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なんでやねんと歌姫は笑った。  作者: 烏有
第2章
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第89話 恋人たちの夏休み


平日、学校に登校するために起きる時間より少し遅めに目が覚める。

昨夜はなんだかんだと早めに眠ることが出来た。朝までノンストップで眠り続けていたので疲れもしっかりと取れている。外はセミの声がうるさく響いている。エアコンのために閉め切った部屋の中まで聞こえていた。

顔を洗うために洗面所に向かう。鏡に映るのは鬱陶しくらいに伸びた前髪。そろそろ切り時ではある。海に行ったことで少し焼けたらしい肌はいつもより赤みがかっていた。

蛇口を捻ると冷えた水が流れ出る。顔を洗うと少し火照った顔に染みて気持ちいい。

外側に少しはねた寝癖を直すためにその部分を濡らした。この髪の長さだと普段はあまり寝癖がつかないので久しぶりだ。

顔と髪を拭いてリビングに戻る。冷蔵庫から牛乳を取り出した。マナーは悪いが残り少ないのでコップに移さずそのまま飲み干す。口元についた牛乳を手の甲で拭う。

空になった牛乳パックを開いて水で洗う。開け口を下にして乾かしておく。開いてからまとめて出さないといけない。

ソファに座ってテレビをつけた。朝の情報番組ではコメンテーターが何か熱く語っていた。教育現場がどうとか言っている。ザッピングしたところで朝のこの時間はどこも似たようなものだ。興味もないがそのまま垂れ流しておく。

朱音は朝から来るといっていた。朝からと言った日は朱音がご飯を作ってくれるのでこのまま待っておこう。

と、思った瞬間に玄関の鍵が開く音がする。相変わらずタイミングは完璧だ。時間を決めていなくても俺が寝ているときに来たことがない気がする。

「おはようございます。時人くん。」

「おはよう。朱音。」

朱音が微笑みながら現れた。ソファに座ったまま頭だけ向けて挨拶を交わす。

「起きてました?」

「さっき起きたところ。」

クスクスと笑いながら朱音が近寄ってきた。ソファに座ったままの俺の後ろで立ち止まる。

「どうした?」

振り返ろうとしたとき頭に朱音の手が伸びてきた。

「寝癖……。珍しいですね。」

せっせと髪を梳かす朱音。どうやら濡らして直したと思っていたがまだ跳ねていたらしい。

「直したつもりだったんだけど。」

「若干濡れてますもんね。」

朱音はいまだせっせと髪を直し続ける。そんなに癖ついていたのだろうか。朱音に髪を触られるのは心地よくてそのまま任せておく。

「……時人くんがよく撫でてくれる気持ちがわかりますね。」

「どういう意味?」

「撫でられるのも好きですけど、撫でるのもなかなか。」

「あー。なるほど。」

触られている感覚からして寝癖のついた部分以外も触られていると思っていた。朱音はどうやら止まらないようで喋りながらも手は動いている。

「……。ご、ごはん食べましたか?」

フワッと髪が浮いたかと思ったくらいに朱音が勢いよく手を離した。

「まだ。」

答えつつ立ち上がる。ソファの前から朱音の隣に移動する。

「朱音が何か作ってくれると思って待ってた。」

話しながら朱音の顔に手を寄せた。そのまま耳の辺りから朱音の髪に一度指を通した。柔らかくひっかかりもないそれはするりと指を抜ける。

「では何か作りますね。」

朱音は嬉しそうに微笑んでキッチンにパタパタとかけていく。後ろから見えた朱音の耳が少し赤くなっていた。

一度自分の後頭部を掻いてから朱音を追う。朱音はトートバッグからエプロンを取り出して首の後ろの紐を結んでいた。

「何か手伝おうか。」

「大丈夫ですよ。任せてください。」

腰の部分の紐も結んで朱音は微笑んだ。冷蔵庫を開けて朱音は何か考えている。朱音と買い物に行って買い置きしてある材料についてはほとんどノータッチだ。俺自身冷蔵庫の中身を把握できていない。牛乳とかぐらいだ。

