第138話 事件
いつもの教室は控え室として俺たちが使っていた。教室の半分の位置に仕切りを立てて前半分が待機所兼休憩所兼控え室だ。
ガラガラと勢いよく教室の扉を開ける。中で文化祭を退屈そうに過ごしていた数名の生徒がびくっと肩を震わせながらこちらを見る。入ってきたのが教師でないと安心して、その後、クラスメイトの俺だとわかって視線を教室の一角に動かした。二人の女子生徒がいるその場所を見てから、何も関与しないかのように手元に視線を戻す。気づけば教師にばれないようにと隠そうとしたゲームをもう一度取り出して再開していた。
「朱音?」
沈んだ表情のままの朱音に近づいて声をかけた。いつ眼鏡を外したのだろう。渡り廊下で離れるまではつけていたはずなのに。そんな朱音はぴくりと肩を震わせて立ち上がる。
「……どうし
言い終わる前に朱音に抱きつかれる。すんすんと鼻を鳴らして朱音は泣いていた。
「朱音」
もう一度名前を呼んで朱音の髪を撫で続けた。
何があったのかとても知りたい。だけど今は朱音の気持ちを落ち着かせることに専念したほうがいい気がした。
「萩原、ありがとう。後は任せて」
「……私に朱音ちゃんに何があったか聞かないの?」
「後で朱音に聞くから。わるいな迷惑かけた」
俺がそう言うと萩原は満足そうに頷いた。
「そう。……あのね、迷惑なんて思ってないわ。友達だもの」
いまだ朱音は泣き続けていた。右手で朱音を撫で続ける。腕の中の朱音が萩原の友達という言葉に反応したようだ。一瞬ぴくりと体を震わせた。
萩原が朱音を見つけてここに連れてきてくれたみたいだ。その過程で二人になにかあったのだろう。
「あー、わるいけど大須のこと頼める?友里に投げて離れたからさ」
「任せて。そろそろ結も戻ってくるし二人で見ておくわ」
「助かる。落ち着いたらそっちに向かうから」
「……ええ。二人にも私の接客みてもらわないとね」
不敵に笑う萩原はどこか自信たっぷりだ。彼女も文化祭を楽しんでいるようだ。
「あ、あと竜から連絡あった。萩原にごめん、後で電話するって」
「水樹に先に連絡あったのね」
一瞬で萩原の表情が変わる。明らかに落ち込んでいた。
「……言い訳にならないけど竜にも言いたくないことがあって、それは多分萩原にこそ言いたくないんだと思う。……今日休んだのもそのことで……」
「大丈夫よ。私も後で竜くんに聞くわ」
俺が朱音本人から話を聞くと言ったように、萩原もそうするようだ。もう一度萩原は笑ってから教室を去っていった。
気づけば教室から人はいなくなっていた。ゲームをしていたはずのクラスメイトもいない。朱音と二人きりだ。朱音が泣き止むまで撫で続けた。
少しの時間が経って静かになった。多少落ち着いたみたいだ。
「朱音、大丈夫?」
「……はい」
泣き止んだ朱音は若干鼻声だった。
「話せる?」
「はい」
顔を上げはしないが俺の胸元でしっかりと返事をした。
「じゃあ、何があったか教えて」
「……このまま、抱きしめてもらったままでいいですか?」
「もちろん」
「時人くんが電話のために去った後……
朱音が小さい声で話し始めた。
「ありがとう。朱音、ちょっと大須見てて」
そう言って時人くんは少し駆け足で離れていった。大須くんは隣の屋台でヨーヨーすくいに挑戦している。
「朱音ちゃん、見てこの水色釣ったんだよ!」
スーパーボールすくいはいきなり失敗していたが今度はうまくいったらしい。自慢げに水風船でぱちゃぱちゃと遊びながら見せてくれた。
「すごいですね」
褒めながら髪を撫でると嬉しそうに笑った。ぱちゃぱちゃとゴムを伸び縮みさせながら遊んでいる大須くんを見てるとこちらまで笑顔になる。
「あれ、そういえば時兄ぃは?」
「今、電話中です。ここは少し騒がしいですから」
渡り廊下は声が響くし、何より私たち意外にも遊んでいる客もいる。多くはないが時人くんは気を使ったみたいだ。
「えー。時兄ぃにも自慢したかったのに」
「戻ってきたらたっぷり自慢しましょう?」
「仕方ないなー。そうするかー」
相変わらず右手でぱちゃぱちゃとさせながら大須くんはやれやれー。と首を振った。
ざわざわと少し渡り廊下が騒がしくなった。見知らぬ男子グループが遊びに来たみたいだ。屋台とクラスメイトの浴衣姿を見ながら大声で話している。
その中から視線を感じた。だが、この一団の中に知ってる人はいない。
「あーいたいた。君、長月さんだよね?」
やはり私を見ていたらしい。彼が毛先をくるくると指で遊びながらそういった。
「……そうですが」
声をかけられることはよくある。大須くんといるので暇である風にも見えないはずだし放っておいてほしい。
「いやちょっと伝言頼まれてね。水樹って髪の長い男子から一人で体育館裏に来てくれってさ」
時人くんから伝言?なんで体育館裏なんかに?電話するためだけにそんなところまで行ったのだろうか?
