結局のところ、俺にできることは死を待つだけだった。
死んだら食べてほしいといえば、大きな鷹は嫌そうに首を振った。
兄は結局、この大きな鷹が食べた。二度目の夜が明ければ、兄の体から不浄の香りが漂い始めたからだ。このままでは兄は無為に腐るばかりだ。それならむしろ、この鷹が食べてたほうがいい。鳥がその体を食べて糧とし、鳥とともに魂が世界を巡る。ただこの骨が重なる地面に朽ちるよりは、そのほうがよほどよい。冷静になると、そう思えた。それはきっと、俺が兄の死を受け入れたからだろう。つまり本当に一人ぼっちになったんだということを。
鷹に頼み、そうして後ろを向いて夜を耐えて迎えた朝、兄の姿は俺の下に転がる骨とおなじになっていた。まるで急にいなくなったかのようだ。
だからこの大きな鷹には兄の魂が宿っている。だから鷹に兄の話をした。
「俺たちはずっとこの国を彷徨っていたんだ。この墓所を訪れたことはないけれど、どこの町でも石を投げられた」
話してもどうしようもない。けれども話すより他にすることがない。
もとより俺の話を聞いてくれるのなんて、この世界ではすでにこの鷹だけだった。鷹も俺の話をじっと聞いているように思えた。やはり、そう思いたかっただけかもしれないけれど。
「俺が一番年の近い兄弟でさ。家のみんなが興行してる間に二人で野営のためのテントを建てたり薪を集めたり、川で水を汲んだり、君が持ってきてくれるような果物や山菜を集めたりしたんだ」
俺の家族はきっと貧しかったんだろう。町を訪れる度に働かずにただ遊んでいる子どもたちを見て、羨ましいと思った。
「でも俺は家族といて幸せだったんだ。温かいスープと家族さえいれば」
顔を上げれば鷹はまるで慰めるように俺の体に羽をこすりつける。夜になれば他の鷹は素に帰るのに、大きな鷹だけは俺の隣で眠るようになった。寒暖の差は意外と大きい。幸いにも雨は振らなかったけれど、肌着だけでは寒かった。だからその羽根に包まれて眠れば、守られているような温かさを感じた。
「君にこんな話をしても、意味はないとはわかっている。でもアーシャ、俺は」
鷹はふと、動きを止め、首を横に振ったように感じた。
「すまない。君がアーシャじゃないことはわかってる。兄じゃないことは。でも、なんて呼んでいいかわからないんだ」
鷹とたった二人だったから、呼び名を考えなくても特に不便はなかった。でも今、その鷹の名前を呼びたかった。もう俺を名前で呼んでくれる者ももう誰もいない。俺が名前を呼ぶものも誰もいないから。
「君の名前がわかるといいのに」
それは心の底から願ったことだ。
鷹が答えるように低く鳴く。時折聞こえる風のような音がする。その音はこれまでの鷹の鳴き声とは異なって聞こえた。
「ヨーフーイ?」
「ヨ……フーイ」
突然、鷹から鳴き声というにはより明確な音が聞こえた。
「君はヨーフーイというのかい?」
鷹は小さく頷く。それがこの鷹の名前なのだろうか。
その思った瞬間、鷹の体からさらさらと羽が流れ落ちていくのに目を奪われる。まるで魔法が解けるかのようにそこに現れたのは背の高い美しい黒髪の男だった。思わず目を見張る。
「君は……?」
「き、みは」
確かめるような、たどたどしい声。困惑するように左右を見回す。
「さっきまで鷹、だったよね……?」
「たか」
その表情には明らかな困惑が浮かぶ。
鳥になる人と聞いて鳥人の伝説が思い浮かんだ。かつて神話の時代、鳥の羽根が生えた人間、鳥人というものが存在したと聞く。けれども鳥人は太古の時代に滅んだはずだ。あわてて兄の服を羽織らせたけれど、布の上からでもの体格の良さが際立った。そうして触れた手は、羽と同じく暖かかった。
ヨーフーイの言葉はたどたどしかった。けれども意思の疎通はできた。思えばもともと、鳥の姿のヨーフーイも俺の言葉を聞き取っていたような気はする。
「君は……もともと人だったのか? あるいは鳥人?」
「とり」
ヨーフーイは左右に首を振る。ゆっくりと聞き取れば、ヨーフーイは自身を鳥と認識しているようだ。だから人の姿になったことに彼自身とても混乱していた。けれどもヨーフーイはいつでも鳥の姿に戻ることができ、変わらず俺に果物を運んで来てくれた。そして時折野ウサギでも食べたのか、ヨーフーイの口元に血がついていることに混乱した。彼の本質は鳥なのだ。けれどもその堂々空を舞う姿は変わらず美しかった。
「ヨーフーイ、君はまるで鳥の王ジョサイアのようだ」
「じょさ、いあ」
戸惑うように口にする言葉は、ますますそのように思えた。
「鳥人は大昔にこの世界にいたって言われているんだ。大きな羽を持ち、風とともに世界を駆け巡る。その中でひときわ美しい羽を持つものが鳥の王になるんだって」
ヨーフーイの翼は黒く美しかった。
「どこ、に?」
「今は鳥人はいない。神話によると人の王と戦い、滅びたそうだ」
「なぜ」
「何故?」
その問いに答えることはできなかった。
町で聞く神話では、鳥の王は人の王子を奪い、地上を征服するために人の国に戦いを挑み負けたことになっている。
けれども、鳥の民に伝わっている伝説は真逆だった。人が鳥の王子を、ジョサイアの双子の弟を奪い、ジョサイアはそれを取り戻すために戦った。人の王の子孫は信じないだろう。きっと考えもしないだろう。自由に空を駆け巡る鳥人が何故地上を攻撃したのかなんて。でも結局、鳥の王は負けて、鳥人は人の姿を失い、人の魂を運ぶただの鳥になった。
その話を小さい頃から繰り返し長老様からきいた。もうみんな死んでしまったけれど。
だからこの話を知っているのは、もう俺だけかもしれない。俺たちは他の鳥の民に出会ったことはない。だからきっと、他の一族はみんな死んでしまった。そう思えば、ますます酷くさみしくなった。
「俺もたった一人だ」
「おれが、いるよ」
ヨーフーイはそう言って人の姿で俺を抱きしめた。
「もし鳥人が生きていたら、きっと君が王になるよ、ヨーフーイ」
人と鳥の両方の姿を持つヨーフーイこそ、鳥人なんだろうか。その澄んだ瞳を見ていても、地面にへばりつく人の暮らしにこだわるとは思えなかった。
ヨーフーイは日に何度か鳥に変わる。そのつややかな髪がふわりと広がり羽の形をとり、白い皮膚から生えでた羽が全身を覆い、そしてその大きな羽を広げて飛び立つ姿はまるで神のように思えた。
ヨーフーイは俺のために食べ物をこの墓所の外に求め、一緒に果物を食べ、夜は変わらず寄り添って眠った。