何を作るか決めた朱音が動き出した。水を入れた鍋に火をかけてから何か取り出している。

鼻歌交じりの朱音はご機嫌だ。楽しそうにしている。朱音に任せて出来上がりを待とう。



「お待たせしましたー。」

朱音が皿を配膳していく。今日は和食らしい。お椀を棚から出してお味噌汁を注いでいく。

「ありがとうございます。」

「これくらいは、手伝わせてくれ。」

朱音と二人分準備を終わらせる。今日も美味しそうだ。いただきますと手を合わせて箸を手に取る。卵焼きを一口サイズに箸できって口に運ぶ。

「美味しいよ。」

「よかったです。」

感想を聞いた朱音が嬉しそうに微笑んだ。いつものように感想を聞いてから朱音も食べ始める。

昨日も食べたがやはり朱音のご飯は美味しい。好みの味付けはしっかりと把握されているらしい。この卵焼きも甘くない味付けで好みだ。横に添えてある刻みねぎが嬉しい。

「時人くん。」

「どうした?」

あまり食事中に話すことはない朱音が口を開いた。

「朝からこうして一緒にいられて……。嬉しいです。」

「俺も嬉しい。」

朱音が可愛らしい笑顔で微笑む。つられるようにこちらも笑顔になる。それを見た朱音がさらに口角をあげた。

「めっちゃ幸せやなぁ……。」

えへへ。と笑ってから小さく呟いた。本人は聞こえないように呟いたつもりみたいだがもちろん聞こえている。

「俺もだよ。」

聞こえてた。とアピールしてからお味噌汁を一口啜る。朱音がびくっと肩を震わせてニコリと笑った。



二人揃ってごちそうさまと朝ごはんを終えた。片付けも済ませた朱音と並んでソファに座る。テレビではまだ情報番組が流れている。近くの喫茶店にレポーターがロケに行っていた。

「そういえば、時人くんのバイト先にまだ行けてないですね。」

「前に来ただろ?」

「時人くんがバイト中にはまだです。」

以前そのようなことを言っていたのを思い出した。

「あー。まあいいけど。」

「次はいつシフトが入っているんですか?」

朱音が目をキラキラとさせてこちらに身を乗り出した。勢いよく来た朱音に少したじろぐ。

「あ、明日の昼から入ってる。」

「本当ですか?行きたいです。」

こんなに目を輝かせて朱音はとても期待しているようだ。

「いいけど……。普通に働いているだけだよ?」

「見てみたいです。」

「仕事中はあまり相手も出来ないし。」

「問題ないです。」

「客の年齢層も高めだから浮くかも……?」

「関係ないです。」

期待している朱音のハードルをあまり上げたくないので先に下げておく。と、朱音が少し眉を下げた。

「……行かない方がいいですか?」

朱音が悲しそうな表情を見せた。小さく笑って朱音の髪に触れる。

「そんなことない。ただそんな期待するようなものじゃないから先に言っておきたかっただけ。」

そういうと朱音の表情が綻んだ。朱音はくしゃりと笑って嬉しそうに撫でられる。

「じゃあ行きたいです。邪魔になりそうなら帰りますから。」

「わかった。」

「楽しみです。」

朱音は幸せそうに笑った。



食後に朱音がいれてくれたお茶を飲みながらゆっくりとした時間が流れる。

ずっと会話をしていたわけでもなくたまに静かな時間があった。何をするわけでもなくただ興味のないテレビを二人で眺める。そんな時間がたまらなく愛おしい。

隣にいる朱音はずっと幸せそうに笑っている。同じように感じてくれているのだろうか。

食休みも終えた。なにかしようと動いても問題はないと思うが今は離れがたい。楽器を弾いたりしたい気持ちもあるにはあるが朱音に提案する気はなかった。今はこの距離でいたい。