もしかして、何かあったのでは?
そう思うと心臓の鼓動が速くなった。
「わかりました。ありがとうございます」
「いいよ別に。たかが伝言頼まれただけだし」
彼は指で毛先をくるくると遊びながら一団に戻っていった。
「……大須くん、一人で待ってられますか?」
「待って。長月さん。今の本当に水樹君からの伝言?」
気づけば近くにいた永田さんに問われる。それは私にもわからないし、どちらかと言うと疑いの気持ちの方が強い。でも。
「わかりません。でも、本当なら行かないと……」
「あの水樹君が長月さんにその子のこと頼んで離れた。なのにわざわざ一人でって指示するなんて変」
大須くんもはらはらした表情で視線を私と永田さんの間、行ったりきたりしている。
永田さんの言うこともわかる。確かに変。でも
「……行ってきます。永田さん、心配してくれてありがとうございます」
もし何かあって時人くんが困っているなら、大須くんには見せたがらないだろう。それにそこまで迫った状況なら、あの時人くんでも知らない人にも伝言を頼むかもしれない。
大須くんの髪をさっと撫でて体育館裏に向かった。大須くんの手が私のシャツを掴みかけたのに気づかなかった振りをして。
体育館裏に人影はなかった。
もともと人の通りがない場所だ。さっきまで文化祭の喧騒の中にいたのに急に静かに感じる。
「あっはっは。本当に来た来た。今朝はごめんねー?長月ちゃん?」
陽気な笑い声とともに現れたのは最近よく見る先輩。
「……時人くんはいないのですか?」
「あー。どうだろうねー?」
彼の値踏みするような視線に鳥肌が立つ。やっぱり時人くんからの呼び出しじゃなかったみたいだ。
「失礼します」
「いやいやー。ちょっと待とうよ。少し話そうか?」
「結構です」
先輩の横を抜けて去ろうとしたとき、強く右腕を掴まれた。勢いよく引っ張られてそのまま壁際に押しやられる。近づいてくる先輩の顔が気持ち悪い。
「ちょっとくらいさー、いいじゃん?」
「離してください!」
痛い。それに……怖い。
逃がさないという強い意志を先輩の視線から感じる。力強く握られた腕は振りほどけそうになかった。
怖い。
さっきまで出ていたコンテストが終わったらしく体育館の中はざわざわとしている。助けを求める私の声は遠くに響かない。
「長月ちゃん、全然一人になんないしさー。コンテスト終わりとかなら狙えるかなって思ったのにアイツとすぐに合流するし」
そのためにこのコンテスト企画したのにさー。と先輩はため息をついていた。
いつからこれが計画されていたのだろう。今まで接触してきたのもこのためってことだろうか。
つきあって。とかじゃない。この男が望んでいるのはそんな緩いものでない。
「可愛いー。いいねその顔」
ニヤニヤとこちらを見下ろす男に震えた。
私の右腕は頭の上で壁に押し付けられている。左腕で男の体を押しても全く動かない。
「やめてください」
静止の声も聞かずに髪を触られる。
「触り心地いいし……いい匂いだ」
「いや!」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
時人くんが褒めてくれるから。時人くんに触ってほしくてヘアケアはしていたのに。
髪に顔を近づけて匂われて。
……怖いよ。時人くん。
時人くんを疑ったからかな。待っててって言われたのに。大須くんを頼むって言われたのに。変に考えて来ちゃったからかな。
「ねえ長月ちゃん、俺と遊ぼうよ。わるくしないぜー?」
「……やめて、ください」
気づけば泣いてしまっていた。声も小さくなっていた。
今までも声をかけられることはよくあった。自分の見た目がそれなりに整っているのはわかっている。
それでもこれまでは適当にあしらうことだってできたし、それで何とかなってきた。
こんな急に詰められて近づかれたのは初めてだった。
前に強く腕をつかまれたときは時人くんが助けてくれた。でも、今はいない。
時人くんが電話から帰ってきて私がいないことに気づくのはいつになるだろう。
永田さんから一連の流れをきいてココまで来てくれるのはいつになるだろう。
それまで、ひとりで耐えないといけない。
男の左手で顎を掴まれる。伏せた顔を無理やり前に向けさせられた。
「そそるね」
顎から手を離されて眼鏡を外させられる。
この男が何を望んでいるかわかった。
時人くんが初めてしてくれたときも、時人くんが眼鏡を外してくれた。
気持ち悪い。
でも、それ以上に時人くんに申し訳なかった。
時人くんに言ったのに。
私の全部は時人くんのものだって。
ごめんなさい。時人くん。
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