第18話 噛み合わない
「俺今日バイトあるから、自主練してて。」
今日の授業を終えて隣の席の彼女に告げる。彼女の帰りの支度は今日もゆっくりだ。
「あ、はい。わかりました。」
そもそもそんなに荷物も持ってきていないのでささっとリュックに詰めて背負う。
「じゃ、また明日。」
「え、ちょっと待ってください。」
「なにかあった?」
予想外に引き止められた。さすがにゆっくり帰るほどの時間の余裕は無いので用件を聞いて早く帰ろう。
「何時ごろ帰られますか?」
「今日は……多分八時過ぎかな。」
「では、それくらいにできるように準備しておきますね。」
「……何を?」
「晩御飯ですけど……?」
言ってる意味がわからない。向こうもこちらの疑問を理解できていないようだ。
「いや今日バイトで帰るの遅いから教えられないんだけど?」
「……はい。そうですね?」
噛み合っていないようだ。
「だから晩御飯作ってもらわなくていいってことなんだけど……?」
「……?」
そう首を傾けられても困る。
「わざわざ待たすのも悪いし、そもそもキーボードを教える対価として晩御飯を要求した。俺だけ受け取るわけにはいかない。……わかる?」
「遅くなりそうなら先に食べます。それに水樹くん前に言ってたじゃないですか。対等であろうって。教えてもらうときだけ作っても安くつくんです。他の日も作らないと教えてもらう対価として私が得しすぎています。」
バイト終わりを待たすのが悪いって意味で言ったが、一緒に食べるつもりだったらしい。
こうなったときの彼女は折れない。時間もない。とりあえず今日は甘えさせてもらおう。
「わかった。また帰る頃に連絡する。……ありがとう。」
「はい、がんばってください。」
彼女の笑顔に見送られて教室を後にした。
急いでいたからその後の教室に少し騒ぎがあったのを知るのは後のことだった。
「時人くん、なにか良いことがあったのですか?」
今日もマスターの微笑みは絶えることがない。相変わらずの笑顔のマスクだ。
しかし、どうやら浮かれていたらしい。楽しそうですね、と聞かれてしまった。
「……もうすぐ梅雨明けみたいですよ。」
「それはそれは。暑い夏に飲むアイスコーヒーはすばらしいですから。今年の夏も楽しみですね。」
誤魔化せてはいないと思うが、マスターは微笑むばかりで聞いてくることはなかった。大人の余裕とでもいうのだろうか。その紳士な様は身につけたい。
「そうそう、今度また大須が遊びに来るのです。時人くんに会えるのを楽しみにしているようですよ。」
大須とはマスターの孫のことで今年小学一年生になったところの男の子だ。マスターの息子家族が近くに住んでいてよく店に遊びに来ていた。父親はカタカナでダイスと名づけするつもりだったが母親に反対されて漢字になったらしい。俺も漢字で正解だと思う。
「本当ですか。小学校に上がってから初めて会いますね。僕も楽しみです。」
この喫茶店は小さい頃から通っていたので、マスターの家族とも親しくさせてもらっていた。大須の両親は共働きで仕事も忙しく、マスターが保育園の送り迎えをしていたり、店で帰りを待つことも少なくなかった。店にいることの多かった俺のことを慕ってくれて一緒に遊んだりもしていた。年相応にかわいくて明るい少年だ。
そんな話をしているとようやく一組目の客が入ってきた。雨の日は客が少ない日が多い。今日もそんなに急がしくならなさそうなので八時にはあがれるかな。と時計を見て思った。
……おなかがすいたな。
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そろそろタイトル詐欺みたいになりそうなので早く朱音にもっと話してもらいたいです。