第38話 笑顔
扉の鍵を開けて帰宅する。部屋は明かりが点いていて、パタパタとスリッパの音を連れて朱音が顔を出す。
「おかえりなさい、時人くん。」
「ただいま。朱音。」
朱音はいつものパーカー姿ではなく、ポリエステル生地のシャツにエプロンを重ねていた。夏の装いだ。
「配膳しますので手を洗ってから来てくださいね。」
そう言うとまたパタパタと戻っていった。わざわざ出迎えるためだけに玄関まで来てくれたようだ。
洗面所で手を洗って、ついでに顔も洗って少し気分を整える。暑かった外気に火照らされた体温も少し下がった。
顔を上げると鏡に映るのは自分の顔。いつも通り覇気もなにも無い。それでいい。
リビングに入ると、既にテーブルには料理が並びきっていた。朱音がグラスに麦茶を注いでテーブルにコトンと二つ並べる。今日はしょうが焼きがメインだ。
「今日も美味しそう。」
「うまく焼けたので美味しいですよ。」
「それは楽しみ。」
長テーブルに隣、並んで腰をかける。距離感も変わらない。
「いただきます。」
ふたり同時に手を合わせながらも先に口をつけるのは大体が自分だ。
「美味いよ。」
「よかったです。」
感想を聞くと朱音も嬉しそうに微笑んでから食べ始める。
大丈夫。この状況もいつもと変わらないはず。
黙々と食べ進める。実際に美味しいので味わって食べていると口数も減る。最後にお味噌汁を飲んで完食する。朱音もほとんど食べ終わりに近い。
彼女が食べ終わったのを見てあらためてごちそうさまと告げる。
「お粗末さまでした。」
朱音はそう微笑んで食器を下げ始める。片づけを始めたので皿を伴って洗い場に向かう。
「時人くん、バイト終わりですしゆっくりなさってください。」
「え、ああ。そうか。ありがとう。」
そういえば片づけまで彼女がやっていた。いつも任せていたのだ。
「……?いえ、大丈夫です。」
朱音は少し不審な顔をしていた。
いつもと同じように。と、意識しない。そう思っていても意識してしまっている。
もう一度テーブルの前に着いて落ち着かせる。
「……時人くん、何か飲みますか?」
皿を運び終わって、洗い場にいた朱音から不意に声がかかった。
何か飲み物。いつも何を飲んでいたっけ。
「え、ああ。飲み物……。」
どう答えたらいいか。分からなくなってしまった。
「時人くん、様子が変です。」
朱音が洗い場から戻ってきていた。エプロンで手を拭いてから隣に座る。
「そんなことないって。いつも通り……だろ?」
「時人くん……?」
朱音が心配そうにこちらをみていた。
いつも通りじゃないのか。そうだ。だって朱音のこんな顔見たことがない。
ちがう、あれ、どうしたらいいんだっけ。どうすれば朱音は笑ってくれる?
「時人くん、なんでそんなに……怯えた表情をしているのですか?なにかあったのですか?」
おびえた……表情……?
「え、いや、何もないって。大丈夫。大丈夫だから。いつも通りに戻るから。」
手の甲で口元を隠しながら少し早口で捲し立てる。朱音に伝えるより、自分に言い聞かせる意味合いの方が強かった。
「朝から何か変だと思っていました。遅刻もしない時人くんがギリギリに入って来ましたし、どこかソワソワ?している気がして。」
横に座っている朱音の顔が見れない。
「下校の時もです。手早く準備をして帰ってしまって。そんなに急いでるわけでもなさそうでしたし。……私……。」
淡々と言葉を繋いでいた朱音の口が止まった。
「あか……ね……?」
ゆっくり彼女の方を見ると朱音の目尻に涙が集まっていた。
「時人くん、私、なにかしてしまいましたか……?」
朱音の頬をゆっくりと涙が伝った。
「朱音、ちがうよ。本当に何もないから。」
「だって、時人くん……私の前で今日一度も笑ってないんです……。」
朱音の口からもれ出た言葉に目を見開く。
「なんでですか。時人くんもですか。笑ってくださいよ。」
朱音は俯いてしまっていた。肩を震わせている。完全に泣いてしまった。泣かせてしまった。
「なんで笑ってくれへんの。私のせいなん。」
「朱音、違うって。朱音は悪くないんだ。」
俺のせいで目の前で朱音が泣いている。焦ってなんとか朱音を落ち着かせようとする。
「時人くんもどっかいってしまうん?いやや。そんなん。」
「俺はどこにも行かないって。大丈夫だから。」
俺がそう言うと朱音は座っていた椅子から飛びついてきた。膝立ちで俺を抱きしめて泣いている。
「もうわがまま言わへん。やから……どこにも行かんといてよ……。お父さん……。」
泣きじゃくりながら朱音はそう叫んだ。俺は朱音の地雷を踏んでしまったようだった。
朱音はそのまま泣き続けた。
「朱音ごめん。朱音は悪くない。大丈夫。俺はここにいるから。どこにも行かないから。」
俺はどうしていいか分からず、そういいながら朱音を宥めた。
朱音が少し落ち着いてきた。号泣だった声がすんすんとすすり泣く声に変わってきた頃、ようやく朱音が顔をあげる。
髪を撫でて慰めていた手を離して朱音を見つめた。
「朱音、ごめん。俺のせいで。訳も分からず不安にさせてしまった。ごめん。」
「こちらこそ、急に泣いてしまってすみません……。」
朱音はそう言うと目元を袖で拭いながら立ち上がった。
「すみません。今日はもう帰らせてもらいます……。おやすみなさい。」
「え、ああ。……わかった……。」
朱音は振り返ることなくそのまま玄関に向かって歩き出した。
その辛そうな背中を掴んで、引き止めたくて。
でも、それをしてしまっていいのか分からなくて。戸惑っているうちに朱音は帰ってしまった。
半分浮かびかけた腰をもう一度椅子に落として頭を抱える。
泣かせてしまった。悲しませてしまった。
朱音の泣く前に言った台詞、不意に言ったお父さんという単語。
おそらく朱音の触れてはいけない弱い部分。そこに触れてしまった。立ち入ってしまった。
明日、もう一度謝ろう。
それでも俺はしばらく立ち上がることができなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
続きが気になる方はブックマークなどしていただければ幸いです。
まだ時人が拗らせてます。
でも自分よりテンパってたり泣いてる人がいると案外落ち着きますよね。
いいね、評価、ブックマークが新しくついてました。
とても嬉しいです。
投稿の期間があいてしまって人も離れてしまうと思っていたのでまた読んでいただけて幸せです。感謝です。
これからも頑張りますので応援よろしくお願いします。




