第32話 気持ち
リビングのソファに座り込む。窓から差し込む夕日が時間の経過を示していた。
昼過ぎにご飯を食べて、と逆算すると長いこと眠っていたらしい。昨夜のソファでの睡眠はあまり良いものではなかったようだ。
右手で空を掴んだ。さっき僅かに触れた朱音の髪が反芻される。
目を閉じると浮かぶのは彼女の寝顔だった。
カチャリとドアノブの音がして寝室からそのままの朱音が出てきた。
「……ごめん寝てたみたい。」
ひとまず先に眠ってしまったことを謝る。と、彼女から返事が無かった。
朱音の顔を見ると少し赤くなっていた。メガネをかけていないその目は更にわかりやすく答えを発していた。
「……もしかして起こした?」
「……時人くん、あまり女性の髪に勝手に触れちゃダメです。」
どうやらさっきのアレで起こしてしまったらしい。よくよく考えれば頬にかかった髪を掬ったのだ。頬にも若干触れている。
人の顔なんて敏感な部分に触れた。俺でも寝ていたとしても起きてしまうかもしれない。
寝起きだったこともあってあまり考えない行動だったか。
「ごめん。つい。」
朱音からの返事が無かった。少し俯いている。怒らせてしまったか。とソファから腰を浮かし始めた瞬間だった。
「先に言ってくれれば大丈夫です。」
少し小さな声で朱音が言った。
「わかった。」
怒らせてはなかったようで安心する。浮かしかけた腰をもう一度ソファに沈める。朱音はいまだ俯いていた。
「……どうかした?」
「……触れないのですか?」
「は?」
顔を上げたかと思えば想定外の返事が来た。
「触れたかったんでしょう?」
朱音はまたも悪戯顔でこちらをみていた。
そんな挑発をされてはさっき押し込んだ心が疼いてしまう。
立ち上がって朱音に近づく。
返事もなしに近づいてくる俺に少し怯えた表情に変わる。今度は向こうが俺を怒らせたとでも勘違いしたのだろうか。
朱音の前で立ち止まる。彼女の顔に腕を伸ばした。
そのフェイスラインにかかるサイドの髪をゆっくりと掬う。
「……触るよ。」
触れる瞬間に朱音がびくっとして目を閉じた。が、髪に触れているとわかってゆっくり目を開けてこちらを見つめる。
朱音の髪は艶があって手に引っかかることもなくするりと指先から抜けた。
「……先に言わないとだめです。」
さっきよりも赤くなった彼女がそういった。
「ごめん。」
悪いとは思っていないけどひとまず謝っておく。挑発してくるからこういう目にあうのだ。これに懲りて誘惑するのを止めてくれたらいい。こちらが持たない。
ソファに戻ろうとして身を返そうとした。
「もう終わりですか?」
自分のパーカの前の部分を掴んでこちらを見上げる彼女がそう言った。
ため息が出た。あー。と声が出て自分の後頭部を掻く。
もう一度朱音の頭に手を伸ばす。今度は顔の方ではなく頭頂部付近。
「ん……。」
触れた瞬間彼女の口から吐息めいた声が出た。
彼女の髪の上から下に手を潜らせる。普段はポニーテールにしていて括っている髪を解いて肩付近まで伸びていたその中をすべるように手は動いた。やわらかく指が泳ぐ。
朱音は期待するようにこちらを見ている。その綺麗な瞳に見惚れてしまう。これ以上は俺には無理だ。
最後に朱音を撫でる。少し髪が乱れた辺りで手を離した。
「おしまい。……ありがと。」
「雑にしちゃだめですよ。」
そう言いながら自分の手櫛で梳かす朱音は嬉しそうだった。
だらしない顔をしている気がする。手の甲で口元を隠しながら顔を逸らす。
「……そ、そういえばメガネかけてなくても見えてるの?」
話題を逸らしてしまおう。この空気感がまずい。
「……あれ伊達眼鏡ですから。」
「そうなんだ。」
まずい。終わってしまった。
「……時人くん、撫でるの上手いですよね。」
もう一度朱音を見ると目が合った。嬉しそうなその表情に逆らうことはできない。
「なにそれ。」
「わかりません。」
朱音のよくわからないコメントに思わず噴出した。
つられて彼女もクスクスと笑い出した。
太陽はもうほとんど姿を隠していた。
「時人くん、晩御飯どうされます?」
ソファで座ってゆっくりしていると隣の朱音から声がかかる。隣と言ってもスペースを開けて座ってはいるが。
「んー。正直まだお腹すいてない。」
「私もです。」
食べはじめていてもおかしくない時間だった。しかしまだお腹の中にはナポリタンが存在を主張している。食べた後眠ってしまって動いてもなかったので余計に消化されていないらしい。
「今日は食べられないかも。」
「では、明日の朝ご飯分だけ作っておきますね。」
いつもは夜ご飯の残りを朝ごはんにしている。それを知っているのもあって朝ごはん用に何かつくっておいてくれるみたいだ。朱音の料理の出来立てを食べられないのは残念だが。
朱音がキッチンに置いてあったエプロンをつけて髪を結う。髪を結ってる姿を眺めていると目が合った。
「時人くん、似合ってますか?」
わざわざ前まできてこちらを見つめる。
