ナランハの枝
シャクシャクという音で目を覚ます。
意識の端で咀嚼音と気づいて飛び起き、眼の前の大きな鷹の姿に慌てて隣で眠っているはずの兄を確認する。寝る前と同じ姿であることに、損傷がないことにホッとした。そして他の鷹が兄めがけて舞い降りてくれば目の前の大きな鷹が小さく唸り、他の鷹を追い払っているのに気がついた。
「やっぱり守ってくれてたのか?」
俺が寝ている間も。
半信半疑ながらその澄んだ瞳を覗き込んだが、ふいに羽を大きく広げて舞い上がり、高い壁の上に収まった。見上げた空の太陽はすでに高かった。すいぶん寝ていたらしい。
立ち上がって周囲を見回せば、少し離れた場所に落下した一族の何人かはすでに人の形を失いかけ、周囲の骨を茶色に染めていた。彼らはやはり死んでしまった。心が少し乾いていた。やがて俺たちの下に積み重なっている骨と同じものになる。
鳥葬に立ち会ったことはあるけど、それは墓所に死体を投げ入れるまでだ。その内側を覗いたことはない。投げ入れられた者がその後どうなるのかは、あまり考えてはいなかった。けれどあれが俺の少し先の具体的な未来だ。そう思って兄を見下ろせば、やはり啄まれた形跡は全くなかった。そうすると本当に、守っていてくれたんだ。そうでなければきっと兄も他の家族と同様だったはずだ。服を脱ぎ、一族の服のきれいな部分を剥ぎ取り、兄の体にかけた。これで空からは見えないだろうか。
空気が随分乾いている。喉の乾きを感じた。
……俺はまだ生きている。このままだと死んで、あんなふうになる。
壁を睨みつけた。生きるためにはここを登るしかない。
煉瓦の壁は、途中に手をかける場所などなかった。それでも僅かな凹凸を手探りに壁を登ろうと手を伸ばす。足をかけるところもなく、煉瓦の端になんとか指を引っ掛けて試しても滑り落ちるばかりで、やがてザラリとした素焼きの感触に爪の先が砕けた。
突然頭上から鋭い鷹の声がして振り返れば、兄に近づこうとした鷹が逃げていくところだ。姿は覆っても、匂いは隠せないのかもしれない。の服には血がついていた。あの大きな鷹は、兄を目掛けて舞い降りる鷹があれば声をあげてくれている。見上げればじっと、俺を見下ろした。
ここにいれば俺も食べられるだけだ。
そう思って何度も登ろうと試して、結局一身分も登ることはできず、照りつける日はじりじりと体力を奪い、その絶望的な試みに次第に体から力が抜けていく。何度目かにどさりと落ちて倒れこめば体は重く、もはや動けなくなっていた。無力感が沸き起こる。
ぼんやりと空を見上げていると腹が鳴った。そういえばここに落ちてから何も食べていない。ここには食べ物も水もない。俺ももって数日か。あの大きな鷹はじっと俺を見下ろしている。やっぱり王様みたいだ。広い空と堂々とした姿。
思えば俺の家族の生活はいつもこそこそと身を潜めていた。あんなふうに堂々としたことなんてない。
「どうせ食べられるなら、お前に食べられたいな」
そう呟けば、急に強い風が吹いて立ち込めた臭気が払われ、久しぶりの新鮮な風を吸い込んだ。この墓所は壁に遮られている。だから内側まで風が吹くことなどほとんどない。不意に陰が差し、雲でもあるのかと目を向ければ、あの大きな鷹が優雅に羽ばたきその美しさに目を奪われた。鷹は俺のすぐそばに降り立つ。ひょっとして、先程の俺の声を聞いて降りてきたのか。全身がこわばり、体が重くて指一本動かない。
ああは言ってみたけれど、口惜しい。俺が死んでしまうのは運命だとしても、何故こんな目にあうんだ。鳥の民だからか。鳥の民でなければきっと、衛兵は助けに来ただろう。
何故鳥の民だと爪弾きにあう。鳥の王が人の王と戦ったのあはるか昔のことだ。鳥と親しくなる力なんていらないのに。そうすればきっと、兄も、家族も死ぬことがなかった。ただ、普通に暮らしていたかった。
もし俺が鳥人の王、神話の主なら、この風にのって壁を超えることができるだろう。そんな力すら俺たちにはない。いや、もしそんな力があるならば、野盗に襲われることもこんなところに落とされることもなかっただろう。
そんな思いにかられたのも、きっとこの鷹がこれほど美しく堂々としているからだ。そうして俺が自分を惨めに感じているからだ。気がつけば、目の端から涙が溢れていた。
鷹の嘴が顔に近づく。その息は生臭い。食べられる。一巻の終わりだ。
目をつぶる。せめて死ぬときくらいは堂々としたい。隣で眠る兄に情けない姿は見せたくなかった。しばらくしても予想した痛みは訪れず、かえって柔らかな感触が頬に触れた。そっと目をあければ、鷹は羽を頬に擦り付けていた。困惑した。そうして次にぼとりと顔のそばに落とされた生臭いものが肉だと気づき、戦慄した。ここにある肉とえば、1つしかない。
不快感に突き動かされ動かない体を動かして無理やり離れれば、やはりそれは肉塊だった。死というものを目の前にして暗い気持ちになる。結局この鷹はただの鳥なのだ。神話の鳥の王などではない。俺が拒否したと見ると落ちた肉をしゃぐしゃぐと咀嚼する姿に、改めて未来が突きつけられる。
食べ終えれは鷹は再び大きな羽を広げて飛び立つ。
「でも、どうせ食べるならお前に食べてほしいよ」
その小さくなる姿を見ながら思わず呟いた。いずれ死ぬなら少し、ましな気はする。
しばらくして鳥が戻り、俺の前に咥えていたナランハの枝を落とした。黄色く丸い果実がついていて、思わずむしゃぶりつく。久しぶりに口に入れた果物のみずみずしさが割れた唇に染み込んだ。そうして知らずに、涙が溢れた。
「食べ物を持ってきてくれたんだね」
大きな鷹は静かに佇んでいた。
「俺たちばかり何故こんあ目にあうんだろう」
鷹に問いかけても仕方のないことだ。けれどもこの墓所には他に誰もいなかった。俺が話しかけることができるのはこの鷹だけで、確かに鷹は俺の話を聞いているように思えた。それも俺がそう思い込みたかっただけかもしれない。俺は本当に一人ぼっちになっていたから。