第37話 いつもと同じように
朝の出席を取りに来る担任がまだ来ていない。遅刻にもならず皆勤が途切れることはなさそうで助かった。
「みっちゃんまだ来てなくて耐えたー。」
みっちゃんとは担任の愛称で三井先生のことだった。チョークの粉で色づいた白衣を着ているが、この学年で古典を担当している女性教師だ。
桐島が耐えた。と言っている通りに遅刻に厳しい。気だるげでアンニュイな雰囲気とは全く逆だった。
「時人、結ちゃん、おはようっすー。」
入ってきた扉付近で友人と会話していた竜がこちらに気づいて声をかけてきた。
「おはようっすー、竜くん。」
「おはよ。」
竜と同じ謎の挨拶を交わす桐島。この二人は雰囲気が似ていて本人らも仲がいいらしい。よくアイコンタクトで会話をしている。いまもお互い見合って親指を立てていた。
入り口近くに座っている友人に話しかけに行った桐島を置いて自分の席に向かう。
後ろから竜が着いてきていた。朝から色々あって疲れたのでとりあえず座りたかったので気づいていないことにする。と、後ろから腕を回してきた。竜お得意の距離の詰め方だった。
「どうするかだけ聞いた。詳しくは俺も知らない。昨日言った時人の本音はさておき今は結ちゃんに従うのがベストだと俺も思う。だからガンバ。」
そう耳元で囁いて返事も聞かずに離れていった。
昨日、励まして早々こうなってしまった現実に何かを感じていたのだろう。去り際のウインクは相変わらずの力強さだった。
「時人くん、おはようございます。」
「……お、おはよう朱音。」
席に近づくと隣から声がかかってきた。朱音はいつもと変わらない笑顔で俺に挨拶する。昨日の決意や、今朝の提言。諸々あって少し間の抜けた返事をしてしまったが彼女は何も感じた様子はないらしい。ニコニコとこちらを見ていた。
その表情に少し安堵する。いつもと同じだ。それならこちらもいつもと同じように振舞えばいい。
リュックを下ろして授業の準備を進める。と、担任が教室に入ってきた。ざわざわとしていた朝の教室もみんな席について大人しくなった。
桐島は席に着く前に朱音と軽く話していた。そこにも変化はない。いつもと同じ雰囲気だ。
担任が出席を取って連絡事項を告げて朝のホームルームが終わる。座学から始まる時間割に既に眠気を誘われて欠伸が出た。
朱音がいつもよりこちらを見ている気がする。
だけど、それに触れるといつもと違うように接してしまいそうで躊躇する。いつもと同じように。そういう方針なら避けた方がいい気がして気づかない振りをして過ごした。
「俺今日はバイトなんだ。」
「え、あ、わかりました。では、お待ちしていますね。」
放課後まで話すことはなく、下校のタイミングでそう告げ立ち上がってリュックを背負う。
「うん、ありがとう。じゃ行くから。」
「え、あ……はい。お疲れ様です。」
何か言いたげなのは分かった。だけど、どう接してもいつもとは違う気がして。
……いつものようにってどうしていたか分からなくなった。
逃げるようにして教室を出る。背後に視線を感じたけれど振り返ることはなかった。
「あちゃー時人拗らせてんなー……。」
軽く頭を掻く。時人は相変わらず対人関係のスキルは未発達だな。
「アレじゃ朱音ちゃんに距離おいてるって思われちゃうよー……。」
横にいた結ちゃんも同意見らしい。
「時人らしいっちゃらしいがなー……。そっちフォローいれる?」
「うーん、あまり関わってもね……。」
結ちゃんから長月さんの事情を詳しく聞いたわけではないが、昨日のメッセージのやりとりでなんとなく長月さんの事情は察した。それなりに仲良くなった結ちゃんが触れて失敗した地雷。その地雷は長月さんの中に深く根ざしていそうだ。
「じゃ、時人には軽く言っておくかな。」
「……それもいらないかも。とりあえず静観で。」
「それそっちは大丈夫な感じ?」
指示語が飛び交っているが会話に齟齬はない。
「多分、大丈夫……のはず。」
「はず……かー。」
苦笑いが重なった。
「マスター、人付き合いって難しいですね。」
「時人くんはそういうの苦手ですか?」
客のいない店の中でマスターに相談する。その微笑みにはすべてを受け止めてくれそうな優しさがある。
「苦手、というかこれまで自分から進んですることはなかったので。」
「ああ、なるほど。」