「……似合ってる。可愛いよ。」
「ありがとうございます。」
照れたように笑ってキッチンに戻る。
……今日の朱音の攻撃力が高い。手の甲で目元を隠してソファに深くもたれかかった。
朱音から朝ごはんの詳細を聞く。どうやら和食でお味噌汁とおかず数品があるらしい。炊飯器にはタイマーでご飯もセットしてあるので朝から炊き立ての白ご飯が食べられる。
エプロンを外しながら朱音が説明を終えた。日曜日。明日は学校があるとはいえまだ時間に余裕もある。
「お昼寝ちゃったし、ちょっと弾いていく?」
昼寝をしたからか、この時間にしてはいつもより目も冴えている。朱音に寝室の方を指すと笑顔で頷いた。
「今度こそよろしくお願いしますね。」
「……もう寝ないって。」
朱音を連れたって寝室に入る。鍵盤の前に彼女を座らせた。
「じゃ、はじめようか。」
「はい。」
さっき聞いたイントロをもう一度聞く。横で見ていると朱音の指使いはまだ頼りなく小さなミスはある。リズムによれがあるけど、でもちゃんと曲になってる。
あとは反復練習かな。どう練習させようか。と見つめているうちに一番のサビが終わった。
一度止めて、ギターケースからチューナーを取り出す。久しぶりに動かすがまだ電池が残っていたようで問題なく点いた。
朱音は操作している手元を不思議そうに見ている。止められてから総評もなく機械を操作し始めたので気になっているようだ。
チューナーから機械音がぽっぽっと鳴り始める。このチューナーにはメトロノームの機能がある。さっき弾いた曲くらいにテンポを合わせる。
「次はこのテンポでリズムを意識しながら弾いてみよう。」
「わかりました。」
彼女がもう一度弾き始めた。やはり慣れないようで段々ずれていく。自分でもそれがわかっているようで少し表情が険しい。
もう一度一番のサビ終わりで止める。
「弾いてみて結構リズムによれがあるってわかった?自分で苦手なところをちょっとスローに弾いて誤魔化してたからそこを治していこう。」
「うーん……ちょっと弾けるようになったと思ったんですけどまだまだみたいですね……。がんばります。」
「こうなってくると反復練習になるから。あとは慣れだよ慣れ。」
朱音が両手の指を振って緊張を解してからもう一度ホームポジションにつく。
しばらくメトロノームと鍵盤の音が続いた。
彼女が鍵盤を叩いているときベッド脇に朱音のメガネが置きっぱなしになっているのに気づいた。朱音は起きてから一度もつけていなかった。
それを持ち上げてレンズを覗くと度は入っておらずそのままの世界が見えた。
曲のキリのいいタイミングで顔を上げた彼女が俺の手に持つメガネに気づいたようだった。
「そこに置きっぱなしにしてしまったんですね。すいません。」
朱音はそう言って受け取ろうと手を伸ばしてきた。
「……つけていい?」
「構いませんよ。」
メガネをかけたことがなかった。せっかくなのでためさせてもらおうと許可を取ってみる。笑顔で許諾されたので邪魔になる前髪をかきわけてつけてみる。
この部屋に鏡はおいてないので、感想を聞こうと彼女の方を見る。
「どう?」
朱音はひどく驚いた顔をしていた。似合わなかったのだろうか?
「……あんまりってかんじかな。」
「いえ、そんなことないです。……ただ見慣れなかったので驚いてしまって。」
普段メガネをかけてない人がかけていたら違和感があるだろうしそれだろう。と思って外す。そのまま朱音に返した。
彼女がメガネを受け取って少しそれを見つめる。レンズに指紋でもつけてしまっただろうか。一応気はつけて触ったつもりだが。
一瞬の間があったものの朱音はメガネをかけた。
素顔もいいけど、見慣れたこちらもいい。なにより彼女に似合っている。
「……そろそろ帰りますね。」
ふと時計を見るといつもより遅い時間だった。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ、朝から一日ありがとう。」
練習を終えて朱音を玄関まで見送る。集中していたからかいつもより遅くなってしまった。
「いえ、楽しかったです。……マスターさんと大須くんにもよろしくお願いします。」
「また大須と遊んでやってくれ。朱音のこと気に入ったみたいだし。」
「それならよかったです。また是非会わせて下さい。」
朱音がそういってドアノブに手をかける。
「では、時人くん、おやすみなさい。」
「ああ。おやすみ。」
ポニーテールを翻して彼女は笑顔で帰っていった。
扉が閉まったのを見届けてその場にしゃがみこむ。
あー。と声が出て頭を掻いた。
彼女に触れたあの感覚が、彼女の綺麗な声色が、彼女の笑顔が頭から離れない。
あの優しくて世話焼きでどこか不器用で表情がコロコロ変わる朱音。
いまだ彼女について知らないことはたくさんあるけれど。
俺は朱音が好きになっていた。
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