第69話 夏休みの初日
ついに夏休みが始まった。とはいえ生活リズムが早々に乱れることはなくおおよそいつもと同じ時間に目覚める。
夏休み初日からアルバイトが入っている。テスト期間にシフトを入れていないのもあって久々の出勤だ。
昼からのシフトなのでまだまだゆっくり出来る。朱音の作り置きしてあるおかずとご飯を温めて朝ごはんにする。登校時間を気にすることもないのでゆっくりとご飯を食べて穏やかな時間を過ごす。テレビでは夏イベントの特集ということで祭りや行楽地の中継を写している。
朱音を遊びに誘うことには成功したが、どこに行くか、日付も未だ決められていない。さらりとテレビを眺めて思案する。どこなら喜んでもらえるだろうか。
昼前までゆっくりしていたらスマホの着信音が響いた。着信相手は父親の春人。
「やあ時人。夏休みはたのしんでいるかい?」
「……今日は初日なんだけど。」
「そうだったか。……いま少し時間あるかな?」
「まあ少しだけなら。何かあった?」
春人の口調は軽く、真剣な話題でも無さそうだ。
「この前会ったときにいた女の子。長月さんって隣に住んでいる子であっているかな?」
「……そうだよ。」
「やっぱりそうか。どこかで会ったと思って記憶を振り返っていたら思い出してね。契約の時に立ち会ったんだよ。」
春人は不動産を複数所有していて、このマンションはその一つだ。そのおかげで俺も家賃を格安で住まわしてもらっている。
「知ってたってこと?隣に同じ高校に通うことになる女子生徒がいるって。」
「いや、進学先までは聞いていなかったからね。……ところで彼女とはそれなりに親しいのかい?」
「……まあ。」
「じゃあそろそろ準備はしたのかな?」
「準備?何の?」
春人は愉快そうに笑った。
「彼女……もうすぐ誕生日だよ。」
契約の資料を見たのか春人は詳しい日付を告げた。
朱音から聞いていなかった。が、わざわざ言うこともないのだろう。朱音も俺の誕生日を知ってはいないと思う。
春人は自分の息子に友人が出来たのが純粋に嬉しいようだ。だからこそこうして記憶を辿って知らせてくれたのだろう。
「ありがとう。父さん。知らなかった。」
「そうか。……あの子も苦労していそうだからね。仲良くするんだよ。」
「わかってるよ。」
部屋の賃貸契約の際に立ち会ったというならそのときに何かしら話しでもしたのだろうか。春人の声は穏やかで優しいものだった。
春人との通話を切って考える。朱音の誕生日が近い。朱音から直接聞いたわけでもないが、せっかく知ったのだ。有用に使わせてもらおう。
スマホのメッセージアプリを起動して朱音の名前を探した。
「時人くん、テストはどうでしたか?」
カウンターからマスターの優しい声が届く。
「おかげさまでいい成績で一学期を終えることが出来ました。」
「それは時人くんの日々の努力が実ったようで重畳です。」
マスターは優しく微笑んだ。
「では、時人くん夏休みのご予定は?」
「あーいくつか予定ができました。」
「……そうですか。」
マスターは嬉しそうに微笑んでいる。中学生時代にこの店に入り浸っていたこともあって夏休みに予定が入っていることに成長を感じているみたいだ。マスターの父性を感じて少し照れる。昔から知っているマスターは春人とは別の父親のような存在だ。
マスターとシフトの調整をする。夏休み中にライブを開く日も決まった。大須も来るようだ。そういえば大須とも遊ぶ約束をしていた。
夏休みも忙しくなりそうな気がする。
「おかえりなさい。時人くん。」
「ただいま。朱音。」
アルバイトから家に戻ると朱音が出迎えてくれた。バイト前に何通かメッセージのやり取りをしていて朱音は今日の終わる時間を知っていた。
「お疲れ様です。ご飯できてますよ。」
「ありがとう。助かる。」
玄関の時点で既にいい香りがしている。
「……もしかして、カレー?」
「そうです。時人くんの好きな辛口ですよ。」
「やった。」
それなりの期間ご飯を作ってもらっていたこともあって好みはばっちり把握されているようだ。喜びを口にすると朱音も嬉しそうに笑った。
朱音についてリビングに向かうと食欲のそそられる香りがより強くなった。スパイスのいい匂いがして空腹をより実感する。
「もう少し待ってくださいね。」
「ああ。ありがとう。」
朱音がキッチンに戻って作業を始める。その間に手を洗ってバイトの荷物を片付けた。バイト用のシャツからラフな部屋着に着替える。
リビングに戻るとキッチンから油のはじける音が聞こえる。何か揚げているようだ。
机には麦茶が用意されていた。朱音が冷蔵庫からだしてすぐのようでキンキンに冷たい。日が暮れてからの帰宅とはいえ外は暑かった。この気遣いが嬉しい。
麦茶で一息ついていると朱音がカレーを運んできた。別皿に野菜の素揚げが何種類か用意されていて彩り豊かだ。
「美味しそう。」
「お待たせしました。」
朱音が召し上がれと呟いたのでいただきますと答えてカレーをスプーンですくって口に運んだ。
スパイスの辛味と香りが口内を満たす。辛さは感じるも丁度いい加減だ。
「美味しいよ。」
「よかったです。」
あいかわらず朱音は感想を聞いてから食べ始めた。
素揚げされている野菜はカレーに合っていいアクセントになる。火は通っているのに油でべしゃべしゃになってはいない。揚げ加減もばっちりだ。
気づけば朱音がクスクスと笑っていた。
「どうした?」
「いえ、時人くんが美味しいって思ってくれているのがよく分かったので。」
「本当に美味しいから。」
「……見ていてわかりますよ。」
夢中で食べ進めていたので気づかなかったのだが態度に前面にでていたようだ。
「それに、時人くんがカレー好きなのは知っていますから。」
朱音はニコニコと嬉しそうに口を開いた。
「……確かにカレーは好きなんだけど……。」
「けど?ですか?」
「……朱音が作るカレーが一番好き。」
そう言うと朱音は頬をかっと赤くした。それを隠すように顔を逸らしている。
「時人くんは急にそうなるのでダメです。」
横顔でもわかるほど朱音は嬉しそうに笑っている。耳まで赤くしているのはカレーの辛さが理由ではないだろう。
喜んでもらえて本音で伝えるのはよかったようだ。
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