マスターがコーヒーを出してくれた。仕事もないしゆっくり話を聞いてくれるようだ。
「そもそも人付き合いに正しい答えなんてありませんから。時人くんの進んでしないというのも答えの一つではあると思います。」
「答え……ですか。」
「自分とその相手とそれぞれの正解がありますから。」
コーヒーを飲みながらマスターの話を聞く。
「時人くんと私は雇用主と従業員のほかに大人と子ども、友人同士といった形の付き合いがありますよね。」
古くから知っているから実の子どものように思ってもいるのですが。と笑ってマスターは続ける。
「今こうやって話しているときは雇用主というよりは大人と子ども、人生の先輩後輩の形で接しています。」
「大人と子ども……。」
「はい。ですから私は大人として時人くんを導きたいですしこうやって偉そうに語るわけです。」
「偉そうなんて思わないですよ。ありがたいです。」
マスターはジョークを重ねつつ話してくれる。こういったお茶目な一面も魅力の一部だ。紳士の一面として見習いたい。
「時人くんがどんな相手との付き合い方で悩んでいるのかわかりませんが、その人と自分がどんな関係なのか、どうなりたいのか一度考えてみてはいかがでしょうか。」
「……どうなりたいか。というのは答えが出ているんです。でも、それはまだ行動に移すべきではないらしくて。いつもと同じように接しようと思っても何かうまいこといかなくてぎこちなくなってしまうんです。」
そう言うとマスターは嬉しそうに笑った。
「時人くんがいつもと同じようになんて無理に決まってます。経験値の少なく若い時人くんは成長も早いのです。昨日よりも今日の方が何事も上手になっているのです。それは人付き合いについてもですよ。」
マスターが穏やかな語り口で言葉を滑らせる。それは身体の芯まで染みていくようだった。
「時人くんがそこまで悩むなんて珍しいことなのでよく分かります。その方との関係を大事にしていきたいことを。慣れないことに慎重になるでしょう。でも、時人くんがその方を本当に大事にしたいなら無理をしない方がいいです。できないことはできない。無理をして続く関係などありませんから。」
「……できないことはできない。」
マスターの言葉を小さく復唱する。
「そうですね。……ではいつもと同じようにと意識するからぎこちなくなってしまうのではないですか?」
「それだと……距離を詰めてしまいそうで。」
「詰めたくはないのですか?」
「詰めたい。もっと仲良くなりたいです。でも、それは今じゃないらしくて。」
「難しいですね。でも、人と一定の距離なんて保てないですよ。常に動いていきます。会って過ごしていれば基本的に縮んでいきます。……時人くんのペースで仲良くなっていくこと。それがいつものように。ではないのですか?」
桐島は距離は詰めない、いつもと同じように接しろと言っていた。
マスターは人と同じ距離でいるのは無理だと言う。
その二つの意見は相反していると思う。
いつもと同じように接する。
それだけでこんなに悩むなんて思ってもいなかった。
でも、実際マスターの言っていることは芯を捕らえていると思う。俺がぎこちなくなってペースを乱されている現状はいつもと違うのは確かだ。
いつもと同じように。というのは頭から一旦振り払ってもいいかもしれない。これまでも何か考えて接していたわけではないのだ。
「ありがとうございます。少し考えがまとまりました。」
「少しでも力になれたならよかったです。」
マスターは穏やかな笑みを絶やさずこちらを見ていた。全てを見抜いていそうな笑みだった。
そのままゆっくりと時間は流れて忙しくなることなく退勤の時間になる。エプロンを外して店から出た。
『今から帰る。』
『お疲れ様です。では準備しておきますので。』
メッセージを送るとすぐに返事が返ってきた。
いつもと同じように。と、意識はしない。ぎこちなくならない。そのために、意識はしない。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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時人がコミュ障を拗らせています。
長い目で見守っていただけるとありがたいです。