そう思っていると朱音がふわっとこちらを見上げる。

「どうした?」

「……時人くん。時人くんの手を触ってもいいですか?」

「手?」

少し照れながら言ったそれを聞きなおしてしまった。

朱音は許可も待たず俺の手を持ち上げる。ゆっくりと指を握ったり、掴んだりと好きに触っている。

「時人くんの手好きです。細くて長くて少し骨ばってて。でも大きくて。好きです。」

「そう。ありがとう。」

朱音のふにふにとした指と手の感覚が俺も心地よい。

指を絡めてきた瞬間にこちらから力を入れて握る。昨日もした握り方。恋人つなぎだ。

少し驚いて朱音の肩がビクりとなる。だが朱音も力を入れてしっかりと握ってきた。

「時人くんの手。やっぱり大きいです。包み込まれるようで安心します。」

「朱音は……手フェチなの?」

聞くと朱音は小さく照れて笑った。

「かもしれないです。時人くん限定ですけど。」

「そっか。」

握っていた力を抜くと朱音はまた好きに触り始めた。手のひらを揉んだりしている。拳の骨をぐりぐりと触るのは少しこそばゆい。しばらく触れてから、俺の左手に満足したのか朱音が次は右手も引っ張り出して触り始めた。

「指先、少し硬いです。」

「弦楽器してるとそうなるよ。俺はベースの指弾きが好きだから。」

「そうなんですね。」

左手に比べて右手の指先が少し硬くなっているのに気づいたらしい。ベースに限らず気分次第ではギターも指で弾いている。気づいた頃には指先が硬くなっていた。

朱音はその指先を揉み始める。最初は色々感想を言っていた朱音が次第に静かになって無言で触り続ける。無言で触れられ続けると段々、よくない気になりそうだ。

「朱音、そろそろ照れるんだけど。」

「あ、あ、そう。そうですね。はい。ありがとうございます。」

集中していたのか没頭していたのか朱音が驚いて手を離した。礼を言いつつも視線はまだ手に注がれている。

「いやこちらこそありがとう。」

「え、なんで時人くん。いえ……、また触ってもいいですか?」

「また。な。」

朱音は自分自身の手をこすり合わせたりしながら笑った。満足していただけたようだ。

「朱音が楽しんだ分、今度は俺だから。」

朱音の髪に触れたくなって手を伸ばそうとした。

「触れますか?」

俺の発言に少し目を開きながらも朱音は俺の手に自分の手を差し出した。

「んー。手じゃないかな。」

そういうと朱音は急に顔を赤くする。

「……どこでも。時人くんが望むなら触れて……いいですよ?」

言い方が悪かったらしい。朱音が上目遣いに見上げられてまたもドギマギとさせる。

「い、いや。そういうのじゃなくて……。」

よくない気がして立ち上がる。

「また今度にする。……ごめん、ちょっとトイレ。」

逃げるように洗面所へと向かった。



「もうやばいって。」

洗面台の前で朱音に聞こえないよう小声で呟く。顔を洗って気を落ち着かせた。

ずっと手を触れられて、あんなこと言われてしまえば。手が出そうになった。隣に座る朱音をそのまま押し倒してしまいそうに。

俺たちは恋人になった。そういうことをしてもいい間柄ではある。

それでも、そんなに早く関係を進める気もない。というか俺が怖い。一度欲しがってしまうと歯止めがきかなくなると思う。

あまり遅くなっても朱音が気を使う。落ち着いたしリビングに戻ろう。

ソファに朱音がいた。さっきと違うのは座っていた姿勢から上体だけ俺がいた位置に横に倒してクッションに顔を押し付けている。戻ってきたのにも気づいていなさそうだ。

「朱音?」

呼びかけると朱音はびくりと小さく震えたやはり気づいていなかったらしい。クッションで顔の半分を隠したまま上体を起こした。

「……おかえりなさい。」

クッションに押し付ける際邪魔だったのか眼鏡を机の上に置いている。隠しきれていない朱音の顔は真っ赤だった。

先ほどまで朱音が倒れていた位置にもう一度座る。

「朱音さ……。ちょっと俺も照れるからあまり。こう、可愛すぎることを言わないでくれ。」

「う……。」

朱音は小さく唸った。

「時人くんに触れられたいのに。」

そう朱音が少し瞳を潤ませて呟いた。

「……今日はコレで勘弁してください。」

そう言ってから朱音の髪に触れる。そのまま撫で続けた。

「仕方ないので今日のところは我慢してあげます。」

悪戯っぽく笑った朱音のその顔がとても可愛かった。





ここまで読んでいただきありがとうございました。

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